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姉弟参集


 外にはすっかり、闇の帳が降りていた。


 夜がこんなにも気味の悪いものだったとは思わなかった。昔から厳重に警備された屋敷の中で過ごす事が多く、日没後に外出する事なんてキリウ市街地内で食事に行く時くらいだった。


「……大丈夫ですか、エカテリーナ?」


「ええ、大丈夫よ」


 ありがとう、と私を気遣ってくれるロイドさんに礼を言い、笑みを浮かべた。


 さあて、これからどうしようかしら。


 何もかもを棄ててきた―――英雄の子孫としての名誉も、財産も、何もかもを。


 これでもう、私はエカテリーナ・ステファノヴァ・リガロヴァという貴族の女ではない。ただのエカテリーナ―――実家のしがらみを嫌い逃げ出した、ただのエカテリーナになった。


「何かあったら遠慮なく言ってください。貴女をこんな逃避行に付き合わせてしまったのは私だ……できる限りで何でもしますよ」


「そんな、ロイドさんのせいではありませんわ。元はと言えば私のわがままを―――」


 そう、全ては私のわがままから始まった事だ。


 私が、私が彼と一緒に居たいと―――彼と共に旅に出たいと願ったから、胸の内を彼に打ち明けたからこそこうなっただけの事。だから元凶は私であるべきで、頭を下げて謝罪するのもまた私でなければならない。彼はただ1人の女のわがままを聞き入れ、危険な橋を共に渡ってくれているだけなのだから。


 すると、ロイドさんは月明かりが差し込む小屋の中で微かに笑みを浮かべた。


「貴女は育ちが良すぎる。言葉遣い、もう少し砕けた感じにしないと貴族出身だと皆に勘付かれてしまいますよ」


「えっ? あ、あぁ……あはは、そうですわね……じゃなくて、うん。これでよし」


 やっぱり小さい頃からこういうマナーは徹底して教育されてきいたから、気を抜くとついこんな感じになってしまう。本格的に()()ならばそれこそ、矯正が必要になるレベルなのではないかしら。


 そう思いながら笑みを浮かべると、小屋の中にあった金属片を研いで布を巻き、即席の投げナイフに仕立て上げていたロイドさんも笑みを浮かべた。


 ここは下水道の出口にあったボロ小屋。ミカが下水道に記してくれた出口までの道標、その果てにあったのはキリウ市街地から離れたところ、ガリエプル川の支流の畔にぽつんと穿たれたマンホールだった。傍らにはちょうど良く小屋(釣り小屋かしら?)があって、私たちはそこで休憩しながら日没を待っていた。


 日没であれば監視の目は多少は緩くなる。後はそのまま監視の目を潜り抜けて、ゆくゆくはリガロフ家の影響の及ばない場所へ、あるいは異国の地へ……。


 ノヴォシア帝国は鉄道網が発達していて、列車の駅さえあればどこにでも行ける。だから真っ先に徹底的な監視体制が敷かれるのは鉄道、その次に各地へと向かう主要な道路。


 だからまさか、貴族の娘が複雑怪奇な構造の下水道を通って市街地の外に徒歩で脱出、夜陰に乗じて移動しようとしているなんて誰も思わないでしょう。


 割れた窓の向こうにはキリウの夜景が見える。母上も本気になったようで、キリウ市街地の上空には3体の飛竜が舞い、地上をサーチライトで照らしているのがここからでも良く見えた。姉さんに兄さん、それからマカール……子供が3人も国家権力に食い込んでいるリガロフ家だからこそできる、警察組織の総動員体制。けれどもその監視の目は、私たちには届いていない。


 今頃マカールや兄さんは大変な事になっているだろうな、と母上からの叱責を受ける2人の姿を想うと申し訳ない気持ちになった。辛いのはあの2人だって同じでしょうに……。


 罪悪感に苛まれながらも、しかし後戻りはもうできないという現実に拳を握り締める。


「……そろそろ移動しましょう」


「ええ」


 さようなら、キリウ。


 鞄の中からそっと護身用に持ってきたリボルバー拳銃を取り出し、ホルスターを腰に提げた。ここから先はもう、自力で身を守らなければならない。さもなければ夜行性の、凶暴な魔物たちの餌食になってしまう。


 ロイドさんと一緒に釣り小屋を出ようとしたその時、ドアノブに手をかけたロイドさんの手がぴたりと止まった。


「……ロイドさん?」


「何か来ます」


「え?」


 まさか、もう追手が……?


