最短距離
ぽつぽつと降り始めた雫が、アスファルトの地面に不規則な斑模様を描き始めました。
嫌ですねぇ、天気予報では今日は晴れだって言ってたのに。
傘を持ってきていないので、ここは走って家に帰るとしましょう。多少濡れてしまうのは覚悟の上です。
駆け足で歩道を突っ走り、歩道橋の階段を駆け上がって車道の反対側へ。すぐ傍らにある橋の上を電車が通過していく喧しい音と車道の車の発するクラクションの音。都会の音、とはこういうものでしょうか。
雨はどんどん勢いを増し、クラリスの身に纏うスーツにも濡れた痕が目立ち始めました。
早く帰らないと、とスピードを上げ始めたクラリスですが、そんなクラリスを呼び止めるように何かの弱々しい鳴き声が聞こえてきて、思わず足を止めてしまいます。
『……?』
『ぴー……ぴー』
路肩に1つ、ぽつんとダンボール箱が置いてありました。
正面にはこれ見よがしに”拾ってください”なんて書いてあります。こうやって犬やら猫やらを捨てる人の神経がクラリスには理解できません。飼えないなら飼うな、これに尽きます。一度飼育を心に決めたならペットの命が尽きるその日まで責任もって世話をするべきでしょう。
とはいえ、こんな雨の中に放置というわけもいきません。
歩み寄って中を覗いてみると、そこにはもふもふの小さな獣がいました。
見た目は猫を思わせますが、猫と比較するとすらりとした体格をしています。黒髪で、前髪の一部や睫毛と眉毛、それからケモミミの周囲だけは真っ白で、くりくりとした可愛らしい目は愛嬌満点でした。
そう、ハクビシンです。ダンボールの中身はハクビシンでした。
それもただのハクビシンではありません。害獣だの何だの言われている彼等ですが、それにしては身なりが良いハクビシンでした。まるで貴族の屋敷に生まれた庶子のようです。
その子はクラリスを見上げるなり、縋りつくようにぴーぴー鳴きながら近くに寄ってきました。
髪もびしょ濡れで、こんなミニマムサイズです。このまま放置していたら死んでしまうかもしれません。
『ぴー』
『……』
見捨てるわけにはいきませんでした。
気が付いた頃にはそのミニマムサイズのハクビシンを抱き抱え、家に向かって走っていました。とにかくこの子だけは助けたい……そしてあわよくば吸いたい。ジャコウネコ吸いしたい。乾燥してもっふもふになったご主人様をクンカクンカして思い切り顔を埋めたい。肉球ぷにぷにしながらケモミミに吐息吹きかけてビクビクしてるところを愛でたい。そしてもういっそのこと食べてしまいたい。
考えるだけでもうね、よだれが……でゅふふふ……!
「でゅふふふ~ご主人様ぁ~……」
「オーイ起きろー」
ぺち、と肉球でそっとクラリスの頬を叩いてから溜息をついた。
人の事を散々吸った挙句、ジャコウネコ吸いの最中に寝落ちしてしまうまではいい。クラリスだって日頃の仕事で疲れているのだからまあ、そこまでは許そう。そこまでは。
問題はそこから先だ。今俺はクラリスの膝の上に腰を下ろし、背中に彼女の大きなOPPAIを押し付けられ、ケモミミに寝息を吹きかけられながらも磁力魔術の練習をしているところだ。周囲には空の薬莢から金属製のコップ、なんとなく購入したハーモニカに昼食で食べたニシンの塩漬けの缶詰の(空き缶)が磁力に捕らえられてふわふわと浮遊しており、大体は意のままに動いてくれている。
しかし、耳元でASMRの如くクラリスの願望を垂れ流されては集中力も何もあったものではない。
まったく、前もこんな事なかったか。恒例行事なのだろうか?
