抑圧への叛逆
「どうやら相手は逃げのプロらしいな」
久しぶりの実家、応接室に持ち込んだ地図を見下ろしながら姉上は唸った。仮説の捜査本部と化している応接室の中には俺たち以外にも私兵部隊の人員や憲兵隊(マカール兄さんの部下なのだろう、肩にあるワッペンのエンブレムが兄上のと同じだ)が詰めていて、さっきからひっきりなしに鳴り響く電話の受話器を手にとっては次々に上がってくる情報をメモ用紙に素早く記載しては、それを後方の黒板に素早くまとめている。
動きがプロのそれだ、と思いながら視線を姉上の方へと戻す。姉上が覗き込んでいる地図はキリウ周辺のもので、既にそこには赤いペンでいくつも印が書き込まれている。
ここは調べた、という意味なのだろう。他にも黒いペンで何かが書き込まれているが、おそらくあれは展開中の警備部隊の配置に違いない。東西南北、主要な道路は全て押さえているようだ。
「主要な道路は全て押さえたし、キリウ駅から出発した列車も全て調べた。今は駅に検問所を置き、乗客一人一人を調べている」
「そこまでして見つからない、と?」
「ああ……残念ながらな」
いったい何人の警備兵や憲兵が動員されているのだろうか。母上の事だ、マカール兄さんを通して相当な数の人員を動員させているに違いない……憲兵隊もいい迷惑だろう、恥ずかしくなる。
時折、私兵部隊の兵士がこっちを睨んでくるが、クラリスが威圧感を込めた視線を向けると逃げるように去っていく。今はそんな事をしている場合ではないだろうに……。
指を顎に当てながら考え込んだ。
「……姉上、エカテリーナ姉さんは昨晩からいなくなったんですよね?」
「ああ、そうだ」
頭を掻きながら姉さんは顔を上げると、当時の状況を説明し始める。
「まあ、メイドから又聞きした話だが裏は取れている……最後にメイドのアリーヤがエカテリーナに寝る前の挨拶をして部屋を後にしたのが21時。彼女がいない事に気付いたのが今朝の6時だ……第一発見者は同じくアリーヤとなっている」
姿を消したのは21時から日を跨いで朝6時までの間、か。随分と時間があり過ぎる。
何者かに攫われたのか、それとも自分から逃げたのか。これによっても調べるべき逃走ルートは違ってくる。前者であれば面倒だが、しかし後者であればある程度絞り込めるはずだ……エカテリーナ姉さんはキリウ育ちのお嬢様。この街の事はよく知っているから、警備の裏を突いたようなルートで逃げる筈である。
「……他の目撃情報は?」
「23時頃、屋敷の近くをバイクが走っていったのを見たという憲兵の証言がある。屋敷の近くで誰かを乗せ、2人乗りで西へ走っていった、と」
まさかな、と姉上の顔を見上げると、彼女も俺の考えを察したようで首を縦に振った。
「お前なら分かると思うが、夜間は治安維持のため憲兵たちのパトロールがある。特に高級住宅街や貴族の屋敷の近辺となると、憲兵隊も面子がかかっている。そのバイクを発見したパトカーは少しそのバイクを追跡したのだそうだ……1時間前にバイクの盗難事件もあったそうで、隙を見て職務質問をするためにな」
だが、と姉上は地図の上に指を走らせた。キリウの屋敷、そこから西へするすると進んでいった彼女の指は、今では閉鎖された廃工場やら倉庫が軒を連ねるエリアに入ったところでぴたりと止まってしまう。
「西部の廃工場あたりで見失ったらしい。乗り捨てられたバイクだけが残され、それに乗っていた二人組の姿は影も形もなかった、と」
「……」
西部の廃工場……これまた懐かしいところを。
幼少期、屋敷を抜け出してよく遊びに行っていたスラムの近くだ。遊び場兼訓練場として使っていた下水道の通路の近くだったので、よくここに忍び込んで置いてあった廃品やら何やらを拝借してスラムの人たちのために鍋やら調理用のナイフを作ったり、まだ使えそうな椅子やテーブルを修理したり、家具を作って提供したりしていた。
あそこってまだ取り壊されずに閉鎖されてたんだ、と昔の事を思い出す一方で、違和感のようなものも感じた。
「……姉上、地上は探したんですよね?」
「ああ。さっきも言った通り主要な道路は全て押さえたし駅でも検問所を設置、乗客は全て調べている。近隣の駅も同様だ。それと飛竜も手配していてな、憲兵隊所属の航空隊が空から監視の目を光らせている」
飛竜まで投入して未だ発見に至らず、か。さすがにそれはおかしい。
九分九厘、パトカーが追跡したバイクこそが姉上と彼女を連れ去った”何者か”なのだろう。これで少なくとも、第三者(例えば敵対関係にあるテンプル騎士団とか)が姉上を連れ去った、という線は消えた……と断言するには早計が過ぎるが、しかしだいぶ薄まったと言っていいだろう。
「……姉上、エカテリーナ姉さんに男が居たという話を聞いた事は?」
「ああ、ジノヴィから聞いていたよ。とはいっても噂程度のものだが」
ジノヴィ兄さんはあまり、人の内面に踏み込んでいくような人ではない。あくまでも自分の問題と他人の問題を冷徹なまでに線引きして深入りせず、その境界線をしっかりと弁えたうえで外から優しく見守るような、ドライな感じはするものの良くも悪くも”大人”な感じの人だ。
だから本人に聞いて裏付けを取ったりもしていないのだろう、あくまでも噂話程度に違いない。
「だがまあ、マカールの話ではキリウで少し噂になっていたらしい……エカテリーナにそっくりな女が、【大剣を背負った冒険者風の男と一緒に歩いていた】という話がな。目撃情報もあるそうだ」
「冒険者風の男?」
「ああ」
ということは、こっそり逢瀬を続けていた相手は冒険者?
