不可侵条約
ノヴォシア帝国の国土は広大だ。
ノヴォシア、イライナ、ベラシア―――3つの地方で構成されるこの大国は、ノヴォシア地方だけで見ても世界最大の国土を誇る。そして皇帝陛下と共に歴史を重ねてきたこの偉大な帝国は、侵略者による国土の簒奪を決して許さなかった。
フランシス共和国のナポロン将軍による侵略戦争、ノヴォシアでは『祖国戦争』と呼ばれているそれが最も分かりやすい例だ。広大な国土と苛酷極まりない冬はそれだけで侵略側に多大な兵站への負担を強いる。前線の部隊への物資の補給、その7割を現地調達としていたフランシス軍には、ノヴォシア側が用いた徹底的な焦土戦術は効果覿面だったのだ。
結果、ナポロン将軍はノヴォシアの大地を満足に侵略する事も出来ず、飢餓と寒さで多くの兵をいたずらに死なせながらフランシスへと逃げ帰った―――歴史書にはそう記されている。
しかしそれだけ大きな国土を持っていれば、その全土の治安を維持する警察組織も大規模にならざるを得ない。
そして組織の規模が大きく―――”肥大化”と表現するべき規模にまで膨れ上がれば、嫌でも組織の腐敗は進んでいくものだ。
本当に良い時代になったものだ、と”エフゲニー・コンドラートヴィッチ・トロゾフ”は思う。
今やガラマは実質的な治外法権だ。帝国領土の1つでありながら、しかしその監視の目が届く事はないギャングたちの土地。治安維持に努める憲兵隊もすっかり腐敗し、今ではエフゲニー率いるトロゾフ・ファミリーの言いなりになっている。
最初は生真面目な男が憲兵隊の責任者だった。その家族を人質にとって、あるいは札束を少しちらつかせればどんな憲兵でも大人しく、言う事を聞くいい子になった。そして脅迫にも屈せず、賄賂も受け取らない聞き分けの悪い憲兵が後任としてやってきた時は、身元不明の遺体が翌日にはガラマ川に浮かんでいたものだ。
先代から続く努力により、今やガラマは帝国国内にあって法の及ばぬ治外法権。麻薬の密造に密売、密造銃器の製造に販売、違法な奴隷売買に至るまでやりたい放題だ―――少なくとも、トロゾフ・ファミリーの影響力が及ぶ街の東半分では、エフゲニーの意のままに全てが動く。彼が部下に命じるだけで全てがその通りに動くのだ。だからこのガラマという街は今や彼の帝国と言っても過言ではなかった。
「うん、やはりワインはイタリアーナ産に限るな」
部下がグラスに注いだワインの香りを楽しみながら、エフゲニーは満足そうに呟く。
窓の向こうに見える夜景を眺めながらワイングラスを持ち上げ、口に含んだその時だった。コンコン、と部屋のドアをノックする音が、事業から一旦離れワインの香りと味を楽しんでいたひと時に水を差す。
眉をひそめつつも、エフゲニーは傍らに立つ部下に頷いてみせた。食事の時くらいゆっくりさせてくれ、という思いはあったが、しかしギャングのボスという地位は常に安全というわけではない。組織こそエフゲニーの圧政の元で一枚岩となっているものの、その勢力圏のすぐ隣には街を二分するもう一つのギャング―――【チェレベンコ・ファミリー】が待ち受けており、日夜互いを蹴落とすために工作を仕掛け合っている。
隣人に遅れを取る事は許されず、それはすなわちギャングとしての今の地位を、そしてエフゲニーの今の地位を脅かしかねない事である。
それに比べれば、脂身たっぷりのビーフステーキと赤ワインを楽しむ時間を削る事も許容できるというものだ。
「入れ」
部下が命じると、ドアがゆっくりと開いた。
「お食事中失礼します、ボス」
「なんだ」
ドアの向こうからやってきた部下の手には白銀のトレイがあった。その上には魔力バッテリー式の黒電話が乗っており、既に受話器は外してある。
「その……”血盟旅団”を名乗る冒険者ギルドからお電話が」
「冒険者ギルド?」
はて、ファミリーとのつながりの中に冒険者ギルドなど含まれていただろうか。
ギャングという組織上、仕事には専門の殺し屋部隊を宛がうのが当たり前だ。自分たちの関与を疑われたくない場合は、複数の仲介人を介して外部の暗殺ギルドを雇う事もあるが……しかし冒険者ギルドに仕事を依頼する事はあるかもしれないが、逆に冒険者ギルドから電話があるなど異例中の異例だ。
