各陣営の思惑
「ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフ?」
「はい、陛下」
スプーンでジャムを掬い、ティーカップの中に落として軽くかき混ぜてから、ノヴォシア帝国皇帝『カリーナ・ニコラエヴナ・ロマノヴァ』はそれを口へと運んだ。
貴重な砂糖をふんだんに用い、イライナの地で採取されたイチゴを贅沢に使ったストロベリージャムは、ウルファ産のハチミツで少し甘めに調整した紅茶と実によく合う。茶葉の香りとハチミツの甘み、そして肥沃なイライナの地で育ったイチゴの風味が調和した贅沢な一杯を味わっておきながら、しかしその顔は眉ひとつ動かす事はない。
彼女にとってはこれが当たり前の味だが、何の感動も覚えなかった理由はそこではない。今は思考が全て、ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフという名に対して動員されているからだ。
「……聞いた事がないな」
「新興ギルド”血盟旅団”の長にございます」
捕捉しながら、傍らに控える長身痩躯の蒼い髪の男性―――皇帝から『ラスプーチン』と呼ばれ信頼を集める僧侶は苦笑いする。
皇帝カリーナと対面した者は皆がこう思うであろう……『冷たい人だ』と。
その評価は正しい。皇帝カリーナという女性は、兎にも角にも他人に興味を持つことがない人だ。目的のためには手段を選ばず、非情な決断も良心の呵責に苛まれる事無く淡々と下すその様は”精密機械”とも揶揄される事すらある。
事実、ラスプーチン自身もそう思っていた。この人は冷たく、故に常人では選べぬ選択も淡々と済ませてしまう人だ、と。
その冷たさたるや、永久凍土として名高いシベリウスが温暖な気候に思えるほどである。
血盟旅団、という名を聞いてやっと、皇帝カリーナの脳裏に合点の行く記憶が思い浮かんだのだろう。黄金の眉がピクリと動き、納得したように言った。
「ああ、例の」
「はい、陛下」
「アレであろう、アルミヤを解放しガノンバルドをギルド単独で撃破、そして極東から渡ってきた新種のエンシェントドラゴンも退け、イライナから共産党を放逐したという……」
「その長がミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフにございます」
「なるほど………待て、リガロフ?」
リガロフ―――その姓は、帝室と因縁のあるものだ。
遥か昔、かの伝説の邪竜ズメイが暴れに暴れ、この国を滅亡の縁に立たせていた時の事だ。当時の皇帝はズメイ討伐に、当時は旧人類に隷属していたイリヤーとニキーティチの2名を差し向けた。
そして長きに渡る死闘の末、ズメイは首の内の1つを斬り落とされて封印され、その傷口から溢れ出た竜の血はニキーティチの尽力によりノヴォシアの地深くへと葬られた。
これが今なお英雄譚として語られる、大英雄たちの物語である。
その大英雄の名は『イリヤー・アンドレーエヴィッチ・リガロフ』。ズメイの脅威を跳ね除けたノヴォシアの2人の大英雄、その片割れである。
偶然か、と訝しむその胸中を見透かしたラスプーチンは、ティーカップをそっと小皿の上に戻す皇帝カリーナに囁いた。
「ミカエルは大英雄イリヤーの血脈、その末席に連なる子孫にございます」
「ほう……大英雄の子孫がゾンビズメイを、か」
歴史は繰り返すものだな、と言いながら皿の上に並ぶケーキへと手を伸ばす皇帝カリーナ。しかし表情を変えぬ彼女ではあるが、その考えている事はラスプーチンにもよく理解できた。
―――面白くないものだ。
イライナがノヴォシアからの独立を企てている、という話は皇帝カリーナも知っている。特にリガロフ家の長女、アナスタシア・ステファノヴァ・リガロヴァが帝国に奉仕する裏で暗躍し物資や人材の引き抜き、その他の政治工作を水面下で推し進め虎視眈々と独立の機会を窺っている、という話を聞いた時は真面目に彼女を暗殺するべきではないか、と暗殺ギルドの雇用を検討したほどだ。
