ザリンツィクの闇
「遅いわねえ」
キッチンに作り置きしてあったコロッケを平らげ、シャワーも済ませて俺の寝室にやってきたモニカが、我が物顔でコタツに両足を突っ込みながら窓の外を見つめそう呟く。
そろそろ日付が変わる時間だ。尋問とやらが難航しているのか、それとも何か想定外のアクシデントが起こったか……いずれにせよ、パヴェルの帰りは遅い。
「何かあったのでしょうか」
「……多分そうだろうな」
仲間の身に何かが起こった可能性がある―――危機的状況でありながら、俺は取り乱すことなく冷静に分析していた。
例の転売ヤーの連中が武装していた事、金庫の中に既に金が無かった事から推測すると、奴らの背後に何らかの組織が控えているのは十二分に有り得る。もしそれが事実であったと仮定すると、その組織の尻尾が外部の第三者に掴まれかかっている今、組織は間違いなく証拠の隠滅に動くだろう。
その場合、標的となるのはヘマをした転売ヤーの連中と―――奴らから首尾よく情報を吐かせたと思われる、パヴェルのみ。
「良いのですか、助けに行かなくても?」
「俺たちに何ができる?」
クラリスの問いに、事実を添えて簡潔に答えた。
パヴェルは強い。俺たちなんかとは経験年数が違う。俺たちよりも長く戦場に居て、あらゆる状況を経験してきたベテランだ。Sランク冒険者にまで上り詰めているのだから、その実力は決して伊達ではない、それは確かである。
それに―――もし組織からの刺客に狙われているのだとしたら、アイツの事だから列車に真っ先に逃げてくる、という事は無いだろう。こちらの拠点を敵に露見させないため、倒すか振り切るかしてから戻ってくるはずだ。
今ここで俺たちが動いたら、パヴェルの考えを台無しにするようなもの。
確かに助けに行けるなら行きたいが……足を引っ張る事になりかねない以上、黙ってここに居るのが一番なのだ。
死ぬなよ、パヴェル。
アンタの事はまだまだ頼りにしてるんだからさ……。
命を狙われている―――絶体絶命と言っても良い状況なのに、そんな状況すら楽しんでいる自分に気が付いた。
殺すか、殺されるか。そのスリルはすっかり身体に染み付いていて、他の快楽ではなかなか上書きできない。そもそも忘れられるわけがないのだ。あの時、散々渡り歩いてきた戦場で感じたあの感覚。それはまだ自分の身体の中で、心の中で、頭の中で生き続けている。
呼吸を整えながら敵の気配を探り、大方の位置を予測する。ガチャ、という特徴的な、金属音にも似た足音でその予測があっているかどうかの答え合わせを行い、多少の誤差はあれど正確に敵の位置を特定する事に成功する。
埃を被った冷たい廃工場の中には工具が散乱していた。機械を組み立てる工場だったようで、天井には組み立て途中で放置された何かの装置(エンジンか?)がチェーンで吊るされたまま放置されている。
傍らに放置されている錆だらけのスパナに手を伸ばし、それを思い切り放り投げた。ぐるぐると回転しながら飛んでいったスパナはうっすらと埃の積もった床に激突し、ガツンッ、と大きな金属音を奏でる。
敵の気配がこっちを向いた。今の音に気付いたのだ。
ガチャ、ガチャ、と金属音のような足音が近くなってくる。こちらがちらつかせた餌に、どうやら相手は食いついてくれたようだ。その餌に鋭利な釣り針が仕込まれている事にも気付かずに。
工場の扉が吹き飛び、その奥から例の黒服の追手が姿を現した。背後にある割れた窓からは銀色の月が覗き、その光に照らされる姿はまるで地上に降臨した天使を思わせる。
”天使”、ねぇ……悪魔にとっては最大の敵だ。
敵の姿をはっきりと視認して、にやりと笑みが浮かぶのが分かった。
時折、この身体が本当に自分のものなのか疑いたくなることが多々ある。考えるよりも先に身体が動く、という場面が常人よりも多ければそうも思うだろう。まるで外部の誰かと一つの身体を共有しているような錯覚を覚えずにはいられない。
工場の広間、おそらくは機械部品を組み立てるラインがあった場所へやってきた襲撃者は、床に落ちているスパナをそっと拾い上げた。周囲の埃の堆積から、そのスパナが元々そこにあったものではなく、何者かによって放り投げられたものであることに気付いて周囲を見渡し始める。
なかなかの洞察力―――相手もまた、只者ではないらしい。
それなりに経験があるようだが、もう遅い。
