戦いを終えて
さて、俺は天国と地獄、どっちに行くのだろうか。
死という概念を知り、死後の世界の存在を近所のお寺の坊さんから聞かされたその時からずっと疑問に思っていた事だ。曰く『悪人は地獄で責め苦を味わい、善人は極楽で御仏に仕える』のだという。ならば17年という短い人生の大半を鍛錬に費やしてきた俺はどちらなのだろうか。そればかりが気になるものである。
しかし目を開けた俺の目の前に居たのは、閻魔様ではなかった。
『兄さん、早く起きなよ』
そう言いながら笑みを浮かべているのは、俺にそっくりな顔立ちの男だ。けれども目つきはタレ目でケモミミは常にぺたんと倒れていて、全体的に優しそうな雰囲気が目立つ。体格も筋骨隆々とは言い難く、少し小突いただけで泣き出してしまいそうなか弱さがあった。
実の弟の信也だ。
何でお前がここに、という言葉を発する暇もなかった。
眼鏡の奥の信也の目が、優しそうな雰囲気から相手を嘲るような、さながらメスガキのような感じの目つきに変わったのを俺は見逃さない。何だコイツ人の事を小馬鹿にしてんのかと思っていると、後ろに隠していた本を俺に見せてきた。
あ、あれは……本棚の奥に隠していたメイドさん特集本……!?
『早く目を覚まさないと、兄さんの性癖を父上と母上に開示―――』
「ん゛わ゛ぁ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!?!?」
「シャァァァァァァァァァァァてめえいつからそんな悪い子になったァァァァァァァァァァァァァァ!?!?!?」
飛び起きた。
真っ白な床、真っ白な天井、真っ白なカーテンに真っ白なベッド。
何もかも、さながら牛乳で染め上げたかのように真っ白な部屋の中。開け放たれた窓の向こうから吹き込んでくる風はうっすらと潮の香りを含んでいて、ここが海からほど近い場所にある事を意識させてくる。
ここはどこなんだろうかと思い、窓の外を見た。
エイムズ川の畔に屹立する巨大な時計塔とロードウ・ブリッジ。街を南北に隔てるエイムズ川の下流には大西洋が広がっていて、ちょうど今からその大西洋へとドレットノート級の二番艦『ジャガーノート』が出撃していくところだった。
演習だろうか。
間違いない、ここはロードウだ。
あれ、そういえば俺はどうしてここに……?
ぼんやりとした頭の中を漁り、記憶を無理のない範囲で思い出していく。エミリアが誘拐されて、みんなで助けに行って、それからジョシュアと……そうだ、ジョシュアだ。あの死にかけの大馬鹿野郎はどうなった?
「……まったく、騒がしいなぁ君は」
隣から声が聞こえた。
俺が寝かされているベッドの隣にはもう一つベッドが置かれていて、そこには包帯でぐるぐる巻きにされた妖怪が横になっている。
なんかものすごい親しげに語りかけてくるし、ジョシュアにそっくりな声なんだがとりあえず。
「ウギャァァァァ妖怪ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!?」
「はぁ!?」
必死にナースコールのボタンを押しまくった。1秒間に10回くらいの、ボタンが壊れそうなほどの勢いでボタンを連打。これならナースも只事ではないと判断してすぐに駆け付けてくれる筈だ。
しかし、しばらくして部屋を訪れたのはナースではなかった。
ガチャ、と扉が開く。助けて妖怪が隣のベッドに、と訴えようとしたが、しかしそこに立っていたのはナースではなく、紙袋いっぱいにリンゴやパン、お菓子に飲み物を詰め込んでお見舞いに来てくれたエミリアだった。
「あれ、エミリア……?」
「騒がしいぞ、少しは静かにしろ馬鹿者」
「アッハイ」
すんません……とケモミミを倒しながら謝り、とりあえずベッドにもう一度横になる。
エミリアは紙袋をベッドの間にある小さなテーブルの上に置くと、隣で横になっている包帯男の方へと向かい、包帯を取り始めた。
薬液の染み付いた包帯の下から露になったのは、やはり見慣れた男の顔だった。
ジョシュアだ。
どうやら一命は取り留めたらしい。身体中に銃弾を喰らい、いつ死んでもおかしくないレベルの重傷だった筈だが……運び込まれた病院の医師たちのおかげか、それともエリスの応急処置が効いたのか、はたまた彼自身の生命力が凄まじかったのかは分からない。
とにかく彼は生きていた。
生きていてくれた。
その事が嬉しくて、口元に笑みが浮かぶ。
「ありがとうエミリア」
「気にするな。それより、身体の調子は」
「ああ、まだ起き上がれないけどとりあえずは」
「そうか。まあ、隣に力也もいる。話し相手には困らんだろう」
彼にそう言ってから、こっちにやってくるエミリア。彼女は俺の顔を見て安心したように笑うと、傍らにあった椅子に座ってナイフでリンゴの皮を剥き始めた。
「……なあ、あの後どうなった?」
はっきり言って、ジョシュアの命をエリスやエミリアに託して彼をぶん投げ、爆発に巻き込まれてからは記憶がない。てっきり死んでしまったものと思っていたのだが……というか爆発に巻き込まれても平然と生きてる俺って何?
