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紅い薬


 こうして狭いダクトの中を這い回っていると、キリウの屋敷に居た頃を思い出す。


 ミカエル君は屋敷からの脱出ガチ勢だったので、部屋からこっそり抜け出したり、その辺の換気用ダクトから這い出して屋敷を出たり、逆にこっそり戻ってきたりとまあ、脱出経路は全部頭に入っていた(あくまでも脱出経路の話であって強盗かまして家出する時は改めてルートを調べ直したが)。


 この埃臭さはどこのダクトでも万国共通なのだろうか、なんて事を考えながら、下からの光が差し込む金網の向こうを見下ろす。


 ダクトの下―――部屋の中は、どうやら銀行の受付窓口になっているようだった。ガラスで遮られた窓口を挟んで客がいるフロアと従業員がいるフロアに分けられているようなのだが、今は従業員も客も全員、普段客がいる方のフロアに集められているようだった。


 一ヵ所に集められ怯える従業員や客たち。その傍らには最新式のレバーアクションライフルを手にした1人の男がいて、何やら外に向かって罵声を発しているようだった。


《犯人に告ぐ、直ちに人質を解放しなさい!》


「うるせぇ!! 逃走用の車はどうした、早く用意しねえと人質の命はねえぞ!」


 犯人は……単独か。


 複数だったら厄介だったな、と思いながら太腿の工具ホルダーに手を伸ばす。プラスドライバーで金網を固定しているネジをそっと外し、ポーチからスモークグレネードをスタンバイ。


 相手は単独だ、とハンドサインで後ろにいるクラリス(オイコラお前こんな時にミカエル君の尻尾ハスハスするんじゃない)に犯人の人数を伝える。


「カーチャ、これより突入する」


《了解、幸運を》


 カーチャは今頃反対側の建物の上に陣取って、こっちを見張っている筈だ。何かあった時は狙撃でバックアップする事になっているけれど、相手が単独で、しかもこっちにはクラリスもいる。おそらくだが、彼女のスナイパーライフルの出番はないだろう。


 行くぞ、とクラリスに伝え、スモークグレネードを2つダクトの金網のところから床に落としてやった。カランカラン、と空き缶を床に落としたような音に犯人の視線がこちらに向けられた次の瞬間、空気の漏れるような音と共に白煙がスモークグレネードから溢れ出し、部屋の中を真っ白に染め上げていた。


 金網をずらし、一気に部屋の中へと舞い降りる。スモークのせいで視界は最悪だったが、しかしこれだけの距離であれば事前に確認していた相手の位置から現在位置を算出できる。


「な、なんだ、一体何が―――」


 PP-19を構え、撃った。


 セミオートで放たれた9×19mmパラベラム弾が犯人の持っていたレバーアクションライフルを直撃、高価で華奢な連発銃を凶悪犯の手から弾き落とす。ライフルを持っていた手には相当な衝撃が牙を剥いたようで、犯人の顔が苦痛に歪むのが分かった。今頃両手が痺れ、まともに動かせない状態に陥っている筈だ。


 だが、しかし。


「舐めるなぁ!!」


「!!」


 犯人が右手をこちらに突き出した。


 ライフルは弾き飛ばしたからもう脅威は無いものとばかり思っていた―――しかし手のひらに生じた水球と魔力放射は紛れもなく魔術を放つ予兆で、俺は目を見開く。


 先ほどダクトから犯人の様子を観察していたが、やはり犯人の手には洗礼を受けた証―――紋章は無かった。


 前回のウロボロスの一件といい、こいつといい、最近は有り得ない事ばかりが起きている。魔術は触媒がなくても発動は出来るが、しかし信仰の証として刻まれる紋章は別だ。これは宗派から許された魔術発動の”許可証”のようなものであり、これがなければ魔術は絶対に使えない。


 そんな常識を当たり前のように覆してくるのやめてもろて。


 しかしそんな相手にも、ミカエル君専属のメイドさんは容赦するつもりはないようだ。


 ごう、とミカエル君の隣を何かが突き抜けていった。まるで高速移動する物体が空気を切り裂くかのような、そんな暴力的な音。それがクラリスがドロップキックでミカエル君のすぐ隣を通過していった音だという事に気付いた頃には、哀れな犯人の顔面にクラリスのドロップキックがめり込んでいた。


