渇望した力
『これを飲みたまえ。そうすればすべてが変わる……今まで君を馬鹿にした全てを睥睨してやるといい』
このアンプルを渡してきたあの子の声が、まだ頭の中でリフレインしている。
枕元のオイルランプの明かりが弱々しく照らす中、アンプルの中に充填された液体は禍々しく輝いていた。血のように紅くて、けれども質感は人間のそれとはちょっと違う。赤ワインを思わせるどろりとしたものではなくて、半透明の……何というか、紅いインクのような質感の液体。
これを飲めば、全てが変わる……本当なのだろうか?
「……」
ドジで、間抜けで、人の足を引っ張ってばかりの私も、これを飲めば変わるのだろうか。
とにかく今は力が欲しい。このどん底から這い上がれるだけの力が。
その力が手に入るというのならば、迷う必要なんてどこにもなかった。
力を込め、アンプルのキャップを外した。途端にいかにも化学薬品といった感じのケミカルな香りがつんと鼻腔を突き上げてきて、はっきり言ってコレ人体に入れて大丈夫なものなのかとなけなしの警戒心がそう訴えかけてくるけれど、今はあの蒼い子の言葉を信じるしかない―――いや、信じたい。
息を呑んでから、アンプルをぐっと呷った。
口の中に流れ込んでくる猛烈な苦味。東洋には『良薬は口に苦し』という諺があるらしいけれど、苦味に遅れて舌や喉の奥がひりひりする感覚を覚え、少なくともこれは良薬ではない、と身体が認識し始める。
飲み込むと、胃が痙攣するのが分かった。身体が必死に吐き出そうとしているように思え、とにかく気分が悪くなる。
何度か咳き込んでからベッドに横になり、呼吸を整えた。いつの間にか額には汗が浮かんでいて、じっとりと湿っている。
私、騙されたのかな……。
具合が悪くなるだけで、特に何も感じない。
まあ、いいや……お金をだまし取られたりしたわけでもないんだし、何とか生きてるし。
とにかく明日になったら仕事を探さないとなぁ……大丈夫かなぁ、私1人で。
心配だよ……。
冒険者管理局はいつ来ても賑やかだった。
掲示板の前で依頼書を確認する冒険者たちの群れの中に割って入り、Eランクのコーナーの中から何か、安全な仕事はないかと依頼を選ぶ。魔物の討伐でも良いんだけど、私じゃあちょっとね……ゴブリン討伐なんかに出かけようものならば返り討ちにあって、そのまま繁殖のための道具に使われてしまうのがオチ。だから危険度の低い採取系の依頼はないかなって思いながら、依頼書に視線を巡らせた。
幸い、今は春。そういう事もあってか花の採取や薬草の採取など、採取系の仕事はそれなりにあった。けれども報酬金額は高くても4000ライブル程度……昨日のダンジョン調査でワレリーと山分けした50000ライブルと比べるとどうしても見劣りするし、これでは一日に食べていくためのご飯を購入するのがやっと……。
勇気を出して魔物討伐にでも行こうかな、と思って討伐系の仕事に視線を向けてみるけれど、依頼書に添付されているゴブリンの白黒写真を見るだけで足が竦んでしまう。
仕方がない、とにかく収入を得ないと。
薬草採取の依頼書を剥がして、カウンターに持って行った。冒険者バッジを提示して身分を確認、受付嬢に依頼を受理してもらう。
「それでは、気をつけて行ってらっしゃいませ」
「はぁーい……」
はぁ……。
溜息をつき、何気なく視線を掲示板の方に向けた。
依頼書が貼られている掲示板とは別の広報用の掲示板には冒険者に関する新聞記事の切り抜きが貼り付けられている。
最近では、『血盟旅団』という冒険者ギルドの名前を目にする機会が増えてきた。記事によると『1889年現在最も勢いのある冒険者ギルド』として富裕層も、そして管理局や冒険者ギルド上位陣も注目しているようで、破竹の勢いで快進撃を続けているみたい。
団長はミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフ。”雷獣”の2つ名を持つ異名付きの冒険者で、元はイライナ地方キリウにある没落貴族の庶子なのだとか。
