復讐の兵士たち
ドビュッシーの『月の光』は、”彼女”のお気に入りの一曲だった。
1人で物思いに耽る時やゆっくり過ごしたい時、そういう時にいつも流れ、耳を楽しませてくれた曲だ。
よもや自分が音楽を、それもクラシックを嗜む事になるとは……思い返してみれば音楽や芸術などとはどこまでも無縁の人生であった、と”彼女”は思う。
夫も音楽を嗜んでいたものだ。出撃する前、あるいは砲弾の降り注ぐ自軍の陣地、その退避壕の中で激しい曲調のジャズを聴いては、戦いへと赴いていった。
音楽を嗜むきっかけを作ってくれたのも夫であったと、”彼女”は記憶している。祖国クレイデリアの首都、その片隅にある古いレコードショップで買ってきたレコードと、海外製の蓄音機。再生した音楽はノイズに塗れていたが、「これも味だ」と夫は笑っていたものだ。
何もかも、皆懐かしい……。
『……』
脳裏に他人の見ている映像と身体の感覚が流れ込む。
それはまるで、他人の肉体に自身の意識を憑依させ、その目が見る映像を覗き見しながら、身体の発する電気信号を共有しているかのようだ。椅子に深く腰を下ろしてクラシックを聴いている自分の肉体の感覚は残しつつも、しかし他者の肉体の感覚も感じる特異な状態。
それもまた、彼女らホムンクルス兵の原型―――その直系の子孫であるからこそ成せる業だ。
戦場へと向かうホムンクルス兵―――シャーロットの思考も、そしてその滾る闘争心も、全て彼女に筒抜けだった。
今度こそミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフを殺す……私の尊厳を滅茶苦茶にし、テンプル騎士団の名に泥を塗ったあの憎たらしい害獣を。
赤々と燃え盛るマグマの如く迸る戦闘意欲に満足しながら、”彼女”は目を開けた。
闇色の瞳が、天井に浮かぶ立体映像のパネルへと向けられる。
(さあ戦え、血を分けた同志たちよ)
作戦展開地域へ突入した彼女たちと身体の感覚を共有しながら、”彼女”は思う。
(力こそが全てだ。立ち塞がる者は全て打ち倒すがよい)
「―――」
研ぎ澄まされた白銀の刃が、首筋を撫でるような―――そんな危うい感覚に、身体中の全ての細胞が警鐘を打ち鳴らした。
なんだかわからないけど、とにかく拙い。
ジャキンッ、とブローニングM2重機関銃のコッキングレバーを引いて薬室へ初弾を送り込みつつターレットリングにマウントされたそれを右へと旋回。コッキングの音はクラリスの耳にも届いていたようで、警戒車がそれを合図に徐行から戦闘速度へスピードを上げていく。
その直後だった。暗闇に紅く輝くライン状の眼光が一瞬だけ閃き、それを追うように動かした機関銃からマズルフラッシュが迸ったのは。
ドババッ、と短間隔での連射。曳光弾が闇夜へと伸び、12.7mm弾の礫が暗闇に潜む何かの表面を打ち据える。
《発砲!?》
《ちょっと誰、誰が撃ったの?》
「気をつけろ、何かいる!」
俺の射撃が開戦の狼煙となった。
微かに聞こえた、まるで全身を金属製の鎧で覆った騎士が倒れるような音。おそらくは撃破……しかし1体だけではあるまい。
機関銃を旋回させた直後、ガガガッ、と機関銃と一緒に据え付けられている防盾を何かが打ち据える。それが弾丸だと分かった頃にはもう既に、俺は交戦勢力の目星をつけていた。
―――テンプル騎士団。
なるほど、戦車一個小隊での奇襲で仕損じた事を受け、今度は俺たちが脚を止めたタイミングで襲撃部隊を差し向けてきた……という事だろう。
今まで散発的な襲撃こそあれど、ここまで執拗な追撃は無かった。初の事例である事からも分かる通り、今回のテンプル騎士団は本気だ。本気で、いよいよもって計画の障害となり始めた俺たちを排除しに乗り出してきたのだ。
跳弾の重さとターレットリングにまで伝わる振動から、拳銃弾ではなく5.45mm弾による射撃であると推測。フルオートで遠慮なくぶっ放してくる事からRPKのような分隊支援火器かそれに準ずる汎用機関銃(一応、ロシアにはRPL-20という汎用機関銃もある)ではないかと思ったが……違う。再装填があまりにも早い。
こいつら、アサルトライフルでフルオート射撃を多用しているのか?