「ミカエルはリガロフ家の庶子。表舞台に出てきたのはつい最近の事であると聞いております」
「庶子? 愛人の仔か」
「メイドと前当主の間に生まれた、と」
「……汚らわしい」
吐き捨てるように言った皇帝カリーナの眉間が少しだけ険しくなる。
「しかしこれは面白くありませんな、陛下。イライナ出身者で、それも大英雄の子孫がかの邪竜の一部を打ち倒した……あの女はこれを利用するでしょう」
利用しない手はないだろう。
イライナ人とノヴォシア・ベラシア人との確執は根深い。それはイライナがまだキリウ大公の治める『イライナ公国』と呼ばれていた頃からの話であり、ノヴォシアは侵略戦争に勝利してイライナを一方的に併合、あらゆる不平等条約を押し付け帝国の一部として取り込んだという経緯がある。
そのため自然な併合を果たしたベラシアと比較するとイライナのノヴォシアに対する憎悪は比較できるものではなく、今なお独立を望む国民が多い。
あれだけの実力と人望があり、かつ両親から家督を奪い正式にリガロフ家当主となって権力を盤石なものとしたアナスタシアが、今回の一件を利用しない筈がないのだ。しかも相手はズメイの首の内の1つで、それを撃ち果たしたのが大英雄イリヤーの子孫ともなればイライナ国民は熱狂するであろう。
「……」
かつて、当時の皇帝は大英雄イリヤーを疎んだ。
ズメイを封印しノヴォシアに平穏を取り戻した彼はまさしく英雄であったが、しかし力を持つ個人が民衆の支持を得るというのは、国家を治める権力者としては面白いものではなく、もしそれが暴発するような事があれば今の権力の座を揺るがしかねない状態でしかない。
だから政治工作を行い、イリヤーの一族を意図的に没落するよう仕向けた―――それがリガロフ家の没落の真相である。
アナスタシアも馬鹿な女ではない。徒に権力再興を推し進めればまた帝室の介入により潰されるのは必定。だから両親のように貪欲に権力を求めるのではなく、水面下で準備をしながらその時を待ち続けた……イライナ独立の機運を醸成し、それを一気に爆発させるための”起爆剤”が転がり込んでくるのを待っていたのだ。
「しかし表立って消すわけにもいくまい。そんな事をすれば……」
「まあ、燃えるでしょうな」
民衆の支持を得た英雄の死ほど、民衆を悲しませ、そして怒り狂わせるものはない。
褒め称え増長させる事は自らの首を絞める結果となり、かといって軽率に消す事も出来ない厄介な存在―――自分の妹がそんな立ち位置にいるのだから、アナスタシアとしては積極的に武器として使ってくる事は想像に難くない。
今のノヴォシアには、暗雲が立ち込めつつあった。
「逃した魚は大きかった、か」
第一世代型の獣人特有の訛りがあるノヴォシア語でそう言いながら、黒豹の獣人―――ノヴォシア共産党の指導者であるレーニンは窓の向こうに広がる星空を見上げた。
ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフと血盟旅団を取り込み、共産主義陣営につける事は叶わなかった。それどころか彼等との関係が急激に悪化し敵対、せっかく苦心してイライナ地方に築いた橋頭保も全て失陥、ノヴォシア地方へ放逐されるという失態は記憶に新しい。
まさに”逃した魚は大きかった”、その一言に尽きる。
「すたぁりんがミスらなければァ~、こんな事にはならなかったよねぇ~? ざぁ~こ♪」
「やめなさいトロツキー」
過去の失敗を、古傷を抉るように責め立てるトロツキー。レーニンに咎められた彼は「はぁい☆」とまるで反省していないような返事を返し、どっかりと椅子に腰を下ろす。
スターリンはとにかく不快だった。この共産党幹部の1人、レフ・トロツキーの姿を見るだけで殴り飛ばしたくなるし、何よりもミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフの事を思い出す。ミカエルもトロツキー同様のハクビシンの獣人であり、幼い外見というのも一致するからだ。