「 ぶ へ あ ! 」


 自慢の魔術を放つ暇すらもない。


 ごしゃあっ、とものすごく痛そうな音。うわぁ、と思わず声が出た。


 だがまあ……手加減はしているのだろう、きっとそうだ。そうじゃなかったら今頃あの犯人の首から上は千切れ飛び、とてもじゃないが小さなお子様や青少年には見せられないような、それこそ健全育成によろしくない凄惨な光景が広がっていた筈だから。


 ドロップキックをよりにもよって顔面に受けた犯人はそのまま入り口のガラスの扉を突き破るや、錐揉み回転しながら憲兵隊の隊列のすぐ目の前へと放り出される羽目になった。


「はぇ……あっ、か、確保ぉ!!」


 顔面を思い切り蹴られて吹っ飛ばされた挙句、憲兵隊に群がられ確保される犯人にはちょっとだけ同情する……ちょっとだけな。1ミクロンくらいは。


 安全が確保された事を悟ったのだろう、人質たちが一斉に銀行の外へと逃げ出した。


 憲兵たちが人質の保護に動いたのを見て安堵しつつ、反対側の建物の屋上に向かって手を振った。銀行の反対側にある雑貨店の屋根の上にはステアー・スカウトを構えこちらを見張るカーチャの姿があって、俺が手を振っているのを見るやライフルを背負いながら手を振り返してくれた。


 彼女がああやって援護してくれるから、こっちは安心して背中を預けていられる。


 仲間に心の中で感謝していると、ちょうど犯人が憲兵たちに連れられて、パトカーへと乗せられて行くところだった。


 それはいい、それはいいのだ。


 しかし気になったのは、今にもパトカーの後部座席へと詰め込まれていく犯人の叫びだった。


「か、金を! 金をくれ!」


「いいから早く乗れ!」


「話は取調室で聞かせてもらう!」


「頼むッ、金を! じゃないと”アイツ”から薬を売ってもらえないんだ、頼むよ!」


 ……アイツ?


 それに、薬ってなんだ? 


 犯人の様子も何か変だった。


 額には脂汗がびっしりと浮かんで、立てこもっている間も時折、苦しそうに胸元を押さえていたような気がする。


 なにか病気なのか? それで金に困り、銀行強盗という強硬手段に出た……?


「まったく、強盗なんて野蛮にも程がありますわ」


「ブーメラン」


「さ、戻りましょうご主人様」


「そうしよう……ん」


「ご主人様?」


 銀行の床の上に落ちている異物に気が付いた。


 最初はクラリスが犯人を蹴り飛ばした際に割れたガラスのドアの破片か何かかと思った。けれども近付いてよーくそれを見てみると、それはガラスの破片などではなくアンプルのようだ。


 化学薬品とかを収めておく、指先ほどの大きさのガラスの容器である。中には何かの薬品が入っていたようで、うっすらと半透明の紅い液体が付着していた痕がある。


 犯人の持ち物だろうか?


 もしかして、これの中身が犯人の渇望していた”薬”なのか?


「……」


 コイツは持ち帰ろう。パヴェルに解析してもらわなければ。


 このままここに置いていたら、憲兵隊の現場検証で持ち去られたりするかもしれないからな……。


「血盟旅団のミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフさんですね」


「あ、はい」


 アンプルをポケットに押し込みながら振り向くと、憲兵隊の制服に身を包んだ中年の憲兵が立っていた。肩には少尉の階級章がある。


「凶悪事件の解決へのご協力、感謝いたします」


「いえいえそんな、当然の事をしたまでです。それより日夜治安維持に努められている憲兵隊の皆様には頭が上がりませんよ。おかげでこちらも枕を高くして寝られるというものです」


「あはは、そんなご謙遜を」


 そんな調子で笑いながら、憲兵隊の指揮官はおもむろに懐から手帳を取り出した。


「ところでその、もしよろしければサインを頂けないでしょうか? ウチの娘があなたのファンでして」


「はぇ? あ、はあ、構いませんよ」


 ファン……ファンねぇ。


 活躍している冒険者にファンがついたり、それが大規模になったりすると非公式のファンクラブが勝手に設立されたりと、まあそういう活動も活発になっていくわけだが、ついに俺にもファンがつくほどになったかと思うと達成感が湧いてくる。


 それはそれとして、その……ね、カーチャと初めて会った時に彼女は俺のファンを装って暗殺を試みたので、なんというか”ファン”という言葉には警戒心を抱かずにはいられない。最悪なファーストコンタクトである。


 受け取った手帳の真っ白なスペースに、ペンでさらさらとサインを書いた。『Лігалов Михайло Стефанович(ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフ)』と。


 ノヴォシア語ではなくイライナ語で書いたが、大丈夫だろうか?


