死の概念
「うわ、何よこの臭い」
パヴェルの研究室の室内はとんでもない腐臭が充満していて、とてもじゃないけど長時間いられるような環境ではなかった。まるで高温多湿の悪条件の中、密室に大量の死体を長時間放置したような、とにかく顔をしかめたくなる悪臭。
私たち獣人は個人差こそあれど、獣の遺伝子も持っているからなのか、旧人類と比較すると嗅覚や視覚、聴覚の面において特に優れている。それは良いんだけど、敏感な嗅覚はこういう強烈な臭いまで増幅させてしまうから、時折旧人類のように鈍感な嗅覚が羨ましくもなる。
特に犬の獣人である範三にとっては辛いでしょうね……。
パヴェルはそんな猛烈な悪臭の中、研究室内の換気扇を全開で回し、定期的に周囲に防臭スプレー(なんか容器に『爽やかな革命の香り!』なんて書いてあるんだけど何よアレ)を振りかけては、口元に防臭用のフィルターを装着したハーフタイプのマスクを装着して、試験管の中に入っている腐敗した血液に試薬を垂らして振ったり、顕微鏡で肉片を観測したりしている。
毎度の事だけど、彼の万能選手っぷりには驚かされる。戦闘が出来て情報収集や諜報活動、ギルドの売り込みといった経営面でのサポートの他、料理に洗濯、兵器の整備、おまけにミカのえっちな同人グッズの製作まで手掛ける変な人……というのが私の第一印象だったけど、仲間になってそれなりに時間が経ってもその評価は変わらないし、何ならこれからも未来永劫変わる事はないと思う。
でも知ってる? 今でこそ生き生きとしているパヴェルだけど、ミカたちと離れた途端に一気にだらしなくなるらしいのよ……前、カルロスって写真家いたでしょ? 彼が行ってたんだけど、単独行動を始めた途端にウォッカを浴びるように飲んで酔っ払っては冒険者と喧嘩に(しかも全員殴り倒してたらしいわよ)なるわ、勝手に人の家の屋根裏に入り込んでは野生のハクビシンを抱きしめてモフモフしながら寝てたり、挙句の果てには喧嘩を売ってきた相手を酔っぱらった状態で巴投げしてゴミ箱にホールインワン、追撃と言わんばかりに胃の中身をゴミ箱にぶちまけて鍵をかけて放置とやりたい放題だったらしいわ。
なんだかんだで誰かに頼られると本気出すタイプなのかもね、この人。
「ああすまん、いたのか」
夢中になってて気付かなかったわ、と言いながら、彼はその辺にある防臭マスクを使うように視線で奨めてきた。確かにこのままじゃ鼻が曲がってしまいそう。
「それは何?」
「ミカ達から届いたサンプルだ。検査すれば何かわかるかもしれないと思ってな」
「で、進捗は?」
「見てみろ」
そう言い、顕微鏡の前を空けるパヴェル。私は首を傾げながら彼のほうに歩くと、アルミ製のプレートの上でメスを使い切り開かれた状態の大きな肉片(あれ腐ってない?)が視界に入った。
顔をしかめながら顕微鏡を覗き込むと、プレパラートの上に乗せられた肉片がアップになる。赤黒く変色したそれは防臭マスク越しにも猛烈な腐臭を鼻腔へと送り込んできたけれど、おぞましいのはそれだけではなかった。
「……動いてる」
そう、動いていた。
プレパラートに乗せられ、細切れにされた小さな肉片が―――アップで見てみるとうねうねと蠢いている。
肉が収縮を繰り返し、うっすらと透けて見える毛細血管も脈動をしているように見えて、普通の生物では決して有り得ないその動きに私は驚きを隠せなかった。
「何よコレ」
「俺も信じられん……が」
すっ、と傍らにある酒瓶に手を伸ばすパヴェル。こんな時にもウォッカを飲むつもりなのかと呆れたけれど、よく見るとそのウォッカの空き瓶にはラベルの代わりにテープが貼り付けられていて、表面にはペンで『ホーリードリンク』と殴り書きがされている。
ああ、アレ多分シスター・イルゼが対ゾンビ対策に聖水とイライナハーブとその他諸々の薬草を調合して作ってたやつね……。
それをスポイトで吸い上げた彼は、それをプレパラートの上にある肉片へと一滴垂らした。
変化が生じたのはその時だった。
ジュウ、と酸が肉を焼くかのように、肉片がホーリードリンクに触れた途端に煙を発したのだ。慌てて顕微鏡を覗いてみると、先ほどまで脈動を続けていた肉片はすっかり焼け爛れて動かなくなっていた。
「何よコレ……」
「ゾンビの肉片……のようだが、明らかにただのゾンビじゃねえな」
「どういう事よ?」
「さっき血液も含めて検査したが、明らかに人間のものではなかった」
「じゃあ何? 魔物のゾンビ?」
ゾンビ化するのは人間だけではない。死体の処理を怠った魔物もゾンビとして蘇り、周辺の生物を襲ってその汚染を広げていくので、発生したゾンビを放置しておくと大変な事になる(だから死体処理を怠った場合には最高で死刑や人権剥奪などの重い刑罰が設定されている)。
「魔物ではあるんだろうが……異様に長いんだよな、染色体が」
「異様に長いって?」
「もしその長さの通りなんだったら、何十万、何百万、何千万……下手したら何億年も……いや、もしかしたらこの肉片の持ち主には寿命という概念がないのかもしれん」
「どういう……事……? それって、じゃあ不老不死って事?」
「解析結果を真に受ければそうなるな」
そんな魔物がこの世界にいるって?
