大砲都市ゲラビンスク
1899年 6月1日
ノヴォシア帝国 ゲラビンスク郊外
帝国騎士団第107観測所
腐った肉と、血の臭い。
暗闇の中、そっと音を立てないよう気をつけながら足を運んだ。
足元には散らばった書類に砕けた壁の破片、帝国騎士団の制服の切れ端に肉片が散らばっている。いずれもその肉片の持ち主は俺の戦友たちだ―――つい3時間前まではここで勤務し、安物の不味いコーヒーを飲みながら上官の愚痴を溢し合い、クソみたいな毎日の職務を果たしてきた仕事仲間たちだ。
それが皆、いなくなった。
死んでしまった。
アイツのせいで、だ。
あんなものが……あんなものがまだこの世界に居るなんて信じられなかった。だってアレは、大昔に……。
灯りの消えた部屋の中、そっと電話機の受話器を手に取った。なるべく音を立てないよう息を殺し、ダイヤルを回すが交換手の声も呼び出し音も聞こえない。電話線を切断されたのか、それとも観測所内の発電機がダウンしたのか……いずれにせよ、この事は騎士団司令部に是が非でも伝えなければならない。
ならば、と部屋を出た。ピストルを片手に、アイツが廊下に居ない事を確認して通路を進む。
割れた窓の向こうには、すっかり潰れてしまった軍用車の残骸が転がっていた。観測所が保有する軍用車だが、しかし防弾用の装甲に覆われた頑丈なはずのそれは、巨大な何かに思い切り押し潰されたかのように潰れていて、無残な金属の塊と化してしまっている。
別の部屋へと移り、ドアに鍵をかけた。
部屋の中には壁にかけられた記録表と一緒に鳥籠が設置されていて、中には鳩が収められている。
伝書鳩だ。電話などの通信設備に万が一の異常が発生した時の連絡手段として、この時代遅れの産物は未だに現役となっている。そうやって見下したくもなるが、今はコイツに頼るしかないのも事実だった。
ポケットの中からメモ用紙を引っ張り出して破き、手持ちのペンで文字を走らせていく。今すぐに救援が必要である事、そして奴が……あの化け物を何とかしなければならない事を殴り書き、鳥籠の中で首を傾げている鳩をそこから取り出して、細い足に手紙を括りつけた。
「すまないな……頼んだぞ」
窓を開け、鳩を放した。
慌てて翼をばたつかせ、真っ白な鳩が夜空へと飛んでいく。
とりあえずこれでいい……これで司令部が動いてくれれば、俺たちの犠牲も無駄ではなくなる。
しかし……どうしてあんな化け物がここに? だってアレは大昔、大英雄たちの手で……。
安堵し壁に背中を預け、そのまま力が抜けていく足の赴くままに床に座り込んだその時だった。
血のように紅く、そして死神の鎌のように鋭利な形状の三日月が浮かぶ禍々しい夜空。そこへ果敢に飛び立っていった鳩の小さな身体が、しかしどこからか伸びた触手のような何かに絡め取られ、そのまま地上へ引き摺り下ろされるのを俺は見てしまった。
鳩の断末魔と骨の折れる音、羽を毟るような音に肉を噛み砕く音。
望みが断たれ、背筋に冷たい感触が走る。鳩尾の辺りが重くなり、身体中の血の気が引いていくのが分かった。
終わりだ……何もかも。
観測所には魔物の襲撃に備えたそれ相応の備えがあるし、十分な人員と火力も配置されている。しかしアイツには、それすらも通常しなかった……仲間たちが全力をぶつけてもアイツはそれを意に介さず、無慈悲に仲間たちを貪っていった。
あんな化け物が居住地を襲ったら、いったいどれくらいの規模の被害が出るか……。
俺がここを逃げ出して直接伝える、というのもはっきり言って成功の見込みはない。奴はまだ観測所の周囲に居て、餌が残っていないか目を光らせている筈だ。車も無しに人の足で逃げ切れるほど、アイツはノロマじゃあない。
このままでは俺もみんなのように
ぽた、と肩に何かが垂れてきた。
ねっとりとした質感の粘液。
腐敗した肉を思わせる腐臭。
恐る恐る顔を上げた先に、”それ”はいた。
『ア゛ァァァァァァァァァァァァァァァァアァァァ!!!』
「だからハニートーストの方がいいでしょ!?」
「ホットケーキに使うネ!」
「ハニートーストの方がいい! シンプルな方がハチミツの味も引き立つのよ!」
「モニカは分かってないネ! 全ては調和ヨ、バターとふわふわの生地の風味に食感、それにこのハチミツが組み合わさってこそ真の価値が―――」
あー、うん。
客車にある銃座の清掃を終え、さーて朝ごはんでも食べようかと食堂車を訪れたらコレだ。何やら朝から騒がしいなぁ、と思いながらドアを開けたら概ね想像通りの光景が広がっていて、ギャーギャーと食に対しての熱い主張をぶつけ合うモニカとリーファの隣を横切ろうと―――したところで、2人に肩を掴まれた。
振り向いたらそこには笑みを浮かべる閻魔様と阿修羅が……え、なにこれ。
「ねえミカぁ~?」
「ダンチョさ~ん?」
「ぴっ」
身の危険を感じた。
「ミカはハニートースト派よね?」
「ホットケーキ派ネ?」
「ええと、あはは……うん」
どうせこれアレだろ、ウルファで大量に購入したハチミツの使い道についてだろミカエル君知ってるんだぞ。
ウルファを出発して1日。俺たちは今、次の街である『ゲラビンスク』を目指して旅をしている。ゲラビンスクはノヴォシア地方の工業都市の一つで、大砲などの製造を手掛けている。
