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『蒼い子』


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」


 痛い、痛い、痛い。


 バクバクと心臓が不規則な鼓動を刻む。小さな鼓動が連続し、間をおいて大きな鼓動が身体を内側から揺るがした。唐突な、それも予想外の圧力をかけられた血管が悲鳴を上げ、大きな鼓動の度に頭の中が内側から膨れ上がるような感覚を覚えた。


 こんな動悸が続いたら、いつ脳の血管が切れたりするか分かったものではない。頭が膨れる感覚と共に気が遠くなって、壁に手をついていないと歩く足さえ覚束ない。


 早く、早く薬を。


 あの紅い薬を。


 歯を食いしばり、左手で心臓を押さえながら壁に寄り掛かって進んだ。


 ポケットの中には空のアンプルが3つ―――いずれも、今日服用したものだ。禁断症状が出てからこの3つを一気に服用する事で、この鼓動の乱れと激しい頭痛を抑え込むことができた。


 ―――段々と、薬が効かなくなってきている。


 最初の頃はアンプル1つで事足りた。魔術を使う頻度にもよるけれど、概ね24時間~36時間は何事もなく過ごせた筈だった。そして何の前触れもなく禁断症状が出て、渡されたアンプルを服用して症状を抑え込む……そんな行為が生活のルーティーンの中に組み込まれて今日で三週間。


 そして、薬の効き目の低下を実感したのは5日前の事だった。


 いつもならアンプル1つ分の薬を飲めばそれで終わる筈だった。けれどもその日に限ってはいつまで経っても禁断症状が収まらず、我慢できずに私はあの”蒼い子”から渡された2つ目のアンプルに手を出していた。


 あんなにも身体に悪そうな臭いと痺れるような味の劇薬が、その時ばかりは砂漠のオアシスで飲む清潔な湧き水のように思えた。ああ、これで生きていられるという安堵感と共に、危機感も覚えた。このまま薬を飲む頻度が増えていったら最終的にどうなってしまうのだろう、と。


 そして症状は進んだ。


 最近では、魔術を全く使わない場合でも同様に禁断症状が現れるようになった―――症状が現れるまでの間隔スパンも短くなってしまい、今では6~12時間程度しか正気ではいられない。


 最近ではこのせいで仕事も出来なくなり、今まで貯めた貯金を切り崩して何とか薬の購入代金に充てている始末。


 こんな姿、とてもじゃないけどワレリーには見せられないなぁ……。


 息を切らしながら、薄暗くて生ゴミの臭いのする路地を進んだ。がたん、と爪先が木箱に当たって、ゴミ箱の中に捨てられたリンゴの芯を齧っていたネズミたちが驚いて逃げていく。甲高い鳴き声とカサカサという足音が遠ざかっていく中、何やら言い争うような声が聴こえてきたのを私は確かに知覚していた。


 禁断症状が見せる幻覚や、幻聴の類では決してない……とは、言い切れないけれど。


『た、頼む、頼むよォ……薬がっ、薬が効かねえんだ……!』


 路地の曲がり角に隠れ、乱れる呼吸を必死に押し殺して様子を覗った。


 弱々しいガス灯の明かりが照らす中に、1人の男が跪いている。さながら王や女王に謁見する機会を得た騎士のようにも見えるけれど、でも暗闇の中に立つ”何者か”のコートを掴んで縋りつくさまは、とても騎士とは思えない。金に困った貧乏人や借金返済に追われ追い詰められた人間が、必死に金を貸してくれと頼みこんでいるようにも思えた。


 私もいずれああなるのかな、と不安を抱えていると、彼に縋られている相手が鬱陶しそうに息を吐く。


『―――で、金はあるのかい?』


『かっ、金は……っ! 金はここに……!』


 そう言いながら、男は懐から茶色い封筒を取り出した。その封筒には確かに、金銭的価値を感じさせる厚みがある。


 封筒を受け取った相手(あの声は間違いない、”蒼い子”だ)は封筒の中身をチェックし始めた。あの子だけ暗闇の中に立っていて、ちょうど縋っている男の身体のある場所が光が当たる場所とそうでない場所の境目になっているから、果たしてその中に収まっていた札束が本物なのかどうか、ここから確かめる術はない。


