前職の話
「はい、こちらが治療薬です」
「ありがとうございます、シスター」
瓶に入った蒼い液体を受け取り、今回のクライアント―――ワレリーは安堵したように言った。
テンプル騎士団において”同志指揮官”と呼ばれていた男性のホムンクルス兵、ボグダン。奴がこちらに譲渡したデータチップの中身は嘘偽りなく、確かに治療薬のレシピだった。
賢者の石を生成する際の副産物、適性の無い人間に対しても魔術の適正を付与する紅い薬液。しかしそれは強力な依存性を持つ代物で、飲み続けていなければ禁断症状が肉体に牙を剥き、やがてはどれだけ薬を飲んでも禁断症状が消えなくなる……考えるだけで恐ろしい代物だ。
しかし生まれつき魔術の適正を持たない人たち、そういった持たざる者から搾取するにはこれ以上ないほど効果的な代物であるというのも確かだった。魔術の適正ばかりはどれだけ財力があっても、どんな技術を使っても、そしてどれだけ努力しても覆す事の出来ないものであり、この常識は魔術の歴史が始まった30万年前から例外なく続いている。
だが、「これを飲めば魔術の適正を得る」という言葉と共に売りつければどうだろうか。
生まれつき魔術の適正を持たぬが故に蔑まれ、底辺へと追いやられていた人々は喜んで手を伸ばすはずだ―――今回のリジーナが特に良い例で、彼女は助かったからいいものの、こんな事が帝国中で(考えたくはないが下手したら世界中で)繰り広げられていると考えるだけで恐ろしい。
「さあ、リジーナ」
「う、うん……ありがと」
弱々しい声で言いながら、リジーナはワレリーからコルク栓を外してもらった状態の瓶を受け取った。あんな経験をしたからなのだろう、いかにも化学薬品でっせと言った感じのケミカル臭には相当な抵抗がある模様で、口にするのに躊躇する様子が見られた。
無理もない話だ、治療薬からもなかなか強烈なケミカル臭がする……しかしそれでいてイライナハーブを素材の1つに使っているのだから信じられない。
飛竜の骨髄とイライナハーブの粉末、それから聖水を混ぜ合わせたものがあれなのだそうだ。飛竜の骨髄が少々割高(あるいは自分で調達しに行くか、だ。冒険者はそっちの方が早い)だが、どれも頑張れば雑貨店で手に入る素材ばかりである。
既にレシピもワレリーに渡してある。さすがに真っ直ぐな彼の事だから、それを使って禁断症状に苦しむ被害者相手に一儲けしよう、なんてクッソ汚い事はしないとは願いたいものだが……。
シスター・イルゼが調合した治療薬を飲んだリジーナの顔から、ゆっくりとではあるが脂汗が引いていくのが分かった。顔色も良くなり、呼吸も安定し始めているようだ。
「ど、どう?」
「うん……少し、気分がよくなったみたい」
「とりあえず、処方した分は食後に服用してください。あるいは禁断症状が出た際に服用しても構いませんが、念のため4時間は服用の間隔を空ける事。それと症状が長期化する場合はレシピ通りに素材の調合を行ってください」
まるで病院の先生だな、と思う。
シスター・イルゼはアルカンバヤ村で住民たちの悩みを聞いたり、日曜日には神父の代わりに宗教の教えを説いたりして活動していたそうだが、それ以外にも簡単なものであれば薬の調合も行っていたそうだ。実際に子供に風邪薬を処方して完治に導いた事もあるらしい。
「ありがとうございます、シスター」
「ええ、お大事に」
にっこりと微笑むシスター・イルゼ。彼女にもう一度礼を言ったワレリーは、リジーナの手を握りながら俺にも「本当に助かった。彼女を助けてくれてありがとう」と述べ、食堂車を後にした。
今度はその手を離さないでいてほしいものだ―――結局のところ、迷い人を導くのはいつだってヒトなのだから。
けれどもきっと、それは大丈夫だろう。
ぎゅっと強く握ったその手が離れる事はないだろうし、リジーナだってその温もりは忘れないだろうから。
ワレリーとリジーナがレンタルホームへと降りていったタイミングで、明るい曲調のチャイムがレンタルホームに響いた。最近のヒットソングをアレンジしたものなのだろう、透明感を滲ませる旋律が雪原を思わせるが、しかしその中を希望を抱き前に進んでいこうとしているような、そんな感じだ。ツォルコフから旅立っていく冒険者を見送るにはうってつけの選曲なのではないだろうか。
《19番レンタルホームより、血盟旅団の列車”チェルノボーグ号”が発車いたします。皆様の旅の安全をお祈りいたします》
俺たちを見送る駅員のアナウンスに、機関車にいるであろうルカが重厚な警笛で応えた。AA20の煙突が派手に黒煙を吹き上げ、ホームに響くベルに急かされるようにゆっくりと車輪を回転させ始める。
窓の向こうの景色が右から左へと流れ始めた。
在来線のホームとは違い、レンタルホームを利用するのは冒険者だけだ。だからギルド関係者以外の往来は基本的になく、ホームの設備も外部との連絡用の電話ボックスに休憩用ベンチ程度と簡素極まりない(駅によっては駅弁の売店があったりする)。