大方、ソイツとの交際を母上に認められなかった(あるいは別れるよう圧力をかけられていた)のだろう。しかし相手を諦めきれずに脱走を決意、夜陰に乗じて屋敷を抜け出し駆け落ちを決行した……そんなところか。
ミカエル君が冒険者になろうとしてあのクソ親父がバチクソに反対した事からも分かるように、貴族と冒険者とは決して交わる事の無い関係にある。特に貴族は各地を回り、仕事をこなしてはまた別の土地へと去っていく冒険者をイナゴ呼ばわりして毛嫌いする者もいるほどだ。
それに貴族からすれば、冒険者は好き好んで戦いに行く”戦争屋”というイメージなのだろう。いかに成果を出している手練れの冒険者であっても、貴族との婚姻は忌避される傾向にあるのだ。
まさに許されぬ関係、禁断の恋と言ったところか。
「他に何か情報は?」
「確かその冒険者風の男はドーベルマンの獣人で、ソイツの話すノヴォシア語にはイーランド訛りがあった、と」
「外国人ですか」
「その可能性は高いだろう」
となると、土地勘はない筈だ。色んな所を旅して回るノマドであれば猶更であろう。
なのに憲兵隊、無能な私兵部隊(こいつらを戦力にカウントして良いものか実に悩ましいところだ)、それに加え憲兵隊が動員した飛竜部隊による空からの監視でも発見できないという事が何を意味するか。
「逃走ルートの選定は、おそらくエカテリーナが行っている」
「……でしょうね」
そうでなければ説明がつかない。
ノマドにとってそのフットワークの軽さは武器だが、土地勘のなさを始めとするその地域との繋がりの薄さはどうしても克服できない固有の弱点のようなものだ。初めて訪れる場所で道を正確に把握し、迷わずに目的地までたどり着ける人などそういないだろう。
ましてや憲兵隊に追われながらともなれば、それはもう不可能に近いと言える。
さらにバイクまで乗り捨てている事を考えると、今の2人は徒歩である可能性が高いが……そんな状態で逃げ切れるものか?
「……?」
「どうした、ミカ」
2人が姿を消したとされているポイントに注目した。
あれ、ここって確か……?
「……なるほど、姉上の記憶力には驚かされる」
「何だ、何か分かったのか?」
「姉上、兄上たちを呼んでください。エカテリーナ姉さんの行き先が分かったかもしれません」
「なに?」
随分と懐かしい……。
昔、本気で屋敷からの脱走を考えた事があった。まあ、結局冒険者になりたかったのと、屋敷に母さんやクラリスを残したまま1人だけ脱走するわけにはいかなかったし、色々と考えて没になった計画なのだが。
キリウの下水道を逃走ルートに、屋敷からの脱走を計画していた時の事を思い出す。あの時は複雑怪奇な構造故に”迷宮”呼ばわりされていた下水道を地道にマッピングして、どの通路がどこに繋がっているのかというのを把握、壁にチョークで印をつけていたのだ。
まあ、結局クラリスと一緒に盗んだ車でボリストポリまで逃げるという計画を実行に移したので、下水道を通って逃げるという計画のための下準備は全て徒労に終わったわけだが。
以前、姉弟全員が揃った際に一緒に夕食を食べに行った時がある。あれは確かハンガリアの一件が終わってからだったか……あの時はなかなかにカオスだった。飲酒できる年齢に達していたジノヴィおにーたまとアナスタシア姉さんはウォッカをキメ、兄上は酔い潰れてべろんべろんになるし姉上はマカールおにーたまを吸い始めるしでもうアレだった。みんなキャラ崩壊が凄かった。
そんな姉弟水入らずの場で、半ば自嘲気味にエカテリーナ姉さんにその話をした覚えがある。結局努力が全部無駄になりましたよ、という失敗談のつもりで話したそれを、エカテリーナ姉さんはニコニコしながら聞いてくれていたのを今でも覚えている。
―――もし、姉さんが当時の事を覚えていたのだとしたら。
あの下水道の逃走ルートは、実際に自分でキリウの外まで逃げられるかどうか実証済みだ。抜けたのはガリエプル川の支流付近、放棄されて久しいと思われるボロ小屋の近くにある古びたマンホール。滅多に人が立ち寄る場所でもないだろうし、近くに道路もあるからヒッチハイクも出来る。
もしそこを使って逃げたのならば、姉上の居場所はおそらく……。
