エカテリーナとデート in キリウ湖
普段は誰に対しても優しいけど恋愛になると肉食系になる次女エカテリーナ、猛獣である。
「今日は楽しかったですわ」
店を出ると、大通りを歩く人の数も疎らになっていた。
イライナ公国時代の首都とはいえ、さすがに日付が変われば多少は人の出歩く姿も目に見えて減るものだ。とはいえ酒場や娼館が軒を連ねるような場所には冒険者と思われる人々が集まっているようで、店に入って行ったり、女に見送られるようにして店を後にする姿がここからでも見える。
さて、すっかり遅くなってしまった。さっきも述べたが日付は変わっており、本当なら今夜のうちにベラシア行きの夜行列車に乗ってしまおうと思っていたのだが……食事をしている最中、個室に置いてあったらラジオからは『落石で線路が塞がれ、ベラシア方面行きは運転を見合わせている』という速報が聞こえたので、しばらくはキリウに滞在する事になりそうだ。
どこか宿を探すべきだろうな、と思いつつ、ニコニコしている彼女の手を取った。
「あっ……」
いきなり過ぎただろうか。少し反省するが、しかし……治安の良い都市とはいえ、夜道を、それも貴族の女性1人で歩かせるわけにも行くまい。
「屋敷まで送りますよ。女性1人で夜道を歩くのは危険でしょうから」
言うと、エカテリーナは少し恥ずかしそうに顔を紅くした。
「ありがとう。お優しいのですね」
「いえいえ、男として当然の事ですよ。さあ」
万一、彼女を1人で帰らせてその最中に何かがあったら大変だ。彼女の身分は貴族、そしてキリウの公爵家であるリガロフ家の次女。没落しているらしいが、しかしかつての救国の英雄の血筋に連なる彼女の身に何かがあったらそれこそ大事件である。
彼女の手を引いて、案内されながら夜道を歩いた。
「……私、イライナを出た事がありませんの」
ぽつり、とエカテリーナが言った。
食事をしながら、彼女にいろんな話をしたし、逆に色んな話を聞いた。幼少の頃から貴族の女として育てられた事、彼女の姉弟の事、そしてミカエルの事。
美しく、そして優しい次女エカテリーナは彼女の両親にとても大切にされているらしい。お見合いの際には爺やと護衛が常に付き添い、最近ではお見合いの話はイライナ領内という条件を付けて行っているらしい。
イライナを出た事がない、というのは正しくないなと思った。食事中、一度だけハンガリアの貴族のところへ嫁ぎに行った話をしてくれたのだが……詳しくは話してくれなかったけれど、どうやらそこで随分と酷い仕打ちを受けたらしい。
だからイライナを出た事がないというのは誤りなのだが……彼女にとっては記憶から消したい、忘れてしまいたいという事なのだろう。詳しくは話さなかったのも辛い記憶を呼び起こしたくないという事なのだろうから。
「だから冒険者の皆さんが時折羨ましくなりますわ」
「そうですか」
「ええ。お仕事は大変なのでしょうけど、色んな場所を旅するのはきっと素敵なのでしょうね」
少しだけ、ほんの少しだけだが、心の中にさざ波が立つ。
本音と建前、という言葉があるが、彼女の今の言葉には建前もお世辞も何もない。剥き出しの本心、憧れが感じられる。
貴族として生まれ、一族の再興のためにお見合いや公務に追われる毎日。それに加え両親が彼女に対しやや過保護な面があるせいで雁字搦めにされ、エカテリーナはその窮屈さに苦しんでいるのだ。
何とかしてやれないものかと感情的になりそうになるが、しかし貴族には貴族の生き方があり、役割がある。第一俺と彼女では住む世界が違うのだ。彼女は貴族として帝国を支え、俺は1人の冒険者として泥や血肉に塗れながら戦う。それらは決して交わる事はないし、あってはならない。
だから彼女と出会うのも、今日で最後にしなければ。
理性ではそう思う。が、しかし、何だろうか……彼女と別れるのに、名残惜しさを感じてしまうのは。
夜道を歩くこと数分、高級住宅街から少し離れたところに大きな屋敷が見えてくる。
