奮戦のルカ
その痛みはまるで銃弾のように、”彼女”の頭を射抜いた。
身体中の筋肉が硬直し、内臓が壊死していく苦しみ。
負ける筈のない相手に負け、今まさに死に行こうとしている恐怖。
敗北した無念―――その全てが、不可視のパルスとなって彼女の神経に絡みつくや、光の如き速度で脳へと駆け上がって、その全てを”彼女”へと伝えた。
安らかに眠っているようだった”彼女”の表情が、苦悶のそれに変わった。ぴくりと眉が揺れ、短い呻き声が閉じた唇から漏れ出たのを、傍らに控えていたホムンクルス兵の護衛官”ミリセント”は見逃さない。
「……閣下?」
問いかけると、椅子に深々と背中を預けていた”彼女”はそっと瞳を開けた。
闇色の、そして爬虫類を思わせる形状の美しい瞳は、直視しているだけで吸い込まれそうになる。それは無数の星々を抱く夜空のようで、しかし彼女はその美しい瞳で今まで様々な地獄を目にしてきたのだ。凄惨極まる戦地、無数の同胞たちの屍、そして最愛の伴侶の死。
だからなのだろう、その瞳に安らぎが宿った事は、未だかつて一度もない。少なくともミリセントが専属の護衛官に就任し、彼女の傍らでロングソードを腰に提げて護衛任務に従事するようになってからは。
そっと身体を起こし、”彼女”は呟いた。
「……ヴァネッサが死んだ」
「そう……ですか」
彼女―――ホムンクルス兵の1人、ヴァネッサが死ぬ瞬間を彼女は追体験していた。
黒猫の獣人の狙撃手―――カーチャへと奇襲を敢行し、しかしその慢心から反撃を許し返り討ちに逢ったホムンクルス兵、ヴァネッサ。彼女の目を通し、鼻を通し、耳を通し、五感の全てを共有していたからこそ、”彼女”の身体にも死の瞬間の苦痛と恐怖は伝播した。
ミリセントは大して表情を変えなかったが、しかし悲しんでいる事は分かった。
彼女たちホムンクルス兵は、元はといえば原型となったテンプル騎士団初代団長『タクヤ・ハヤカワ』の遺伝子から生み出された存在だ。故に皆が兄弟姉妹であり、仲間意識の極めて強いホムンクルス兵たちの気質もあって、その死は全員に大きなショックを与える。
だからなのだろう。顔色一つ変えぬ冷徹なミリセントの手のひらは、いつの間にかきつく握られていた。それこそ爪が手のひらに食い込んで、血を流してしまうほどに。
(……お疲れ様、同志ヴァネッサ)
痛かっただろう、苦しかっただろう……既に息絶え、感覚を共有する事も叶わなくなった仲間の兵士に思いを馳せ、”彼女”は瞳から一筋の涙を流す。
(貴様の死、絶対に忘れはしない)
だから灰になるがよい。灰となり、天から皆の戦いぶりを見守っておくれ―――そう念じ、”彼女”は再び椅子に背中を深く預けて目を閉じた。
「やるじゃあないか」
上がった息を整え、物陰に隠れながらAK-102のマガジンを交換していると、シャーロットがこっちにゆっくりと近付きながら苛立ちを滲ませた声音で言った。
何の事か、全く見当がつかない。さっきだってAKの弾丸をばら撒きながらみっともなく逃げ回り、防戦一方の戦いをしていただけだというのに(それでも遥か格上のホムンクルス兵相手に逃げ回れているだけ合格点なのだろうか)。
「君たちの仲間が、ボクたちの仲間の1人を殺したみたいだ」
「え」
仲間を……殺した?
いったい誰が、と考えを巡らせたけど、しかしシャーロットの言葉と怒気がその思考を遮った。
「―――同胞の死、その命で贖ってもらうッ!!」
「!!」
風を切る音。
頭で理解するよりも先に、弾かれたように駆け出していた。とにかく前へ、更に前へ。一刻も早く現在位置からできるだけ離れろ、と本能が告げている。
直後、ごしゃあっ、と後方で金属が押し潰されるような凄まじい音が聞こえてきた。振り向くと先ほどまで俺が隠れていた場所には、どういうわけか真上から降ってきたと思われる貨物車両が深々と突き刺さっていて、ひしゃげた金属の塊と化したそれが星明りを受けて奇抜なオブジェと化している。
貨物車両を放り投げた?