「参りましょう、姉上」
「……案内しろ、ミカ」
周りの兵士に聴こえないような声で言う姉上に頷き、俺は彼女とクラリスを連れて部屋を出た。
外は薄暗くなりつつあった。
セダンの丸くて大きなヘッドライトが、うっすらと黒いベールに覆われつつある平原の景色を円錐状に照らしていく。昨晩の雨か、それとも雪解けの水のせいなのかは定かではないけれど、キリウを出た途端に舗装されなくなった道の地面はかなりぬかるんでいて、いつ車がスタックするか気が気じゃなかった。
ぐちゃぐちゃと粘度の高い泥を攪拌するように突き進む車の助手席で、静かに『ワルサーP5』を準備する。西ドイツで開発された、ワルサーP38の系譜に連なるコンパクトな拳銃だ。扱いやすく小型で、ミニマムサイズなミカエル君の手にもしっくり来る。
スライドを僅かに後退させ、薬室内にまだ弾丸が装填されていない事を確認してから、それを上着のポケットの中に戻す。
「姉上」
後部座席に左側で頬杖を突き、じっと窓の外を眺めていたジノヴィ兄さんが低い声で言った。
「なんだ」
「エカテリーナを見つけたとして……どうするつもりです」
座る場所がないマカールおにーたまを膝の上に抱き抱え、困惑するリガロフ家の次男坊をモフモフしていたアナスタシア姉さんは、兄上の肉球を揉みながら顔色を変えずに答えた。
「……なあジノヴィ、いいかげんうんざりしないか」
「……」
姉上が何を言いたいのか、俺には分からない。分かっていたとしても口を挟むべきではないのだろう。庶子として生まれ、家督継承権もなく屋敷を飛び出した俺には。
「あの子は自由にしてやるべきじゃあないか、と私は思うよ」
「……そうですね」
リガロフ家没落には、理由がある。
歴史書を調べていた際に至った結論だが―――ズメイを封印しイライナを救った後、しかし救国の大英雄イリヤーは当時の皇帝に疎まれた。
戦乱の時代において、圧倒的な力を持つ英雄豪傑は確かに至宝なのであろう。存分にその力を最前線で振るい祖国を守ってくれるのであればそれに越した事は無く、敵の脅威が何の罪もない帝国臣民へと向けられる事はないからだ。
しかしそれが戦時中ではなく、平和な世の中であったならばどうか。
国家の権力を握る君主にとって、英雄であるが故に民衆からの支持も厚く、更に祖国の脅威を跳ね除けた英雄というのは非常に厄介な存在なのだ。もし機嫌を損ねるような事があれば歯向かってくるだろうし、そうなれば民衆は間違いなく英雄の側につく。国家の支配、その基盤が揺らぐ危険を常に抱える事となってしまうのだ。
力を持つ者は、支配者から見れば矛であると同時に悩みの種にもなり得る。
リガロフ家の没落は、言わば大英雄イリヤーをその始祖としてしまったが故に決定づけられたものと言っても過言ではないのである。
そして今の皇帝、カリーナは当時の皇帝の直系の血筋。リガロフ家を脅威と見做すであろう事は想像に難くないだろう。
つまり何が言いたいかと言うと、両親がどれだけ一族の権力強化を狙ったところで帝室からの横槍が入るのは明白で、実質的に復権は不可能である可能性が高いという事だ。
二度と叶わぬ親の夢、そしてそのエゴを押し付けられる子供たちはたまったものではない。ならば一族が完全に没落しない程度に権力を維持し、慎ましく生きていくのが最善なのではないか。そして腹の奥底に煮え滾る怒りを宿しておき、”その時”が訪れたら存分にその恨みを晴らしてやればよいではないか。
おそらくだが、姉上も同じ考えである筈だ。
もう権力に固執しなくていい―――リガロフの一族をこんな結末に導いた帝室への恨みを晴らす時があるとすれば、それはノヴォシアからイライナが独立する時であろう。
「それに、私も母上の横暴な態度には嫌気が差していたところだ」
そこでやっと、ジノヴィ兄さんは視線を姉上の方へと向けた。
「……そろそろ、現実を教えてやっても良いとは思いませんか」
「ハッ、同感だ」
「何、殴るんですか? だったら俺やりますよ」
姉上の膝の上で、マカール兄さんもライオンのケモミミをピコピコ動かしながら言う。
その直後に思い切り姉上に吸われたのは言うまでもないだろう。




