二者択一
エカテリーナが戻った、という知らせを耳にしたオリガは、飛び出すように自分の部屋を出て屋敷のエントランスへと向かった。
大金を払った甲斐があったと安堵する一方、今まで親の命令には従順で手のかからない娘であったエカテリーナの謀叛には憤りも覚えていた。今まで大人しく言う事を聞き、親の言う通りに動いていたというのに、いきなりどうしたというのか。それもよりにもよって冒険者と駆け落ちをしようとするなど、公爵家の娘にあるまじき行為ではないか。
もし外部に知れ渡れば一大スキャンダルだ。リガロフ家にとって最大の綻びになりかねない今回の事件、情報が漏れないよう工作も必要になるであろう。明日から忙しくなるであろう事に頭を悩ませつつも、オリガはエントランスで護衛の兵士と共に帰宅した愛娘の顔を見下ろした。
確かにエカテリーナは帰ってきた。
罪悪感を抱いたような、何とも言い難い表情。まるで親に悪事を告白しようとする子供のそれではあるが、しかし問題はそこではない。
彼女の隣に、オリガにとっては最も汚らわしく、そしてガリエプル川支流、その畔の泥濘に屍を転がしている筈の男が立っている事に、オリガは驚きを隠せなかった。
「どう……して……?」
「母上、彼がエカテリーナを救ったのです」
「どういう……事……?」
おかしい、絶対にありえない。
あの暗殺者たちはまさに、エカテリーナの隣に立つドーベルマンの獣人の男を消し去り闇に葬るために雇った筈だ。それがなぜここに居るというのか。
殺し損ねたというならば分かる。暗殺者たちの実力不足か、それとも相手がそれ以上に腕の立つ相手であったかのどちらかであろう。しかし殺し損ねたその男が、一体どういう理由でこのリガロフ家の屋敷に足を踏み入れているのか?
よもや娘を連れ去った事に対する謝罪でもしに来たというのか。そこまで瞬時に思い至ったオリガではあるが、同伴するアナスタシアの「彼がエカテリーナを救った」という発言が全てを混沌へと引きずり込んだ。
彼がエカテリーナを救った、とはどういう事か。
だって彼は、ロイド・バスカヴィルという男はエカテリーナを誑かし、今回の駆け落ちへと追い込んだ張本人ではないか。英雄の末裔たるエカテリーナを穢した大罪人ではないか。
「まあ、話すと長くなります。どうぞお部屋へ」
そこで詳しくお話ししましょう、と言うアナスタシアの語気に気圧され、オリガは言われるがままに踵を返し、階段を上がって3階にある応接室へと半ば連行されるように歩いた。
部屋に着くなり、「君たちは下がっていい」とアナスタシアが護衛の兵士たちを下がらせる。瀟洒な装飾で縁取られた扉が閉ざされ、部屋の中にはオリガとアナスタシア、ジノヴィにマカール、エカテリーナ、そして件のロイドのみとなった。
「アナスタシア、彼がエカテリーナを救ったとはいったいどういう……」
「ええ、どうやら”何者か”がエカテリーナを亡き者にしようとしていたようでして、あろう事か暗殺者を放ったようなのです。彼の活躍によりエカテリーナは御覧の通り無事です、傷一つありません」
「そ、そう……」
そんなはずはない。
だってあの暗殺者たちは、まさにこの男を消し去るために憲兵の年収に匹敵する300万ライブルという高値で雇ったのだから。
ありえない―――胸中を雄弁に語るオリガの表情を見て悟ったのだろう、息を吐くなりアナスタシアは本当の事を話し始めた。
「―――そういう事にして、彼を祭り上げる事にします」
「なんですって」
「それにしてもやらかしてくれますな、母上」
まあ座ってください、とオリガをソファに座らせ、テーブルを挟んで向かい側にアナスタシアが腰を下ろす。
「私とジノヴィ、それからマカールが軍人や警察組織の人間である事をお忘れか」
「な、何の事です」
「とぼけても無駄です。あの暗殺者、貴女が雇ったものですね?」
「……!」
「まあいい、いずれ明らかになりますよ。今、連中の生き残りを私の部下が尋問中です」
そうじゃなくても、屋敷の中を探せばオリガが暗殺者を雇った証拠も出てくるであろう。
「貴女もご存じでしょう、暗殺者ギルドがどういう存在なのか」
