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泥濘の主、ルサールカ


 初めて魔物を目にしたのは、あれは確か8歳くらいの頃だ。


 山の中、両親と一緒に薬草を摘んでいた時の事だった。茂みの中から群れからはぐれたと思われるゴブリンが1体飛び出し、襲い掛かってきたのだ。


 あの時は死んだかと思ったし、こんな恐ろしい相手と戦う騎士団や冒険者は大変な仕事だという事を痛感した。もし近くに猟師が居て、咄嗟にゴブリンを撃ち殺してくれていなかったら、俺と両親は今頃故郷の村の近くの山から生きて帰る事はなかっただろう。


 その怖さを知っていたからこそ、しかし立ち上がる勇気を得た。


 そして初めて魔物と戦ったのは15歳の頃―――冒険者になり、ギルド”アルカディア”で見習いをしていた頃にゴブリンと戦った。


 その時の話は俺にとっては黒歴史と言ってもいいだろう。みっともなく取り乱しながら叫び、剣を滅茶苦茶にぶんぶん振り回すばかりだったから、とてもじゃないが人に見せられるような戦いではない。今でも当時お世話になったアルカディアの冒険者たちと手紙のやり取りをしたり、祖国に戻った時は一緒に食事をしたりしているが、酔いが回った先輩たちはみんなその話をするのだ……そろそろ忘れてはくれぬものか。


 それから数多の魔物と戦い、多くの剣士たちと刃を交えてきたが、しかしあの時感じた恐怖は今も胸の奥底に根付いている。それは時折、深淵から根を伸ばしては苛んでくるのだ……あの時の恐怖を忘れるな、自分の非力さを忘れるな、と。


 そしてその恐怖が、思わず相手に微かに怯えてしまうその感覚が時折心地良く感じてしまう事があるのも、また事実。


『ヴォロロロロロロロロ!!!』


 他のヴォジャノーイよりも遥かに低く、まるで地獄の底から響いてくるような雄叫びと共に、カエル共の長―――泥濘の主、ルサールカが突進してきた。カエルのような手足とはいえ成人男性の胴体ほどもある太さの四肢を器用に使い、泥の上を這いずるように突っ込んでくる。


 これだけの質量だ、正面からまともに受ければひとたまりもあるまい。他の魔物のような堅牢な外殻は無く、防御力はゼロに等しい魔物ではあるが、しかしその質量は恐ろしい武器になる。コイツの攻撃は受けるよりも躱すのが一番だ。


 右へとジャンプして突進を回避、女王たるルサールカを守る近衛兵なのだろうか、彼女の隙を埋めるように飛びかかってきたヴォジャノーイの成体を回転斬りで両断、泥濘に新たな屍を加える。


 ぐちゅ、と泥のまとわりついたブーツが不快な音を発した。


 イライナの泥はイーランドや他の地域の泥と比較すると粘度が違う。一度足を踏み入れればそれはどこまでも粘つき、絡みつき、まとわりついてくるのだ。既に体感では自分の体重が2倍、いやそれ以上の重さになったかのような感覚がある。


 そういう意味でも泥濘は彼女らのテリトリーなのだろう。泥の中で動きが鈍った相手を嬲り殺しにし、最終的には餌食とする―――イライナ地方においてヴォジャノーイは珍味ではあるが、それ以前にれっきとした危険な魔物の一種であるのだ。


 突進を躱されたルサールカが巨体を強引に方向転換。ドリフトするレーシングカーのような動きで、しかし大型トラックのような重々しさを感じさせながらこちらへ急旋回するや、無造作に右手を振るった。


 カエルの手と人間の手を足したような形状をしたルサールカの手。泳ぐために最適化された形状なのであろう、指と指の間に水かきのあるそれを振るい、泥の塊を散弾のようにこちらに飛ばしてくる。


 なるほど、点での攻撃が躱されるならば面で攻めようという腹積もりなのか。カエルの分際で知能はそれなりに高いようだが―――。


 軽く足を持ち上げるまでもなく、完全に躱し切るのは無理だと悟る。


 泥に足を押さえられた状態での完全回避は絶望的だ。致命的な被弾は回避できる自信があるが、しかしその()()()()()()()()()の積み重ねで最終的にこちらの機動力が殺され、動きが封じられるのは目に見えている。


 ならば、と目を見開いた。


 魔力を放射しながら歯を食いしばり、大剣を勢いよく足元の泥濘に突き立てる。


 切っ先が泥濘を穿つ浅い感触―――それと同時に炎属性の魔力を放射。体外へ放出された炎属性の魔力はすぐさま大気を吸って急激に燃焼、外側へと放出される斥力と化し、周囲の物体を全て吹き飛ばす。


