悪魔召喚
ドアには鍵がかかっていました。
誰も居ないのでしょうか、と思いながらドアノブから手を放しますが、しかしいないならばいないで黒魔術の証拠を掴んでおかなければなりません。グライセンの法律において、黒魔術の摘発を行う際は教会と裁判所から令状を取ってさえいればその後の捜査や摘発は現場の神父及びエクソシストの裁量に任されているのです。
だから憲兵隊の捜査とは違って、宗教関係の捜査及び摘発の自由度は高いという利点があります。黒魔術がそれだけ危険度の高いものである、という事です。
工具でこじ開けよう、と私は踵を返しました。教会の公用車には、こういう時に備えて工具一式を積み込んであります。その中にはバールもあるので、こうやって固く閉ざされた扉であろうと頑張ればこじ開けられるのです。
とはいえ私も訓練を受けたと言っても非力な部類、力仕事は苦手な方です。シスター・ヒルダであれば簡単にやってしまいそうですが。
そう思いながらもトランクを開けようとしたその時でした。
バキュッ、と分厚い木製のドアが悲鳴を上げたような気がして、嘘ですよね、と思いながらも視線を神父様の方へと向けました。
案の定、神父様でした。
何を思ったか、腰を低く落として渾身の右ストレートで玄関のドアをぶち破るや、そのままドアを貫通した右手で内側から解錠、玄関のドアを強引に開放したのです。
「……さあ、行こう」
「うへぇ、相変わらずすげー威力」
「覚えておきなさい」
私の方を見ながら、神父様は口元に笑みを浮かべました。
「―――筋肉とは、信仰である」
「は、はあ」
あの、筋肉と信仰心にどんな関係が……?
というか血気盛んな現役エクソシスト2名を拳骨で鎮圧したという話が本当であるという事を今思い知らされました。確かのあの拳ならばシスター・ヒルダとシスター・カトリンの両者を黙らせる事も容易いでしょう。
ともあれ、これで突破口は開かれました。
ホルスターからピストルを引き抜き、撃鉄を指で起こします。銀の銃身に教会の聖句、その一節が刻まれた対アンデッド用のフリントロックピストル……命中すれば大抵のアンデッドは一撃で祓えますが、しかしもし仮に容疑者が悪魔召喚に成功していた場合ははっきり言って心許ないものです。
そういう意味でも、急がなければなりません。
「エンゲルベルトさん、エレナ教会の者です。貴女に黒魔術取引の容疑がかかっています!」
家に足を踏み入れるなり、私は声を張り上げました。
とにかく一刻も早くエンゲルベルトさん……デリアちゃんのお母さんを摘発しなければなりません。そうでなければ、彼女がどうなるか……。
以前に踏み込んだ悪魔召喚の現場で目にした凄惨な光景は、未だに私の目に焼き付いていました。悪魔召喚に失敗し、魔法陣の真ん中で身体を大きく逸らせて力尽きた男性。部屋の奥には首を斬り落とされ磔にされた妻子の無残な死体……それと同じ事が、この家でも繰り返されようとしているのです。
デリアちゃんのお母さんが彼女を引き取りに来た理由は、間違いなく悪魔召喚の儀式に娘を使うためなのでしょう。悪魔召喚には対価として、人間の血が必要です。血で描いた魔法陣を準備する事、それが悪魔召喚の第一段階なのですから。
急がなければ、デリアちゃんが危ない。
しかし、家の中のどこにも人がいる気配はありません。
「え……」
リビングも、キッチンもそうです。どたどたとシスター・ヒルダとシスター・レーネが2階に上がっていきましたが、しかしすぐに駆け下りてきて「こっちにも誰もいない」と短く告げました。
おかしい……そんなはずはありません。
「……摘発を察知して逃げたのでしょうか?」
「いや、この家はシスター・カトリンが常に見張っていた」
そう言いながら、神父様は床に堆積した埃を指でなぞりました。
「逃げられる筈がない」
「では一体どこに」
問うと、ルーデンシュタイン神父はそっとリビングの壁に手を伸ばしました。何の変哲もない、ごく普通の壁。しかしそれに違和感を感じたのでしょう、神父様は修道服の袖を捲り上げるや、その何の変哲もないごく普通の壁へと掌底を叩き込みました。
あんな筋骨隆々のヒグマのような剛腕から放たれる、しかし繊細な力加減が求められる一撃。そのまま砕け散るかと思いきや、掌底を撃ち込まれた壁は意外な反応をみせました。
すうっ、と透き通ったかと思いきや、そのまま壁は消え―――その奥に地下へと繋がる階段が出現したのです。
「これは……?」
「なるほど、幻覚の類か」
闇属性魔術の一種です。相手の精神に直接作用する事で幻覚を見せ、相手を惑わす……宗派によっては禁術に指定されている事もある、と聞いた事があります。