 けれども無言で紅いアンプルを取り出した蒼い子の反応を見る限りでは、どうやら本物のようだった。


 サイズが合っていないせいで萌え袖みたいになっているコートの袖から手を差し出し、アンプルを男に握らせる。


 なんと5つもだ。


 いったいどれだけの金を、と思っている間に、男は受け取ったばかりのアンプルのキャップを外して、勢いよく口の中へと紅い薬液を流し入れた。


 もう、1つでは効果がないと分かっているのだ(実際、さきほど「薬が効かない」と泣きついていた)。


 空になったアンプルが路地に転がり、男の荒い呼吸だけが周囲に響く。


 けれども―――男の容体が好転する事は、なかった。


 顔中にはびっしりと脂汗が浮かんで、背中にもじんわりと汗が滲んでいる。片手で心臓を押さえる身体はまるで真冬の雪原に放り出されたかのようにぶるぶると震え始め、男の歯ががたがたと音を立て始めた。


 容体は好転していない―――むしろ悪化している。


『なんっ、なん、で』


『……そりゃあ、あんなに薬を貪ったからねェ』


 にぃ、と闇の中で蒼い子が嗤ったような、そんな気がした。


 次の瞬間だった。男の身体に異変が起こったのは。


『おごっ……ぁ、あ、ぁ……!』


 びりっ、と服が破けるような音。


 ガス灯の弱々しい明かりの中、男の背中のシルエットが歪んだのを私は確かに見た。


 左の肩甲骨の辺りが、ぼごっ、と音を立てて大きく膨らんだのだ。虫に刺されたとか、ぶつけて腫れたとかそういう次元ではない。まるで身体の中で風船を膨らませているような、そんなレベルの急激な膨張。


 衣服を突き破って膨張した背中には―――私の見間違いなんかじゃなければ、無数の人間の顔のようなものが浮かんでいた。


 表情までははっきりとは見えないけれど、口らしき部位があるし眼孔もある。皮膚の下に無数の小人が潜り込んでいるかのような、何とも言語化しがたいおぞましい光景だった。


『いぎっ、が、あ、ぁ……!』


『まったく、あんなに勢いよく服用するからさ』


『だずっ、だずげっ……!』


 それが、男の発した……聞き取れる最後の人語だった。


 そこからはもがき苦しむような、獣のような呻き声だけが響いた。そうしている間にもメリメリと、骨の軋むような音を立てながら男の身体はどんどん膨張。ガス灯の明かりの中、人体が段々と歪な形状になっていく様子を見て、私は目を見開いていた。


 これが薬の副作用の幻覚だったら、どんなに気が楽な事か。


 けれどもこれは、残念な事に現実だった。


 男の背中から手が生える。脇腹から人間の足が、太腿からは人間の上半身が。まるで彼という肉体を苗床に身体が()()しているかのよう。けれどもそれは常に激しい痛みを伴うようで、男は口から泡を吹いて白目を剥くや、膨張する肉体を揺らしながらそのまま崩れ落ちた。


 それに連動するように、人体の膨張もぴたりと止まる。


『おやおや……壊れてしまったようだねぇ。残念、残念』


「……っ」


 あれは蒼い子の手なのだろうか。


 大きな手袋で覆われた手が男の肉体を掴んだかと思いきや、膨張を繰り返しただの人間の名残を残した肉塊と化した男の身体を、ずるずると闇の中へと引き摺って行った。


 彼は死んだのだろうか。


 あの子は、あの男をどうするつもりなのか。


 埋葬する……わけがない。薬を服用する人間を、ヒトとも思わぬ冷酷な子が、そんな他人の死を悼むようなことをするわけがな





































 紅い瞳と、目が合った。








































『おや、おや、おや』


「っ、っ……!」


 ガタガタと歯が鳴り始めた。こらえきれない恐怖に、両目に涙が浮かぶ。


 闇の中、聞こえてくるのは”蒼い子”の声。静かで、声の質は発育中の少女のように儚く、けれどもオペラ歌手の声が観客にはっきりと聞こえるように、彼女の声もしっかりと聞き取る事が出来た。


 コツ、コツ、とブーツの音が近付いてくる。


 闇の中で爛々と輝く2つの紅い光。


 逃げなきゃ、逃げなきゃ。


 頭の中で必死にそう思うけれど、身体は動いてはくれない。まるで金縛りにでも逢っているかのよう。見えない手で身体中をがっしりと掴まれているような、そんな感覚があった。


 けれども近くを通りかかったネズミが、足元に乱雑に置かれていた酒の空瓶にぶつかった音で、幸運にも私は我に返った。ドクンッ、と動悸で不規則になる鼓動の苦痛に耐えながらも、心臓が張り裂ける勢いでとにかく走る。