そしてスターリンは与り知らぬ事ではあるが、メスガキ属性を持っているところも一致してしまっている。そして幼女のような外見でありながら性別が男である点も、だ。
帝室が危機感を抱いているように、ノヴォシア共産党も今回のゲラビンスクの一件で危機感を抱いていた。
皇帝の統治に陰りが見え始め、帝国内で不満の火種が燻っているとはいえ、未だ共産党の支持基盤は盤石とは言い難い状態である。更にはガリヴポリ、リュハンシクの2つの州を血盟旅団により奪還された事で支配地域は大幅に縮小する事を余儀なくされ、今の勢いは弱火としか言いようがない状況にまで追いやられていた。
それどころか血盟旅団によりリュハンシク、ガリヴポリでの共産党の実態がイライナ全土に暴露(※正確にはアナスタシアの仕業である)されてしまった事によりイライナ地方では反共産主義の機運が醸成されてしまい、支持を集めようにも門前払いされる状態だ。
もし仮にミカエルを共産主義陣営に取り込む事が出来ていたのならば、その影響力を利用して革命を有利に推し進める事が出来ていただろう。庶子とはいえ、英雄の血脈に連なる事には変わりないのだから。
「さて、次の一手はどうするかだが……」
「消しますか、ミカエルを」
「やれるのかね、君に」
こちらを振り向きもせず、何を考えているかも読めない目つきで星を見上げながらぴしゃりと言うレーニンに、スターリンは返答の言葉を詰まらせた。
今のミカエルは、もうあの時の―――ガリヴポリで一戦交えた時のミカエルではない。
伝説の竜、ズメイの首の1つを撃破してしまうほどの実力者に成長しているのだ。もう、並の兵士や軍隊では手が付けられないレベルに達しているミカエルを、脆弱な装備しか持たず支持も十分に得られているとは言い難い今の共産党で仕留められるかと問われれば、答えは言うまでもなくNOである。
第一、ミカエルを消したところで何になるというのか。
新聞記事を見たのかね、と言わんばかりに、レーニンはそっと新聞をスターリンの方へと放り投げた。丸められたそれを広げてみると案の定、イライナ語で書かれた新聞記事の一面にはゲラビンスクの戦いでゾンビズメイを相手に勝利を収めた血盟旅団と、その団長であるミカエルに関する特集が組まれており、壁に掲げられたイライナ公国時代の国旗と血盟旅団のエンブレムを背景にインタビューを受けるミカエルの白黒写真が掲載されている。
記事も彼等血盟旅団を称え、更にはミカエルがあの大英雄イリヤーの子孫にあたる事も強調してある。
「イライナではこの新聞があっという間に売り切れたそうだ」
「……」
「ミカエルを消したところで逆風にしかならんよ、スターリン」
やっとレーニンはスターリンの方を振り向いた。
「暴力で物事を解決しようとするのは君の悪い癖だ。過度な破壊では恐怖しか生まない」
分かるかね、と続けたレーニンはトロツキーを引き連れ、執務室を出ていった。
バタン、と大きな扉が閉まる音だけが部屋の中に響き渡り、1人残ったスターリンを嘲るように反響を繰り返す。
彼の内心は煮え滾っていた。
やはり、同志レーニンのやり方は生温い。
結局のところ、人間の支配とは飴と鞭なのだ。富という飴と圧政という鞭。民衆の統率に最も手っ取り早いのは鞭の方で、だからこそスターリンはそのやり方で今の地位まで駆け上がってきた。
彼こそが共産党内部の恐怖なのだ。
今のような生温いやり方では、いずれ共産党は自然消滅するだろう。だというのに、レーニンとトロツキーのあの危機感の無さがスターリンには気に喰わない。
誰も居なくなった執務室の中。
スターリンは静かに、夜空に浮かぶ月に向かって中指を立てた。
暗い、闇に覆われた部屋の中。
周囲に設置されたモニターや立体映像の光だけが光源として機能する部屋の中で、白衣を身に付け、新たな機械の身体を得たシャーロットは満足げに手の中の試験管、その中で培養液付けになっているサンプルを弄ぶ。