どんな怪力の持ち主だよ、と相手の力に恐怖した。バクバクと心臓が高鳴り、身体中の細胞がこう告げている―――『逃げろ、これ以上戦ったら死ぬぞ』と。
分かってる、そんな事は百も承知だ。
けれどもここから逃げられない理由も、また存在するのだ。
ここでもし逃げてしまったら、ミカ姉が触媒を用意する時間が稼げなくなってしまう。
触媒化の祈祷の最中は無防備だ。あまり消極的な動きを見せ、相手に俺を無視しミカ姉を狙うという選択をさせないためにも、何とかして果敢に攻めなければ。
ああ、でも怖ぇ……。
「……でも、しっかりしないとダメだよな」
俺が守るんだ。
ミカ姉とノンナを、俺が!
歯を食いしばり、前に出た。
姿勢を低くしながらフルオートに弾いたAK-102を連射。マガジンの中身を空にする勢いで連射し、シャーロットへと真正面から突っ込む。
とにかく何も考えず、愚直に攻撃を続けた。
けれども弾丸はシャーロットに命中こそしているが、効いている様子はない。一瞬、彼女の顔が蒼い外殻に覆われたかと思いきや、偶然眉間へと飛んでいった弾丸の一発が蒼い外殻に触れて跳弾、甲高い音を立てて弾かれていった。
あれがホムンクルス兵の外殻……クラリスが使っているのを何度か見た事があるけれど、いざホムンクルス兵が敵に回るとあの外殻がこんなにも厄介だなんて!
「無駄無駄ァ! そんな攻撃、ボクには通用しないよ!」
そう言いながら、シャーロットの背後に展開していた触手の1つがこちらにその矛を向けた。3つに別れたマニピュレータの先端部には、短銃身タイプのRPK-16がある。
拙い、と思いつつ弾切れになったAKを投げ捨てた。そのまま背中に手を回し、背負っていた粗末な鉄パイプをぎゅっと握って振り上げ、それを地面に突き立てる。
RPK-16が火を吹いた。
5.45×39mm弾が、回転しながらこっちに向かって飛んでくる。命中すればタンブリングを引き起こし、標的の体内をズタズタに引き裂いていく恐ろしい弾丸―――もちろん命中する場所が悪ければ手当てする事も叶わずに死ぬ羽目になる。
迫る死の恐怖に目を瞑りながらも、魔力を放出した。
元々ミカ姉が使っていた触媒の鉄パイプ。塗装もすっかり剥げ落ち、割れた圧力計がついたままの状態のそれは、けれども俺の魔力放出に全力を以て答えてくれた。
こっちに直進していた5.45mm弾の弾雨が、けれども着弾するよりも遥か手前で弾道を歪ませられたかと思うと、ぐにゃり、とまるでガラス球の表面を水滴が流れ落ちていくかのように逸れ、後方へと飛んでいってしまう。
「……磁力魔術……ミカエルの技かい」
「や、やった……できた、俺にも……!」
磁力魔術『磁力防壁』。ミカ姉が得意とする、磁力を操る魔術だ。
周囲に磁界を形成、接近する金属類を反発させることでその軌道を歪め、自分への被弾を防ぐ不可視の防壁。ミカ姉から何度もレクチャーを受け、小さい鉄板だったら引き寄せられる程度の出力だったそれが、特訓の成果もあって今ではこのレベルだ。弾丸すら受け流せるようになっている。
とはいえ、ミカ姉のそれと比較するとあまりにも不安定だ。まだまだ鍛錬が必要だな、と思ったところで、俺は目を見開いた。
「―――」
目の前に、シャーロットが迫っていた。
右の拳を握り、口元には嗜虐的な笑みを貼り付けた状態で。
あ、避けないと―――そう思った頃にはその拳が腹に深々とめり込んでいて、肋骨を数本へし折りながら内臓を圧迫しているところだった。
ドン、とまるでトラックに撥ね飛ばされたかのような衝撃が走り、何も考えられなくなる。