 振り向く余裕なんてなかった。


 そんな暇なんて無いし、仮にあったとしてもそんな事をしたら私の心が恐怖で折れてしまいそうだった。


 聞こえてくるのは私の足音だけ。けれども分かる―――すぐ後ろまであの蒼い子が迫っているという事は。


 とにかく走って路地を出た。車道に飛び出し、車のヘッドライトとクラクション、それから運転手の罵声を浴びながらも何とか反対側へと渡り切る。


 もう少し、もう少しで宿泊先の宿屋につく。


 そこからはもう、死に物狂いで走った。仕事終わりの労働者や酔っぱらって千鳥足で歩く冒険者に何度もぶつかり、罵声を吐かれながらも何とか宿屋へとたどり着く。


 店主から部屋の鍵を返してもらい、2階に駆け上がって部屋の中へと転がり込んだ。鍵をかけ、ここでやっと一息つく。部屋の中、つけっぱなしになっていたラジオからは綺麗なオルゴールの曲が流れていた。


「はぁっ、はぁっ」


 あの薬―――あれが、あれが常習的に服用した人間の成れの果てだというの?


 まるで、人間の身体を苗床にして新しい身体が生えているような、そんなおぞましい光景だった。あれもこの薬の副作用だというのなら、私の身体もいずれは……?


 とにかく、あんな危険な薬にはもう手を出せない。


 相変わらず死ぬほど胸が苦しいし、一際大きく心臓が脈打つ度に頭がズキズキと痛むけれど、今は何とか耐えるしかない。


 明日になったら病院に行こう……もしこれが違法薬物の類だとわかったら、腹を括って素直に自首しよう。


 とにかく今は、部屋を出たくない。


 あの蒼い子にはもう会わない、薬も買わない。


 禁断症状は依然として続いているし、辛く苦しい毎日になるだろうけれど。


 カーテンを閉めよう。そう思ってベッドを離れ、窓の前に立った。


 部屋にあるラジオが、ノイズを発した。




















 窓には私と、後ろに立つ蒼い子が映っていた。






















 紅い瞳は丸く見開き、口は三日月のように大きく歪んでいる。


 口の中に覗くのは人間の歯ではない―――ドラゴンの牙のような、とにかく人間のそれではなかった。


「ボクから逃げられると思っていたのかな?」


 こつ、と一歩、こっちに近付いてくる”蒼い子”。


 恐怖のせいなのか、それともあの子が何かをしたのか―――あるいは禁断症状に身体が耐えられなくなったのかは定かではないけれど、身体が微かに後ろに傾く感覚を覚えた直後、私の意識はそこで途切れた。


















「遅かったか……」


 ガス灯の明かりの中に散乱する5つの空のアンプル。そのうちの1つを摘まみ上げながらそう呟き、唇を噛み締める。


 ハクビシンの嗅覚もそれなりに鋭敏だが、クラリスの嗅覚はそれ以上だ。軍用犬クラスの鋭敏さを誇る彼女の嗅覚であれば、リジーナを”匂い”で追う事ができるのではないか。そう思い至り、クラリスには捜索に出る前に思い切りジャコウネコ吸いをしてもらった(ついでに彼女と遭遇したルカも吸われた)。


 なのでクラリスはリジーナの匂いを把握している。


 そんな彼女に誘導され、この路地へとやってきたわけだが……一足違いだったようだ。


 ここに散らばっているアンプルは、間違いなく薬品の売人がここに居た事を意味している。


「このアンプルをリジーナが?」


「……いえ、別の臭いが混ざっています」


 すんすん、とアンプルの匂いを嗅ぎながらクラリスは言った。


「別の買い手かと」


「じゃあリジーナは?」


「分かりませんが……匂いは向こうに続いているようですわ」


 彼女の指差す先には、路地の出口があった。


 旧式のガス灯で弱々しい光しか与えられない路地の向こう。大通りの車道(片側3車線もある)を渡った先からはホテル街となっていて、冒険者向けの格安の宿から高級ホテルまで幅広く軒を連ねている。


 何かトラブルがあって、宿泊先のホテルまで逃げ帰った?


 金銭のトラブルなのか、それとも……?


 もう一度、現場をよく見渡した。


 争ったような形跡はないが……しかしよく見ると、路地の地面に重い何かを引き摺ったような痕が刻まれているのが分かる。おそらくだが、別の買い手か何かだろう。


 ここで一体何があった?


「ご主人様」


「ああ……とにかく、彼女の宿泊先を当たってみよう」


「承知しました。先導いたします」


「頼む」


 クラリスに追跡を任せつつ、俺も後に続いた。


 間に合ってくれればいいのだが……。




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― 新着の感想 ―
[良い点] 元々テンプル騎士団は控えめに言っても手段を選ばない部分が多かったですが、無害無罪な人まで虐殺や麻薬ビジネスの対象にするほどは、ギリギリ踏み留まっていたんですよねえ…カーネルの奥様がこの惨状…
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