普通では考えられない戦法に、俺は訝しんだ。
通常、アサルトライフルはセミオート射撃で撃つのが基本だ。そりゃあマガジン内の弾数は平均で30発、それを複数携行する事になるが、フルオート射撃ばかり多用していればあっという間に弾切れになってしまうし、銃身にも負荷をかけてしまう。
だからアサルトライフルは基本的にセミオート、必要に応じてフルオートといった感じに使い分けるよう歩兵は教育を受ける。
だがしかし、テンプル騎士団の歩兵(恐らくはあの黒騎士共だろうが)はどうか。
まるでアクション映画やアニメのように、アサルトライフルをフルオートで遠慮なくぶっ放してくるのである。
そのせいで、とにかく常に制圧射撃を受けているような状況になった。ガンガンと警戒車の装甲を5.45mm弾がひっきりなしに打ち据えてくるし、防盾にもさっきから何発も当たっていて、とてもじゃないが悠長に狙いをつけて撃っている余裕もない。
クソが、と悪態をつきながら砲塔内に身体をひっこめつつ、両手でブローニングの押金を押し込んだ。
狙いをつけるも何もあったものではない。とにかく敵がいるであろう方向へ、無我夢中で12.7mm弾をばら撒き……すぐにやめた。
大人しくハッチを閉じてロックをかけ、砲塔を旋回させる。
―――相手があの黒騎士なのであれば中身は機械、制圧射撃は効果がない。
人間の兵士であれば制圧射撃や威嚇は効果を発揮する。こっちが狙ってるぞ、という状況を相手に伝えて萎縮させたりできるからだ。どんなベテランの兵士でも、いつ弾丸が自分の肉体をぶち抜いていくかも分からない場所に身を晒す勇気はないものである。
しかし、それが機械であればどうか? それも、いくらでも使い捨てにできるような低コストの兵器であったならば?
そもそも機械であれば感情はない。無論、恐怖もだ。だからすぐ近くを弾丸が掠めていったり、近くにいた仲間が狙撃されて倒れても何も感じない。ただ与えられた命令を淡々とこなすだけだ―――どれだけ弾丸をばら撒いて制圧射撃をかけても、そもそも機械の歩兵は頭を下げずに突っ込んでくる。損害をものともせずに。
だから相手を制圧して足止めしよう、などという手は通用しない。そんな無駄な事に無駄な弾薬を費やしている間に、敵部隊との交戦距離はどんどん狭まっている。
「初弾装填、キャニスター! 近接射撃!」
7.62mm弾(主砲同軸の機銃だ)で接近中の黒騎士を蜂の巣にしながら装填装置を操作、砲身内部にキャニスター弾を装填し発射ペダルを踏み込んだ。
バオン、と120mm滑腔砲が吼え、キャニスター弾が接近中だった黒騎士の一団を薙ぎ払った。
キャニスター弾は簡単に言うと巨大な散弾のようなもので、砲弾内部に小型の鉄球や弾丸が詰め込んである。それを広範囲にばら撒く事で人間などのソフトターゲットから装甲の薄い軽装甲目標まで攻撃・撃破する事が可能な兵器である。
この手の兵器は前装式の大砲の頃からあるのだが、説明すると長くなるので興味がある人は各自で調べてみてほしい。
次弾を装填しながら機銃で攻撃していたところで、無線機の向こうが騒がしくなった。
《モニカ、3時方向!》
《くっ! こいつらテンプル騎士団!?》
襲われたのは俺たちだけじゃない、か。
吐き出す息が白く濁る。やはりそうだ、気温も下がっている―――テンプル騎士団が、特にあの黒騎士が出現すると気温が下がるが、これは何か関係があるのだろうか?
『ご主人様!』
「!」
ガンポートからQBZ-97の銃身を突き出して応戦していたクラリスに注意を促され、気付いた。
機銃弾を撃ち込まれて倒れていく黒騎士たち。そいつらを気にすらかけず、2人の兵士が他の連中よりも凄まじい速度で突っ込んでくる。
片方は黒服姿で、手には銃剣付きのAK-12がある。もう片方は研究者のような、あるいは将校用の戦闘コートだろうか。黒いロングコートを身に纏っているが、サイズが合っていないのかぶかぶかで、両手はコートの中にすっぽりと隠れてしまっている。まるでアニメキャラのような”萌え袖”だ。
あの2人は……間違いない。
テンプル騎士団のホムンクルス兵―――シェリルとシャーロットの2人組だ。
アルミヤとウガンスカヤ山脈で一戦交えたシェリルと、賢者の石の一件で交戦したシャーロット。どちらも血盟旅団と、特にクラリスと俺に因縁のある相手じゃあないか。
なるほど、ホムンクルス兵を2人も投入してくるとは……テンプル騎士団の本気度が伺える。
標的を変更、砲塔を旋回させつつシャーロットを狙う。7.62mm弾で狙うが、しかしシャーロットは姿勢を低くしてやり過ごすと、照準器越しに憎悪の滲む視線を向けてきた。
ああ、本気で殺しに来てやがる。
