獣の剣士との邂逅
リガロフ家の子供たちにとって、最大のストレス発生源が母上となったのは今に始まった事ではない。
就職する年齢になると、両親は早くも結婚の事を考え始めた。少しでも権力があり帝国議会でも発言力がある貴族の元に私や姉上を嫁がせて、あるいは他の貴族の娘と兄上やマカールを結婚させて相手方の利権にあやかる事が出来れば、没落したリガロフ家は再び息を吹き返す―――きっと、あの人たちはそう信じている。
決して口には出さないけれど、これ以上ないほど愚かな試みなのではないだろうか、と私は思う。
頬杖を突きながら窓の外に視線を巡らせた。冬季封鎖が解除されて、大都市の郊外に広がる農村では早くも農夫たちが畑仕事に精を出している。
イライナの土は世界一肥沃で農業に向いていて、『世界のパンかご』と呼ばれる程。だからノヴォシア地方で大飢饉が発生した時もイライナにその被害が波及する事は無かったし、むしろこちらから余剰分の農作物を分け与え、西部地域のノヴォシア人たちを救って貸しを作る事も出来たほど。
それを可能にしているのは、この肥沃な土―――スノーワームたちの亡骸が混ざり合った泥だった。
雪の中を泳ぐ捕食者、スノーワーム。雪の中を変幻自在に泳ぎ回り人間に牙を剥く肉食性の魔物だけど、けれども彼らは同時に恵みをもたらす。スノーワームは冬の間しか生きる事が出来ず、その短い生涯の中で排泄する事は一度もなく、糞を尾の部分に溜め込む習性がある。
そんな彼らが雪解けと共に絶命、泥濘の春にその亡骸が土とよく混ざり合う事でこれ以上ないほど良質な肥料としての役割を果たし、イライナの土壌をこんなにも農業に向いたものに作り変えてくれた。
だから地方の農村に行くと、スノーワームを模った石像が置いてあったりするし、幸運の呼び手としてスノーワームのお守りが家に飾られていたりするの。なかなか面白いわよね?
「……お疲れ様です、エカテリーナ様」
遠くで畑を耕す老夫婦の姿を窓越しにぼんやりと見つめていたのを見て、車を運転している爺やがそう言った。イライナを支える農夫たちの姿を見守っているのを、きっと連日のお見合いに疲れうんざりしているものと勘違いしたんだと思う。
けれどもまあ、それは事実。
今日もこうしてお見合いのために、実家のあるキリウからザヴォリーダまでやってきたんですもの。母上は『特急列車を手配しておきます』なんて言ってたんだけど、私は車で十分だった。できるだけ母上と顔を合わせる時間を減らしたい(じゃないと矢継ぎ早にお見合いの話を捻じ込まれて嫌になってしまう)というのもあるけれど、こうして車の後部座席から祖国の農村の風景を眺めるのが昔から好きだった……幼少の頃、いつも隣に座っていたマカールはとっても退屈そうだったけれど。
手に肉刺をたくさん作って、イライナのために奮闘する農夫たちの姿を見ていると気持ちが奮い立ってくる。こんなにも頑張っている彼らのために、私も貴族としての責務を果たさなければと気合が入る。
西方諸国には『ノブレス・オブリージュ』という言葉がある。富める者はその身分に在る身としての責務を果たし、下々の者のために剣を振るうべし―――貴族としての在り方を言語化した実に良い言葉なんだろうけれど、でも少なくとも今のノヴォシア帝国では形骸化していると思う。
下々の者のため、農夫や労働者のため―――そのために権力を振るう貴族はごくわずかで、殆どが目先の利益にしか目が行っていない。中には不正に手を出したり、農民を苦しめたりと腐敗が目立つというのが、私のこの国の貴族に対する評価だった。
そしてそれは、今のリガロフ家も例外ではない。
父上も母上も、目先の利益を出したり、少しでも私たち姉弟を少しでも権力の大きな貴族の元へ嫁がせたり、あるいは他の貴族の子供を迎え入れて相手方の事業の利権を得て甘い汁を啜ろうと躍起になっていて、貴族としての理念なんてどこにもない。
これがイライナ救国の英雄、イリヤー・アンドレーエヴィッチ・リガロフの末裔の姿なのかと思うと哀しくなってくる。
どうにか目を覚ましてはくれないものかしら……。
それに、もう一つ。