ウチのメイドの性癖の一端を垣間見て気まずくなりながら、何気なく壁に飾られている額縁に視線を向けた。
貴族の屋敷とかによくある、芸術家の絵を飾るような豪華な額縁。その中には床の上に置かれた真っ赤なリンゴを、小さな前足で抱き抱えるつぶらな瞳のハクビシンの幼獣が描かれている。
いつぞやのミカエル君の姿をパヴェルが描いてくれたイラスト(の筈だ)である。椅子に座った姿を描いてくれてとお願いしたんだが、その返答がまさかのリアルミカエル君。パヴェル画伯の目には一体何が見えていたというのだろうか。
鉛筆でざっと描いただけのイラストだったそれは、まさかのクラリスが自費を投じて清書を依頼するという事態に発展。提示された金額が金額だっただけにパヴェルも断れなかったようで、ノリノリで清書し色まできっちり塗った結果がこの額縁の中に収められているハクビシン幼獣の絵である。
油絵なのだろうがそのクオリティは凄まじく、間近で見ると絵だと分かるが、今俺たちが座っている距離から見るとさながらカラー写真のようにしか見えないという、もうAKぶっ放すよりその業界で食っていけよお前と言いたくなるレベルである。何なんだアイツ。
しかもタイトルは『リンゴを抱えるミカエル』。いやいやいや、これハクビシンじゃん。リアルミカエル君じゃん。俺であって俺ではないんだよコレよ。このイラストはフィクションです。実在のミカエル君とは一切関係ありません。OK?
部屋に飾られ、気のせいかその前には薄い本(オイしかもこれミカエル君とメイドさんのえっちな本じゃねーかオイ)がお供え物として置かれており、もはや祭壇と化してるのホントに草生える。こんなんミカエル君じゃなくてハクビシンならぬハクビ神じゃねーかオイ。
参ったね、と呆れながら周囲を浮遊させていた金属製の薬莢やらコップやらをテーブルの上に着地させ、さあそろそろ昼寝でもしようかとクラリスに背中を預ける。地味にではあるがずっと魔力を消費していたし、集中力をそっちに注いでいたわけだから少し疲れた。瞼が適度に重い。
けれども鍛錬の甲斐あって、磁力操作の精度はだいぶ上がったという自負があるし、磁界を展開できる範囲も広がった。大半の魔術師が2~3mとされているが、俺の場合はコンディションにもよるが概ね10m……この平均の5倍の距離は大きなアドバンテージとなる筈だ。
そーいや磁力操作範囲の世界記録どのくらいだっけ、と思いを巡らせたその時だった。各寝室に備え付けられたスピーカーからカリンカをアレンジしたチャイムが流れてきたかと思うと、パヴェルの声のアナウンスが異常事態を告げたのは。
《緊急停車、緊急停車。前方の線路が崩落により塞がれているため待避所に入ります》
崩落?
まだ眠っているクラリスの膝の上から飛び降り、機関車の方へと向かった。炭水車の脇に設けられたキャットウォーク(身体を半身にしなければ柵にぶつかる程狭い)を進み、機関車を覗き込むと、額に汗を浮かばせたパヴェルが圧力計をチェックしているところだった。
「崩落だって?」
「アレだ」
機関室から身を乗り出し、前方を見た。
AA20の前に連結されている警戒車、その120mm滑腔砲が睨む先には先に出発した列車の車掌と思われる人物がいて、大きく旗を振っている姿が見える。緊急停車の要請を意味する赤い旗だ。
列車がブレーキをかけ、滑らかに減速しながら左にある待避所の中へと入っていく。このように在来線の線路には等間隔でこのような待避所が設けられていて、冒険者の列車は駅で購入できる最新版のダイヤグラフを参照しながら運行しなければならない。あくまでも在来線が優先であり、ノマドはダイヤグラフの合間を縫って列車を運行する必要があるため、例えば後ろから特急が来たりとかしたらこういう待避所に入って通過させなければならない。
鉄道管理法にも明記されている規定である。
待避所に入ると、前方で停車している列車の車掌がこっちに駆け寄ってきた。
「ご協力ありがとうございます」
「崩落ですって?」
「そうなんですよ」
車掌は本当に困ったような感じで腰に手を当てながら頭を掻いた。
「雪解けで湿った泥がこう、ズルっと滑って崩落に繋がったようでしてね」
