獅子姫の逃避行
昔、ミカはよくこっそり屋敷を抜け出していた。
軟禁されている自分の部屋、その窓から壁を伝って庭まで下り、庭に植えられた木の枝を伝って塀を飛び越えて、月の浮かぶ夜に、あるいは白昼堂々屋敷を抜け出していく。あの子はこっそり抜け出していたつもりなのでしょうし、メイドたちが……というよりも、レギーナが部屋を訪れるタイミングを熟知していたからこそあんな芸当が出来たのかもしれない。
でもまあ、私は時折そんなミカの姿を自室の部屋の窓から目撃していたし、何なら部屋の掃除にやって来ていたレギーナにも目撃されていた。あの人は自分の子がそんな事をしているのを見て心臓に悪そうな顔をしていたけれど、私はあの子の身軽さに素直に驚いていた。
だって、まるで曲芸みたいだったから。
そして今、私も同じことをしている。
牢獄のような屋敷を抜け出して、自由になろうとしている。想いを寄せている彼と共に逃げ出して、自由を掴もうとしている。
あの時、ミカが屋敷を抜け出して冒険者になったように。
「……酷い臭いだ」
ライターで暗闇を照らしながら、ロイドさんは顔をしかめて言った。
キリウの地下には下水道が張り巡らされている。生活排水とか、言葉にするのもちょっとよろしくない物が、そしてモラルを持ち得ぬ人がお構いなしに棄てて行く生ゴミが、排水と一緒に石畳の下に掘られた水路の中を流れていく。
行き先はキリウ郊外にある最終処分場。そこで排水を徹底的に濾過して、廃棄物や汚染物質を全て取り除いてからガリエプル川へと放水、最終的には黒海へと流れつく事になっている。
私たちが今いるのはそんな、街の地下に毛細血管の如く張り巡らされた下水道の一角、メンテナンス用に用意された足場の上。排水管の詰まりとか、その他の異常が発生した際に水道局の人が利用する通路は、けれどもしばらく誰も足を踏み入れていなかったようで、随分と薄汚れ変色していた。
錆び付いた鉄柵の向こうを流れる茶色い水路には空き缶や空き瓶、それからお腹を向けたまま浮かぶネズミの死体が浮かんでいて、私も思わず顔をしかめた。
ミカから聞いたけど、幼少期のミカにとってキリウの下水道は誰からも邪魔されずに魔術や格闘術、それから銃(そういえばあの子高性能な銃を持ってるわね)の扱い方を学ぶ事が出来る訓練場であり、また遊び場でもあったみたい。
不潔で気味が悪い場所だったけど、こんなところでなければあの子に自由が無かったというのも、なんだか可哀想な話だと思う。
よもや私がそこを逃げ道に使う事になるなんてね……あの子から聞いた話が、こんな時に役に立つなんて思いもしなかった。
「しかし考えましたねエカテリーナ」
「まあね。後でミカにお礼を言わないと」
さっきも述べたけれど、キリウの地下に広がる下水道はそれこそ毛細血管のように張り巡らされている。キリウがまだイライナ公国の首都、その前身となった『キリウ大公国』時代から後付けに後付けを重ねて拡張を続けてきたキリウ下水道の構造はまさに複雑怪奇。憲兵隊どころか、水道局のメンテナンス業員でさえも図面無しに足を踏み入れれば迷う事もあるとさえ言われている(昔、下水道にはここで迷ってそのまま餓死してしまった業者の幽霊が出るなんて都市伝説が流行った事もあったわ)。
今頃、地上はそれこそ蜂の巣をつついたような騒ぎになっている事でしょう。母上の事だから、私兵部隊どころかマカールやジノヴィ兄さんに言って憲兵隊や法務省まで動かしている可能性は高い。
けれどもこの下水道の事は誰も知らないし、仮に知っていたとしても複雑怪奇な構造の迷宮に足を踏み入れる勇気はないでしょう。
「……あった、これよ!」
汚れた壁の表面に、うっすらとではあるけれど真っ白なチョークで矢印が描かれているのを見つけて、私は安堵した。
「これをミカエルが?」
「ええ、あの子の言ってた通り……!」
昔から、ミカは屋敷を出る計画をしていたと言っていた。
今でこそ冒険者となった(そしてついでに実家に強盗をしかけていった)けれど、別のプランとしてこの下水道を通って逃げるプランBも用意していた、とだいぶ前に話してくれた事がある。曰く『迷わないよう壁面にチョークで印をつけておいた』と。
あの子が屋敷から逃げる計画を本格的に始動させたのはミカが14歳の頃だと言っていたから、この印はあの子が4年前にここに刻んでいったもの。これを辿って行けば図面がなくても、キリウの街を無事に出る事が出来るというわけ。
「驚いた……凄まじい記憶力ですね」
「たまたまよ、たまたま」
