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獅子姫の宿痾


 あの人と―――ロイド・バスカヴィルという方と知り合ってから、毎日が輝き始めたような、そんな気がした。


 好きでもない赤の他人の元へお見合いの話を聞きに行ったり、公務で各地を視察したり、友好関係にある貴族の事業に協力したり、パーティーに招待されて影響力をアピールしたり……そんな、両親の意のままに操られる人形のような、色の無いモノクロの世界に彩りが加わったのは紛れもなくあの人のおかげだった。


 ロイド・バスカヴィル―――聖イーランド帝国から北海を渡ってやってきた、異国の剣士。


 彼の話だと、ロイドさんは18歳(ミカと同い年ですって?)の冒険者で、見習い時代から向こうの冒険者ギルドに所属、先輩たちに鍛えられた叩き上げの冒険者。ここからは個人的に冒険者関係の雑誌を購入したりして調べた事なんだけど、ロイドさんは『魔犬』の異名を持つ冒険者なんですって。


 冒険者で異名を持つことを”異名付き(ネームド)”と言って、実力者である事を意味する指標になるとされているのだそう。


 そして彼は昨年の冬、マズコフ・ラ・ドヌー闘技場でミカと戦い僅差で敗れた―――2人で夕食を共にした時、彼は少し気まずそうに笑っていた。まさかミカエルの姉君だったとは、と。


 意外と世界は狭いのかもしれませんわね、と返すと、彼は恥ずかしそうに頭を掻いていた。


 それからというもの、彼とは何度も会った。


 キリウ湖を散歩したり、一緒に映画を見に行ったり、少し危なかったけれど一緒に狩りに行ったり……どれも厳重に警備された安全な屋敷の中で本を読んだり、ピアノやバイオリン、バレエの習い事をしている時では味わえないスリルや開放感があったし、私をそんな自由な世界に連れ出してくれた彼に、私の心はどんどん惹かれていった。


 もし結ばれるのならば、彼のような人が良い―――そんな甘酸っぱい理想を思い浮かべてしまう一方で、残酷な現実が立ちはだかる事も理解していた。


 母上は絶対に、そんな事は認めない。


 貴族が、それも英雄の血脈に連なる身分の者が冒険者と結ばれるなどと―――そうまくし立てる母上の顔が、私には容易に想像がつく。


 だからもう、彼との関係はここで終わり。


 ベラシア方面行きの列車の線路も、落石や崩落した土砂の撤去があらかた完了して、明後日には運転を再開する見込みだという話はラジオで聞いた。だからロイドさんとの逢瀬はきっと、あと一度だけ。


 その一度で、私は彼を諦めきれるのか。


 ―――きっと、無理。


 あの人との思い出はきっと、胸の奥に黙ってしまっておくには眩しすぎるだろうから。


 思い出の底の宝石箱に鍵をかけてしまっておくには、きっと大き過ぎるだろうから。


 
















「エカテリーナ」


 名前を呼ばれ、少しびくりとしてしまった。


 キャビアを乗せたパンを一旦お皿の上に置いて、視線を母上の方へと向ける。ナイフでステーキを切り分けていた母上は、何やら面白くなさそうな表情で私の方を見た。


「風の噂で聞いたのですが、もしかして貴女……最近、こっそりと誰かと会っているのではなくて?」


「お母様、いきなり何を?」


「貴女、最近外出する事が増えているようですが」


「嫌ですわお母様。書店や雑貨店にお買い物に行っているだけですの」


「そう」


 納得できないような口調で言い、母上は切り分けたステーキを口に運んで咀嚼してから、グラスに注がれたワインを口に含んだ。


「……ならばいいのですけれど」


「何かあったのですか?」


「最近、貴女にそっくりな女性と冒険者の格好をした男が一緒に歩いている姿を目撃した人が何人かいるようなのです。最近1人での外出も増えているし、もしかしたら……と」


 迂闊だったな、と後悔した。


 家族に無断で、それも1人で外出して日を跨いでも帰って来ないとなると間違いなく怪しまれる。だからロイドさんと会う時は日帰りできる範囲で、と彼に注文をしていた。


 けれどもそうなるとキリウ市内からキリウ郊外がデート範囲になるし、その範囲の地域では没落したとはいえ、リガロフ家の影響力は依然として大きい。聞く話になると、ミカも冒険者になる際に父上が管理局に圧力をかけたせいでキリウ市内では登録する事が出来ず、やむを得ず隣町のボリストポリで登録をしたという。