在来線と比べ閑散としたレンタルホームで、ワレリーとリジーナが手を振りながら何かを叫んでいる。走り出した列車の車輪の音と、他のホームで響くチャイムやアナウンスに掻き消されてはっきりとは聞こえないが、ありがとう、という言葉だけは何となく聞こえた。
客車のドアから身を乗り出して大きく手を振る。やがて彼らの姿と、ズメイの襲来から復興し大都市となった新ツォルコフ駅のホームが後方へと去っていった。
きっとあの2人ならば大丈夫だろう―――この過ちを、きっと乗り越えてくれる。
顔を引っ込め、扉を閉じた。
すぐ左側にある線路を、在来線の特急列車がブレーキをかけながら通過していった。ツォルコフは大きな街だから、利用客が少ない駅とは違って通過するわけにはいかないのだ。
自室に戻る頃には、既に窓の向こうの風景は街中から橋の上に変わっていた。雄大なヴォルガ川の流れが窓いっぱいに広がり、どっさりと貨物を積んだ船の往来が眼下に広がる。畔では釣り人が竿を伸ばし、時折釣り針を引き上げては一喜一憂している姿がここからでも見えた。
のどかな、それでいて何の変哲もない、ありふれたノヴォシア帝国の日常。
春のとある一日、カレンダーに記された平日の朝。
けれどもなぜだろうか、心が全く落ち着かないのは。
「ご主人様、ミルクティーをお持ちしました」
「ああ、ありがとう」
コト、と小さめのテーブルの上にアイスティーを置いてくれるクラリス。少し冷ましてから口へと運ぶと、ミルクのまろやかさに包まれた茶葉の香り(ああこの茶葉イライナ産だ)、そして少し多めの砂糖が提供してくれる濃密な甘みが舌へと染み渡っていった。
クラリスは俺の好みを全部把握してくれている。紅茶には砂糖5本くらいが最低限、それ以上のアレンジはその日の気分次第。まあ少なくとも糖分をマイナスする事は無いのだが。
《血盟旅団の皆様にご連絡いたします。この列車はマズコフ・ラ・ドヌー発、ボロシビルスク行きとなっております。次の停車駅は『ガラマ』、ガラマです。到着まで今しばらくお待ちください》
イライナのヒットソングをアレンジした車内チャイムの後に聴こえてきたルカの声。すっかり鉄道会社の運転手と言った感じのいかにも手慣れた感じの声には安心感すら覚える。
最近ではパヴェルも機関車の運転をルカとノンナに任せ、非常事態やあの2人ではヤバそうな難所を通過する際に補助に入る程度なのだそうだ。ノンナはともかく、ルカの方は冒険者としてだけではなく機関士としても急成長しつつある。
さて、俺がどうも落ち着かない原因はズバリ、そのパヴェルの事だった。
コンコン、と部屋がノックされる。まるで俺の……いや、俺たちの心境を見越したかのように、ドアにある小窓の向こうにはクッソ人相の悪い、ツナギ姿ではなくスーツ姿だったら完全にマフィアの幹部(ボスではなく幹部であるところがポイントである)にしか見えないヒグマみたいな巨漢が立っているのが見え、クラリスが頷いてからドアを開けてパヴェルを部屋の中へと招き入れた。
「よう」
「……丁度、話を聞きたかったところだ」
「奇遇だな。俺も筋を通すべきだろうと思っていた」
そう言いながら俺の前に立つパヴェルと入れ替わる形で、クラリスは一礼してから部屋を出ていった。パヴェルの分の飲み物も用意しようというのだろう。本当は彼女だって、パヴェルの話が気になって仕方がないだろうに……特に、130年前の旧人類滅亡、その当事者であるというならば猶更だ。
パヴェルもそんなクラリスの心境を見透かしてか、彼女がミルクティーを淹れてくるまで待っていた。じっと口を閉じたまま、石膏像みたく俺の前に立っている。
「……座れよ」
「ああ」
クラリスが戻ってくるなりそう言うと、そこでやっとパヴェルは近くにあった椅子に腰を下ろした。傍らにあるテーブルにクラリスがティーカップを置くや、パヴェルは礼を言ってから息を吐く。
「……まあ、お前の言いたい事は分かるよ。あのボグダンと俺がどういう関係か……そしてそもそも、このパヴェルさんは何者なのか、そろそろ話してほしいんだろ」
「話が早くて助かる」
パヴェルの事は、このギルドの誰もが仲間だと思っている。どんな仕事も嫌な顔せず率先してやってくれるし、俺たち以上の激務を毎日のようにこなし、裏で色々と手を回してくれているおかげで円滑な活動が出来ている―――血盟旅団というギルドの活動を裏から支える縁の下の力持ち、頼れる兄貴分だと言えば仲間の全員がそうだと肯定するはずだ。
そういう存在なのだ。パヴェル・タクヤノヴィッチ・リキノフという人間は。
しかし彼の経歴の謎と今回の一件で、その大樹の如く揺らぐ事のない筈だった信頼関係にちょっとした綻びが生じているというのも、また事実である。