一応の目的地は”学術都市”ボロシビルスク。しかし旅の目的が『キリウ大公の子孫を探し出す』事に変わった以上、目的地はこの情報次第で左右される事になるだろう。
まあいい、それはいいのだ。
「ねえミカ? ミカなら分かってくれるわよね?」
「ワタシ知ってるヨ? ダンチョさんの舌はよく肥えてるって」
吐息が当たる距離で、しかもよりにもよってミカエル君の敏感なケモミミの辺りで囁く2人。やめてケモミミはマジで敏感だからそういうのホントに。ちょっと馬鹿、吐息吹きかけんな。甘噛みすんな嗅ぐな吸うな。
ロリボで喘ぐ羽目になったらどうするんだと身体を震わせていると、そのやりとりを窓際の席で見ていたカーチャが呆れ気味に言った。
「そんなのコイントスで決めればいいじゃない。2分の1だから不公平も何もないと思うけど?」
「へえ、カーチャにしては良い事言うじゃない」
「それなら公平ネ、はいダンチョさん」
ニコニコしながら10ライブル硬貨を俺に握らせてくるリーファ。表面に今の皇帝であるカリーナの顔が刻まれた銅色の硬貨がミカエル君の手のひら、肉球の上に置かれるが、しかし……。
「はっはっは、やめとけやめとけ」
カウンターの向こうからぬうっと姿を現したパヴェルが、カウンター席に朝食の乗った皿を置きながら言った。
「ミカはどう頑張っても表しか出せないんだ」
「え?」
「どういう事ネ?」
モニカとリーファだけじゃない。窓際の席でアイスコーヒーを飲んでいたカーチャも興味深そうに、両目を満月みたいに丸くしながらこっちを見てくる。
やってやれ、とパヴェルが視線で訴えてくるもんだから、証明するためにも10ライブル硬貨を指で弾いてキャッチした。
手のひらを開くと、そこには皇帝カリーナの顔が刻まれたコインの表が。
え、と驚くモニカの顔を尻目にもう一度。
結果は同じく表だった。
もう一度、もう一度、といった感じで合計10回コインを弾いてはキャッチを繰り返したけど、結果はやはり同じだった。何度コインを弾いても手のひらの上に落ちてくるコインは常に表面のみだ。
「え、嘘……」
「はぇー……」
「解説いたしましょう」
こほん、と咳払いしながら、なぜか誇らしげなクラリスが胸を張る。待ってお前いつからそこにいた?
「ご主人様は幼少の頃から、何故かコイントスを何度やっても表しか出した事が無いのです」
「え、何よそれ」
「幸運ネ……」
「ですから少なくともコイントスでの賭けは成立しませんわ」
でもまあ、クラリスの言っている事はその通りである。
どういうわけか、俺はコイントスで表しか出す事が出来ないのだ。
最初にこれに気付いたのは5歳くらいの頃。軟禁状態の生活に飽きが来て、さて何をしようかなと机の引き出しの中にあった10ライブル硬貨を指で弾いていた時の事だ……何度弾いてコイントスをしても、出てくる面は常に表面のみ。何十、下手したら何百回も繰り返し、コインの種類も1ライブル硬貨に5ライブル硬貨、100ライブル硬貨、500ライブル硬貨など色々試したけれども結果は同じだった。コイントスをする度に、燦然と輝く皇帝カリーナのご尊顔を拝む羽目になったのである。
なんなんだろうねコレ、新手の無駄スキルだろうか。それともミカエル君の幸運ステータスがカンストしているのだろうか(その割には生まれた境遇がアレだったりこれまで辿ってきた旅路が文字通り修羅の道だったのでこの線は薄そうであるが)。
「まあほら、朝飯作ったから食っちまえよ。フレンチトースト」
「「「「わぁい♪」」」」
ハニートーストでもホットケーキでもなくフレンチトースト、これはこれで良い。非常に良い。
溶けたバターとハチミツの甘そうな香りに食欲を刺激された俺たち4人がスキップしながら着席する様子を窓際から見ながら、カーチャがボソッと「単純ね、ホントに……」と呆れ気味に言ったのだが、その呟きは誰の耳にも入る事は無かった。
ゲラビンスクは古くから、大砲の製造を担ってきた工業都市の1つとされている。
その歴史を遡ると旧人類の時代、この世界に火薬がもたらされ、それを兵器として使う事をヒトが思いついた辺りから、この街では大砲の製造が行われてきた。
とはいっても、歴史書によると当時は小さな工場や工房で、職人が1門1門を手作りで作っていた程度なのだそうだ。当然、当時は部品に規格なんて概念は存在しないから同じパーツでも微妙にサイズや厚さが違ったりして、大まかな仕様は合っているものの部品には互換性がない、というのは当たり前だったそうだ。
部品に規格という概念が導入され、更に整った設備と生産体制で大量生産されるようになったのは、ノヴォシアが農業大国から工業大国へと転換するきっかけとなった今の皇帝の統治が始まってからである。
なので大砲製造の歴史は古いが、今のように工場が立ち並ぶようになったのはつい最近、という事だ。
駅の前には大砲と、それを運用する砲兵たちの銅像が設置されている。
それだけではない。駅前の広場、タクシーが車列を成す駐車場の近くにも青銅で作られたと思われる黎明期の大砲のレプリカが設置されており、傍らには大砲の歴史を開設するプレートも用意されている。その周囲でお抱えの写真家に撮影を依頼している貴族は観光で来たのだろうか?