没落貴族で庶子ともなれば、屋敷を追放されるか消されるか……そんな身分でありながら冒険者となり成功を掴んでいるのだから、本当に憧れる。私もあの人みたいに力があれば……。
はぁ、と溜息をついたところで、管理局の入り口から見覚えのある冒険者がやってきた。赤毛で、狼特有のケモミミが頭から生えた、引き締まった体格の冒険者。
ワレリーだった。
「わ、ワレリ……ッ」
彼は私の方を一瞬だけ見ると、何事もなかったかのようにそのまま隣を通過していった。カウンターの方に行くや、受注していた仕事の報酬(封筒に入ったライブル紙幣の束だ)を受け取り、何も言わずに再び私の隣を通過してどこかへと去っていく。
やっぱり彼にとって、私はお荷物だったんだ。
1人になったワレリーはああやって、報酬金の高い仕事に気兼ねなく出かけるようになっている。
私は彼の足枷……。
「……」
悔しかった。
自分の無力さが、ただただ許せなかった。
「薬草の採り方だけ経験詰んでもなぁ……」
薬草の根に付着した土を丁寧に払い落としてから革の袋に優しく収め、そう呟く。
薬草採取はもっとも簡単な仕事で、だからこそ多くの冒険者が最初に受注する仕事でもある。安いけれど多くの人々の助けになっている仕事……といえば聞こえは良いけれど、冒険者の身としてはもっと報酬の高い仕事にステップアップしたい。
でも魔物怖いし……。
「はぁ……」
多くの冒険者が、中堅で足踏みするという。
そういう話は聞いていた。上位陣に食い込み、一攫千金を夢見た多くの冒険者がその実力の差に打ちのめされ、自信を失い中堅層で停滞する。そういう状態が長年続いているせいで、冒険者界隈の勢力図はほとんど変わっていない。
例外があるとすれば、件のミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフ率いる血盟旅団くらい。
でも私に至っては中堅層にすら達していない。底辺も底辺だよ……。
溜息をつきながら薬草を引っこ抜き、根に付着した土を払い落とした。
薬草採取において、根を強引に千切ってしまうのは厳禁だ。薬草の種類にもよるけれど、一番栄養価が高かったり、あるいはエリクサーの原料とするのに向いているのは根の部分だったりするので、葉の先から根の先端に至るまで、可能な限り完全な状態で持ち帰るのが望ましい。
場合によっては追加報酬がもらえたりするし、厳しいクライアントだと採取した薬草の状態によっては報酬金額を差し引いてくる事もある。今の私にとっては1ライブルでも10ライブルでも欠かせない生活資金、無駄な浪費は避けなければならないし、少しでも収入が多くなるような工夫をしなければならない。
「うぅ……お腹すいたぁ……」
ぎゅるる、とお腹の音が鳴る。そういえば朝から何も食べてない……食費を削って無駄な出費を減らそうとした結果がコレだよ……。
温かいボルシチが食べたいなぁ、と頭の中で食べ物の妄想をしていたその時だった。
何か、獣のような唸り声が聞こえたような気がして……あれ、この辺って野犬でも出没するエリアだっけと思いながら後ろを振り向いた私は、心臓が止まりそうになった。
「ヒュッ」
後ろに居たのは、3体のゴブリンだった。
オリーブドラブの肌に人間の子供ほどの背丈。手足は痩せ細ったように細く、けれども指先からは獲物を容易く切り裂いてしまう爪が伸びている。口には不揃いな黄ばんだ牙が並び、怪物のように長い舌からは唾液が滴り落ちていた。
手には仕留めた動物の骨に石器を埋め込んだ棍棒や、先端部に鋭い磨製石器を取り付けた槍がある。
なんで、どうして―――そんな思いが私の頭の中にあった。
あれ、ここってゴブリンの生息範囲内だっけ。そういえば依頼書の備考欄に何か注意書きがあったような気が……。
「あは、あはは……」
私、またやらかした……?
薬草採取の中で報酬金額が一番高い仕事を選んだつもりだったけれど―――まさか、報酬金額が他の依頼よりもちょっとだけ高かった理由ってそういう……?