思い当たる節がなかなか見つからず、訝しむような目で部下の顔を見上げるエフゲニーに、電話を持ってきた部下は「その……オレグ様の件です」と続ける。
オレグ―――息子絡みの案件か、とエフゲニーは溜息をついた。
次期ボス候補のオレグはエフゲニーの実の息子だ。二番目の妻との間に生まれ、15の頃からこの業界に足を踏み入れるようになった。残忍で冷酷、ギャングの何たるかをよく知っているが、しかしまだ若いが故に不用心で危ない橋を突っ走る悪癖がある。
父親としてはそこが息子の欠点であると理解していたし、これまでにオレグの尻拭いを何度もさせられてきた。今回もそういう類の話なのだろう、と何となく予想しながら、部下の手から受話器を受け取る。
「もしもし」
《ああ、もしもし。突然の連絡申し訳ありません、エフゲニー・コンドラートヴィッチ・トロゾフ様。こちらは冒険者ギルド”血盟旅団”団長、ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフです》
ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフという名前には聞き覚えがある。
イライナ地方のキリウに居を構える没落貴族、リガロフ家―――公式には4人の子供がいるという事になっているが、しかし父であるステファンと屋敷で働くメイドの間に生まれてしまった庶子が1人いて、その庶子が屋敷を飛び出し冒険者をやっている、と。
その庶子の名がミカエル……ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフ。
”雷獣”の異名付き。
そんな注目されている冒険者が、このトロゾフ・ファミリーに何の用か。オレグの件といったい何の関係があるのか―――身構えていたエフゲニーに、電話の向こうにいるであろうミカエルは容赦なく現実を突きつけた。
《実はですね、本日あなたの息子さんから依頼がありまして……トロゾフ・ファミリーの事業を探っている弁護士を消せ、と》
「……それで」
《こちらも冒険者、申し訳ありませんがギャングと関係を持つわけにもいかずお断りしたのですが……その直後、あなたの息子さんとその部下から襲撃を受けまして。止むを得ず反撃、息子さんを除く部下全員を射殺、息子さんの身柄はこちらで拘束するという結果と相成りました》
ぐらり、と視界が揺れそうになった。
オレグの悪癖はよく把握している。冷酷で残忍で、しかし若いが故に慎重さというものを知らない。自分がこうだ、と信じたものは疑わず、どこまでも全力で突っ走る。
若い頃の自分にそっくりだ―――それで失敗してきたからこそ、息子には同じ轍を踏んでほしくは無かった。
しかし今回はその悪癖が、最悪の結果を招きつつあった。
「……息子は、オレグは無事なのか」
《はい。銃撃戦の最中、止むを得ず片足を撃ち抜きましたが命に別状はありません。手当も済んでいます》
「それで、君は何が言いたい?」
《我々はあくまでも旅の冒険者、無用な流血は避けたいと考えています。つきましては息子さんの身柄と引き換えに、こちらの出発準備が整い、この街を発つまでの不可侵条約を結んでいただきたい》
息子の身を案じる父としての感情と、冒険者ギルド如きが対等になったつもりかというボスとしての感情がせめぎ合う。
トン、トン、と右の人差し指がテーブルを叩く。昔からの、苛立っている時の癖だ。そして部下たちはそれが何を意味するのかよく理解している。
《もちろんその間、こちらからはそちらの事業には一切干渉しませんし、今回の暗殺依頼の件やその他諸々、一切の口外をしないとお約束しましょう》
「なるほど……ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフ君だったか。なかなか面白い事を言う」
《そちらとしても、悪い話ではないと思いますが?》
「ふむ、分かった。ただこちらも部下たちに説明して対応を協議する時間が欲しい。猶予が欲しいのだがよろしいか」
《分かりました。それでは色よい返事をお待ちしております》
その言葉を最後に、受話器は静かになった。
―――舐めているのか。
受話器を部下に返し、左手で頭を抱える。
