栄華、そして対価
左手を突き出した。
魔力の流れをイメージするや、手のひらに熱い何かが……確かな熱が生まれ、急激に大きくなっていくのが分かった。視線を向けるとそこにはまるで太陽のような火球が生じていて、陽炎で周囲の空間をぐにゃりと歪めながら回転、外気を吸い込んで徐々に大きくなりつつあった。
これがあれば大丈夫、という安堵感。
けれどもその火球の狙う先から迫ってくるのは、人類にとっての天敵―――この世界の生態系、その頂点に君臨する絶対王者だった。
『グオォォォォォォォォ!!』
「ひっ……!」
その方向に、ぞくりと全身に寒気が走る。
飛竜『ズミール』。
イライナ地方の言語で”ズメイの仔”を意味するそれは、ノヴォシア帝国を原産とする飛竜だった。卵から育てて調教すれば人間にも懐くけれど野生の個体はその限りではなく、飛行可能であるが故に行動範囲が広く強力なその飛竜は、各地で人類に対し牙を剥いている。
口の中には剣先のように鋭い牙がずらりと並び、あんな口で噛み付かれたら最期、人体なんて簡単に引き千切られてしまう事は容易く想像できる(そうじゃなくてもブレスで焼き尽くされてしまう)。
けれども、この力ならきっと打ち勝てる―――手のひらで生じ、段々と輝きを増していく炎を見ると、不思議とそう思えた。
私だって、いつまでも草むしりをしているだけの冒険者じゃない。
一度は夢見た高みに、全力で手を伸ばすのだ―――そうすればきっと、力は応えてくれる。
とはいっても、足はまだガクガク震えているけれど。
はち切れんばかりに大きく膨れ上がった火球。既にその直径は1mにまで達していて、足元の草花はその熱で燃え上がり、周囲の大気はプラズマ化しつつある。
飛竜ズミールが迫ってくる。その大きく開かれた口腔の奥には、さながら滾るマグマのような朱い煌めきがあった。
ブレス攻撃だ―――数多の騎士や冒険者を焼き尽くし、飛竜の力を確固たるものにしてきた彼らの大技。
私なんて喰らう価値もないと断じたのか、ズミールは何の躊躇もなく口から炎を吐いた。大地から吹き上がる火柱の如く、紅蓮の炎が激流と化して、こっちに向かって雪崩れ込んでくる。
逃げよう、と本能が叫んだ。このままでは丸焼きにされてしまう―――いや、灰すら残らないかもしれない。この世に私がいたという痕跡が物理的に拭い去られてしまうかもしれない、だから逃げよう。本能が先ほどからそう必死に叫んでいるけれど、それでも私は逃げなかった。
勝てる、という確信があったから。
息を吐き、キッと相手を睨んだ。
「―――いっけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
叫ぶと同時に、手のひらに生成されていた火球が一気に収縮した。
まるで見えざる手に握り込まれ、そのまま押し潰されて行こうとしているかのよう。
けれどもそれも一瞬で、次の瞬間には急激に膨張した火球が魔力によって指向性を与えられ、炎の奔流と化していた。
時計回りに回転を加えられながら、赤々とした炎のエネルギーが空間の只中へと強引に捻じ曲げられていく。放たれる勢いに耐えかねたのか、炎の一部がエネルギーの激流から剥離して、飛竜ズミール目掛けて放たれた煉獄の炎の周囲にさながら太陽のフレアのようなエネルギー弾を生成した。
掠めた大地を燃え上がらせ、周囲の大気をプラズマ化しながら突き進んでいく炎の激流。やがてズミールが口から吐き出した炎と真正面からぶつかり合った。
まるでそれは、風に揺らめくカーテンを拳で殴りつけたような有様だった。
障害にすらなり得ない―――ズミールの放った炎のブレスを薄紙同然に突き破った私の魔術は真正面から飛竜ズミールを呑み込むと、次の瞬間には灰すら残さずに燃やし尽くしていた。
飛竜ズミールの外殻や鱗は、炎属性に対して極めて高い耐性を持つ。1400~2000度の炎に晒しても劣化や破損を起こさず、裏側には決して熱を伝えない。だから飛竜の素材は優秀な耐熱材として高値で取引されている。
けれども純粋な魔力量で放たれたそれは、そんな属性に対する耐性をものともしない。
鱗や外殻が高熱に耐え兼ねて発火したのは、ズミールが炎の中に消える寸前だった。そのまま激しい熱と圧力を伴う炎の奔流に呑まれたズミールは一瞬だけ炎の中の黒い影と化したかと思うと、瞬く間にその形を崩して消え去った。
飛竜1体を消滅に追い込んでもなお十分すぎる威力を堅持していた炎の奔流―――炎属性魔術『煉獄砲』はそのまま矛先を空へと向けた。
この程度か、まだ暴れ足りないと言わんばかりに荒れ狂ったそれは、空を舞う雲を突き破って大穴を穿ち、そのまま空へと消えていった。
残ったのは焼け跡を深々と刻まれ、今なお燻る大地と―――大穴を穿たれた雲だけ。
「はぇ……」
これは自分がやったという自覚はあるけれど、まだ信じられなかった。
本当にこれ、私がやったの……?
