死者からのヒント
その威容を目にした騎士団の兵士たちは、皆目の前で十字を切り、あるいは手を合わせ、あるいは自分の民族の言葉で、信仰する神に祈った。
列強諸国の中でも軍事大国とされるノヴォシア帝国、その精強な騎士団であっても怯んでしまうほどの威容―――大英雄たちが死闘の果てに封印へと追い込んだ伝説の邪竜、その”切れ端”はもはや、在りし日のズメイそのものといっても良かった。
地平線の向こうから登る日の光を浴び、しかし未だ暗い紺色の空の下。桜色の光を漏らす双眸を爛々と輝かせながら、全長121mの大怪獣がゆっくりと、ムガラグ街道を突き進んでくる。
先ほど対応した第二十七砲兵連隊に代わり、現地に展開した第三十六砲兵連隊の指揮官は、自分はとんでもない貧乏くじを引いたのだという事を痛感していた。それなりの地位の貴族出身である彼は既に、両親が苦心して築き上げたコネの恩恵を受けて出世は生まれながらにして決まっており、特に何も問題を起こさなければ収まるべきところに収まる人生が待っていた筈だった。
完璧に整備されたレールの上の人生。面白味はないが、しかし何事もとんとん拍子に上手くいく毎日。そんなある日突然命じられたのが、指揮下の砲兵隊に臨時編成の予備役部隊を組み込んだ部隊を引き連れムガラグ街道へと展開。ゲラビンスクへと北上するゾンビズメイに対し遅滞戦闘を行うべしという、無情極まりない任務であった。
もちろん彼に実戦経験はない。机上演習や大規模演習をこなす程度であり、領土問題を抱えている列強国との小競り合いはおろか、国内の魔物討伐にすら出撃した事がないという有様だった。
結局のところは人身御供なのだ、という事を理解すると、彼はこの作戦を命じた上官たちを呪った。連隊を丸ごとゾンビズメイの餌食とし肉の壁に仕立て上げた帝室を呪った。
しかし今更離反するわけにもいかない。やるべき事をやるだけだ。
ごう、と頭上を飛竜部隊がV字型の編隊を組み通過していく。イライナ地方原産の飛竜『ズミール(※イライナ語で【ズメイの仔】を意味するが近縁種などではない)』たちの首元にあるラックには爆弾が満載されており、相手が魔物の群れであれば勝利を確信できる布陣であった。
だがしかし、相手はゾンビズメイ―――彼らは知らぬ事だが、対消滅爆弾の一撃に耐えるどころかそのエネルギーを吸収、更なる変異を遂げた存在である。
飛竜部隊が先手を打った。まるで天を舞う猛禽類が獲物を見つけて仕留めにかかるかのように、果敢な急降下を敢行したのである。命知らずの急角度の急降下に後続の竜騎士を乗せた飛竜たちも続いた。
鞍にあるレバーを引き、隊長を乗せた飛竜から爆弾が投下される。ふわり、と飛竜が軽くなるや、翼を大きく広げてブレーキをかけつつ上昇に転じる。
しかし隊長が―――いや、飛竜隊が無事に上昇に成功する事は無かった。
唐突にゾンビズメイが巨体を捩ったかと思いきや、回転する勢いを乗せた長大な尾を、さながら野球のバッターが大きくバットを振り上げるかのような―――急角度のアッパースイングで振り上げたのである。
巨体に見合わぬ速度に、しかし回避も何もできる筈がない。
猛烈な速度で振るわれ、推定体重45000t(変異を繰り返して巨大化しているためそれ以上と推測される)もの重量を乗せたその一撃を前に、飛竜部隊は文字通り蹴散らされた。
真っ白な尻尾の薙ぎ払い。空中に紅い飛沫や肉片らしき小さな物体が舞うのが、砲兵隊の陣地からでもはっきりと見えた。
飛竜部隊がやられる直前に投下した爆弾が命中し爆発するが、しかしそれは鋼鉄の城門に雪玉を投げつけているに等しい。純白の、そして表面にうっすらと桜色の幾何学模様を浮かび上がらせたその外殻には傷一つついていない。
『ギャオォォォォォォォォォォンッ!!!』
自らの力を誇示するためか、それとも宣戦布告のつもりか。平原の向こうから歩みを止めず、ゆっくりと接近してくるゾンビズメイ。
砲兵隊の心は、とっくに折れていた。
「れ、連隊長……!」
「狼狽えるんじゃあない……ほ、砲撃用意だ!」
「しかし!」
「時間を稼げればいい!」
果たして時間稼ぎになるものか。
大型の測距儀を手にした観測要員が標的までの距離を算出し始めたその時だった。