 息を呑み、リボルバー拳銃の撃鉄を親指で起こした。シリンダーがくるりと回転して、後部から露出している雷管が撃発位置で固定される。


 ロイドさんも同じく拳銃を引き抜きつつ、右手で背中に背負った大剣を引き抜いた。艶はなく、装飾もない武骨な剣―――振るい、相手を切り裂くという用途のみに特化した実用性一辺倒のそれが、けれども今ばかりはこれ以上ないほど美しく見えた。


 やがて、窓の向こうに車のライトの明かりが見えた。丸くて大きなライトにクロームカラーのグリル、そして箱のような車体と流線型のシャーシ。ボンネットにはうっすらと、リガロフ家の家紋のようなものが描かれている。


 追手だ!


 心拍数が一気に上がったのが分かった。手のひらに汗がじんわりと浮かび、息が上がる。


「……少々、のんびりし過ぎたようですね」


「でも、どうしてここが?」


 いや、まさか。


 あの時―――姉弟みんなで食事を摂ったあの時、ミカが自嘲気味に話していた家出計画の内容を、姉弟の誰かが覚えていたのだとしたら。


 だとしたらあの追手は―――!


 リガロフ家の高級車が停車すると、箱のような車体のドアが開いて、中から5人の人影が降りてきた。


 実家の私兵部隊―――にしては、服装にばらつきがある。1人は帝国騎士団特殊部隊”ストレリツィ”の制服の上に将校用コートを、もう1人は白を基調に蒼いアクセントの入った法務官の制服を、そしてもう1人のスモールサイズの人影は憲兵隊の制服の上に士官用のコートを羽織っている。


 後の2人は特徴的だった。車を運転していたのは長身のメイドで、メガネのレンズが車のライトを受けて反射している。180㎝以上はあるだろうか……引き締まっていて、けれども女性にしては鍛え上げられた体格である事がはっきりと分かる。


 そしてもう1人のミニマムサイズの人影は私服姿―――特に軍服を身に纏っているとかそういう服装ではなく、あくまでも私服姿だった。太腿のところには動物(ビントロングとパームシベット?)を模したぬいぐるみのようなポーチをつけていて、なんだか可愛らしさがある。


 最悪だった。


 リガロフ家の追手―――それがよりにもよって、アナスタシア姉さんにジノヴィ兄さん、マカール、それにミカと彼の付き人、クラリス。


 実質的な実家の最高戦力がそろい踏み……ロイドさん1人で、何とかなる相手ではない。


 特に姉上は―――アナスタシア姉さんは。


 彼女はリガロフ家の至宝とまで呼ばれた女傑。帝国の長い歴史において、精強として名高い特殊部隊ストレリツィの入隊試験を唯一満点で合格パスした才女。


 私は知らない―――彼女よりも強い存在を。


「……逃げましょう、ロイドさん」


「……逃げるったって、どこへ」


「どこにでも……今ならばまだ」


 いや、私も彼も理解している。


 もう逃げられない、と。


 彼女に見つかってしまった以上は、もう……。


『エカテリーナ、そこにいるのだろう?』


 外から声が聞こえた。


 アナスタシア姉さんの声。いつもと変わらぬ、私に語り掛ける時の声。私兵部隊や部下を叱責する乗艦としての彼女ではなく、私にとってただ1人の姉としての彼女の声は、今も昔も変わらない。身内だけに見せる慈愛に満ちた姉の声が、けれども今ばかりは恐ろしく聴こえた。