息を吐いてから物陰を飛び出し、PL-15を構えた。足音で勘付いたのか、それとも呼吸音か―――襲撃者も俺の存在に気付き、右肩に抱えていたAK-74Mの銃口をこちらへと向けてきた。AK-74から形状の変わったフラッシュハイダーからマズルフラッシュが迸り、東側初の小口径弾薬たる5.45×39mm弾が荒れ狂う。
ヒュン、とそのうちの一発が頬を掠めた。一歩間違っていれば右の頬を持っていかれていただろう。更にもう一歩間違っていればヘッドショット、終わりである。
そのスリルに快楽を覚えながらも、銃口を上に向けた。
狙いは襲撃者―――では、ない。
引き金を引くと同時に、薬室の中の9×19mmパラベラム弾が目を覚ます。およそ1世紀ほどの長い歴史の中で改良が繰り返されてきたそれは、老兵と侮るにはあまりにも獰猛すぎた。あらゆる火器の使用弾薬として選定されている事からも、それが伺える。
スライドが後退、ライフル弾よりも優しい反動が腕の中を突き上げる。後退したスライドから空の薬莢が放り出され、埃の堆積する床へと回転しながら落ちていった。
続けざまに3回、引き金を引く。ガンガンガンッ、と銃声が響き、天井で火花が4回ほど散った。
それで十分だった。この勝負を決めるには。
俺が狙ったのはあの追手ではない。それはさっき、9mm弾の銃撃が弾かれた事から分かっている。あの追手に9mmパラベラム弾では力不足である、と。
銃弾が通用しないというのなら、単純な質量で勝負を付けるだけの事。
俺が狙ったのは―――天井に吊るされている大きなエンジン、それと天井を結ぶチェーンだった。
チェーンを天井に固定していた錆だらけの金具が、4回の銃撃で弾け飛ぶ。車に搭載するにはあまりにも大きく重いエンジンは支えを失い、重力の誘惑に乗って真っ逆さまに床へ―――何も気付かずに銃撃を続ける、追手の頭上へ。
「頭上注意、だ」
ごしゃあっ、と金属が潰れる嫌な音が盛大に響き渡った。追手は落下してくるエンジンに気付く事無く銃撃を続け、ついに最後の瞬間まで回避することも無かった。
その結果がこれだ。落下してきたエンジンに押し潰され、こんな埃まみれの床の上で無残な骸を晒す、余りにも酷い末路。
念のため銃口を向けたまま、落下したエンジンの近くへ駆け寄った。
さすがに即死だっただろう。床に落ちたエンジンの下からは、彼が身に纏っていたコートの一部や手足、そして血のような紅い液体が覗いている。
いや、これは……?
床へじわじわと広がっていく血を見ながら、違和感を覚えた。
―――人間の血とは、こんなにも透き通っているものだろうか?
人間の血ならば今まで気が狂うほど見てきた。質感的には赤ワインが近く、それをもうちょっとトマトっぽくしたような、そんな感じのものだ。けれどもこの床に広がりつつある血は人間のものにしては随分と”透き通っている”ように思える。
赤く濁っただけの水のようだ。
「!!」
次の瞬間だった。
エンジンの下から覗く襲撃者の手足に変化が生じた。第二形態に変身したとか、そういうのではない。それはそれで面白そうだが。
手足に装着している金属の装甲―――それの表面に、じわりと赤錆が浮かび始めたのだ。その赤錆は瞬く間に金属の装甲全体を侵食すると、ボロボロに風化した装甲を崩壊させていく。傍らに転がるAK-74Mも同じように変色し、錆色の粉末へと姿を変えつつあった。
いや、変化が生じたのは装甲だけではない。床に広がりつつあった随分と透明な紅い血も急激に乾燥したかと思いきや、それも赤錆の浸食を受けて変色していき、やがて装甲共々錆色の粉末へと成り果てていく。
1分足らずで、俺の目の前から襲撃者の痕跡が消えた。
残ったのは落下したエンジンと、その周囲に堆積した錆色の粉末のみ。
「……」
痕跡は残さない、か。
対象の暗殺に失敗した人間に、帰る場所は無いという事だ。
いや……そもそもこいつは、人間だったのか?
床にしゃがみ、堆積した粉末を手で摘まみながらそんな事を考える。
呼吸している様子もなかったし、感情の動きも感じられなかった―――後者ならば分かる。一流の暗殺者は自分の感情を押し殺し、ただただ対象を効率的に殺すだけの殺戮マシーンに自分を変えられるからだ。
だが、前者は?
どんな殺人鬼でも、呼吸までは誤魔化せない。皮膚呼吸? あんなにガチガチに厚着した状態で、そんなものに期待できるというのか?