歩みをいったん止めたゾンビズメイ。その大きく開かれた口腔の内に、白い泡のような光が充填され始めたのである。
総員退避、と連隊長が叫んだ頃にはもう既にすべてが遅かった。
勢いよく吐き出された純白の対消滅エネルギー。圧倒的なまでの破壊の奔流に全てが押し流され、逃げ遅れた砲兵連隊は大地諸共深々と抉り取られて、この世界に痕跡すら残さず消し去られていたのである。
1889年 6月18日 午前4時37分
第三十六砲兵連隊及び第一〇八予備役歩兵部隊 全滅
戦死者5500名 生存者無し
頭上には、青みがかった夜空を背景に無数の星々が浮かんでいる。
紅い星や蒼い星、眩い光を放つ星や、他の星と共に星座を描く星たち。その在り方は多種多様で、時折きらりと束の間の輝きだけを遺して去っていく流れ星の刹那的な光が、代わり映えしないのではないかと思ってしまうような星空にアクセントを彩る。
その中の1つが、落ちてきた。
赤々と炎を纏い、大気圏突入時の熱で焼かれながら―――しかしここから見るとまるで線香花火のようで、実際のスケールと自分の目に見えるスケールの乖離っぷりに少し笑えてくる。
やがてその星は水平線の彼方、先ほどからどこまでも広がる海のどこかへと落ち、その役目を終えた。
畳一畳分ほどしかない、夜の海原にぽつんと浮かぶ島……いや、この程度の大きさで”島”を名乗って良いものか、考えさせられてしまう。
何気なく、足元の暗い海原を覗き込んでみた。
水面の向こうにも星空が浮かんでいた。360度、様々な星たちが埋め尽くす天然のプラネタリウム。
顔を上げた。
先ほど、流れ星が落ちた辺りだろうか。どこまでも続く夜の海の一角にいつの間にか石畳で舗装された、同じく畳一畳ほどの足場があって、その上には橙色の光を放つガス灯と……それから、誰かが立ってこっちに手を振っている。
いや、それは人間ではなかった。
オークだ。
オリーブドラブ色の肌に鋭い牙、豚に似た鼻を持ち人間を襲う魔物、オーク。今まで何人もの農民や旅人、それから冒険者がその餌食になったのかは知れないが、しかし今ばかりはそのオークが、少なくとも俺の目には恐ろしい存在とは映らなかった。
ゾンビズメイがヤバい相手だから感覚が麻痺したとか、そんなのではない。
分かるのだ。そのオークが決して敵などではなく、短い間だけではあったが旅路を共にした大切な”友人”である事が。
だから俺も、笑みを浮かべながら大きく手を振り返してやった。
成仏できたかい、と親し気な笑みを浮かべながら。
安らかに眠れたかい、と死者の国へと旅立った友達の身を案じながら。
もちろんそれは夢だ。
瞼を開けると、目の周りがぐっしょりと濡れていた。それは閉じた瞼の間から溢れ出して、側頭部を伝って枕に小さな染みを作っている。
久しぶりだ……まさか彼が、ヴァシリーの姿を夢の中でまた見る事になるとは。
彼とはあんな形での別れになってしまったし、今までずっと俺の事を恨んでいるのではないか、呪っているのではないかと思っていたが……あんなに元気に腕をブンブン振ってくれたのだ、満足いく結果にはならなかったが、彼もその運命を受け入れているのかもしれない。
ベッドから起き上がると、傍らの小さな机には水の入ったコップがあった。クラリスが用意してくれたものなのだろう、そういえば喉がカラカラだ。
喉の渇きを癒しながら、彼の事を思い出す。
ヴァシリーという少年が、中身は獣人でありながらオークの身体を持って生まれてきたのは、その原因を辿るとズメイに行き着く。
彼の祖先は当時アラル山脈付近の村に住んでいて、その際に傷つき封印されたズメイが遺した血がその呪いによって”竜の血”と化し、あらゆるものを焼き尽くし、生命力を吸い尽くし、または永遠に消えない呪いを刻みつけながら、火砕流のように全てを呑み込んだ。
ヴァシリーの祖先もそれに巻き込まれ、呪いはその時は発症しなかったものの、何代も先のヴァシリーの世代になって呪いが発症―――彼は獣人の魂を持ちながら、しかしオークの肉体を持って生まれてしまったが故に周囲から迫害を受けていた。
そして彼は、全ての生命を在るべき形に戻すと言い伝えられている『生まれ変わりの泉』に希望を見出し、1人孤独な旅をしていたのである。
彼もまた、ズメイの被害者なのだ。