テンプル騎士団の工作員は実に優秀だ。誰にも察知されず、表舞台には決して姿を現さない。
今の彼女たちは闇の住人だ。舞台裏に居座り、表舞台には立たず、間接的に物事に介入し世界を都合のいい形へ作り変えていく秘密組織。そんな今のテンプル騎士団を、シャーロットはなんだかんだで気に入っていた。
研究がしたいといえば資金を好きなだけ割いてくれるし、戦闘人形の助手もつけてくれる。同志ボグダンの懐の深さには感謝してもしきれない……だからこそ結果を出さなければならないのだ、とシャーロットは使命感もまた感じている。
『同志シャーロット、昼食をお持ちしました』
「ん、ご苦労」
シリコン製の人工皮膚に覆われた手のひらを差し出すと、適当にピックアップしてきたどこかの誰かの肉声を再現して喋るロボットの助手は、その手のひらの上に小さな錠剤を3つ置いた。
栄養サプリメントだ。これだけで一日に必要なカロリーと栄養素が摂取できる。
生まれつき味覚障害を持つが故に、食事という行為に楽しみを見いだせなかったシャーロットにとってはこの方がいいのだ。手間暇かけて調達した食材を、これまた手間暇かけて調理しじっくりと味わうなど、彼女には理解が出来ない事である。そんな時間と金があるならば研究に勤しみ、頭の中にある構想を現実のものとするのが最優先事項だ―――根っからの研究者気質のシャーロットにとって、非合理的なものは全てノイズでしかないのである。
水を使ってサプリメントを呑み込み、溜息をつく。
身体は機械だが、首から上は生身だ。脳にも栄養を送らなければならないから、機械の身体になったと言っても栄養の摂取が必要である事に変わりはない。
いつかは首から上も機械化してしまいたいな、と考えるシャーロットの元を、テンプル騎士団の高官用コートに身を包んだ人物が訪れたのを彼女はすぐに察知した。
ボグダンだった。
「おや、これはこれは同志ボグダン」
「サンプルはどうだ」
「非常に有用だよ。これさえあれば研究は飛躍的に進むはずさ」
「それはよかった」
そう言いながら、シャーロットは背後にある培養カプセルの方を振り向く。
毒々しい、薄緑色の培養液に満たされた強化ガラス製のカプセルの中。
その中にはびくびくと脈打つ小さな肉片が浮かび―――徐々にその面積を増やしつつあった。
「それにしても、血盟旅団はもう無視は出来ん。いずれ直接対決する事になる」
「構わないよ。その時はぜひボクを前線に配置してくれたまえ?」
あの害獣には借りがあるからねぇ、とシャーロットは目を細めた。
ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフ―――生まれて初めてシャーロットに敗北の屈辱を味わわせた獣人。あの時からずっと、彼女の腹の奥底では復讐心が煮え滾り続けている。
ミカエルを殺しても、きっとそれは晴れる事はないだろう。死体を分解して、臓器、骨、筋肉から神経に至るまで徹底的に解体して、一つ一つをホルマリン漬けにして標本にでもしない限り、この復讐心は延々と彼女を内面から焼き続けるのだ。
その時が待ち遠しくて仕方がない。
「それはいいが、品種改良はミスるなよ」
「それはもちろん、細心の注意を払っているからねェ」
培養カプセルの中に浮かぶ肉片。
小さな、小指ほどの大きさだったそれは再生を続け、やがて親指ほどの太さにまで成長するや、その外側に白い外殻を形成し始めた。
白く、重厚で、そして繋ぎ目から桜色の光を漏らす特徴的な外殻。
ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフに撃たれ生命機能を停止したかに見えたそれは、しかし未だ生きている。
死してなお、生きているのだ。
さすがは伝説の竜、とシャーロットは呟き、両手を大きく広げた。
「さあ、早く大きくなってママに元気な姿を見せてくれたまえ」




