最強の手札
「まあ肩の力を抜きたまえよ」
この状況で、よくもまあそんな言葉が出てくるものだ。
エカテリーナから話は聞いていた―――彼女には5人の姉弟がいるという話だ。
文武両道にして完全無欠の才女、”リガロフ家の至宝”長女アナスタシア・ステファノヴァ・リガロヴァ。
氷の魔術の使い手で冷徹なる法務官、長男ジノヴィ・ステファノヴィッチ・リガロフ。
土属性の魔術師にしてキリウの守護者、次男マカール・ステファノヴィッチ・リガロフ。
存在しない”第五の忌み子”―――雷獣、三男ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフ。
エカテリーナは5人姉弟のちょうど真ん中であり次女。付き合っていて分かったが本当に優しく、子供のような無邪気さも併せ持つ大人の女性だ。静かな屋敷の中でピアノを弾いていたり、バレエを踊っていたり、そんな姿がよく似合う。
そんな繊細で儚い印象を持つエカテリーナとは打って変わって、目の前にいる女性はさながら武芸に長けた女将軍といった風貌をしていた。確かにその美貌はエカテリーナとの繋がりを思わせるし、凛としたその風貌は見るだけでこちらまで背筋を伸ばしてしまうほどである。
しかし、やはりというか印象は180度異なる。
エカテリーナが優しく、儚く、触れるだけで崩れてしまいそうな類の美しさなのだとすると、彼女の場合は地獄のような戦場で、血肉に塗れた死の大地で、残酷な現実という鉄槌に何度も打たれ、鍛え上げられてきたかのような……そんな美しさだ。
姉妹でここまで違うものかと驚愕してしまう。
長女アナスタシア・ステファノヴァ・リガロヴァ―――リガロフ家の至宝であり武人、エカテリーナ曰く『とってもお強いお姉さま』との事だが、お強いなんて次元ではない。
こうして椅子に座り、呑気に紅茶の香りを楽しんでこそいるが、全くと言っていいほど隙が無い。ノヴォシアの大熊が仔犬に思えてしまうほど……いや、数多の人肉を喰らった人喰い熊ですら愛玩動物に見えてしまうほどの威圧感が、彼女には宿っている。
この人が敵に回らなくて本当に良かったと、心の底から安堵している。
剣術には自信があるが、しかしこの人は別格なのだと本能で分かる。『上には上がいる』とはよく言ったものだが、自分と彼女の間には絶望的な……いや、”絶望”という言葉ですら表現しきれない程の隔絶した実力差がある。
クラリスとかいうメイドの差し出した小皿からスプーンでジャムを掬い取り、紅茶の中に入れてマドラーでかき混ぜながら、アナスタシアはリラックスしたような笑みを浮かべた。
「私はな、君の事が知りたいのだ。”魔犬”ロイド・バスカヴィル」
「……リガロフ家の至宝とまで言われた貴女が私をご存じとは」
「そう畏まるな。君が妹と婚姻を結べば私は義理の姉、君は義理の弟だ。未来の家族なのだ、気楽に仲良くやろう」
などと言いながら笑みを浮かべるアナスタシア。
そんな彼女の後方では、何やら戦闘が始まっているようだった。ミカエル、次男のマカール、そして長男のジノヴィ。リガロフ兄弟が暗闇の中に去っていったかと思いきや、闇の向こうで雷光が閃いたり、冷気が立ち上ったり、何やら悲鳴が聞こえたり……。
いったい何が起こっているのか。
そしてあの3人は、一体何と戦っているのか。
「ところで2人の初めての出会いはどうだった? どこで知り合ったのだ?」
「ザヴォリーダ郊外で助けていただきましたの」
「ほう……アレか、以前のお見合いの」
「ですわ♪」
なんか姉妹で雑談始まったんですけど……?