 つまるところ、キリウの周辺はリガロフ家の庭も同然。


 目立たない服装をしていれば大丈夫とは思ったけれど、父上や母上の知り合いはそこまで甘くなかったみたい。


「私が? 見間違いでしょう、きっと」


「それならばいいのです。冒険者など、所詮は獣臭い魔物と殺し合いをするだけの戦争屋。そんな物騒で血生臭い身分の俗物と貴族が結ばれるなど、あっていい筈がありません」


 ロイドさんを馬鹿にされているようで腹が立ったけど、表情には出さずに呑み込んだ。


「ええ……そうですわね」


「まあ、見間違いならばそれでいいのですが……エカテリーナ、貴女の身体に流れる血は英雄の血、高貴で尊いものなのです。分かりますね?」


「はい、お母様」


「だから貴女は私の言う事を聞きなさい。私の言う通りにして、私の言う通りの相手と結婚すればいいの。それが貴女の幸せなのだから」


「はい……お母様」


 ……”幸せ”って、なんだろう?


 自分自身の幸福でさえも、他人に決められなければならないの?


 それが貴族として生まれた、私の宿命なの?


 胸の奥、今まで波紋一つ生じる事の無かった水面に、小さなさざ波が立つ。


 こんなにも雁字搦めで、自分の意志による介入も出来ない―――こんな不自由が貴族としての宿痾しゅくあなのだというならば。






 ―――私にはそんなもの、いらない。


















 遠くで、桃色の花弁が舞っている。


 サクラ、という花なのだと聞いた。なんでも極東にあるサムライの国、倭国が長年の鎖国を破って開国、周辺諸国と国交を結ぶようになってからは、どの列強国も競うようにサムライの国を目指した。当時のノヴォシア帝国もその国家群の1つで、モスコヴァ自然公園とキリウ郊外には、その際に不変の友好の証にと贈られたサクラの樹が植えられて、春になるとごく短い間だけ、美しい花を咲かせている。


 バスケットの中に入ったパンをロイドさんに手渡して、私も自分の分を手に取って、散りゆくサクラの花を愛でる。サクラは開花する時期がとっても短くて、倭国人はそんなサクラに美しさを見出すのだと爺やに教えてもらった。


 私には理解できない。美しい花は永遠に、その美を保っていてこそだと思う。不変の美―――永遠の美。けれども倭国の人々はそれを潔しとせず、短く綺麗に咲いてはすぐに散るサクラを美しいものとして愛でる。


 それはきっと、メンタリティの違いなのだろう。


 けれども今は、そんな事はどうでもいい。


 この散るサクラと、私とロイドさんの関係を重ねてしまう。


 そう思うと、我慢できなくなった。胸の奥底から濁流のように、無茶苦茶な感情が押し寄せてきた。理性がどれだけダメだと、我慢しろと言い聞かせても、心の奥底に飼う感情という獣は耳を傾けない。理性の鎖を食い破ってまで溢れ出したそれは、いつの間にか両目から熱い雫となって零れ落ちていた。


「……エカテリーナ?」


「ごめん……なさい……」


 涙を拭い、声を震わせながら言葉を絞り出した。


「やはり母は、私が冒険者の人と関係を持つ事を許してはくれないようなのです」


「それは……」


 ロイドさんも、薄々勘付いていた事だとは思う。


 貴族と冒険者の、身分違いの恋。そういった禁断の恋を題材にした小説や映画は数多くあるけれど、いずれも最後は悲劇的な結末を迎える。


 結ばれずに引き裂かれるか、せめて天国で結ばれようと、永い永い逃避行の末に心中するか。


 そういう悲劇的な結末が涙を誘うのだろうけれど、いざ当事者になるとそこに立ちはだかるのは、理不尽なまでに高く険しい現実という壁……そして絶望だった。


「……仕方のない事でしょう、私と貴女では身分が違い過ぎる」


 貴女は高貴なお方なのです、とロイドさんは言った。けれども彼自身も認め切れてはいないようで、彼の声には現実に対する憤りが滲んでいるのが私には分かった。


「……明日の列車で、私はキリウを発ちます」


「……そう、ですわね」


 そうなれば、今度こそ彼との関係はそこまで。


 世界のどこかで活躍するであろう、ロイド・バスカヴィルという1人の男に想いを馳せ、私は再びあのモノクロの世界へと還っていく―――そう思うと尚の事、目から大粒の涙が溢れた。