身体を衝撃の槍が射抜き、少し回復した直後に猛烈な痛みが襲ってきた。背骨を、内臓を、筋肉を、まるで金槌で殴打されたかのような鈍い痛み。折れた肋骨の一部が内臓に突き刺さって、腹の奥底で鮮血を迸らせる鋭い痛み。
思わず両手で腹を押さえ、その場に崩れ落ちてしまう。
呼吸したくても息が吸い込めない。
もちろん体は動かない。
「あ、ぐ……ぅ」
口から溢れ出るよだれと胃液の混合物。それが微かに赤みがかっているのはきっと血のせいだろうか。
ああ、やっぱり。
俺なんかじゃ……敵わないのかな……。
床に堆積した埃を払い、チョークで床に魔法陣を描く。
まず最初に円を描き、その中に六芒星、そして幾何学模様。床に置かれた触媒化予定の剣槍を中心に描かれたそれを見て、その出来栄えに満足しつつ次のステップへ。
ノンナから水銀の小瓶を受け取り、コルク栓を外してその中に骨の粉末を混ぜ込んだ。触媒化の祈祷にはベースとなる水銀と、魔術師と触媒を繋ぎとめる役目を担う動物の骨の粉末が必要になる。この粉末も、きっといつかの食事の際に食材となった鶏肉の骨から無駄なものを取り除いて火にくべ、パリッパリになるまで焼いてから金槌で粉砕、磨り潰したものなのだろう。
十分に混ざり合ったそれを、魔法陣の中心に佇む剣槍にぶっかけた。
「Дёэй квэбмёй(神よ、我が信仰に応えよ)」
イライナの古い言葉で短く告げ、魔力を左手から放射する。手の甲に刻まれた魔法陣が仄かに光を放ったかと思いきや、それと連動しているかのように床の上の魔法陣も光を放ち始めた。バチバチと電撃が乱舞し、空気の焦げる臭いが車庫の中に充満していく。
急げ、急げ、急げ。
急がなければルカが、ルカが危ない。
アイツをこんなところで死なせたくはない。ルカはまだこれからなのだ。スラムの片隅で、日雇いの仕事で心身を擦り減らしていくだけの人生ではなく、冒険者として生きる道を選んだ希望に満ちた男なのだ。その命の炎をこんなところで途絶えさせてはならないし、そんな事があってはならない。
神様、どうか。
どうかアイツをお守りください。どうかアイツを、仲間を守る力を私にください。
祈っている間に、光が消えた。
バーナーで炙られたかのような焦げ跡が刻まれた床の上に、何事もなかったかのように佇む1本の剣槍。未だ未完成のそれを恐る恐る拾い上げると、ドクン、と心臓が一際大きく脈打ったような、そんな錯覚を覚えた。
身体が、細胞の1つ1つの発するシグナルが―――この全長2mの槍か剣かも分からぬ剣槍と見事に合致したような、全てが噛み合う感覚。
本能で理解する。これはもはや単なる武器ではなく、俺の触媒である、と。
「……」
「ミカ姉?」
「……大丈夫、成功だよ」
剣槍の素材に使われている、ゾンビズメイの黒い外殻部分を見つめながら心の中で念じる。
お前の力、借りるぞ―――と。
片手でも振るえるほど軽いそれを肩に担ぎ、ノンナの肩に手を置いた。
「安全なところに隠れてろ」
「ミカ姉……勝ってね」
「もちろん」
振り向かず、ぐっ、とそのまま親指を立てた。
「―――俺は天使だぞ」
「全く、余計な手間をかけさせてくれる」
崩れ落ちたまま動かなくなったビントロングの少年―――ルカを冷たい目で見下ろしながら、シャーロットは呟いた。
先ほどの一撃には手応えがあった。肋骨を砕き、内臓を圧迫し、砕けた肋骨の一部が内臓を確かに傷付けた手応えがあった。
この少年の命はそう長くないだろう。外見では大きな変化はないが、しかしその身体の中では内臓から溢れ出た鮮血が充満し、緩やかにではあるが確実に死が近付いている筈だ。シャーロット自らが手を下さなくとも、いずれこの哀れな少年は神の御許に召されるであろう。