そう説明する車掌の視線の先には、崖の上から落下してきた泥や岩石ですっかり埋もれてしまった線路と、その直前で停車している定期運航の列車の後ろ姿が見える。
単なる岩石の崩落であれば機甲鎧を持ち出せば撤去できる(線路のレールの歪みや耐久性などの懸念事項は別として)。しかしただ崩れてきた岩石が”塞き止めている”だけではなく、大量の泥と岩石で文字通り”埋まっている”状況ともなれば話は別だ。鉄道管理局に通報して、しかるべき処置をしてもらわなければならない。
「こりゃあ突貫工事で2ヵ月弱ってところか」と見積もるパヴェルの言葉に、タオルで汗を拭いていたツナギ姿のルカが悲鳴を上げた。
「そんなに足止めされんの!?」
「仕方ねーだろ。この規模の崩落には重機も投入せにゃならんし、終わったら終わったで線路の損傷度合いのチェックもある。問題なけりゃいいが、こんだけ崩れれば線路は敷設し直さなきゃな」
「えー、そんなー……!」
悲鳴を上げるルカだが、一番悲鳴を上げたいのは列車の運転手や車掌たち、そして経営部である。
マズコフ・ラ・ドヌーからボロシビルスクまでを結ぶ定期運航列車がこれでは、代替路線を探して運行しなければならないが、そうなったらなったで臨時のダイヤを組まなければならない。いずれにせよ負担がどこかの部署に降りかかる事になる。
それもそうだが、列車で広大な国土を移動しているこちらも現地で足止めを喰らうので予定が大きく狂う事になるわけだが……。
手旗信号で停車の誘導をしてくれた車掌が戻っていったのを見て、パヴェルはポケットから端末を取り出した。画面を何度かタップして地図アプリを呼び出し、しばらくしてからその画面をこっちのスマホに転送してくる。
「今ざっと代替ルートを考えてみたんだが」
「ああ」
「まずルート1、北上し”バロネジ”を経由して南下、新ツォルコフへと向かう」
「これだと北上する分で手間がかかるな」
「そう。その代わりさらに少し北上すれば首都モスコヴァだ」
「なるほど。んでルート2は」
「……恒久汚染地域を突破し新ツォルコフまで一気に行く」
案の定、危険な提案だった。
恒久汚染地域―――この前、廃品回収を行ったあそこだ。
通称”ズメイの焼け跡”。150年前、ズメイの一番最初の襲撃で文字通り焼け野原となり、地図から消えた本来のツォルコフ市街地。今の新ツォルコフはそこからやや東部に移転し、位置的にはちょうどヴォルガ川の畔にある。
ぶっちゃけ一番手っ取り早いのはルート2だ。最短距離でツォルコフまで行けるし、道中で更に資材が手に入る。距離自体もそれほど遠いわけでもなく、1日くらい走ればツォルコフ駅には到着するであろうと見積もっている。
問題はその道中、恒久汚染地域がヤバいという事だ。環境も、そこを跋扈する化け物共も含めて。
「幸い、線路に関しては問題ない。定期巡回の騎士団偵察部隊の連中も使っている線路だから整備は受けてる」
ボルトが緩んで脱線なんて事にはならないさ、とパヴェルは煙草を吹かしながら言った。
ローリスクで遠回りするか、ハイリスクで最短距離を通過するか。
「どうする、ミカ」
「……資材の在庫と燃料の残量は」
「資材はまあ、最低限のラインは確保しているが欲を言うともう少し欲しい。燃料もそろそろ補充をかけたいところだ……機関車の足回りも点検したいしな」
「決まりだな」
もう少し余裕があればバロネジに立ち寄ってからでも良かったのだが、現状では正面突破が最適解であるようだ。
「正面突破だ、ルート2で行こう」
「決まりだな」
短くなった煙草を携帯灰皿に押し込み、パヴェルはニヤリと笑った。
「ルカ、後進だ。こないだの分岐点まで戻るぞ」
「それって、まさか恒久汚染地域を突っ切るって事!?」
「そのまさかだ」
お前もこのくらいスリルあった方がいいだろ、とルカの肩を叩くパヴェルだが、しかしそのリスクは大きい。特にあの腐敗の瘴気、一番の脅威になるのはあれだ。防護マスクで肺を守らなければ生きている人間ですら肺が腐敗、血液中から成分が吸収され肉体が壊死、最終的にはゾンビ化する恐れがあるというとんでもない瘴気が、北方から吹き下ろしてくる風に乗って襲ってくるのである。
あそこに踏み込む前に、十分な数のキャニスターの確保と各車両の密閉及び空調設備の改造、そういった準備が必要になりそうだ。




