闇の中で狂気は輝く
人間とはつくづく愚かだ、と"彼女"は思う。
弱みを見せ、あるいは追い詰められ、打ちのめされたところに"餌"をほんの少しちらつかせてやるだけでこれだ。こうも簡単に計画が上手く行くと、むしろ何かの罠なのではないかと疑いたくもなるが、しかしこれも自慢の頭脳が導いた結果に過ぎないのだ、と"彼女"は自身を納得させた。
教会の尖塔の上から見下ろすツォルコフの街は煌びやかな夜景に染まっている。夜風に乗って聞こえてくるのは、車のエンジン音やクラクション、それから酒場の客引きの声。典型的な、どこにでもある街の喧騒ばかりだ。
"次元の壁"を超えても代わり映えしない喧騒に、彼女も嫌気が差していた。世界が変われば歴史も文化も違うだろうし、そこに住まう人間の価値観や思想も異なっていて然るべきだ。
しかしこの世界もそうだ、何も変わらない。薄汚れ、堕落し、底辺で蠢く輩はどこまでも醜い。更にこれが前文明から殆どを引き継ぎ、自ら文明を生み出す事を知らぬ獣人たちともなればその醜悪さはより際立つというものである。
なぜ、初代団長はこの世界を滅ぼそうとしなかったのだろう?
こちらにやって来たその時から抱いていた疑問だ。
なぜ、初代団長は彼らを生かしたのか? なぜ旧人類と共に滅ぼさず、獣人だけを生かして文明再建のチャンスを与えたのか?
その答えを得るためだけに、彼女は心理学を学んだ。初代団長の記録も自分の権限で閲覧できるものは閲覧し、それ以上はハッキングしてまで調べた。
頭の中に生じた疑問を消化できない事ほど、気色の悪い事はない。そういう意味でも、彼女は学者向きと言えただろう。
どれだけ心理学の知識を用いても、どんな公式を当てはめても、その答えは未だに導き出せないでいる。
しかし確かな事は、獣人たちは初代団長の与えたチャンスを無駄にしている―――それだけは確かと言えた。
「ん」
唐突に、美しいピアノの旋律が聴こえてきた。儚く、さながら静かな夜に浮かぶ月を情景として思い浮かべたくなるような、そんな音楽だった。
しかし、地表から伸びる高さ50mもの尖塔、その頂上では風の音ばかりが聴こえてくる音の全てだ。仮にイヤホンをして音楽を聴いていたとしても、風の音は嫌でも聴覚に入り込んでくる。
だがそのピアノの旋律は、これ以上ないほどクリアに聴こえた。
まるで風の音だけが、ノイズの如く取り除かれたように。
(……やあ、同志指揮官?)
にぃ、と笑いながら、彼女は頭の中でそう思った。
口にする必要はない。思考の全ては、ダイレクトに相手に伝わるからだ。
【随分と派手に売りさばいてるようだな、"同志シャーロット"?】
『シャーロット』と呼ばれたホムンクルスの少女―――シャーロットは狂気を宿した笑みを浮かべた。口の中に生えた、人間の身では持ち得ない長く鋭い犬歯(竜の牙だ)が露になる。
(あれは自信作だからねぇ。獣人が愚かで助かるよ)
【君の活躍でこちらも資金調達に苦労しなくて済んでいる】
(それは良かった)
結局のところ、舞台裏での暗躍にも金がかかるのだ。兵器の維持費だけでもかなりの額になるし、補修用の予備パーツの調達にも苦労する。戦車の部品だって、"農業用トラクターの部品"という名目で発注をかけ、複数のダミー会社を挟んで流れを有耶無耶にしてからやっと彼らテンプル騎士団の手元に届くのだ。発注をかければすぐに予備パーツが届く本国軍と違い、現地調達にはとにかく手間隙がかかる。
それが、水面下での活動を行う秘密組織であればなおのことだ。
交戦相手である血盟旅団からは最大の脅威と見なされているテンプル騎士団ではあるが、彼らも資金繰りに悩まされているのである。
1ライブルだろうと無駄にはできず、とにかく莫大な活動資金が必要になる―――その安定供給のために駆り出されているのが、今のテンプル騎士団では数少ないホムンクルス兵の1人、このシャーロットであった。
組織の活動のための資金調達―――依存性のある薬物をばらまく事に、シャーロットは良心の呵責を覚えない。
一度この世界の人類を滅亡に追いやっているのだ。たかが総人口70億人の獣人たち、その内の数百人程度を薬物中毒に追いやり使い潰したところで何の問題があるというのか。
旧人類の遺産に頼るばかりで、自ら文明を生み出す事を知らない愚かな獣人たち。『文明の間借り人』とはよく言ったものだ。
シャーロットは同僚のシェリル同様、獣人を見下している。
いや、"ヒト"として見てすらいない。