あの人たちは一族の再興にばかり躍起になって、どうして一族が没落したのかを理解していない。
イリヤー・アンドレーエヴィッチ・リガロフ、我らの始祖で救国の英雄―――今となっては映画や小説の題材によくとりあげられるイライナの偉人として名を連ねる祖先だけど、彼の世代以降なぜリガロフ家は没落の道を進んだのか。彼の物語を読むだけではなく、細部まで分析すれば当時いったい何があったのか、その輪郭がぼんやりと見えてくる。
もし私の仮説が正しいのだとしたら、リガロフ家は―――。
「―――きゃっ!?」
唐突に車が揺れた。
身体が揺さぶられ、けれどもシートベルトが座席から投げ出されそうになる身体を抑え込んでくれる。もしシートベルトをしていなかったら車外に投げ出され……はしないだろうけど、前の座席や窓に頭を思い切りぶつけていたかもしれない。
やっぱり安全第一ね、と思ったところで、頭を軽く振りながら周囲を見渡した。
爺やがハンドル操作を誤ったのかしらと思ったけれど、車が傾いているのを実感して何が起きたのかを理解する。
爺やと助手席に座っていた若い私兵部隊の兵士が車から降り、左側の前輪を見下ろしながら何かを話し合っているのが見えた。私もシートベルトを外して、外の泥でお気に入りの靴が汚れるのも厭わずに車を降りる。
車の前輪が、道路に開いた深い溝にすっぽりとはまり込んでいるところだった。誰かが掘り返したのか、それとも自然にこうなったのかは定かではないけれど、これはちょっと面倒な事になったな、と思う。
イライナの泥はその性質もあってとにかく粘つく。泥沼に沈んだら最後、もう二度と自力では浮き上がれない程で、だから雪解け水を吸っていたるところに底なし沼が生じる春は冬に次いで死者数が多い。そしてお察しの通り、死因の実に9割が溺死だった。
そしてその泥は、人間だけではなく車にも牙を剥く。
気をつけて走っているつもりでも、こうしてぬかるみに足を取られてスタックしてしまう事は珍しくない……今になって、母上の言った通り列車を使っていればよかった、と後悔する。ザヴォリーダからキリウまでの間にはいくつか道路が舗装されていない区間があって、ここがまさにその場所―――周囲には魔物も生息しているから、こんなところで車がスタックすればそれは死を意味する。
「参りましたな……」
「ごめんなさい爺や、私のせいね……」
「いえいえ、お嬢様のせいなどではございませんよ。道をしっかりと舗装していないのが悪いのです」
そう言いながら、彼は同行してくれた護衛の兵士と一緒にトランクから持ってきたスコップで泥を掻き出し始めた。
泥を掻き出して、それでも脱出できないようであればどこかから木材を調達してきてタイヤに踏ませて脱出するしかない―――それまでの間、魔物の襲撃なんて無ければ良いのだけど。
後部座席のパネルを押し、中に収納していたペッパーボックス・ピストルを取り出した。外出中、野盗や魔物に襲われてもいいように、リガロフ家の車にはこうやって自衛用の武装が用意されている。
そうじゃなくても光属性の魔術で応戦は出来るけれど……念のためよ。
『備えあれば患いなし』という諺が東洋にはあるらしいけれど、まさにその通りだったと実感したのはその直後だった。
唐突に変わる周囲の空気。ガサッ、と草葉が揺れる音。何かが来る―――生臭い臭い、血の臭い。獣の臭い。
ペッパーボックス・ピストルの撃鉄を起こしたのと、”それ”が飛び出してきたのは同時だった。
「うわっ、魔物だ!」
『ヴォロロロロロロロ!!』
「お嬢様、お下がりください!」
姿を現したのはヴォジャノーイ―――カエルを思わせる魔物、その成体だった。
緑色の斑模様が特徴な身体にぎょろりとした眼、そして大きく開いた口とその中に並ぶナイフのような牙……性格はもちろん獰猛で、飢餓状態になると共食いすら始めると言われている。
イライナ地方(特にアレーサを中心とした南部)では珍味とされていて、両足の筋肉を煮込んだり焼いたりつくねにして食べたりと、美食家にも人気のある食材とされているけれど、それ以前にコイツは魔物―――凶悪極まりない人類の敵。