闇属性は血属性と並び、禁術に近いと言われる属性の魔術です。だから総じてそれらを扱う宗派は邪教扱いされる事も多いのだとか。
これはデリアちゃんのお母さんがかけた術なのか、それとも既に悪魔召喚は済んでいるのか……いずれにせよ、嫌な予感しかしません。
行こう、と神父様が先頭になって階段を降り始めました。私も息を呑み、ピストルをいつでも撃てるよう準備しながら降りていきます。
後ろからシスター・レーネとシスター・ヒルダもついて来て、2人とも臨戦態勢に入っていました。
さて、言うまでもない事ですが獣人は身体能力や五感において、旧人類のそれを大きく上回ります。獣の遺伝子を併せ持つ新人類であるからこそ、特に五感は鋭く研ぎ澄まされていて、はるか遠くの臭いを嗅ぎ分けたり、音を聴きとって早い段階で警戒したりと対策を打つ事が出来るのです。
旧人類以上の五感を持つからこそ、嫌な予感が現実になりつつある事が既にこの段階で分かってきました。
漂ってくる血の臭い。
それがデリアちゃんのものなのか、それともお母さんのものなのか……あるいは他の人のものなのか、それは分かりません。
ですがそれははっきりと告げていました……もう遅い、と。
なぜ、彼女を母親に預けてしまったのでしょう。
せめて母親が何をしている人なのか、本当はどういう理由で子供を引き取りに来たのか……そういう背後関係も合わせてしっかりと審査したうえで引き渡すべきではなかったのでしょうか。
孤児院で対応をした人を呪いたくなりましたが、しかしそんな事をしたところで時間が巻き戻るわけでもありません。今できる事で最善の結果を手繰り寄せる事しか、今の私にできる事は無いのです。
救済の聖女エレナよ、お願いです。
どうか哀れな小さな魂に、救いの手を……。
祈りながら階段を降り、地下室へと足を踏み入れました。
聖女エレナは、祈りに応えてくれませんでした。
息を呑みました。
窓一つない、薄暗い地下室の中。室内に持ち込まれた結晶のような物体と、床に血で描かれた魔法陣が紅くぼんやりとした光を放っていて、その凄惨な光景を照らし出しています。
鉄の臭いが充満した室内には、黒魔術の魔導書が床一杯に散らばっていました。
黒魔術の魔導書の上に寝転がり、身体中の関節という関節をありえない方向へと捻じ曲げられて事切れている男性と女性は、デリアちゃんの両親なのでしょうか。手足は複雑極まりない曲がり方を何度も繰り返していて、まるで芸術家が常人には理解しがたい感性の元に造り出した複雑怪奇なオブジェのよう。そして首は背中のある方を向いていて、何度も何度も捩じられたのでしょう、首には螺旋状の皺が深々と刻まれていました。
目を見開き、舌をでろんと伸ばし、頬が裂けそうなほど口を開けて力尽きているデリアちゃんのお母さん。そんな彼女を、魔法陣の中心に立つ小さな人影が冷たい目で見下ろしています。
「……デリアちゃん?」
構えたピストルをそっと下ろしながら、私は声をかけました。
間違いありません。返り血に塗れていますが、あの子は間違いなくデリアちゃんです。
良かった、彼女はまだ生きています。お母さんの事は残念でしたが……けれども彼女は無事だったのです。保護してしっかりと心理的なケアをしてあげれば、彼女もまたいつかはあの笑みを見せてく
―――ぐりん、とデリアちゃんの首が、ありえない角度でこちらを振り向きました。
『きゃは』
咄嗟にピストルを構えました。
『きゃは、きゃは、きゃは』
その顔は、声は、間違いなくデリアちゃんのものでした。
けれども―――その内側にあるべき魂は、明らかに違います。
無垢で、素直だった彼女のものではなく―――邪悪で残虐極まりない、悪魔のそれだったのです。
狂ったようにケタケタと嗤い始めるデリアちゃん。それを見て、私は総てを悟りました。
彼女の母親が目論んだ悪魔召喚……それは成功したようです。魔法陣に誰の血を使ったのかは定かではありませんが、デリアちゃんが無傷である事を考えると彼女を生贄に使ったわけではないのでしょう。
そして魔界から引きずり出された悪魔は、よりにもよってデリアちゃんの身体をその依り代としてしまったのです。
肉体を得、現世で自由に行動できるようになった悪魔は、手始めに目の前にいた2人を……デリアちゃんの両親を手にかけました。そこに私たちがやってきて今に至る……事の次第はそういう経緯だったのでしょう。
「神父様……デリアちゃんは」
震える声で問うと、神父様は拳を握り締めました。
「人間の身体から、悪魔を追い出す手段はない」
見たまえ、と神父様は続けます。