 鬼ごっこは終わり―――そういう事なのかしら。


 窓の向こうを見た。車のライトを背に、腕を組んで立つ姉さん。その左右をジノヴィ兄さんやマカールが固め、ミカとクラリスも一歩引いた距離からこちらを見守っている。


 すると姉さんは、背負っていた大剣を引き抜いた。実力行使するつもりなのかと肝を冷やしたけれど、彼女はそれを唐突にくるりと回すや、足元の地面にその黄金の大剣―――英雄イリヤーの秘宝の一つ、『イリヤーの大剣』を突き立てた。


『安心しろ、私はお前を連れ戻しに来たわけではない』


「……?」


『―――お前の真意を聞きたい、ただそれだけだ。連れ戻そうなどというつもりは毛頭ない』


 ぎょっとした。


 てっきり、母上の命令でここまで追ってきたのかと思っていたから。


 今しがた剣を地面に刺したのも、攻撃の意思はないという意思表示なのかもしれない。


 あの人は強い人だけど、騙し討ちをするような人ではない。ましてや血の繋がった実の妹と、その想い人に対してそんな仕打ちをするとも思えない。


 どうするのです、とあくまでも抵抗の姿勢を見せながらも困惑するロイドさんに、私は頷いた。


「……大丈夫です」


「大丈夫って……」


「姉はそういう人じゃない。信じましょう、姉上を」


 そう言い、私は拳銃をホルスターへと戻して小屋の扉を開けた。


 車のライトの眩しさに、片手で目を覆いながらも前に出る。


「……姉さん」


「エカテリーナ……」


 安堵したように、姉さんは笑みを浮かべた。まるで迷子の仔犬がやっと家に戻ってきたかのようで、やっぱりこの人は昔から何も変わっていない。


「まあ、話をしよう。そこの君、君もだ」


「は、はあ」


 後ろで様子を見守っていたロイドさんも手招きすると、いつの間にかクラリスが車のトランクに積み込んでいた折り畳み式の椅子を3つと同じく折り畳み式のテーブルをセット、その辺で火を起こしてお湯を沸かし始める。


 手馴れてるわねぇ、とクラリスの様子を見守っていると、ロイドさんとミカの目が合って2人とも凍り付いているところだった。


 そういえばこの2人、マズコフ・ラ・ドヌーの闘技場で一戦交え互いの実力を認め合った仲だって聞いてたけど……再会は冬以来になるのかしら。


「……ゑ?」


「あの……うん、久しぶりだねミカエル」


「ゑ、姉上の相手って……え、え?」


 ぱっちりと開いた満月みたいな目でロイドさんを見つめたり、他の皆は知ってたのかと言った感じで兄上たちの方を見たりするミカ。かなり混乱している様子が見られるけど、まあ……知らないのも無理はないわ。こっそり逢瀬を重ねていたのは内緒にしていたのだから。


 そうこうしている間にお湯が沸いたようで、キャンプ用品を器用に使って紅茶を淹れ始めるクラリス。人数分のマグカップにジャム入りの紅茶を淹れた彼女は、ぺこりと一礼してから後ろへと下がった。


 紅茶入りのマグカップを受け取って、私とロイドさんも折り畳み式の椅子の上に腰を下ろす。


「まあ話でもしよう。()()()()になる彼の事も知っておきたいし、な」


 そう言いながらニヤニヤと、イタズラ好きな笑みを浮かべる姉上。義理の弟、なんて言われて恥ずかしいのか、ロイドさんは照れ隠しをするように頭を掻きながらうつむいてしまう。


 そうしている姉上の後方では、兄さんやミカ達がそれぞれ武器を用意して、何やら襲撃に備えているようだった。


 待って……いったい何が始まろうとしているの?

