私を庇うように立った爺やと私兵部隊の兵士が、腰に提げたサーベルを引き抜いた。
そこで、私は気付いた。
このヴォジャノーイ、肌に火傷のような痕がある。
それだけじゃない―――身体には破片のようなものが突き刺さっていて、息も切れている。どこか別の場所で戦闘中だったのかしら。
けれども、同情は出来ない。倒さなければこちらが彼の餌食になるだけだから。
ごめんなさい、と引き金を引こうとしたその時だった。
「―――!!」
ドン、と頭上から星が落ちた。
いや、違う。
星などではない―――人間だ。
燃え盛る炎の大剣を手にした、1人の戦士だった。
驚異的な脚力で跳躍してきたと思われる彼は、空中でそのまま回転して勢いをつけ、落下しながらヴォジャノーイの首筋に炎の大剣を叩きつけたのだ。
飛竜のように堅牢な外殻を持たないヴォジャノーイ。それも熱を極端に嫌う彼らにとって、燃え盛る炎の大剣を勢いよく叩きつけられるというのは防御力的な面で実に相性の悪い、最悪な攻撃だったと言わざるを得ない。
体重と落下の勢い、そして回転の勢いを乗せた力強いその一撃は、ヴォジャノーイの首をさながらパンのように容易く切り裂いた。ジュッ、と肉の焦げる音と共に、ヴォジャノーイの首が泥の上に転がる。
首から上を失った胴体がふらつき、遅れて倒れていった。
「……お怪我はありませんか?」
ヴォジャノーイを一撃で仕留めた剣士は、不慣れな標準ノヴォシア語でそう言った。
外国語なのかしら……イライナ語やノヴォシア語で特徴に良く挙げられる巻き舌発音に少し不慣れな感じがするし、単語のイントネーションも異なる部分がある。おそらくはイーランド語かフランシス語、その辺りの言語が彼の母語なのかもしれない。
けれども、そんな事はどうでもよかった。
私たちの窮地を救ってくれた彼は、犬の獣人のようだった。顔立ちは端正で、体格は筋骨隆々というわけではないけれど、服の上からでもしっかりと鍛え上げられ、引き締まった筋肉がついている事が分かる。不要なものをそぎ落とし、戦う事に特化した身体と表現するべきかしら。
貴公子、という表現が似合いそうな、そういう感じの男性だった。
「え、ええ……おかげさまでみんな無事ですわ。感謝します」
ドレスの裾を摘まみ上げながらお辞儀をすると、爺やと兵士も一緒に頭を下げた。
「それは良かった……それと、こちらこそ申し訳ない。さっきのカエルは私が討伐していた群れの撃ち漏らしかもしれない」
「いえいえそんな……」
討伐していた群れ……ヴォジャノーイの群れに単独で?
そういえば、爺やが出発前に『ザヴォリーダ近辺にヴォジャノーイがコロニーを作った』という噂話を聞いた、と言っていたけれど……もしかしてそれの討伐に?
コロニーという事は、その親玉であるルサールカもいる筈。
まさかとは思うけれど、それをたった1人で? パーティーも組まずに?
「お強いのですね」
「……いいえ、まだまだ自分は青い」
少しだけ目を伏せ、彼は言った。
「以前、マズコフ・ラ・ドヌーの闘技場で手強い冒険者と戦いましてね。自分の実力不足を痛感させられ、修行をしながら旅をしていたところなんですよ」
「そうでしたか……それでイライナに」
マズコフ・ラ・ドヌー……ノヴォシア地方の最西端に位置する都市。確かにそこには闘技場があるし、ミカたちもそこで冬を越して東へと向かったと手紙に書いてあったけれど……。
そういえばあの子も闘技場に出場して勝利を収めたと聞いていたけれど、まさか……そんなわけないわよね、まさか……ね?
「ああ、ところで車が……せっかくです、お手伝いしますよ」
「えっ? ああ、ありがとうございます。何から何まで……」
「いえいえ、お気になさらず。こうして知り合ったのも何かの縁です」
ね、と笑みを浮かべる彼に見つめられ、少しだけ恥ずかしくなった。
なんだろう……まるで、お姫様の窮地に颯爽と現れる絵本の中の騎士みたい……。
結局、彼は車がぬかるみを脱するまで付き合ってくれた。
そして私は、後悔しながら帰路につく事になる。
せめて彼の名前だけでも聞いておけばよかった、と。