「ああ、目を覚ましたのですね」
「うん……みんなは?」
「会議室に集まって作戦会議をしていますわ」
それはいかん……団長たる俺が寝て遅刻したとなっては示しがつかない。
目の周りに付着した涙を拭い去って、彼女と共に自室を後にした。
客車の1号車、その1階にある広間(元々は2階同様に寝室があったのを1部屋遺して全部ぶち抜いてパヴェルが用意したエリアだ)には既に仲間たちが集まっており、立体映像投影装置で再生されているゾンビズメイとの映像を見ながら色々と意見を交わしているようだった。
「対戦車兵器が利かないとなると……」
「聖水も効果が薄いのでは?」
「アレはどう? ブレス吐いて外殻が開いてる間に、その内部にミサイルをぶち込むとか」
「通用はするだろうが決定打になるか? すぐ再生して終わると思うが」
「うぐぐ……」
「ごめんみんな、遅れた」
そう言いながら会議の輪に入ると、重かった空気が少しだけ軽くなったような気がした。
「パヴェル、今の状況は?」
「ゾンビズメイはあの後、ムガラグ街道に展開した帝国騎士団第三十六砲兵連隊と、動員されてきた予備役の第一〇八歩兵部隊を全滅させて第二防衛ラインを突破、現在は第三防衛ラインに迫っている。ゲラビンスクの民間人の避難は終了、最終防衛ラインの構築と対消滅爆弾による飽和攻撃のための部隊も展開しているが……この様子じゃあ望み薄だな」
そう言いながら、パヴェルは立体映像を切り替えた。
蒼い光の粒子がゲラビンスク周囲に構築された防衛ラインと、接近してくるゾンビズメイの侵攻ルートをハイライト表示し始める。第二防衛ラインは突破され、今は第三防衛ラインの守備隊が粘っている状況だ……第三防衛ラインからゲラビンスクまでの距離は僅か75㎞、もう目と鼻の先である。
「皇帝が戦力を逐次投入するからよ」
呆れたような、けれども確かな憤りを含んだ声でカーチャが言った。
確かに皇帝陛下の対応はどれもこれもが後手に回っていた。仕方がない事とはいえ、戦力を小出しにして投入、それで食い止められないと見るや対消滅爆弾で一挙に殲滅を図るがそれも不発。今は各地から大慌てで兵力をかき集め、遅滞戦闘を行わせながら対応策を練っているところか。
相手が想定外の力を持つ怪獣だった事と、情報伝達システムが未発達であるが故の遅さが生んだ惨状ではあるが、もう少し何とかならんかったのか。
「むぅ、どんな攻撃を叩き込んでも変異してしまう怪物か……厄介でござるな」
「こんなに変異してしまったら一体どんな怪物に成り果てるやら」
全くだ……死んだ存在でありながら微かな”生”まで抱くに至り、更に変異を続けて怪物へと変貌していくゾンビズメイ。生命としての在るべき形から大きく逸脱していて、元が何だったのかはもう名前と身体的特徴に、微かな名残を遺すのみである。
いったいどうすれば、と頭を悩ませていると、一体何がどうしてそうなったのかは分からないが……先ほど見た夢の一幕がフラッシュバックした。
水平線のはるか向こう、星空と同じくらいの星を抱いた漆黒の海原の上にポツンと浮かぶ足場。1本のガス灯が備え付けられたそこで、ぶんぶんと大きく手を振るヴァシリー。
あれは親しい友人に向かって挨拶のつもりで振っていたようにも見えるが、今思ってみると何か……こう、忘れかけている”何か”に気付いて、こっちだよと合図しているようにも思えて……。
「……そうだ、そうだよパヴェル!」
「な、なんだよ……どうしたんだミカ」
「パヴェル、姉上のところには動員がかかってるのか?」
「え? ああ、さっき騎士団の士官と話をしてきたが、イライナ地方の部隊にも動員をかけたらしい。今、お前のとこの姉ちゃんが兵力を率いてそろそろエルソンに―――」
「―――大至急コンタクトを取れないか!?」
興奮気味に言うと、パヴェルはびっくりしたように目を丸くした。
「お、おう……できん事はないが、何だよ……名案でも浮かんだのか?」
「ああ、この方法ならあるいは……!」
全ては、今は亡き友人が―――ヴァシリーが教えてくれた事。
無念の内に死んでいった友人が、最善の一手を教えてくれたのだ。
これを使えば、きっと……!
「―――倒せるかもしれないんだ、あの化け物を!!」