ミカと再会して姉弟みんなで食事をした時、昔の話になった。当然議題の中心は思い出話になったのだけど、その中でミカが言っていたのよ。下水道から逃げる事も考えて印をつけていた、と。
姉上も兄上も、マカールも冗談だと思っていただろうし、私も冗談じゃないかと思っていたんだけど、あの子には一度やると決めたら絶対に成し遂げる、狂気にも似た執念があるのを私は知っていた。優しそうに見えて、実現できない事は絶対に口にしない。むしろ口にしたからには必ずやり遂げるミカは、姉弟の中で一番”芯”が強かったのかもしれない。
それを覚えていたのが功を奏した……まあ、マカールは酔いの回った姉上に吸われていた(ライオン吸い?)し、兄上もウォッカの飲み過ぎでべろんべろんになっていたし、一番頭のキレる姉上もマカールを吸う事に夢中だった上にアルコールも入っていたから、願わくばその事をすっかり忘れていてほしいのだけれど。
「矢印の通りに進みましょう」
「エカテリーナ、こっちにはドクロマークがありますが……?」
「それは確か、足場が崩落してるとかなんとか……」
あれ、そういえばドクロマークってどういう意味なのかしら。
何となく危ないという意味は分かるのだけど、と顎に指を立てて思考を巡らせていると、私を庇うように立ったロイドさんが無造作に水路目掛けて何かを投げ放った。
冒険者として活動する彼が、音もなく相手を始末するため……あるいは中距離からの搦め手として用意している投げナイフ。それをホルダーから抜き放って投擲したのだと理解した頃には、ドクロマークの書いてある壁の近くの水面を投げナイフが直撃し―――おぞましい呻き声が、水路に響いた。
『ビギュ!』
「!!」
「……走りましょう」
「え、ええ」
何かいる。
視線を水路に向けながら走った。濁りきり、ネズミの死体や腐敗した人間の死体(たぶんスラムに住んでいる人の死体だと思う)が流れていく水路。腐臭がきつくなったと思った次の瞬間、水面から顔を出した黒くぬめりのある”何か”が無数に水面の死体に絡みつき、そのまま水中へと引きずり込んでしまう。
『キュ!!』
「!?」
足元を走っていたドブネズミが悲鳴を上げた。
ぎょっとして視線を足元に向けると、そこには脇腹の辺りに黒くぬめる表皮で覆われた触手のようなものに喰らい付かれ、今まさに水面へ引きずり込まれようとしているドブネズミの姿があった。
ネズミの姿が水中へと消えるや、ロイドさんが顔をしかめながら言う。
「……蛭のようですね」
「蛭!?」
「ええ」
よくあるんですよ、とロイドさんは言った。
たぶん、仕事で何度もこのような相手を見てきたんだと思う。
「この下水道にはいろんなものが捨てられているようだ……その中に何か、拙い物でも混ざっていたんでしょう。蛭にしては大き過ぎる」
それはそうだと思う。昔、屋敷の図書室にあった図鑑では大きい物でも人間の指くらい、と解説されていた気がするのだけれど、今ネズミを捕食した蛭は人間の腕くらいの太さと長さがあったように見えた。
あんな蛭に喰らい付かれたら、全身の血を吸い上げられてミイラになってしまう。
そんなのは嫌……自由になる前に、彼と添い遂げる前にそんな無残な死を遂げるなんて、絶対に嫌。
そこでドクロマークの意味を理解した。ミカは昔から下水道で特訓するついでに、街の外に繋がるルートのマッピングをしていた……正しい逃げ道には矢印を、危険が潜む道にはドクロマークを描いて。
つまりはあの蛭は、ミカが記した”危険”なのだ、と。
息を切らしながら、彼と共に暗い通路を走って逃げていく。
下手をすれば命の危険がある状況だというのに―――ちょっぴりだけ、私は彼との逃避行を楽しんでいた。
こんなにも心臓に悪いフライトは、後にも先にも今回きりであってほしい。
今にも0を指し示しそうなほどギリギリな燃料計の針とにらめっこを本格的に始めたのは、増槽の燃料を全て使い果たし、ガリヴポリ郊外辺りの何もない平原に投棄した辺りからだ。
そこからは機体後部の兵員室を潰して配置した外付け式の燃料タンクと機体本来の燃料タンクで粘りに粘り、今やっと見慣れた……そして思い出したくもない嫌な思い出がこれ以上ないほどぎっしりと詰まった屋敷がキャノピーの向こうに見えている。
メインローターの音を高らかに、空からゆっくりと飛来するキラーエッグは実家の警備兵たちにはさぞ異質なものとして映っている事だろう。ある者は唖然としたまま空を見上げ、またある者は小癪にも小銃をこちらに構えて射撃命令を待つ。