さすがはイライナ救国の英雄の末裔、他の貴族の屋敷よりも一回り大きい。人件費削減のためなのか、それとも財力の誇示のためなのかは定かではないが、正門には2機の戦闘人形がさながら儀仗隊のようにブレードを構えた状態で待機しており、正門に近付いてくる人間に対し目を光らせている。
「ここまでで大丈夫ですわ」
「そうですか?」
「ええ。あまり屋敷に近付きすぎて、一緒にいるところを使用人に見られでもしたら大変ですもの」
それもそうだ。
貴族と冒険者が一緒に食事をして、一緒に歩いて帰ってきたなんて事になったら彼女の名誉に関わる。
「こんな夜遅くまで、ごめんなさいねロイドさん」
「いえいえ、こちらも楽しい時間を過ごせました」
「うふふ、お世辞がお上手ですこと」
「お世辞なんかじゃあありませんよ」
できる事ならもう少し……という言葉を、俺は呑み込んだ。
まったく、感情というものはいつもそうだ。理性という枷をはめておかなければ、何をしでかすか分かったものではない。
……でも。
少しだけなら、正直になってもいいだろう。
「……ベラシア行きの列車が全線運転中止になったそうなので、私はもう少しキリウに滞在します」
「あら、そうですのね」
「ええ」
何日になるかは分からないが……それまでは管理局に行って、数少ない仕事をこなして日銭を稼ぐほかないだろう。少なくとも貯金を切り崩すような事にはならない筈だ。
そして運転が再開されたら、この街を出てベラシアに行こう。その時こそ完全に、彼女とはお別れになる。
それっきりだ。彼女とはもう……。
何故なのだろう、そう自分に言い聞かせる度に胸を焼かれるような感覚を覚えてしまうのは。
「……もしよければ、また」
「はい。その時はよろしくお願いしますわね」
笑みを浮かべてウインクすると、エカテリーナは屋敷の方へと歩いていった。手を振る彼女の姿が屋敷の正門の向こうへ消えていくのを見守ってから、俺も踵を返す。あまり屋敷の前をうろうろしていたら、巡回の憲兵に不審者と間違われ職質されてしまいそうだ。
「……コレ、惚れてるのかなぁ」
今まで恋愛には無頓着だった。そんな暇があるならば鍛錬に打ち込んで己を高める事にばかり没頭していたものだから、いまいちそういう感覚が分からない。
ただ一つ確かなのは、彼女とは……エカテリーナとはもう一度会いたい、というこの気持ちが本物である事だけだった。
キリウの北には、『キリウ湖』という湖がある。
イライナの国土を東西に分断するガリエプル川、その上流に位置する流域だ。湖、という名称にこそなっているものの実のところは貯水池として利用されているらしい。
上流にはベラシアを流れるカラピャチ川との合流地点があり、下流はそのままキリウへと流れている。キリウからはそれほど離れているわけではない事と、周囲が安全で自然も豊かである事からここへと遊びに来る人も多いようで、湖畔には喫茶店やボートの貸し出しをしている店らしきものがあった。向こうでは桟橋の上で数名の釣り人が釣り糸を垂らしている。釣り竿の貸し出しもしているのだろうか。
「空気が美味しい、ってこういう事ですのね」
すぅー、と胸いっぱいに空気を吸い込みながら、開放感に満ちた顔でエカテリーナは言った。
彼女とキリウの街中で出会い、一緒にディナーを楽しんでから別れた翌日―――午前中にゴブリン退治の仕事をこなし、ついでにキノコ採取もやって貯めた金を資金として財布にぶち込み、我慢できずに彼女に電話(屋敷の彼女の部屋に置かれている電話機への直通の番号を教えてもらったのだ)して一緒に出掛けたのが1時間前。
喫茶店でジャム入りの紅茶を楽しんでから、エカテリーナから「自然が豊かな場所に行きたい」というリクエストを受けこうしてキリウ湖へと出かけ、今に至る。
昔は我慢強さに定評のあった俺ではあるが、何だろう……女絡みになった途端にコレである。もう少し何とかならんものか。
でも見習い時代にお世話になった先輩たちもこう言っていた……『ロイド、女を作れ。女は良いぞ、心の安らぎになる。一緒に居ると幸せになれるんだ』と。