今まで魔術の適正もなく、魔術師になるという夢を早々に捨てざるを得なかった私が?
魔術は使えず、剣術もそれほど上手い方ではなく、他の強い冒険者と一緒でなければ魔物と戦う事すらできなかった私が?
胸の中に堆積していた憂鬱な気分が、まるであの大穴を穿たれた雲のように晴れ渡っていくのを感じながら、私は笑みを浮かべていた。
ああ、なんて素晴らしいんだろう。
これが全てを変える力―――これが魔術。
あの蒼い子にもし出会ったら感謝しなければならない。あの子がくれたアンプルのおかげで、私はこうして生まれ変わったのだから。
絶望的な適性の私でも魔術が使えるようになった―――これで、今まで私の事を見下していた奴らを見返してやれる。
この力があれば、全てを睥睨してやる事も夢ではない。
今、私の心は歓喜に満ちていた。
管理局から支給された信号拳銃を取り出し、空に向かって引き金を引く。
私はこれからだ。
これから―――どこまでも上り詰めてやる。
この力があれば、きっと上手くいくはずだから。
「おめでとうございますリジーナさん! 昇級試験は合格、これで次からDランク冒険者です!」
笑顔でそう言いながら、受付嬢はDランク冒険者の証である銀のバッジを渡してきた。今まで身に着けていたEランク冒険者用のバッジを返却し、代わりに真新しい銀色のバッジを身に着ける。
さっきの飛竜ズミール討伐は昇級試験。管理局が一定の実績を収めた冒険者に対し科す試験で、合格すれば次のステップに進む事が許される。
これで私も晴れてDランク冒険者。もう、魔物に怯えながら安い報酬の薬草採取をこなし、生活費を切り詰め空腹に悩まされる毎日とはおさらばというわけ。
「ありがとうございますっ!」
「これからも活躍を期待します。頑張ってくださいね♪」
ぺこりと一礼し、カウンターの前を去った。
『アイツか、最近勢いのあるリジーナって冒険者は』
『ズミールを一撃で消し飛ばしたらしい』
『ウソだろ、仮にも飛竜だぞ』
食堂の方から、そんな他の冒険者たちがひそひそと話す声が聞こえてきて、これ以上ないほどの優越感が私を浸していった。今や他の冒険者を見上げる側ではなく、見上げられる存在。相手を羨ましがるのではなく、他人から羨ましがられる存在。
立場が逆転するというのは、なんて素晴らしいんだろう―――これも全て、あの蒼い子とあのアンプルのおかげ。
この力があれば、もしかしたら……血盟旅団のミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフにだって追い付けるかもしれない。いや、追い抜くことだって夢じゃないかもしれない。
そう思うと足も軽くなってきた。
さあて、久しぶりに大金が手に入ったし、豪華なご飯でも食べようかなと管理局に併設されている酒場の方に足を運んだ。やっぱり酒場や食堂の喧騒はいつも通りで、酔いが回った冒険者同士の腕相撲や酔っ払い同士の喧嘩、ウォッカの空瓶がいくつも並ぶテーブルでは突っ伏して寝ている冒険者の姿と、いつもの光景が広がっている。
席についてメニューを確認。がっつり食べたいし揚げ物が良いな……チキンキリウとかいいかもしれない。
テーブルのベルを鳴らしてウェイトレスを呼んだ。白猫の獣人のウェイトレスがやってきたので、彼女にパンとフルーツジュース、それからチキンキリウにオリヴィエサラダを注文すると、ウェイトレスは注文を復唱してから笑みを浮かべ、厨房の方へと歩いていった。