「―――でも私は、あなたと離れたくない」


「……私もですよ、エカテリーナ」


 その言葉を聞いて、そっと彼の肩に寄り掛かる。


 ロイドさんはそのまま、私を抱きしめてくれた。


 何度も剣を振るい、努力を重ねてきたであろうごつごつとした手。肉刺の潰れた痕がいくつもある、力強い男の人の手だった。


「お願いです、”魔犬”ロイド・バスカヴィル」


 彼の胸に顔を埋め、告げた。


 今までずっと誰にでも向けてきた笑顔の下に隠していた私の―――エカテリーナ・ステファノヴァ・リガロヴァという1人の女の本音を。




「―――私を連れて、逃げてください」




 この地平線の彼方まで。


 あの水平線の向こうまで。


 どこまでも、どこまでも、世界の果てのそのまた向こうまで。


「……いいのですか」


 ロイドさんも声が微かに震えていた。


「そんな事をしたら、貴女は……貴女の、貴女の総てを棄てる事になるでしょう」


 富も、名声も、そして英雄の末裔という誇りでさえも、全てを棄てる事になる。


 それは覚悟していた。総てを棄て、ロイドさんと共に駆け落ちする事になれば、私は総てを投げ出す事になる。エカテリーナ・ステファノヴァ・リガロヴァという1人の女の全てを、ロイド・バスカヴィルという男に捧げる事になる。


「それでもいいのですか、貴女は」


「……覚悟は、出来ています」


「後戻りはできませんよ」


「承知の上です」


 あのモノクロの世界に、再び連れ戻されるくらいならば。


 どこにでも逃げてみせよう、全てを投げ打ってみせよう。


 それが私の、貴族の娘としてではなく1人の女としての、胸に抱いた不変の覚悟だった。


「……わかりました」


 彼の返事を聞いて、顔を上げた。


 そこには優しそうな笑みを浮かべ、けれどもその目には腹を括ったかのような眼光を宿す、ロイドさんの顔があった。


「―――明日の夜、お迎えにあがります」


「……はい。お待ちしています」


 ごめんなさい。姉上、兄上、マカール……そして、ミカ。


 私は明日、全てを棄てます。


















「それではおやすみなさいませ、エカテリーナ様」


「ありがとうアリーヤ。おやすみ」


 メイドのアリーヤにそう言い、扉が閉まって彼女の足音が遠ざかっていくのを待ってから、カバンに荷物を詰め込んだ。


 もう二度とこの屋敷に戻ってくる事はないだろうから、これから始まる逃亡生活に必要なものだけを厳選する。まず目立たない私服に着替えて、それからカバンにお金と護身用のダガーにピストル、それから私の魔術の触媒でもある秘宝『イリヤーの魔導書』を押し込んだ。


 後は何か必要かしら、と枕元の小さな机に飾ってある写真立てに視線を向ける。木製の、洒落た写真立てのフレームの中にはミカ以外の姉弟4人で撮った写真が飾られていて、その隣には以前にミカも交えて5人で撮影した写真も飾られている。


 それも持って行こうと思ったけど、伸ばしかけた手をぴたりと止めた。


 ―――全てを棄てて行くと、あの時桜の下で誓った筈。


 過去を振り向いてはならない。そんな事をしたらきっと、覚悟が揺らいでしまう。


 だから写真は持って行かず、部屋に置いていく事にした。


 ジリリン、と部屋にある電話が一度だけ音を発した。


 ―――彼からの、ロイドさんからの合図。


 屋敷のすぐ近くに居るという、事前に取り決めた彼との合図だ。


 部屋の明かりを消して、窓をそっと開けた。


 窓から身を乗り出して、近くにある雨樋を伝ってするすると降りていく。幼少の頃、ミカもこうやって屋敷を抜け出していたという話を本人から聞いてからというもの、いつでもこっそり屋敷を抜け出せるようにと密かに練習を重ねていたのが功を奏した。


 庭に降りてから見張りが来ないか確認。遠くで戦闘人形オートマタがサーチライトを発しながら決まったコースを巡回しているけれど、まだこっちに来る気配はない。


 大急ぎで塀をよじ登り、塀の上にある侵入者を防止するためのスパイクで手を切らないように気をつけながら跨いで乗り越え、屋敷を囲う塀を乗り越えて外に出る。


 やがて遠くから、1台のバイクがこっちに走ってきた。大きくて丸いライトに楕円形の大容量燃料タンク。オリーブドラブに塗装されていたから騎士団の軍用バイクかと思ったけれど、それに跨っていたのは背中に大剣を背負った、見慣れた男の人だった。


「ロイドさん!」


「さあ、急いで。行きましょう」


 彼の後ろに跨ると、ロイドさんはアクセルを捻って屋敷をすぐに離れていった。


 等間隔に夜道を照らす街灯の向こう、幼少の頃から生まれ育ったキリウの屋敷が小さくなっていく。


 さようなら、みんな。


 私は今日、この人について行きます。








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― 新着の感想 ―
[良い点] 身分違いの恋愛というのは階級社会において、当人にとっても悲惨なことになりかねませんが…これほど俗物で子供を道具としか見做さず、束縛する毒親が相手となりますと、もう緊急避難扱いでいいかなと思…
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