信じられない話だった。だって、寿命という概念がない―――つまり外部からの攻撃を受けない限りは決して死ぬことが無い生物。そんな化け物、小さい頃にお母さんが読んでくれた絵本か、神話の時代の伝承でしか聞いた事がない。
「でも、その寿命の概念がない生物がどうしてゾンビ化を?」
「誰かに殺されたか……その辺は推測するしかないが、これは拙いかもな」
言いながら、パヴェルは手袋を外してポケットからスマホを取り出した。片手で例の『革命の香り』とか書かれたスプレーを部屋中に撒き散らしながら画面をタップ、連絡先の中からルカを呼び出す。
《もしもし?》
「ルカ、休憩中すまない。大急ぎでIT-1の出撃準備をしてくれないか」
《いいけど……いきなりどうしたんだよ?》
「ミカ達がヤバいかもしれん」
《え?》
「とにかく大至急だ。ドラコーン対戦車ミサイルは定数一杯用意してくれ」
緊張感が一気に上がった。
ミカ達が受けた依頼―――音信不通となった観測所の調査任務、その観測所を壊滅させた張本人がそんなにヤバい奴であったならば。
私も腹を括らなくてはならない。
「……カーチャ、お前も準備を済ませろ。A装備で待機」
「……了解」
血盟旅団の歩兵装備には、3つの区分がある。
軽装な順番に『C装備』、『B装備』、『A装備』といった感じにだ。
C装備は最も軽装、街中や居住地を歩く際、必要最低限の自衛用の火器を携帯している状態がこの区分に該当する。コンシールドキャリーのハンドガンとか、大きくてもソードオフ・ショットガンやPDW程度の軽装がこれに該当する。
B装備は一般的な装備の区分。アサルトライフルや分隊支援火器などのメインアームに加えサイドアームを携行した、それぞれの団員に分け与えられた役割の通常装備と言っていい。
そして最も重装となるA装備は、『大物を本気で殺しにかかる装備』。対戦車ミサイルや無反動砲、榴弾砲などがこれに該当し、過去に血盟旅団では私が加入する前に2回だけこの装備の準備が通達された事があるらしい(ガノンバルド討伐とマガツノヅチ討伐がそれに該当するってミカが言ってたわ)。
単なる要領を得ない説明で始まった仕事が、予想外の大事に発展しそうな予感を覚えながら、私は武器庫へと走った。
ミカ……気をつけて……!
「寿命の概念がない?」
《ああ、おそらくそうだ》
先行したドローンにより屋内の安全が確認され、これからいざ突入だというタイミングでパヴェルが知らせてくれたのは、これまでの生物の常識を覆すとんでもない情報だった。
寿命の概念がない……なんだそれは、神話の生物か?
だって俺たちが交戦したエンシェントドラゴン―――マガツノヅチですら寿命の概念はあった。撃てば血を流したし、苦しんだし、そして殺す事が出来た。
生物として生まれた以上、逃れる事の出来ない”死”の概念。それを当たり前のように克服したというのか?