アレはヒトの姿形をしてこそいるが、そっくりな何かだ。ヒトのなり損ない、亜種でしかない。旧人類が遺伝子操作の末に生み出したモルモットでしかなく、ゆえに実験動物として消費してやるのが最も有意義な使い方なのだ……彼女は、そう考えている。
壊滅的な倫理観ではあるが、テンプル騎士団としてはそれが正解なのであろう。
彼ら"クレイデリア人"の栄達は、常に殺戮と破壊の果てにあったのだから。
【しかし気を付けたまえよ同志シャーロット。連中が嗅ぎ回っている】
(……血盟旅団)
―――血盟旅団。
ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフを頭目とする冒険者ギルド。以前までは無名の新興ギルドに過ぎなかったそれは、今や各地を転戦し勢いをつけている。
ごく一部の団員にのみ警戒が必要だった血盟旅団も、今ではテンプル騎士団にとっての『排除すべき敵』に他ならない。
(そういえば、シェリルが負けたとか)
【ああそうだ】
(ふぅん……"初期ロット個体"に負けるなんて、あの子も情けないものだねぇ)
シェリルやシャーロット、クラリスをはじめとするホムンクルスは人工的に生み出された生命……つまるところはクローン、人造人間である。
初代団長『タクヤ・ハヤカワ』を雛型とした複製であり、その生産総数は(ハーフなどの血縁者を含めない場合)およそ30億にも達するとされている。
製造の歴史も長く、生産時期によってマイナーチェンジなどの調整が施されているのだが、シャーロットは少し古い"フライト138"、シェリルは最新の"フライト141"に分類される。
そして血盟旅団に所属するクラリスは最も初期のモデル―――"フライト1"、その中でも試行錯誤の多かった前期型に属しているのだ。
マイナーチェンジの内容もより戦闘に適した肉体の最適化であり、両者の間には大きな戦闘力の差がある。
1世紀にも渡る改良により、プロペラ機とジェット機並みの絶望的な差を獲得するに至ったホムンクルス兵たちであるが故に、シャーロットにはシェリルが負ける理由が思い浮かばないのだ。
(まあ、初期ロット個体は個体差が激しかったと聞くからねぇ……"当たり"の個体だったのかもしれない)
【いずれにせよ油断するな。奴らは危険だ】
(了解。でも楽しみでもあるよ、同志指揮官)
夜風を浴びながら、シャーロットは好戦的な笑みを浮かべた。
シェリルの強さはシャーロットも把握している。無駄のない、より戦いに向いた肉体に戦闘の高ストレス下でも挫けない強靭なメンタリティは優秀極まりない基礎を保証するものであるし、シェリル自身も熾烈な訓練に耐え抜き、ここまで至った優秀な兵士に他ならない。
初期ロット個体に負けるなど情けないと思う一方で、期待もしていた。
(そんなに腕が立つならば……実験し甲斐があるじゃあないか)
初期ロット個体のクラリスと、現行最新ロットのシェリル―――両者の違いがどこにあるのか、ぜひ生け捕りにして解明してみたい。解き明かしたい。
ここまでを頭脳で戦ってきたシャーロットとしては、戦士としての闘争心よりも学者としての探求心を優先していた。
興味が湧いたのだ。
初期ロット個体と、そんな彼女が主人主人と慕い付き従うミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフ―――"素質を持たぬ者"、忌み子として生まれてきた存在のいったいどこにここまで登り詰めるだけの力があるというのか。
一度戦えば解る筈だ。
いずれ闇の中へと踏み込んでくるというならば、全身全霊でもてなそう。
こんな高揚感はいつぶりか―――最も難解とされた錬金術の法則、『パラケルススの第十三法則』を解き明かさんと研究室に隠りきりだった日以来だろうか。
【いずれにせよ、油断だけはするな。今お前の頭脳を失うのは我がテンプル騎士団にとってかなりの痛手だ】
(分かっているさ。見ていたまえよ)
【期待しているぞ―――"ステラ博士の再来"と呼ばれた天才科学者、シャーロットよ】
その言葉を最後に、シャーロットの頭から"同志指揮官"の声は聴こえなくなった。
一緒に流れていた音楽―――ドビュッシーの『月の光』も、もう聴こえない。
夜風の薙ぐ音だけを聴きながら、シャーロットは姿を消した。
そろそろ"客"が来る時間だ。
馬鹿な女が、肉体の要求に抗えず、薬漬けになった身体をふらつかせ、札束を握りしめながらやってくる。
その度に―――買い手がやってくる度に、シャーロットは嗤うのだ。
ああ、やはり人間は愚かだ、と。