 こんな暗闇の中、他に人工的な明かりもない場所で火を起こし、おまけに車のライトもつけっ放しときた。


 居場所を秘匿しなければならないのに、声高に自分たちはここに居ると告げているようなものだ。今まで標的の追跡と暗殺の仕事は数多くこなしてきたが、こんなに楽な仕事はない。


 やはり貴族のお嬢様というのはそういうものなのだろう。一流の教育を受け、その辺の騎士団から剣術の師範を雇って剣を習うが、そこ止まりだ。今のご時世、高貴なお方は戦争を知らぬ。実戦がどれだけ地獄なのか、名誉など存在する余地がないほど血に塗れているのか……戦争の何たるかを知らぬ。


 しかしこんな仕事で300万ライブルも支払うとは、あの貴族のババアも合わせて親子共々大馬鹿だ。おかげでこっちは商売右肩上がり、実にやりやすい金蔓だよ。


 部下たちにハンドサインを出し、散開するよう指示。大きく分けて3つのチームに分かれ、俺の合図で3方向から奇襲し冒険者の男を排除、女をあの母親の元へと連れ帰る……そういう計画だ。


 しかし……なんだあの女は。


 焚火の近く、折り畳み式の椅子に座り、標的の貴族の娘と冒険者の男を交えて3人で楽しそうに談笑している女……軍服姿で将校用のコートを羽織っているところを見ると騎士団の関係者なのだろうが、あんな奴は標的のリストには無かった。


 まあいい、脅威になるようであれば合わせて排除するだけだ。


 止まれ、と後続の仲間たちに合図し、小銃をスタンバイ。装着したスコープのダイヤルを調整して地面に伏せ、スコープを覗き込む。


 標的はあの冒険者の男だ……全く馬鹿な男だよ、貴族の娘に手を出すからこうなる。


 身の丈に合った女を選んでいればこうならずに済んだものを、と引き金に手をかけた次の瞬間だった。


 ガッ、と激しい衝撃が両手に走った。スコープが割れ、ハンドガードに添えていた左手の指先に痺れるような衝撃が走る。


 ぎょっとしながらスコープから目を離した。いったいどこから飛んできたものなのか、数多の標的を屠ってきた俺の狙撃用小銃(商売道具)にはコンクリートの中に埋め込まれているような鉄骨が深々と突き刺さっていて、スコープ諸共真上から串刺しにしている。


「なっ……!?」


『―――Я не захоплююсь ідеєю втручання в чиюсь любовну дорогу(人の恋路を邪魔するとは、感心しないな)』


 いつの間にか、地面から突き出た大きな岩の上に人影があった。


 背丈は小さく、子供のそれと大して変わらない。幼く見えてしまうのは身に付けている小物のせいでもあるのだろう、左右の太腿にはそれぞれジャコウネコ科の動物を模したポーチを取り付けており、背中にはライフル銃のようなものを背負っている。


 左手に杖を持ち、夜闇に浮かぶ三日月を背にしながら両手を広げる小さな人影。


 黒髪で、長い尻尾と猫のような耳があり、しかし前髪と一部が真っ白だ。


 ハクビシンの獣人なのか―――こんな奴、標的の情報にも事前情報にも全く話がなかったぞ?


 するとそのハクビシン獣人の少女の背後の地面が急激に盛り上がり始めていた。泥の中に埋まっていた大量のスクラップが、まるで見えざる手に摘まみ上げられているかのように隆起、そのまま宙に浮いて、矛先をこちらへと向けている。


 何だアレは、新手の魔術か?


 こちらを睥睨しながら、そのハクビシン獣人は少女のような声で言った。




『Дядьки, це ваш останній шанс повернутися додому, поки ви не постраждаєте, але що ви збираєтеся робити?(おじさんたち、痛い目を見る前に逃げるならこれが最後のチャンスだけど……どうする?)』




 

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― 新着の感想 ―
[良い点] 双方誤解による戦闘勃発とかじゃなくて何よりでした…そうか、考えてみれば義理の弟になるんですよねえ。やったねミカエルくん、家族が増えるよ! しかし効率的な雷魔法を時間をかけて研鑽し、完全な実…
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