「いっ」
『ゲェァァァァァァァァァァ!!!』
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
薬草の袋を握り締めながら走った。全力で走った。
背を向けて逃げ出した私の背中目掛けて、ゴブリンたちも走り出す。さながら逃げる草食動物を追いかけ回す肉食獣の群れのようで、逃げ切れないのは明白だった。
「だっ、誰か助けてぇ!! 誰かぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
必死に叫んだけど、周りに人は誰もいない。
自分で何とかするしかない―――腰の鞘から剣を抜いて応戦しようとしたけれど、けれどもゴブリンのあの恐ろしい顔を見た途端に身体が金縛りにでもなってしまったかのように動かなくなってしまう。
体力ももう限界。昨日の全力疾走の疲労がまだ残る身体に、立て続けの全力疾走はなかなか酷な話だった。
やがて肺が熱くなり、両足が鉛みたいにずっしりと重くなる。ゴブリンたちの唸り声が背後から迫ってくる恐怖に耐えきれず、私は叫びながらとにかく我武者羅に剣を振り回した。
ああ、みっともない……まるで小さな子供が、泣きわめきながら両手を滅茶苦茶に振り回しているのと同じだ。それを仮にも冒険者となった身でやる事になるとは……周りに誰もいなくて本当に良かった、などと変に安心する一方で、しかし生命の危機は確実にすぐそこまで迫っていた。
「あっ―――」
ガギンッ、と硬い音がして、剣が弾き飛ばされる。
槍を手にしたゴブリンが得物を振るい、私の振り回していた剣を弾き飛ばしたのだ。安物の剣はくるくる回転しながら吹っ飛んでいくと、その辺の地面に突き刺さってしまう。
丸腰だ―――武器といえば、缶詰を開けたり植物採取に使ったりする作業用のナイフくらいしかない。
嫌だ。
こんなところで死ぬなんて。
こんな、こんな化け物の繁殖の道具にされてしまうなんて。
何で私が。何故私が。
こんな事になるなら、冒険者になんかならなければ良かった。田舎の実家で両親の仕事を手伝い、農業をやっていれば良かった。
なんでこんなリスクを冒したのだろう。なんで冒険者なんかになったのだろう。
今までの選択を、こんな未来を選んだ自分を呪ってやりたかった。叶う事ならば全力で首を絞めてやりたい。こんなバカげた未来を選ばぬように。
《―――本当にいいのかい?》
どこからか、昨晩のあの”蒼い子”の声が聴こえたような気がした。
どこか、私の事を小馬鹿にしているような、嘲るようなニュアンスのある声音。
あの子もあの子だ。何が”すべてが変わる”なのか。結局何も変わらないじゃないか。今日も私はドジで、間抜けで、相変わらず底辺を這いずり回るだけの負け犬。そしてそれは、今日終わろうとしている。
けれども―――。
このまま死んでしまってもいいかもしれない、という諦めが浮かんでくる一方で、こんなところで死にたくないという生への執着も心の中には確かにあった。やがてそれは油の海に投げ放たれた火のついたマッチの如く急激に燃え広がり、先ほどまであった諦観を全て燃やし尽くしてしまう。
気がつけば、本能のままに声が口から溢れ出ていた。
「くっ、来るなぁっ!!」
左手を、横へと思い切り薙ぐ。
変化が起きたのは、その時だった。
最初はやけに暖かい風が頬を撫でたようだった。けれどもそれが決して暖かいなどといった、暖炉の火とはレベルの違う感覚―――全てを焼き尽くすほどの圧倒的な熱量、その片鱗であると自覚した瞬間には、目の前が真っ赤に染まっていた。
どこから現れたのか、目の前を埋め尽くしていたのは紅蓮の炎だった。さながら火炎放射器による攻撃でも始まったかのように赤々と燃え盛る炎の渦がゴブリンたちの矮小な肉体を呑み込んで、あっという間に燃やし尽くしてしまう。
赤い炎の奔流の中、生きたまま焼かれる苦しみに悶える3体の小さな影が崩れ、やがて消えていくさまを、私は信じられないといった感じの表情で見つめていた。
「……ぇ」
これ……私がやったの……?
やがて炎が消え、焼け焦げ燻る地面だけが残る。
ゴブリンたちの姿はどこにもなく、燃え尽きた灰すらも残らない。
今のって……今のってまさか。
「ま、魔術……?」
間違いない、魔術だ。
けれどもどうして―――私に魔術の才能なんて、適正なんて無かったはずなのに。
幼少の頃、両親に無理言って受けさせてもらった適性検査でも結果はE-判定……適正なんて欠片もなく、魔術師になるのは絶望的だったはずだ。
それでも今、ゴブリンたちを焼き尽くしたのは紛れもなく炎属性の魔術。
これはいったい、どういう事なのか。
《これを飲みたまえ。そうすればすべてが変わる……今まで君を馬鹿にした全てを睥睨してやるといい》
昨晩私にアンプルを渡してきた、あの蒼い子の声が頭の中でリフレインする。
ああ、そうか。
私は変わったんだ。
あのアンプルの力で。
もしこれが本当にその通りなのだとしたら―――これから本当に、全てが変わるのかもしれない。
私の全てが。
周りの総てが。