《テロメアが異様に長い……というより、細胞分裂でその長さが減っている形跡がないんだ》
「マジかよ」
《だがお前らが採取した肉片はゾンビ化していた。完全な不死の存在ではない、という事だ》
「それにしたってあの大きさだぞ……」
《こっちでも今、IT-1の出撃準備を進めている》
IT-1―――ソ連のミサイル戦車だ。それをウクライナ製のアップグレードキットやオプロートなどで採用されているパーツを流用、可能な限り近代化改修を施した”血盟旅団仕様”である。
切り札はBTMP-84にヤタハーンの砲塔を移植し車体を延長、装甲に賢者の石を使用した新型複合装甲を搭載した『BTMP-84-120』だが、こちらは3人乗りであるのに対し、IT-1は操縦手と車長兼砲手がいれば運用可能(とはいえ砲手と車長は役割を分ける事の方が望ましい)なので、おそらく列車に残った人員を考慮してIT-1を出撃させる選択をしたのだろう。
「了解した。こちらはこれより屋内に突入する」
《了解、幸運を》
《ご主人様、クラリスは上空で待機していますわ》
「了解した、何か変化があったら知らせてくれ」
《了解》
行こう、とリーファと範三の2人に言い、壁にぶち開けられた大きな穴から観測所の中へと入った。
穴の縁、断面やコンクリート壁から露出している鉄筋にも腐敗した体液や肉片が付着していて、猛烈な腐臭を発している。
その悪臭の洗礼に、この中では特に嗅覚に優れている秋田犬の獣人である範三はついに我慢できなくなってしまったのだろう。口元を押さえるや、盛大に口から虹を吐いた。
「おろろろろろろろろ」
「大丈夫ネ?」
「うぷっ……大丈夫ろろろろろろろろろ」
ダメだこりゃ。
ちょっと待って、範三の吐いた虹の香りと腐臭が混ざってミカエル君もちょっと辛く……うぷっ。
うわぁやだやだ、とっとと済ませてシャワーでも浴びよう。こんなところに居たらそのうち胃袋まで吐き出してしまいそうだ。
キャリコM960Aに搭載したシュアファイアM600を点灯させ、フォアグリップをしっかりと握りながら内部を捜索する。
外がそうだったように、中も酷い荒れようだった。仕事用のデスクにはべっとりと体液らしきものと……なんだこれ、よだれか? よく分からない、赤みがかった粘液が塗りたくられていて、傍らには血まみれのリボルバー拳銃が落ちている。
拾い上げてシリンダーを検めてみるが、どうやらこの古めかしいパーカッション式リボルバー(※コルト・シングルアクションアーミー登場以前の古い形式である)は6発全てを撃ち切っているようだ。グリップは粘液に塗れてべとべとしており、いたるところに真っ赤な指紋(血に塗れた手で握っていたのだろう)が付着している事から、これの持ち主がどんな最期を遂げたのかは容易く想像できる。
惨状に顔をしかめながらリーファの方に視線を向けると、彼女も床に落ちていた血まみれのマスケット銃を拾い上げながら首を横に振った。
「どうするネ?」
「通信室を調べてみよう。何か記録があるかも」
観測所の一番高い建物には腕木通信のための木造アームがある。あれを既定の形に動かす事で、遠方の味方に情報を伝える事が出来る、という仕組みだ。ナポレオンの頃のフランスで生まれた通信方式で、登場した当時はその伝達速度の速さから列強国に普及していったとされている。
ノヴォシアでも使われてたんだな、とぼんやり思いながら、2階へと続く階段へと向かう。
やはりどこにも遺体はない。兵士たちが使っていたと思われる武器の類は落ちているのだが……。
通信室のドアをゆっくりと開けた。
「……」
中には人間の腕が落ちていた……肘から先の部分のみで、粘液に塗れた制服の袖の部分を身に纏い、手の中にはぎゅっと握りしめられた大型ナイフがある。
通信手のものだろうか。おそらくピストルも撃ち尽くし、ナイフという心許ない武器で最期の抵抗を試みたのだろう。この惨状を見ればその抵抗が、さしたる延命措置にすらならなかったのは明白ではあるが。
ドアの傍らに落ちていたそれを跨いで超え、通信室へ足を踏み入れた。
中には確かに書類があった。当時のやり取りらしき記録が残されているようだが、帝国騎士団で採用されている暗号でやり取りしている事と、なにより血と粘液でべっとりと汚れていて、とてもじゃないが読めたもんじゃない。
クソッタレ、と悪態をつきながら、しかし何かの手掛かりになると信じスマホで写真を撮影。記録用紙をバックパックから取り出したプラスチックの容器に収めて踵を返す。
「あれ?」
「どうしたネ?」
さっきドアの近くに落ちていた人間の手が―――消えている。
そう、あのナイフを握っていた通信手の手だ。
床には血まみれのそれを引き摺ったような痕跡が残っている。
やはり何かいる―――そう思いながら息を潜めつつ、キャリコM960Aを構えて部屋の外へと銃口を向けた。
しかしそこには何もなく、腐臭がただただ充満した廊下と階段があるのみだ。
「……」
「ダンチョさん」
「ああ」
ここには、何かがいる。