最近はボロボロのパンとか安物の缶詰ばっかり食べてたし、チキンキリウなんて食べるの久しぶり。あの鶏肉の旨みが溶け込んだバターソースがもうね、本当に美味しくて美味しくて……はぁ~、早く運ばれてこないかなぁ。
久しぶりのしっかりとした食事に鳴る腹の虫をちょっと恥じながら、酒場の喧騒の中で料理が運ばれるのを待った。
受付のカウンターの方に、ワレリーと思われる赤毛の冒険者がいた。以前よりもしっかりとした装備を見に纏い、腰には小ぶりなメイスを、背中にはマスケットを背負っている。
どうやら彼は新しい仲間を見つけたみたいで、ゴールデンレトリバーの獣人の女の子と一緒に依頼書を眺めていた。
じわり、と心の中に黒い何かが滲む。
お荷物を切り捨てて、随分と仲良くやってるみたいね……。
「お待たせしました、チキンキリウとパン、それからフルーツジュースとオリヴィエ・サラダです!」
「どうも」
まあいいや、ワレリーもそのうち追い抜いてやる。
ナイフとフォークを手に、マッシュポテトとグリーンピースの塩茹でと一緒にお皿の上に乗っているチキンキリウを真っ二つに切り開いた。
じわり、と溢れ出るバターソース。みじん切りのイライナハーブを混ぜ込んだそれが、兎にも角にも食欲をそそる。
とにかく私はこれからだ。
この力で、高みに上り詰めてやる。
そして全てを見返してやるの。
きっとそれを成し得た時、最高の気分を味わう事になるでしょう。
その時が楽しみだった。
「ふー、久しぶりにいっぱい食べたぁー」
宿屋にチェックインし、部屋のベッドにゴロンと寝ころんだ。
ズミール討伐でお金も増えたし、この調子で仕事をこなしていけばもう宿屋の宿泊代とうしようとか、食費切り詰めようかなんて悩まなくて済む。悩みから解放されるっていうのは実に素晴らしいもので、心の中はこれ以上ないほど晴れやかだった。
とりあえず、寝る前にシャワーくらいは浴びよう。私だって女の子だし、そういう清潔さは気にしないと。
荷物の中から着替えとタオルを用意し、シャワールームへと向かおうとしたその時だった。
「あれ」
頬を何かが伝う感触―――水のような何かが額から頬を伝い、顎から床に落ちていく。
なにこれ……汗?
額を手の甲で拭い去ると、いつの間にか汗で湿っていた。
額だけではない。髪も汗をたっぷりと吸って、じっとりと不快な感触になっている。
ご飯食べてる時に汗をかいたのかなと思ったけれど、そんなに辛いものなんて食べてないし、今は春とはいえ気温は5℃。そんな汗をかくような気温ではない。
じゃあなんでこんな、と考えが至ったところで、どくん、と鼓動が一際大きく鳴り響いた。
いったい何が起こったのか、私には分からなかった。
心臓に何か異変が生じたのか、今の鼓動で一気に圧力をかけられた血液が脳の血管を圧迫して、ほんの一瞬ではあるけれど頭の中が膨れ上がるような感覚を味わう。ふらり、と倒れそうになりながらも壁に手をついて何とか耐えた。
けれども、異変はまだ終わっていなかった。
バクバクと、心臓の鼓動が大きくなっていく。脈のリズムもどんどん不規則になって、脈打つ度に頭の中に痛みが走った。
脂汗がじわりと浮かぶけれど、もうその不快な感触を気にする余裕もない。
「あ、が……が……」
助けて、誰か……たすけて……!