多くの国家において、暗殺者ギルドは存在自体が違法とされている。当然ながら金さえ積めば腕利きの暗殺者を送り込んで要人暗殺ができるためであり、国内での貴族同士の潰し合いを防ぎ、そしてその矛先が王族や皇帝へ向くことを防ぐためでもある。
ノヴォシアも例外ではなく、国内外における暗殺者ギルドの活動、創設、そしてそれらに仕事を依頼する事全てを禁じており、違反者には最高刑で死刑、そうでなくとも人権剥奪等の重い刑罰が設定されている。
要するに重罪だ。
平民だろうと貴族だろうと例外はない。
そして今この場には、貴族に対する捜査権と逮捕権を有する法務省の現役法務官、ジノヴィがいる。
それが何を意味するのか、オリガは瞬時に理解した。
「……まさか、私を訴えるつもり?」
「貴女だけじゃありません、父上もです」
「何ですって?」
「父上も以前、ミカエルを消すため暗殺者を差し向けていますね」
ミカエル、という名を聞いた途端にオリガの表情は険しくなったが、しかしアナスタシアにとってそんな事は関係ない。
勢いに乗せて、一気に畳み掛ける。
「証拠は出そろっています。そしてここには法務官もいる……あなた方2人を告発できる立場にある、と言う事をご理解いただきたい」
「そ、そんな事をしてみなさい」
強がるが、しかしオリガの顔にはじんわりと脂汗が浮かんでいた。
きっと心拍数も上がっているだろうな、とアナスタシアは思った。貴族はなんだかんだでストレスも多く、身体症状が出て倒れてしまう貴族も少なくないと聞いている。きっと今頃母上も動悸を起こしているに違いないと顔色から判断したアナスタシアではあったが、しかし容赦はしなかった。
母上だって、そうだったから。
子供たちに容赦をしなかったから。
「告発なんかしたら、リガロフ家は取り潰しになるわ。英雄の一族が取り潰しなんて不名誉な―――」
「そんな不名誉な行いをしたのはあなた方夫婦です」
そこはお間違えなきよう、とアナスタシアは続ける。
じわじわと事実を告げながら、アナスタシアもまた憤りを感じていた。
なんたる無能か、と。
父も父だが母も母だ。一族の復権のために尽力するのは良い。が、しかし彼女は果たして歴史書を読んだ事があるのだろうか。大英雄イリヤーが当時の皇帝にどのような扱いを受けていたのかを知っているのだろうか。
ズメイ討伐で名を挙げた大英雄イリヤーはしかし、当時の皇帝に疎まれた。一説によると、凶悪な竜を盟友と共に封印したイリヤーは皇帝よりも民衆の支持を集めていたとされている。
一族の没落も帝室からの工作を受けてのものである、という説は根強い。もし事実ならば、権力を強めのし上がっていけばまた帝室に目をつけられるのは必定であろう。
そしてそれは、アナスタシアが胸中に抱く”計画”の観点からも非常に都合が悪い事であった。
「ですがまあ、我々には育てていただいた恩がある」
その言葉を聞いたオリガは安堵したような顔色を浮かべたが、しかしアナスタシアはそんなに生易しい女ではない。
例えそれが、身内であったとしてもだ。
「―――ただ、同じくらい怨もまたあるという事もご理解いただきたい」
「っ!」
これまで唯々諾々と従ってきたのも、全てはこの時のため。
最大の好機に決起するため。
「……どうするつもり?」
「取引をしましょう、母上」
「取引……ですって?」
問うと、アナスタシアは口元に笑みを浮かべた。
「西方のヴィリウに土地を買い、そこに別荘を用意しておきました。良い場所ですよ、高台にあってヴィリウの街を一望できます。春になれば収穫祭の花火も見える……のどかで実に良い場所です」
「貴女……い、いつの間に」
「ご安心を、私の名義で用意しておきました。実家の財産には一切手を付けておりません」
一時期、騎士団内部でも話題になった事がある。
アナスタシアは給料を一体何に使っているのか、と。
当然ながら、帝国騎士団の指揮官ともなれば高給取りだ。それが貴族出身、それも最精鋭部隊たるストレリツィの司令官まで上り詰めたとなればその金額も一気に跳ね上がる。
しかしアナスタシアはどこまでもストイックな性格だ。多少の趣味に私財を投じる事はあれど、その大半には手を付ける事がなかった。