「いやあ、ありがとうございます。娘も喜んでくれますよ」


「それは何よりです」


「では、私共はこれにて」


「ええ、それではこちらも。お勤めご苦労様です」


 お互いに敬礼を交わし、憲兵隊の少尉は踵を返した。


 大通りの向こうから憲兵隊のトラックがやってくる。おそらく鑑識の人員が乗っているのだろう。これから現場を色々と調べる事になる。このままここに居たら俺たちは邪魔になりそうだ……。


「帰ろうか」


「はい、ご主人様」


 とりあえず、これで憲兵隊からの依頼も無事終了。


 この前の憲兵隊からの仕事といい、冬季封鎖明けから収入が高い水準で安定しているのは本当にありがたい事だ。


 おかげで美味い飯が食える。


















「最近この手の事件増えたねぇミカエル警部」


「そうだねぇパヴェル君」


 わざとらしくそんな話をしながら、パヴェルはアンプルの内側から採取した薬品の雫に試薬を垂らしているところだった。


 はっきりいって異常事態だと思う―――洗礼も無しに魔術を使う獣人が増えてきた、というのは。


 洗礼を受け、神々の奇跡の一部を借り受けなければ魔術は使えない。だというのに彼らは平然と、さも当然のように魔術を使ってきた。これはいったいどういう事なのか。


 現場に残されたあのアンプルとこの一連の事件、これは決して無関係ではないだろう。


「……わかりそう?」


「うーん……ちょっと時間がかかるかもしれない」


 試薬の中で紫色に変色していく薬品の入った試験管を振りながらパヴェルは言った。


 あの現場に残されていたアンプルの正体は何なのか。あの犯人が何かしらの持病を患っていて、それに対する薬であるというならばまだ分かる。何かがあって薬を購入する金が用意できなくなり、困った末に銀行強盗という強硬手段で金を確保しようとした可能性も否定できないからだ(事情があるのは分かるがしかし許される事ではない)。


 だが―――本当にそんな簡単な事か?


 あの事件の時、犯人の手の甲を見たが確かに紋章のようなものは見当たらなかった。洗礼を受けた際に紋章が生じる部位は”利き手とは逆の手の甲”と決まっていて、これに関しては一切の例外がない。魔術が確立されてから今に至る30万年もの長い時間の間で一度も、だ。


 宗教の歴史は魔術の歴史でもある。太古の昔から人類は神や精霊、そしてのちに英雄的な活躍を残した人間も信仰対象の末席に加わり、あらゆる宗教で信仰を集めてきた。魔術とは信仰対象の奇跡の再現に他ならず、洗礼の紋章はその許可証なのだ。


 なのに洗礼も受けずに魔術を発動する―――人類が今まで積み上げてきた30万年の歴史を根底から覆す大事件である。


「……うわ、この薬もしかして中毒作用あるんじゃね?」


「何それ麻薬?」


「いや、麻薬ではないっぽいけども……」


 いつの間にか、パヴェルが振っていた試験管の中身はどす黒い色に変色していた。というよりもはや墨汁だ。臭いも凄い……いかにも化学薬品といった感じの非常にケミカルな香りで、こんなの飲んだら人体にどんな悪影響があるのか知れたものではない。成分は不明だが本能的に危機を感じてしまうような、そんな感じの悪臭だった。


「うーん」


「どうした?」


 顎に手を当てながら、墨汁みたいな薬品を見つめるパヴェル。何か心当たりでもあるのだろうか。


「いや……この化学反応どこかで見た事が……」


「どこで見た?」


「昔の事だからなぁ……」


「現役時代か?」


「うーん……いやすまん、具体的には思い出せないが似たようなものを見た事がある」


 何だそれ、怖い。


 ともあれ、すぐにポンと答えが出るものでもないのだろう……今は解析結果を待つほかあるまい。


 しかし、何だろうな。


 この薬と洗礼無しの魔術……無関係とは思えない。





 





 

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