呼吸のリズムも崩れ、息を吸い込んでいるというのに窒息しそうになる。ガクガクと身体を震わせながら口を魚みたいにパクパクさせて悶えていた私の前に、いつの間にか小さな足があった。
黒いタイツで覆われた足。そのまま上に視線を向けていくと同じく黒に紅いアクセントの入ったスカートとグレーのワイシャツ、その上から随分とサイズの大きな黒いコートを羽織った蒼い髪の少女が視界に入る。
海原のような色合いの前髪、その下から覗く目は血のように紅く、瞳の形状は爬虫類のそれだった。
間違いない、あの子だ―――あのアンプルをくれた”蒼い子”だ。
いったいどこから、なんて気にする余裕は私には無い。
「ふぅん……あの力、随分と派手に使ったようだねぇ」
目の前で私が苦しんでいるというのに、子供のように背の小さいミニマムサイズの”蒼い子”はまるで、実験動物とかモルモットの類を見るような、他人に関心を持たないような目で私を見下ろしていた。
「あ、あなた……たす、たすけ……!」
「キミに渡したあの薬、効果は絶大だっただろう? どうだい、今までどれだけ努力しても手が届かなかった高みから他人を見下ろした気分は」
「あ、あが……が……!」
「でもね、無償で手に入る力なんて存在しないんだ。それ相応の対価を支払わなければならない……例えば努力とかね。苦しい思いを繰り返して研鑽を積み、その結果として力がつく。薬を飲んだだけでノーリスクの力が手に入るなんて、そんなうまい話あるわけがないんだけど……それすらも分からなかったのかな、キミは」
「あ、あだま゛……わ、割れ……っ」
「キミも気をつけたまえよ。悪魔というのは絶大な力を与える代わりに、大きな代償を求めるものだ」
蒼い子は私の前にしゃがんだ。
その顔には嗜虐的な笑みが浮かんでいた。まるで実験動物が苦しんでいる姿に興奮を覚えているような、そんなサディスティックな笑み。
ああ、そうか。
この子は私に救いの手を差し伸べてくれた天使などではないのだ。
精神を病みかけ、絶望の淵に沈んでいた私をカモと見てすり寄ってきた、正真正銘の悪魔なのだ。
どうして今になってそんな事に気付いたのだろう。
どうして見破れなかったのだろう。
「さて、キミにあげたあの薬……あれには中毒作用がある」
「ちゅ、ちゅうど……!?」
「魔術の適正の無かった者に適性を与える……やがて身体がそれに慣れてしまう。すると薬の効果が切れた途端に肉体は先ほどまであったはずの適正を取り上げられ、身体のいたるところでエラーが起こる。それが今、キミが感じている苦痛の正体さ」
今はとにかく、何でもいい。
早く解放してほしい。
この胸の裂けそうな鼓動の乱れから。
この割れそうな頭の痛みから。
「さて、それを鎮めるには同じように薬を服用してやることが必要になる。幸い、ボクの手元には薬の在庫がある」
そう言いながら、ポケットの中から例の赤いアンプルを取り出す蒼い子。それに向かって手を伸ばそうとすると、彼女は「おっと」とおどけるように言いながらその手を引っ込めた。
「これが欲しいのかい? クックックックッ……ならば、それ相応のお金を払ってもらわないとねぇ」
立ち上がる事も出来ず、床に倒れたまま苦しむ私の上に彼女はそっと跨ってきた。そのまま体重を預け、圧し掛かってきた彼女は汗だくになりながら苦しむ私の耳元で、そっと囁く。
まさにそれは―――悪魔の囁きだった。
「―――力が欲しいなら、ボクに平伏したまえよ」
ちょい百合(?)