「身体に紋章が浮かび始めている……悪魔の魂と、彼女の肉体が癒着を始めているようだ。悪魔にとってデリアちゃんの肉体は、随分と馴染み易い入れ物らしい」
そう、悪魔に憑りつかれた人間を元に戻す手段はありません。
悪魔が人間の肉体を依り代とした時点で、その人間の魂や精神はより強い力を持つ悪魔の魂に吸収され、その糧とされてしまう―――だから仮に悪魔の魂だけを殺しても、残るのは主のいなくなった肉の入れ物だけになってしまう、という事なのです。
だからデリアちゃんは、もう二度と戻りません。
あんなに本が好きだった、素直なデリアちゃんは―――二度と。
ドン、と神父様が床を蹴りました。
一瞬でデリアちゃんの姿をした悪魔へと急迫するや、握りしめた右の拳を突き出します。
『きゃは』
ですが、その拳が小さな悪魔を捉える事はありませんでした。
武骨な拳が彼女を殴りつけるよりも先に―――デリアちゃんの、いいえ、あの悪魔の足元から生じた影が鋭い槍と化して、神父様の腹を深々と射抜いていたのです。
「神父様!」
「あの野郎ッ!」
「ヒルダ、待って!!」
シスター・レーネの制止も、シスター・ヒルダの耳には届いていませんでした。
聖句の一節が刻まれた銀の剣を振りかざし、右へ左へと複雑な軌道を描きながら急迫するシスター・ヒルダ。ギャギャギャッ、と銀の剣の切っ先が床に触れ、激しい火花を生じました。
そのまま左上へと振り上げようとした剣が、しかし次の瞬間には甲高い音を奏でていました。
キンッ、と私の傍らに、半ばほどから折れた銀の剣の剣身が突き刺さります。
「てめ……そりゃ、反則だろ」
シスター・ヒルダの剣も、またデリアちゃんには届きませんでした。
彼女を斬りつけるよりも先に、神父様の時と同じように足元から生じた影が彼女の銀の剣を真っ向からへし折るや、別の影が鋭い棘となって彼女の胸元を刺し貫いていたのです。
「ヒルダ!」
「デリアちゃん、お願い……もうやめて、こんな事は」
分かっています、あの中にもうデリアちゃんの自我はありません。
彼女の姿をした、単純に邪悪な破壊の衝動―――そうでしかない筈でした。
『―――し、しししししししし、しす、しす、たー、イルゼ?』
「え―――」
壊れた機械のように、しかし確かに―――デリアちゃんの声が、デリアちゃんの声帯から確かに発せられました。
『こ、こここここの本、お、おす、す、す、おすすめ、だ、よ』
「デリアちゃん……まさか、まだ自我が……?」
信じられない事でした。
悪魔に憑りつかれた人間の魂は、悪魔の魂に吸収され消滅してしまう―――憑りつかれたばかりでまだ完全に吸収されていなかったのでしょうか。
微かにではありますが、デリアちゃんの自我を確かに感じました。
「デリアちゃん、お願い……お願い、負けないで! 悪魔なんかに負けないで!」
『ず、ずずずず、ず、ず、っ、と、ままま、まって、た』
「デリアちゃん……」
『おねがががががががががが、が、い、こ、ころ、ろろろろろ、ろ、ろし……ころ、ころし……て』
それは彼女の言葉なのでしょうか。
それとも、悪魔の言葉なのでしょうか。
こっちにやってきたデリアちゃんが、私のピストルの銃身を掴みました。そのままその銃口を、自分の心臓に押し当てます。
「お願い、やめて……ダメよ、私には無理よ、そんな事は……!」
『お、おおお、お、おか、かあああ、さん、いたい、やめて、やややや、め、やめ、やめやめやめやめ』
ビキッ、と彼女の背中からひび割れるような音が聞こえてきました。
デリアちゃんの小さな身体が、まるで風船を膨らませているかのように膨らんでいたのです。やがて小さな背中を突き破るようにして、蝙蝠を思わせる巨大な翼が飛び出してきました。
彼女の身体は、着実に人間から離れています。悪魔のものになりつつあるのです。
『た、たたたか、たた、たたかない、で、い、いいいい、いいこ、にす、す、する、から』
彼女の足元から、無数の影が伸びました。
磨き抜かれた剣の切っ先を思わせるそれが、戦闘不能になった神父様やシスター・ヒルダ、そしてその2人を助けようと駆け寄るシスター・レーネへと向かって伸びていきます。
彼女たちを、仲間を救う手段は一つだけ。
しかしそれは、私には受け入れがたい選択でした。
私は……私は、ヒトを救うためにエレナ教のエクソシストとなりました。
それがどうして、目の前の小さな命を摘み取る事に繋がるのでしょうか?
殺戮こそが救済とでも言うのでしょうか?
「デリアちゃん……ごめんね」
涙で震える声を絞り出し、引き金を引きました。
その日、私は初めて人を殺しました。