弁護士の暗殺―――隣町で活動している男の件であろう、とはすぐに察しがついた。他の地域から拉致してきた人間を奴隷として違法に売買する人身売買事業、その流れを追っていた弁護士だ。少々目障りになってきたからいつか消さなければならないな、と以前の定例会議の際に言った事を、オレグは実行しようとしたのだろう。
そしておそらく、オレグはその汚れ仕事を冒険者にやらせようとしたのだ。そしてあわよくば依頼終了後に冒険者ギルドを消し、全ての責任を被せてファミリーは知らぬ存ぜぬを決め込む……そこまで思い描いていたであろう事は察しが付く。
しかしオレグは色々と見誤った。
冒険者ギルド側が金で釣られるような相手ではなかった事。そしてギャングの奇襲をものともせず返り討ちにしてしまうような、手練れの連中だったという事だ。
確かにそこまではバカ息子の責任である。
しかし―――問題はそこから先だ。
ボスの息子を人質に、不可侵条約を結べとは何事か。一体いつからたかが冒険者ギルドと、このトロゾフ・ファミリーが対等になったと思っているのか。
今回はファミリーに非があるのだからこのくらいは譲歩しろ―――そんな思惑が、先ほどの声の主からは覗えた。
「ボス、兵隊は既に集めてあります」
「……その中から手練れの奴を選べ。連中を消し、オレグを救出するんだ」
「かしこまりました」
息を吐き、グラスに残ったワインを乱暴に飲み干した。
確かに依頼を吹っ掛け、決裂するや襲撃を仕掛けた息子の非礼は詫びてしかるべきであろう。
だがしかし、連中は増長が過ぎた。
弁えろ―――皿に残ったステーキを切り分け、フォークで口に運びながらエフゲニーは窓の向こうを睨む。
夜景の浮かぶ街の一角には、ガラマ駅が見えた。
「―――って、どうせ連中は考えてるだろうな」
スプーンでオムライスを口へと運びながら、俺はそう告げる。
ケチャップライスを覆い尽くす卵の上には、さっきクラリスが描いてくれたハートがある。食べるのが惜しくなるというか、ついついスマホの画像フォルダに保存せずにはいられない、鮮やかなハートが。
オレグの身柄はこちらが拘束している―――こちらの要求は、とりあえず俺たちが出発準備を終え次の街に発つまではお互い何もしない事。こちらはギャングの事業に首を突っ込まないし、今回の一件を口外もしない。その代わりそちらもこっちに手出しはしないでほしい、という事だ。
守ってくれれば息子の身柄はキチンと返すつもりであるが、連中がそれを守ってくれるとは思えない。
所詮は反社会的勢力、彼等にもルールはあるのだろうが法を平気で軽んじる連中を信用するほど、俺たちも馬鹿ではない。必ずここ数日の間に何らかのアクションを起こすはずだ……流血を伴う、物騒なアクションを。
「カーチャ、すまないけど……」
「了解、守護天使になればいいのね」
「ああ。列車に近付く不審人物はカーチャの裁量で排除してくれて構わない。判断がつかない場合は連絡を」
「わかった」
こういう時、狙撃手というのは本当に心強い存在になる。以前カルロスも狙撃手として参戦してくれたが、あの時と同じような安心感があった。
意を決してケチャップで描かれたハートを崩して口へと運んでいると、食堂車にパヴェルが戻ってきた。かぶっていたウシャンカをカウンターテーブルの上に置くなり、ウォッカの酒瓶を取り出して中身を呷りはじめる。
「どうだった」
「やっぱ腐敗してる連中はやりやすいよ」
ぷはー、と口元を拭い去り、少し頬を紅くしながら彼は言う。
「賄賂は受け取ってくれた。ここ数日の間、銃撃戦があっても見て見ぬふりをしてくれるそうだ」
「約束を守ってくれなかったら?」
「そん時ぁアレの出番だろ、リガロフ砲」
「……まあ、そうなるよね」
幸い、ここからモスコヴァまでは比較的遠くない。姉上に電話の一本でもすれば、きっと大喜びで現場まで来てくれる筈だ。
「とりあえず食料品と水、それから石炭の売り手は見つけたし商談も済んでる。順調に行けば3日で出発できるよ」
「相変わらず仕事が早い」
「そりゃあ俺有能だもん」
ホントそれである。
さて……この3日間が勝負だ。
願わくば相手が約束を守ってくれるような、義理堅いギャングである事を祈るばかりだが……まあそうはならないよね、とは思う。