「車が泥濘に嵌ったところに魔物が襲ってきまして」
「そこに現れたのが彼、と」
「は、はあ」
「ほう……それはそれは。妹が大変世話になったな」
「あ、え、はあ、いえいえ」
「付き合ってくれている君に言うのもなんだが、エカテリーナは屋敷の中での生活が長くてな。少々世間知らずなところが……」
「もうっ、お姉さまったら……私だっていつまでも世間知らずではありませんわよ?」
「ほほう? では何を覚えたのだ?」
「この前ロイドさんに教えていただいて釣りを♪」
おう、例のキリウ湖でのアレか。
あの時のエカテリーナはすごかった。コツを掴んだのか、面白いくらい魚を釣り上げるものだからすぐにバケツの中身がいっぱいになった。もちろん屋敷に持って帰るわけにもいかないので、追加料金を払って近くにあった釣り小屋の傍らで焼いて食べる事になったのだが……。
「ほう、それは良い事だ。父上や母上はお前に過保護だからな」
過保護、か。
裏を返せばそれだけ大事にされているという事だ……まあ、子供にとってはその両親からの愛情が、時折窮屈に感じてしまうものではあるのだが。
「さて、ロイド君」
飲み終えた紅茶のカップをクラリスに預け、アナスタシアはこっちを見つめながら腕を組んだ。
「はい、何でしょうか」
「私は君とエカテリーナの結婚には賛成の立場だ」
「お姉様……!」
「それは……ええ、ありがたい。これ以上ない心強さです」
強力な後ろ盾が得られたのは大きい。それもリガロフ家最強と名高いアナスタシア・ステファノヴァ・リガロヴァその人が支えてくれるとなれば、エカテリーナの実家に対しても大きな牽制になるのではないだろうか。
今までは孤立無援だったし、このままイライナを出て海外まで逃げるつもりだったから、希望が見えてくるのは本当に嬉しいものである。
「元より我ら姉弟、両親のやり方には反感を抱いていてな……そろそろ我慢の限界も迫っていたところだ。これを機に一泡吹かせてやりたい」
「と、仰いますと?」
「安心したまえ、もう逃亡する必要はない。ロイド君、君は我が妹を救った栄誉ある騎士として、堂々と大手を振ってキリウへ凱旋すると良い」
「……どういう事です」
貴族の、それも公爵家の次女を連れ去った俺に栄誉ある騎士や凱旋など……どれも相応しくない言葉ばかりが並んで、少し混乱した。
彼女の意図が全く読めない。
両親に反感を抱いている、だから俺たちの婚姻には賛成の立場……単純に自分の妹だからと、身内に対する情もあるのだろうが、彼女が俺たちに味方してくれる理由は本当にそれだけか?
明らかに彼女は、アナスタシアという女は、戦場で剣を振るうだけの猪武者ではない。剣術の腕が立つのと同じくらい、政治の面での手腕も相当なものなのだろうという事は容易に想像できる(そうでなければイライナ出身者でありながらノヴォシア騎士団で上に立てるはずがない。いくら成績優秀で親の七光りがあってもだ)。
イライナ人はノヴォシア人からすると下に見られている存在だ。いくら貴族で、それも実家が公爵家であってもイライナ人というだけで上に上がっていくのは難しいと聞いた事がある。
そんなハンデをものともせず、結果と政治手腕で異論を黙らせ上に立った才女―――何か策があるに違いない。
次の瞬間だった。
表情一つ変えず、アナスタシアは腰に提げていたダガー(”キンジャール”と呼ばれるイライナ伝統のダガーだ)を抜き払った。短剣の中でも幅広な刀身が露になったかと思いきや、それを目にもとまらぬ速さで一閃、振り向きもせずに虚空を薙ぐ。
パキンッ、と何かが砕ける音と共に、2つの小さな何かが俺の頭上を通過していった。
おそらくは弾丸だ―――微かに香る黒色火薬の臭いでそう判断する。
背後から飛来した弾丸(恐らく流れ弾だろう)をいち早く察知、それをリーチの短い短剣で、それも振り向きもせずに振るって2つに砕いた……?
この人本当に人間なのか、と戦慄していると、呆れたようにアナスタシアは言った。
「やれやれ……今のはミカエルの方からか。確かに強くなったが、奴もまだ青い」
俺は一度そのミカエルに敗北しているわけなんですが……嘘だろ、あのレベルの実力者を「青い」って……。
「さて、あの3人が戦っているのはロイド君、君を消すために雇われた暗殺者連中といったところか」
「暗殺者……ですって?」
「そうだ。君を亡き者とし、エカテリーナを連れ戻すために雇われたのだろう」
「お母様が……そんな、姉上……お母様がそんな事……!」
「するさ」
さらりとアナスタシアは言った。
「アレはそういう女だ。侮るな、我ら姉弟の中で私が一番あのクソババアと付き合いが長い」
そりゃあそうよ、長女ですもの……。
「本当はもう少し足場を固めてから”計画”を実行に移すつもりだったが、此度の騒動はむしろ私にとって好都合だ。2人には悪いが、私はこの混乱を利用させてもらう」