その温存していた私財は、この時のために使ったのだ。
ヴィリウの街から少し離れた高地に土地を買い、そしてそこにひっそりと別荘を建てた。名義はアナスタシアのもので、金も彼女が支払い、更には彼女の部下も口が堅い者ばかりなのだから実家にそれが露見する事もない。
決して安くはない買い物ではあったが、しかし実家を住みやすい環境に作り変えるための投資と思えばなんてことはない。
「護衛の兵士や使用人も付けます。父上と母上にはそちらに住んでいただき、この屋敷と家督はこのアナスタシアが貰い受ける」
「そ、そんな事が……!」
「許される筈がない、と?」
敷き詰められた火薬に、一片の火花が落ちた瞬間だった。
「―――どの口がそれを言うのです? 一族の復権のためと言いながら子供たちに負担を強いた貴女が? 今回の件、あの温厚なエカテリーナが逃げ出してしまうほどだったのです。分かりますか? 貴女が子供たちのため、我ら姉弟のためと思ってやっていた事が、全て我らを傷付けていたのですよ」
一度燃え広がった炎は、全てを焼き尽くすまで止まらない。
オリガの態度が呼び水となって迸るアナスタシアの言葉は、確実に母の心を削り取っていった。
「私がそんな……そんな事……」
「言ってやりたい事は山ほどあります。殺してやりたいと思った事も一度や二度ではない」
詰め寄られる母の姿を見ながら、マカールとジノヴィは安堵する。
本当、姉を敵に回さなくて良かったと。
彼女が自分たちの味方で本当に良かった、と。
「これが私にとっての最大の譲歩です、これ以上は有り得ない。家督を私に譲っていただきたい」
三度目はありませんよ―――アナスタシアの紅い瞳は、力強くそう訴えていた。
事実、これが彼女にとっての最大の譲歩だった。
ヴィリウに建てた屋敷は、このキリウの屋敷と大きさや豪華さはそう変わらない。市街地へのアクセスも容易で、先ほど言った通り高台にあるからヴィリウの街が一望できるし、春になれば収穫祭の花火を特等席で見物できる。
それだけではない。使用人も、そして警備兵も連れて行ってくれて構わない―――何も全てを奪い去ろうというわけではないのだ、という事が彼女の要求の節々から窺い知れる。
姉弟を育て、そして22年間殺したいほど憎み続けた両親への、精一杯の譲歩だった。
「……もし、私が兵を率いて奪還しにやってきたとしたら?」
「その時はあなた方の罪を全て告発します」
「そんな事をしたら、アナスタシア……貴女もただではすみませんよ」
「ええ、そうでしょうね。ですから諸共です」
諸共―――それは恫喝のためのカードであると同時に、自爆スイッチのようなものだ。ひとたび押せば両親は破滅へと向かうが、自分たちもただでは済むまい。地位も名誉も全てを失い、貴族ではいられなくなる。
「なあに、地獄への旅路も大勢の方が少しは楽しいでしょう」
ですからやる時は躊躇なくやります―――恐れを知らぬ言葉の裏には、彼女の確たる信念があった。
「さあ、どうなさるのです母上」
テーブルの上に手を置き、オリガへと詰め寄った。
「考えておく、というのは許しません。時間稼ぎも、この部屋からの退室も一切許可しない。決めてください、今ここで。今すぐに」
「……っ!」
家督と屋敷を長女に明け渡す代わりにヴィリウの別荘へと移り住み、これまでの悪事を全て闇に葬ってもらい平穏に暮らすか。
それとも罪を全て告発され、一族全員で仲良く地獄へと落ちるか。
あまりにも不名誉な二者択一を迫られたオリガは、身体が震えている事に今になって気付いた。
その二つのうちどちらかを選ぶしかないのだ―――少なくとも二度と、元の生活には戻れないだろう。今までのように自分が、ショックのあまり使い物にならなくなった夫に代わって一族の実権を握る今の生活には。
選ぶのであれば前者であるが、しかしそれは今まで築き上げてきたもの全てを手放すに等しい愚行。
かといって後者を選ぶわけにもいくまい。そんな事になれば、死よりも恐ろしい結末が皆を待っている。
選ぶしか、なかった。
選ばざるを得なかった。
この日、初めてオリガは―――折れた。