 炎属性魔術『燃焼斥力』。


 要するに魔力を放射して自分の周囲で小~中規模の爆発を生じさせ、周囲の物体を吹き飛ばす防御用、あるいは近接戦闘用の魔術だ。


 とはいえ俺の適正(それほど高くはない、C+程度である)ではこの程度が限界だが、より適正に恵まれた者が使うと城壁を吹き飛ばし、大地を深々と抉る恐るべき一撃と化す。つくづく魔術とは適正に、生まれ持った才能に左右される分野なのだと思い知らされる。


 とんできた泥濘の散弾は爆風を受け、瞬く間に打ち砕かれた。保有していた水分を一瞬のうちに蒸発させられ、砕かれ、受け流されていく。


 泥濘で覆われていた足元も、気がつけばすっかり乾燥していた。大気を喰らい爆発的に燃焼した炎の熱はすさまじく、足元の泥を蒸発させたどころか赤々と燻る火種すら見える。


 ブーツに付着した泥もぼろぼろと崩れていき、足が枷から解放されたかのような軽さを覚えた。


『グゥ……!』


 ルサールカがそれを見て、頭を庇うように左腕を突き出す。


 あからさまに嫌がっている―――それもそのはず、ルサールカは……というよりヴォジャノーイという種族全体に言える事だが、奴らは体表の水分を失うと死に至る。


 だから乾燥から身を守るため、ぬるぬるとした粘液で体表を覆い不要な水分の喪失を防いでいるのだ。この大地で生きるために彼女らの祖先が体得した身体的特徴ではあるが、しかし乾燥に耐えられるようになっても燃え盛る炎には耐えられまい。


 大剣の刀身に、そっと左手の指を這わせた。


 まるで点火された松明トーチのように、大剣の刀身が燃え盛り始める。


 とにかく、奴らの弱点は炎属性だ。幸い、こちらの属性は炎属性。適正には恵まれておらず平凡の域を出ないが、足りない分は技量で何とかカバーするしかあるまい。


 見せてやろう―――この炎こそが、『魔犬』たる所以なのだと。


 焼け爛れた地面を踏み締め、駆け出した。


 生き残った数体のヴォジャノーイが、女王たるルサールカを守ろうと前に出てくる。


 奴らも必死だった。焼け爛れた地面を踏み締める度、ジュウ、と焼けるような音がする。一歩一歩踏み締める度に、ヴォジャノーイたちの顔に苦痛の色が浮かぶのがはっきりと分かった。


 ルサールカは一族の女王、コロニーの長にして繁殖の要。彼女を失えば群れを維持する事は出来なくなり、そのコロニーは滅亡へと向かっていく事になる。


 だから身を挺してでも守らなければならないのだ―――言葉も分からず、意思の疎通も出来ず、分かり合う事も出来ない事が決定づけられたヒトと魔物ではあるが、しかしそんな彼等にも自己犠牲の精神というものは確かに宿っていると見える。


 ならばこちらも、その覚悟に全力に報いるまでだ―――全力で挑みかかってくる相手に対し、全力で迎え撃つ事こそが戦士として最大の礼節である。


 身を屈め、下から剣を思い切り突き上げた。ドンッ、と大気が震え、炎を纏った大剣の切っ先が飛びかかってきたヴォジャノーイのでっぷりと膨らんだ腹を容易く刺し穿つ。


 身体中の水分を蒸発させられながらも、しかし最期の力を振り絞って刀身を掴んでくるヴォジャノーイ。渾身の力で大剣を引くも、押さえつけられているせいで思うように動かない。


『ヴォロロロロロロロ!』


「!」


 仲間の決死の覚悟での突撃、その際に生じた隙を突いて、別のヴォジャノーイが左から突っ込んでくる。牙の並んだ口を大きく開きながら距離を詰めてくるが、しかし大剣の柄から離した左手で投げナイフを投擲する方が遥かに速かった。


 ドッ、と次の瞬間には眉間に大型の投げナイフが深々と突き刺さる。切っ先が頭蓋を穿ち脳にまで達したようで、奇襲を試みたヴォジャノーイは無念そうに血涙を流しながら焼け爛れた地面を転がって、そのまま動かなくなった。


 力尽きたヴォジャノーイの腹を蹴飛ばして大剣を強引に引き抜き、生き残ったルサールカに吶喊する。


 今死んだのは自分の子供なのか、それとも同じ親から生まれた姉弟なのかは分からない。が、しかし彼女の目には確かに怒りが滲んでいた。仲間をよくも、と煮え滾る感情が確かにそこにあった。


 喉が張り裂けんばかりに咆哮し、ルサールカが口を大きく開く。ボコッ、と腹が大きく膨らんだと思った次の瞬間には、大牛だろうと一口で呑み込んでしまいそうな口から加圧された泥濘が迸っていた。