ブロロ、と車道の方を走っていくトラックの車列。荷台には大砲の砲身らしきものが積み込まれている。そのすらりとした砲身と口径の小ささから、おそらくはライフル砲なのだろうなという事は分かった。
あそこにあるレプリカやモニュメントのモデルとなった大砲は、内部にライフリングのない本当に黎明期の大砲だ。この世界では旧人類の遺構からより先進的な設計のライフル砲が発掘された事を皮切りに、各国でああいった小口径で命中精度が高く、弾速も速い事から貫通力にも優れるライフル砲が台頭しつつある。
砲術の歴史も変わる、という事だ。
「とりあえず管理局を目指しましょうか、ご主人様?」
「まあ、そうしようか」
仕事だ、仕事。
キリウに一旦戻っている間、仲間たちはウルファで足止めを喰らう羽目になった(実家の事情とはいえ申し訳ない事をした)。その間の損失分、キッチリ仕事で結果を出して返さなければ。
そうそう、姉上から聞いた事なのだが……イライナ独立の暁には、俺たち姉弟にはそれぞれ領地を与えその統治を任せる計画もある、との事だ。もちろんその中には晴れてリガロフ家の姉弟としてカウントされるようになったミカエル君も含まれているようで、キリウを発つ前に姉上からも『いずれお前には領地を任せたい』という話を直接聞いていた。
以前までは、この旅が終わったらアレーサに住んでリガロフの姓を棄て、母方の姓となる”パヴリチェンコ”を名乗るつもりではあったが……こういう結果と相成ったのだ、少し考え直してみてもいいだろう。
もし領地を任される事になったら、母さんやお祖母ちゃん、それからサリーにも良い暮らしをさせてあげよう。豪邸とかプレゼントしたら喜んでくれるだろうか?
まあいいや、とりあえず仕事だ仕事。
「ん」
「ご主人様?」
標識にあった”冒険者管理局”の文字の案内通りに歩いていた俺は、駅前広場の片隅にひっそりと佇む青銅の像の前で足を止めた。
そこには石を切り出して作られた石碑と一緒に、3つの首を持つ巨大な竜の象がある。3つの首にはそれぞれ大きな角と鋭い牙があり、背中にはその巨体を支え、また変幻自在に空を舞う事を可能とさせる巨大な翼があった。
石碑にはこう刻まれている―――『邪悪なる竜、ズメイとの戦いに身を捧げた全ての勇敢な戦士に捧ぐ』と。
そう、あの青銅の像はノヴォシアの、そしてイライナの歴史にも名を記されているエンシェントドラゴン、ズメイのものだった。
イライナ語で『ズミー』、ノヴォシア語で『ズメイ』と呼ばれるそれは、多くの街を焼き払い、しかし最終的には大英雄イリヤーとその盟友ニキーティチの手によって、このゲラビンスクからほど近い位置にあるアラル山脈での最終決戦で敗北、封印されたとされている。
その前哨戦となった『ゲラビンスクの血戦(※書籍によっては”ゲラビンスクの死闘”とも)』において、ズメイをアラル山脈に追いやったのはノヴォシア・イライナ・ベラシア連合軍の砲兵隊による尽力があったからこそである、と多くの歴史書に記されている。
恐ろしいのは、ズメイはあくまでも封印されただけであり、死んだわけではないという事だ。
こんな恐ろしい化け物を相手に、ウチのご先祖様はよく戦いを挑む気になったものだと考えてしまう。
まったく、いつの時代も英雄豪傑には頭が上がらない。