採取した錆色の粉末を空の酒瓶の中に収め、目を細めた。
―――ひょっとして、こいつは。
頭の中に浮かんだ疑念を即座に否定した。いや、そんな筈がない。この世界でそんな事があっていい筈がない。
しかし―――そうだというなら、それでしか説明がつかない。こればかりは明らかに、この世界の人間が残していったテクノロジーとは技術体系そのものが違う。
踵を返し、とりあえず工場を離れることにした。車の盗難にさっきの物音、ここに憲兵隊がやって来るのも時間の問題だろう。車の窃盗犯として逮捕されるなど、いくら何でも笑えない。
とりあえず、早いところ列車に戻るとしよう。
ミカたちも心配しているだろうから。
朝っぱらから、何とも胸糞の悪いニュースを聞いた。
赤化病の流行の真相―――ザリンツィクの口減らしのため、貴族たちが敢えて拡散させたウイルスによるものだという、信じがたい情報。そしてそれに便乗し、特効薬の転売を行っていた連中。どいつもこいつもクソ野郎だ。
「とはいえ、それ以上の情報は引き出せなかった」
朝食の皿を洗いながら、パヴェルは申し訳なさそうに言った。
「気にすんなって。それより、パヴェルが無事に戻ってきてくれてよかった」
尋問が終わった後、何者かに襲撃されたらしい。
おそらくは推測通り、転売ヤー共の飼い主から送られてきた刺客だったのだろう。組織の尻尾を掴もうとするパヴェルを消し、自らの秘密と利益を守るために。
しかし奇襲であるそれに気付き、それどころか刺客をあっさり返り討ちにしてしまうこの男は本当に何者なのだろうか。
「嬉しい事言ってくれるじゃないの」
「そりゃ仲間だからな」
胡散臭いところもあるけど、彼は大事な仲間だ。
助けに行ける状況じゃなかったのが歯痒いところではあったけど。
「まあ、まだまだ冬はこれからだ。ザリンツィクには来年の春まで滞在しなきゃならんから、どの貴族がこの計画に加担したのか、それも含めて色々と調べてみる。お前らは冒険者としての仕事に精を出してくれ」
「わかった」
そういえばそうだった。俺らもそろそろ冒険者ランク上げないとな……いつまでもEランクのままではまともな収入も入ってこない。せめてCランクを目指したいところだ。
ちなみにAランクやSランクの依頼ともなればかなりの金額の報酬になるらしい。強盗より儲かるだろうか?
「行こうぜクラリス、モニカ」
「はい、ご主人様」
「仕事? いいわ、このあたしが付き合ってあげる」
しばらく情報収集はパヴェルに任せよう。俺たちは”表の仕事”もきっちりやらなければ。
壁にかけていたコートを羽織り、仲間と一緒に列車を出た。昨晩の雪のせいでレンタルホームに降り積もった雪は更に厚みを増していて、ブーツで地面を踏み締める度にザクザクと音が聞こえてくる。
こんな雪でも、まだ列車の運行は続いているらしい。キリウ方面へ向かう貨物列車がホームを通過していくのを見て、そう思った。運行が止まるレベルの雪が降る前に少しでも物資を届けようという、鉄道関係者たちの努力には頭が下がる。
改札口を抜けて駅を出た。大概の冒険者管理局は駅の近くにある事が多い。列車で移動する冒険者も多く、彼らがアクセスしやすいようにという配慮からだ。駅から徒歩10分以内の距離にあるのが一般的で、ザリンツィクにある管理局もその例外ではなかった。
中に入ると、コートを着ていると少し暑いかなと思ってしまうほどの暖かい空気が俺たちを出迎える。赤化病の流行の関係か、やはり中にいる冒険者の数はそれほど多くなかったが、裏を返せばそれだけ仕事が残っているという事。今が稼ぐチャンスでもある。
真っ先に掲示板の前へ向かい、依頼書をチェックした。やはり依頼がたっぷりと残っている。一般的な魔物の討伐がメインだけど、中にはちょっと変わった依頼もあった。
【ハーピーの卵の回収】
卵……卵か。
クライアントはザリンツィクのとある労働者。どうやら昔食べたハーピーの卵の味が忘れられないらしく、しかしもう冬だから店にも並ばないし商人も扱わない。自分で取りに行くか、冒険者に依頼するしかないからこうして依頼した、というものだ。
「何それ? 卵回収?」
「ハーピーの卵……美味しいのでしょうか?」
「食べたことは無いけど……結構美味しいらしいよ、サイズもデカいから食べ応えもありそう」
とはいえ、ハーピー関連の食材は好き嫌いが分かれる。
一番の要因はハーピーそのものだろう。人間の女性と鳥を足したような外見なのだが、それ故に人間に近い姿のそれを食用とする事に抵抗を覚える人も多いのだそうだ。そりゃあ、かつての人間たちが生み出した”人と鳥の遺伝子を融合させた人工生命体”という説が一般的となっている魔物となればそうもなるだろう。
「人に近い姿の魔物なんか食えるか!」という人と、「でも美味いじゃん」という人に分かれるというわけだ。
「これにする?」
「報酬金も高いし……いいんじゃない?」
「ハーピーの卵ですか。味が気になりますわね」
報酬金目当てのモニカと、卵の味を気にするクラリス。仲間の性格がはっきりと分かったところで、俺はこの依頼を引き受けることにした。
最近は色々と社会の裏を覗きすぎた。たまには平和な仕事もいいだろう。