 泥ブレスだ。


 ヴォジャノーイは水分を確保するため、体内にある特有の臓器に泥を溜め込んでおく習性があるという。そこから水分を少しずつ抽出する事で、干ばつで生息地の沼が干上がっても行動する事が出来るのだ。


 そしてそれは攻撃にも転用できる。通常のヴォジャノーイであれば相手に粘度の高い泥を吹きかけ動きを封じる程度だが、しかし大型の個体であるルサールカであればその限りではない。大量の泥を、他のヴォジャノーイ以上に発達した筋肉で圧力を加えて放射する事により水圧カッターならぬ『泥圧カッター』として放出、相手を寸断する事も出来るのだという。


 しかしそれは体内の水分の備蓄を消費して放つ諸刃の剣―――それを繰り出すという事は、ルサールカも必死なのだ。もはやなりふり構っていられなくなった、という事であろう。


 焼け爛れた地面を蹴って左へと飛んだ。ヒュゴッ、と頭のすぐ脇を泥圧カッターが通過していき、頬の右側が掠めただけで微かに切れる。あんなものの直撃を受けたらひとたまりもないだろう―――たとえ金属製の防具を着込み、同じく金属製の盾を装備していたとしても、だ。


 全力で地面を蹴り、前に出た。


 ルサールカが頭を振ってブレスを薙ぎ払ってくるが、しかしもう遅い。


 懐へと飛び込んだ―――彼女の巨体では、もうどうすることもできない。


 一歩、大きく踏み込んだ。


 ブーツが焼け爛れた地面に軽くめり込む。どん、と大気が震え、一瞬ばかり周囲のあらゆるものがスローモーションのようにゆっくりと見えた。


 これは当たる―――確信を抱き振り上げた、炎の大剣の一撃。右斜め下から左斜め上へ、深々とめり込んだ刀身が肉を焼きながら斬り上げられる。


 渾身の力を込めた一撃を受け、ルサールカの絶叫が泥沼へと響いた。


 地面を蹴って後方へとバックジャンプ。


 その直後、今の一撃で切り開かれたルサールカの腹から焼けた内臓が濁流さながらに溢れ出た。切り裂かれた胃袋からは消化途中と思われる泥まみれの肉に骨片、それから被害者の持ち物と思われるナイフに布の切れ端、それから一緒に呑み込んでいたと思われるゴミ類(どういうわけか浴槽に浮かべるアヒルのおもちゃがある)まで、とにかくまあ胃の中の内容物は種類が豊富だった。


 裂けた腹へと溢れた内臓を押し戻そうとするルサールカ。しかしその呻き声も徐々に小さくなるや、どう、と3m以上の巨体が焼け爛れた地面に崩れ落ちた。


 ぶんっ、と大剣を振るい、背中の鞘に収める。


 それにしてもまあ、面白い戦いではあった。


 イライナ地方の固有種、ヴォジャノーイとルサールカ。異国の地へ渡る楽しみは異文化を体験する事にあるのだろうが、個人的にはその地域にしか生息していない魔物との戦いも十分な楽しみと言えるのではないだろうか。


 そんな事を思いながら死体の処理の準備をし、それから珍味と言われる足の筋肉でも剥ぎ取って今夜食べてみようかと思っていたその時だった。


『うわっ、魔物だ!』


『ヴォロロロロロロロ!!』


『お嬢様、お下がりください!』


「!」


 しまった、撃ち漏らしか!


 大剣を引き抜き、声の聞こえた方向へと走った。


 草むらを抜けるとそこにはぬかるみにはまり込んでスタックしたセダン(高級車のようだ)があって、その周囲にはスーツ姿の護衛2名と赤いドレス姿の金髪の女性、それからその3人に襲い掛かろうとしているヴォジャノーイ成体の姿があった。


 どこかの貴族のお嬢様なのだろう。お出かけ中に車が泥濘にはまり込んでスタック、そこに運悪くヴォジャノーイの成体が姿を現した……そんなところか。


 とにかく、無用な犠牲を出すわけにもいかない。


 先ほどの戦いで酷使した足を踏ん張り、地面を蹴って大きく跳躍した。このぬかるみだ、全力で走ったところで間に合わない。


 空中で身体を一回転。その勢いを乗せ、落下の勢いも加えて大剣を振り下ろす。


 護衛と女性に襲い掛かろうとしていたヴォジャノーイの頭上から振り下ろされた大剣が、カエルのような姿をした魔物の首をあっさりと撥ね飛ばした。


 首から上を失い倒れるヴォジャノーイ。傍らに着地して大剣を鞘に収め、襲われかけていた女性たちの方を振り向いた。


 ノヴォシア語の文法と単語を思い出しながら、とりあえず問いかけてみる。


 『お怪我はありませんか』、と。





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