以前のような、相手を下に見たような彼女ではない。間違いなく相手を確実に始末する、殺し屋のそれだ。
ペダルを踏み込んだ。
砲身内部のキャニスター弾が、発射ガスに押し出された。砲弾が空中分解するかのようにバラけるや、内蔵されていたベアリング弾が砂粒を投げつけるかのように広がり、”面”で2人のホムンクルス兵へと向かっていく。
次の瞬間だった。
シャーロットの手が傍らの黒騎士へ伸びたかと思いきや、それを引き寄せて盾に使った。
120mm滑腔砲から発射されたキャニスター弾はお構いなしに黒騎士の装甲を直撃した。頑丈な装甲だが、せいぜいバトルライフルの被弾に耐える程度の防御力しかないのだろう。戦車砲から発射されたキャニスター弾の前には紙屑同然で、艶の無い闇色の装甲が身に纏うコート諸共引き千切られ、周囲に鮮血のような人工血液が飛び散った。
残った上半身の残骸を投げ捨て、再びこちらに突進を再開するシャーロット。
「くそ!」
『後退します!』
「ダメだ、左に行け!」
『ですがそれでは!』
「列車からあの2人を引き離すんだ」
今、列車は無防備な状態だ。
機関車を更新するための作業中で、AA20はもう使い物にならない。パヴェルがあの作業を終えるか、テンプル騎士団を撃退するか―――あるいは列車も何もかもを放棄して撤退するかでもしない限り、この戦いは終わらない。
それに列車には、ルカとノンナもいる。ルカはともかくノンナはまだ訓練すらまともにしていない少女だ、戦闘に巻き込むわけにはいかない。
幸い、シェリルとシャーロットの狙いは俺たちらしい。ならばやるべき事はただ一つ―――!
「俺たちが囮になる!」
『……了解しました!』
圧倒的に不利な戦いが始まった。
レールを遠隔操作で切り替え、進路を変更するクラリス。ぐい、と警戒車が左へ進路変更したところで機銃を放ち、シャーロットとシェリルを牽制する。
弾薬庫から伸びたロッドがキャニスター弾……ではなく、多目的対戦車榴弾を砲身内部へ押し込んでいく。ライフリングすらない砲身へ装填し終えたのを確認し、ペダルを踏み込んだ。
シャーロットとシェリルの一歩手前、錆び付いた金属片が散らばる車両基地の一角に、多目的対戦車榴弾がぶっ刺さる。
カッ、と紅い閃光が煌めくや、炎を纏った破片や爆炎の舌が四方八方へと伸びた。噴き上がる衝撃波にシャーロットとシェリルが少しでもダメージを負ってくれる事を期待したが、しかしたかが戦車砲程度で止められる相手ならば苦労はしない。
ごう、と黒煙を突き破り、銃剣付きのAK-12を抱えたシェリルが躍り出た。
「くっ……!」
クラリス曰く、『ホムンクルス兵は”人間サイズの戦車”である』。
堅牢な外殻と驚異的な身体能力を持つ彼女たちは、最強の兵士、タクヤ・ハヤカワを量産する目的で生み出された”造られし生命”。ヒトの姿でありながらその腕力は重機のようで、戦車の防御力と歩兵の小回りの良さを両立した、戦場においてはあまり出会いたくない類の脅威である。
額から冷や汗が零れ、頬を伝う。
機銃を撃つが、シェリルは止まらない。
無造作に腰のポーチから何かを取り出すシェリル。古めかしい柄付き手榴弾のようなものを取り出した彼女は、それをこっちに向かって投擲した。空中でくるくると縦回転していたそれが柄を切り離すや、小さなパラシュートのようなものを展開してこっちに向かってくる。
RKG-3EM―――ソ連製対戦車手榴弾。
拙い、と思った頃には凄まじい衝撃が警戒車を襲っていた。まるで耳元で無数の銅鑼を打ち鳴らされたような轟音が鼓膜を苛み、思わず両手で耳を押さえてしまう。
ハッとしながら照準器やモニターを見た頃にはもうそこにシェリルやシャーロットの姿は無かった。
バキュ、と頭上から聞こえた破砕音。ロックをかけたハッチを見上げると、しかしそこにはハッチの艶の無い底面はなく―――こんな時に限ってクッソ綺麗な星空を背景に、虚ろな、けれども確かな憎悪に塗れた紅い瞳でこっちを見下ろすシャーロットの顔があった。
「―――Щas йяёls maln nёllse(いい夢を)」
ロシア訛りの英語を思わせる語感の、未知の言語。
おそらくはクラリスがかつて母語としていたであろう言葉で何かを告げながら、しかしその余韻を一番聞きたくない、ごとん、という金属音が彩った。
足元に転がった、2つの丸い球体。それから、それを安全に持ち歩くための”枷”でもあった2つ分の安全ピン。
俺の足元には、投げ落とされた手榴弾があった。
「о боже мій(ああ、クソ)」
逃げる猶予も、何も無かった。
頭上のハッチが閉じられる音が聞こえた直後―――爆音が、何もかもを呑み込んだ。