彼の事は信じたい、俺たちの仲間だと。この旅が終わるその時まで、共に戦う同志であってくれると。
だからその証が欲しいのだ―――信頼するに足る仲間であるという証が。
仲間の過去について詮索するのはマナー違反、という暗黙の了解はあるが……それが仲間の、延いてはギルドの命運に直結する事であるならば話は別だ。
頭をボリボリと掻くと、パヴェルは口を開いた。
「テンプル騎士団特殊作戦軍、陸軍スペツナズ第一分隊指揮官―――コールサイン【アクーラ1】。それが俺のかつての肩書だ」
予期できた事ではあった。
薄々感じていた事でもあった。
パヴェルはテンプル騎士団の関係者……彼の”前の職場”とはつまり、テンプル騎士団そのものを指し示しているのではないか、と。
完全な部外者にしては組織のやり方を見抜いているような、まるでかつての自分を見ているような……厭世的な感じが常にあった。
「待ってください」
彼の告白の後、口を開いたのはクラリスだった。
「クラリスもテンプル騎士団ですが……”特殊作戦軍”という部署はありませんでした」
「だろうな、当時は確かになかった部署だ」
「どういう事だ」
ミルクティーを一口飲んでから、彼は話を続ける。
「テンプル騎士団の規模は、俺の妻―――セシリアが団長に正式に就任してからを契機にV字回復を見せた。組織は急成長、それどころか肥大化の兆しを見せ、それに伴い指揮系統も錯綜し始めた。特殊作戦に従事する精鋭部隊にとってそれは大変やり辛い事でな。そこで、俺と当時の司令官が連名で進言、他の部隊とは独立した部署として立ち上げたのが特殊作戦軍だ」
分かるか、とパヴェルはクラリスに問う。
「―――俺はな、お前よりも後の時代のテンプル騎士団からやってきた」
「!!」
クラリスが所属していたテンプル騎士団―――その時代よりも未来のテンプル騎士団に所属していたパヴェル。
しかも団長の名前には聞き覚えがあった……【セシリア】という名前には。
確か以前、パヴェルが「俺の妻」と言っていた女性だ。
―――そして、死んだ俺の前に現れ異世界転生とこの能力を授けてくれた”自称魔王”の名でもある。
という事は、あの女がそうなのか。
竜の角に黒い尻尾、腰に軍刀を提げた軍服姿の女性。
彼女がテンプル騎士団の団長で、パヴェルの妻だというのか。
パズルのピースが埋まっていく。空白ばかりだったパズルに、面白いくらいにだ。しかしそれが完成して見えてくるのは理想的な結果か、それとも目を背けたくなる絶望的な現実か―――それはまだ、分からない。
「クラリスの時代は初代団長タクヤ・ハヤカワの時代……俺のいた時代は八代目団長、”セシリア・ハヤカワ”の統治下。この間に実に100年の年月があった」
「クラリスの時代の……100年後……」
「そうだ」
「……アンタの経歴はまあ、分かった。それで俺たちの味方で居てくれるのか?」
素直に問うと、パヴェルはこちらを振り向いてから首を縦に振った。
見捨てるわけないだろう―――彼の紅い義眼は、確かにそう告げているように思えて実に頼もしい。
「ああ、味方だ。少なくともボグダンの誘いにホイホイ乗って、お前らを裏切る真似はしないよ」
「……その言葉が聞けて何よりだよ」
正直、パヴェルが敵に回るような事があったらどれだけの損害になるか……ギルドの運営ができなくなる、なんて事はないだろうが、しかし単純な戦闘力で言えばギルドの戦力は大幅にダウンするだろうし、戦場で対峙するような事になれば死を覚悟する他あるまい。
腕を組みながら椅子の背もたれに背中を預け、パヴェルは言った。
「俺にはやるべき事がある……テンプル騎士団、ボグダンたちの計画を是が非でも止めにゃあならん」
「テンプル騎士団の……計画?」
「そうだ」
奴らの計画は依然として不明だ。
人間を機械人間に置き換えてあらゆる共同体を牛耳り、世界を自分たちにとって都合のいいように作り変えようとしている秘密結社……陰謀論者が実に好きそうな仮説だが、事実そうなのではないか、という考えが今まで頭の中にはあった。
テンプル騎士団は典型的な秘密組織で、世界征服を目論んでいる……そんな幼稚な仮説が、しかし現実味を帯びているのだ、と。
しかしパヴェルが告げた言葉は、それを根本から覆すものだった。
「奴らは掘り起こそうとしている」
「何を」
「旧人類を絶滅に追い込んだテンプル騎士団の超兵器―――【イコライザー】を、だ」
130年前、テンプル騎士団が全力投入した結果、この世界から獣人を残しすべての人間だけを殺し尽くしたという正体不明の兵器―――イコライザー。
掘り起こそうとしている、とはいったいどういう事なのか。全力投入されたならばもう残っていないのではないか。
そんなはずが、と反論しようとした言葉を、しかしパヴェルが遮った。
「あるんだよ―――130年前、作動を免れ不発となった最後の一発が」