しかし、そのまま歩みを進めようとするシャーロットの足を何かが掴む感覚に、彼女は不快な視線を眼下へ投げかける。
彼女の小さな足を、ビントロングの獣人の大きな手ががっちりと掴んでいた。
きっとそれが最後の力なのだろう。手は震え、食い縛る歯の間からは鮮血が溢れ、今まさに消えようとしている儚い命。しかしその大きな瞳には抵抗の意思が確かに宿っている。
―――行かせはしない。
言葉を発する余裕すらないのだろうが、しかしその目が、そして思考が確かに訴えていた。先には行かせない、行かせはしない、と。
シャーロットは計画を狂わされる事を何よりも嫌う。特に、このような道端の石ころ同然の有象無象が計画に遅延を生じさせるなど、彼女にとっては耐えがたい屈辱も同然だった。
死にかけの身体で、消えかけの魂で、今更抗って何になるというのか。わずか数秒の時間を稼ぐ事しかできぬというのに、何故それほどまでに必死でいられるのか。
そんな理解の出来ない、されど他愛のない感情が彼女の計画を遅延させている―――決して許されぬ冒涜に、シャーロットは無言でテンタクルMk-2にマウントしたRPK-16の銃口をルカへと向けた。
銃口を睨みながらも、ルカという少年の瞳に恐怖の色は浮かばない。
なぜそんなにも、腹を括ったような目をしているのか。
いったい何に希望を託しているというのか。
―――その答えは、唐突に飛来した剣槍が教えてくれた。
「!?」
ヒュン、と風を切る音。思考すら感じさせぬそれは弾丸の如き速度で疾駆するや、ルカへと向けられていた機械の触手をさながらパンのように寸断してしまう。
ただ、それだけに留まらない。
まるで魔法で浮遊しているかのように、あるいは透明人間が振るっているかのように急旋回した漆黒の剣槍。まだ未完成なのだろう、剣身の欠けた部位からは内蔵された賢者の石の紅色の光が漏れており、さながら深紅の流れ星のようだった。
なんだこれは、と驚愕するシャーロット。すぐさま他の触手に命じ撃ち落とそうとするが、しかし発射命令が電気信号として触手に伝達される頃には、その命令を実行できるサブアームユニット『テンタクルMk-2』は1本たりとも残ってはいなかった。
―――すべて、既に切断されていたのだ。
「……なに?」
ホムンクルス兵の目でも追いきれない速度。
予想外極まりないそれに、しかし答え合わせをするかのように放たれた殺気と雷属性の魔力が、その正体を教えてくれた。
無数の星々が浮かぶ夜空。それを背景に、夜風の中を紅い尾を曳いて悠然と泳ぐ剣槍が、主の元へと戻っていく。
操車場の手前、打ち捨てられた貨物車両の屋根の上に―――白銀の三日月を背景に、小さな人影が立っている。
まるで子供、あるいは幼女のような小柄な身体は戦場には不似合いではあるが、しかし纏う闘気は歴戦の戦士のそれだった。迂闊に触れようものならば噛み千切られてしまいそうで、猛獣の如き荒々しさがある。
敵対者たるシャーロットにはそう思えたかもしれないが―――大地に倒れ伏していたルカには、また違った姿に見えた。
それは敵対者に対する悪魔であって。
それは同時に、信じる者に対する天使なのだ。
「ミ……カ……ね………ぇ……」
今にも泣き出しそうな声が、ルカの口から漏れた。
主の傍らに浮遊する剣槍。その穂先が、紅い光を纏いながら―――未知の脅威の出現に戸惑うシャーロットの顔を睨む。
腕を組んでいたミカエルは、銀色の瞳をシャーロットへと向けた。
「―――可愛い弟分を痛めつけた分、償ってもらうぞ」
彼女は静かに、しかし激しく怒り狂っていた。