しかし両者の間に戦いの火蓋が切って落とされる事はついに無く、俺とクラリスを乗せたキラーエッグ(燃料タンクガン積みカスタム)は一度ばかり地面にバウンド、その際に母上が大事に育てていた花壇の花を踏み潰してから芝生の上に荒々しく降り立った(クラリスGJ)。
シートベルトを外して外に降りると、出迎えてくれたのは家族の暖かい言葉でも使用人たちの挨拶でもなく、剥き出しの敵意と無数の銃口だった。表情一つ変えず、口元に薄ら笑いを貼り付けたまま、銃口を向けながらこちらを睨む警備兵たちの顔を見渡す。
うん、みんな変わっていないようだ……元気そうだし、ミカエル君への態度も何一つ変わっていない。この様子だと無能さにも何一つ変化はないだろう、嘆かわしい事だ。そしてこんな連中に実家のリソースを割いている両親の無能さにも呆れ返る。
撃つだけの度胸もないだろ、と彼らに視線で告げ、平然としたままメニュー画面を開いた。召喚済みの兵器類の中からキラーエッグのチェック欄にチェックを入れ、召喚解除と表示されているところをタップ。すると音もなく、燃料を使い果たす一歩手前だったキラーエッグが姿を消した。
「き、消え……!?」
警備兵たちがそれを見てざわめくが、未知の兵器を目にして驚く異世界人のリアクションを楽しむという、異世界転生モノの読者が求めてるであろう部分を堪能しに来たわけではないのだよ、ミカエル君は。
「ミカエル……貴様、何をしに来た!?」
抜き払ったサーベルの切っ先をこっちに向けながら、私兵部隊の分隊長が声を張り上げる。
「―――エカテリーナ姉さん失踪の件、応援に馳せ参じた。アナスタシア姉さんは?」
「貴様の力など不要だ。第一、貴様には強盗の容疑がかかっている!」
はぁ、と溜息をついた。
「―――グリゴリー・カラヴチェンコ」
びくり、とサーベルを向けていた分隊長が肩を震わせた。
グリゴリー・カラヴチェンコ、コイツの本名だ。
「貴様、何故俺の名前を……!?」
「物事の優先順位も分からないのかい?」
屋敷にやってきた5年前から変わってないな、と言いながら彼の顔を見上げ、挑発的な笑みを浮かべてやった。相手を嘲り、下に見るような笑みを。
「―――そんな調子だから5年経っても昇進ナシ、分隊長止まりなのさ」
「貴様ァ!!」
随分と沸点が低い……これメスガキボイスで煽ったらもっとブチギレるかな、と思った頃には、振り下ろそうとしていた分隊長のサーベルが半ばほどから折れ、くるくると宙を舞いながら後方へと飛んでいくや、これまた母上が大切に育てていたチューリップの首を斬り落としてから地面に深々と突き刺さった。
サーベルを折ったのは何者でもない、隣に控えていたクラリスの放った正拳突きである。
「―――弁えなさい、痴れ者め」
「……ぁえ?」
唖然とした表情で折れたサーベルを見る分隊長とその部下たち。いつも隣に控えているメイドさんとの実力差を痛感していただけたところで、丁度よく彼らの後方から聞き慣れた声が響く。
「貴様ら、こんなところで油を売っている場合か!」
「あ、アナスタシア様……!?」
背中に大剣を背負い、腰にはリボルバーの収まった革製のホルスターを提げ、帝国騎士団の制服の上から将校用のコートを羽織り、大きな軍帽をかぶったアナスタシア姉さんがやってくると、俺に銃口を向けていた警備兵たちはまるでモーゼに道を譲る海のように、怯えるように彼女へと道を譲った。
「ミカには私が協力を要請した。此度の捜索には少しでも人手が要るからな……兄姉のためにと遥々ウルファから馳せ参じてくれたのだ、庶子とはいえ少しは敬意を払え! 貴様らそれでも栄えあるリガロフ家の私兵か、恥を知れ!!」
「もっ、申し訳ありません!」
「分かったら仕事に戻れ! エカテリーナの身に何かがあってからでは遅いぞ!」
「「「「「はっ!」」」」」
ひぇー……。
何というか、軍隊でいうところの鬼軍曹みがある。職場でもそんな感じなのだろうか。
普段はこっちなのだろうが……きっと今彼女からの罵声を浴びた私兵たちは信じないだろうな。この人実は俺と会う度にジャコウネコ吸いをしてすっげえだらしない女になっている事を。
まあ、今回はさすがにそんな暇はないだろうが。
「……馬鹿共が失礼をした、ミカ」
「いえ、そんな事は」
こちらを振り向き、姉上は軍帽を手に取りながら笑みを浮かべた。ただしそれは口元だけで、肉食獣の如き紅い双眸は決して笑ってなどいない。
「遥々ウルファから来てくれたところ申し訳ないのだが……早速、手を貸してもらうぞ」
「喜んで」
そのためにここに来たのだ。
エカテリーナ姉さんを助けるため。
家族への恩義のために。