「姉上、何をなさるおつもりです?」
「なあに、リガロフ家をより住みやすい環境にするだけさ」
まさか。
先ほどのアナスタシアの口ぶりに、彼女らの母親が俺を消すために雇ったと思われる暗殺者ギルドの襲撃。そしてこの混乱を利用するというアナスタシアの言葉。
もしそうならば―――もし予想通りならば、この目の前にいる女は、アナスタシア・ステファノヴァ・リガロヴァという女はとんでもない事をしでかそうとしている。
世界各国でもそうだが、暗殺者ギルドは存在自体が違法だ。運営でも最高で死罪があるし、それに仕事を依頼する行為もまた同罪となる。
今回、あの暗殺者共を放ったのが本当にエカテリーナの母親の仕業だとして、それが公になればどうなるか。
いくら英雄の血脈たる公爵家とはいえ、お家取り潰しの憂き目に遭うのは想像に難くない。一族の復権を切望し、子供たちをそのための駒として扱っていた両親からすればそれこそ、自分たちの帝国の終焉を意味する大事件である。
そしてそれを知るのは今この場に居る俺とリガロフ5姉弟、そしてミカエルのメイドのクラリスのみ。
さらにその姉弟のうち長男と次男は警察組織の指揮官と法務官である―――見逃すか、摘発するかを匙加減一つで決められる立場にある、というわけだ。
なるほど、実家との交渉に使うにはこれ以上ないほどの手札であろうよ。
「君は我らが獅子姫を連れ去った罪人ではなく、彼女を暗殺者の魔の手から救った勇敢な騎士―――私は君を、キリウに戻り次第そう祭り上げる」
「それだけではありますまい」
「そうだ」
にっ、とアナスタシアは笑みを浮かべる。
「まあいい、君は堂々とエカテリーナの隣に居たまえ」
「何から何までありがとうございます。これで大きな借りが出来たわけですね」
そこまで言うと、アナスタシアは「分かってるじゃないか」と言わんばかりに目を細めた。やはりそうだ、彼女は今回の一件を自分の”計画”とやらに利用するつもりだ。
「ああ、だからいずれ返してもらうぞ。”魔犬”ロイド・バスカヴィル」
「……わかりました」
「よろしい」
いつの間にか、彼女の背後から聞こえていた銃声やら悲鳴は聞こえなくなっていた。
戦闘が終わったのだ―――そう悟ったのと、暗闇の中から長男のジノヴィ、次男のマカール、そして庶子であり三男のミカエルの3人が、まるで幽霊のように姿を現したのは同時だった。
「ご苦労」
「姉上、連中はどうします」
「全員は連れていく必要はない。傷の浅い者数名を選んで残りは間引け」
「分かりました」
「兄上方、ここは俺とクラリスが。どうせ俺たちは屋敷に入れてもらえないでしょうから」
そう言うや、ミカエルは変わった形状の銃と火炎瓶を片手に再び暗闇へと戻っていった。
間引く―――つまりは警察組織に実行犯として突き出すのはほんの数名で良く、他は余計なので止めを刺しておけ、という事なのだろう。
今回の一件、真相を知るのはこの場に居合わせた者たちと、襲撃を実行した暗殺者たちだけだ。人数が多ければ多いほど、秘密というものは外部に漏れやすくなるもの。冷酷ではあるが、彼女の計画とやらに綻びを生じさせないためにも必要な措置なのだろう。
それにしても、ああして姉弟全員が並んでいるとミカエルの奴もけっこう他の兄姉たちに似ているところがあるな、とは思った。口元周りは父方の遺伝なのだろうか……?(ミカエルは父親とメイドの間に生まれた子だと聞いている)
「さて、帰るとするか」
クラリスがぺこりとお辞儀をする中、アナスタシアは意気揚々と椅子から立ち上がった。残った折り畳み式の椅子やテーブルをテキパキと片付けていくクラリスに、俺とエカテリーナが座っていた椅子も片付けてもらい、とりあえずガリエプル川支流の畔を後にする。
雲の隙間から、死神の鎌を思わせる三日月が覗く。
月明かりの下、微かに死体が燃える悪臭が鼻腔を衝いた。
死体は原則として、焼いて処分する事となっている。そうでなければ疫病の温床になってしまうし、そうでなくとも死体がゾンビとして蘇って、付近の居住地を襲う事があるからだ。それは魔物も動物も、そして獣人も例外ではなく、過去に死体の処理を怠ってゾンビ襲来を招き居住地が壊滅したという事例は後を絶たない。
片付けを終えたクラリスも、死体の処理に加わった。ミカエルがせっせと積み上げた死体の山に着火した火炎瓶を投げつけ、2人で燃え盛る炎を監視している。
さながらキャンプファイアーのようだった。
「さあ、行こうか」
そう言いながら車の後部座席に乗り込むアナスタシア。エカテリーナと俺も乗り込むと、助手席にジノヴィが、運転席にマカールが乗り込んで車を走らせ始めた。
とにかく、今は彼女を―――アナスタシアの手腕を信じよう。
こっちにはとっておきの手札があるのだ。
全てを覆すたった一枚の手札―――大番狂わせのジョーカーのカードが。