あれはこういう事なのだろう。彼女と一緒にいるだけで、旅の最中に感じていた孤独が薄れていくのがはっきりと分かった。きっとそれこそが、今までの俺に足りなかったもの―――そして今、必要なものなのだろう。
「あっ、ロイドさん見て! お魚がいっぱい!」
「え? あ、ちょっ、危ないですよエカテリーナ!」
ちょっと目を離した隙に彼女は桟橋の上から身を乗り出して、水面を覗き込んでいた。さすがにキリウにほど近い貯水池なので、水辺に住む肉食性の魔物なんて住んでいないだろうけど、冒険者としての経験が長いせいで迂闊に水辺には近寄るべきではない、という思考回路が勝手に働いてしまう。
そうじゃなくても転落しそうで危なっかしい事この上ない……確かこの辺深いのではなかったか。
まったく、とやんちゃな彼女の一面にちょっとびっくりしながら小走りで駆け寄ると、水面の向こうには確かに魚が泳いでいるのが見えた。光の角度によっては鱗が黄金に輝いているように見える、縦に長い姿の魚だ。手のひらに乗りそうなサイズで、水槽で飼ったりしたら見栄えが良さそうである。
対岸では数名の冒険者が水着姿で泳いでいる姿が見えたが……春とはいえまだ肌寒く、夜になると厚着が欲しくなるほどだ。夏には早く、水温もまだ低い。風邪ひくぞとは思ったが……イライナじゃあアレが当たり前なのか?
「あれは何というお魚なのかしら?」
「うーん……すみません、見た事がない魚なのでなんとも」
「あら、そうですのね。ああそういえばロイドさん、釣りはなさるの?」
「釣りですか?」
「ええ」
「そりゃあ……やるっちゃあやりますが、趣味としての釣りではなく食料調達としての釣りですね」
「まあ、そうですのね」
「どうします、あっちで釣り竿の貸し出しをしているようですし、エカテリーナもやってみては」
「あら、楽しそうですわ。そうしましょうか」
とはいえ、俺もあまり上手くはない。即席の釣竿を自作して水面に垂らすも、一体何度魚に逃げられた事か……。
彼女と一緒に桟橋の上まで向かい、釣り具を貸出していた初老の男性に声をかけた。アナグマの獣人と思われる男性は俺たちの顔を見るなりにこやかに「はいはい、釣り竿2人分ね? 200ライブルだよ」と言いながら釣り竿2本と、それから釣った魚を入れておくためのバケツを貸してくれた。
200ライブルを支払い、桟橋の向こうへ。F字になっている桟橋の端っこに向かうなり、俺はいつものノリで釣り針に餌を取り付け釣り糸を水面へと垂らした。
エカテリーナも見様見真似で釣り針に餌を取り付け、そっと水面に垂らしていく。
「時折竿をちょっと動かすと魚がかかりますよ」
「こ、こんな感じですの?」
「そうそう、上手ですよエカテリーナ」
「え、えへへ♪」
あやらだ可愛い。
ドキリとしている間に、釣り竿を引っ張られる感覚を覚えた。
引っ張り上げてみると、やはり釣り針には少し大きめのイワシみたいな、そんなサイズの魚がかかっていた。眼球がやけに大きく、光に当たると蒼く輝く鱗が実に美しい。
「さすがですわロイドさん……!」
「ふふー」
釣り針から魚を外し、釣った魚をバケツに入れて再度餌を取り付け釣り針を投入。そのまま少し竿を動かしつつ、エカテリーナの方を見る。
ちょうど彼女にも当たりが来たところだったらしい。ぐんっ、と竿が引っ張られる感覚に「あっ、来ましたわ!」とエカテリーナも楽しそうに竿を引っ張り上げる。
釣り上げたのは俺と同じ魚だった。火の光を浴び、鱗がキラキラと輝いている(サイズは俺のよりちょっと大きい)。
「おお、おめでとうございます。人生初ですかもしかして?」
「ええ、初めてですわ。釣りって楽しいのですわね?」
「ええ、良いものですよ」
「ではこの調子でじゃんじゃん釣りましょう、ふふふっ♪」
鼻歌を口ずさみながら餌をつけて釣り針を水面下に投下するエカテリーナ。
貴族の女として凛としている彼女とは打って変わって、今の彼女には無邪気な子供にも似た純粋さがあった。
きっとこっちが彼女の素なのだろうな―――そう思うと、顔が赤くなってしまいそうだった。