「決まっている、お前ら2人そろって病院送りだ」
「そうじゃなくて」
「危なかったな力也、折れた肋骨が腸を串刺しにしてたそうだ。一応はエリクサーの大量投与で元通りになったが」
「話聞いて」
「爆発に巻き込まれた時も大変だったんだぞ。今でこそエリクサーとヒールで元通りになったが、死体みたいにボロボロだった」
「だからあの」
「心配……したんだからな……」
「……ごめん」
ぶるぶると、エミリアの肩は震えていた。
うつむいた彼女の顔から流れ落ちる銀の雫は、決して汗などではないのだろう。いつもは強気で、男勝りで、あんなにも凛々しい彼女が見せた弱い一面。きっと滅多に見せないであろうそんな表情を見せられ、途端に申し訳なくなる。
女を泣かせてしまった。
なんてこった……まさか自分の愛した女を泣かせてしまうとは。
罪悪感に苛まれていると、エミリアは涙を拭いてから切ったリンゴを皿に乗せ始めた。
「……でも、生きててよかった。本当によかった」
ふふふっ、と笑みを浮かべる彼女につられて、俺も少しだけ笑う。
「お前もだぞジョシュア」
「アッハイ」
「そういや、ジョシュアの扱いはどうなった?」
ある意味で一番気になっているところだ。
エミリアの命を、身を挺して守ってくれた恩人ではあるが、彼は今回の誘拐事件に加担している。公爵家の長男が公爵家の次女を誘拐するなど前代未聞の大事件、下手をすればそのままアンダーソン家の信頼の失墜、最悪没落にまで繋がりそうな一大スキャンダルになりかねない。
それにあれだけの爆発まで起こったのだ、内々で処理できる範疇を超えている。当局の介入もあるだろうし隠し通せることはないだろう。
するとエミリアは、傍らにあった新聞を渡してきた。
【イーストエンドの廃倉庫が爆発か!?】
【お手柄! 倭国のサムライとジョシュア・アンダーソン氏、誘拐されたエミリア・ペンドルトン氏を救出!】
「……え、これは?」
「ジョシュアは身を挺して私を誘拐犯から守ってくれた。お前とジョシュア、それから姉さんたちがいなければ危ないところだった……警察にはそう証言した」
嘘やろ、と言わんばかりの表情でぽかんと口を開けているのは俺だけではなかった。右隣のベッドで横になっている元包帯男ことジョシュア・アンダーソン氏もあんぐりと口を開け、俺とエミリアを交互に見ている。
今回の事件、証人は俺たちだけだ。犯人は未だ逮捕されておらず、現場からは何も証拠が見つかっていない以上、被害者たるエミリアの証言こそが全てとなる(一応はエリスや菜緒葉も口裏を合わせたのだろう)。
それが、彼女の望む結末だった。
誘拐事件を解決に導いたのは俺とジョシュア。彼の負傷は誘拐犯の攻撃から身を挺して守ってくれた際に負ったもので、彼がいなければ全員死んでいた―――新聞記事にはエミリアの証言も記載されている。
まあ、間違いではない。ただジョシュアが誘拐事件の片棒を担いだ、という部分はごっそりと削られ無かったことにされているが、まあそれでいいのだろう。
「……エミリア」
隣で少し申し訳なさそうな顔をしながら、ジョシュアは言った。
「今回の事件の発端は僕だ。さすがにお咎めなしというのは……」
何か罰をくれ、と真剣な表情で言うジョシュア。出会ったばかりの頃の、プライドが高く権力をひけらかしていた彼とは思えないほど真摯な表情に、俺は思わず目を丸くしてしまう。
たぶん、こっちが素のジョシュアなのだろう。
そんな事を言われたエミリアはと言うと、ふふっ、とまるで自分の罪を告白しに来た子供を諭す母親のような笑みを浮かべた。
「なら、力也に謝罪するんだな」
「え」
「菜緒葉から聞いた。決闘した日、色々言ったそうじゃないか」
「ああ……事実だよ」
「それについての謝罪をしろ。力也、お前もそれでいいだろう?」
「まあ、俺は構わんよ」
「はい坊ちゃま、リンゴです」
「待てお前どこから出てきた」
「ベッドの下からです」
えぇ……?
ベッドの下にずっといたんですか菜緒葉さん……?
ウチの付き人の所業にドン引きしていると、ジョシュアはこっちを向きながら言った。
「……すまなかった、”黄色い猿”なんて言って」
「気にしてねえよ」
「……エミリアと幸せにな」
「……ああ」
これで一件落着、というわけか。
しかし問題は誘拐の実行犯、あの蒼い髪の女だ。顔がエミリアに瓜二つだった点も驚きだが、それ以上にあの先進的な技術……明らかに個人で用意したものではない。背後に何らかの巨大な組織がついている可能性は否定できない。
今後も俺たちの前に立ちはだかる事はあるのだろうか。
連中、何者だ……?
菜緒葉にリンゴを食べさせてもらっていると、コンコン、と病室をノックする音が聴こえてきた。
「どうぞー」
ガチャ、と扉が開いた。さっきナースコール鬼連打しちゃったしナースが来てくれたのかな、と思っていた力也さんだったが、しかし病院の薬品臭とも違う生臭い猛烈な悪臭に、思わず左手で鼻をつまんでしまう。
「う゛ぉ゛!゛?゛」
「ハーイ力也くん、それにジョシュアくんも♪」
「え、エリス……!?」
やってきたのはドレス姿のエリスだった。それは良いのだが、しかしこの悪臭は何か……視線を彼女へと向けると、真っ先に目についたのはエリスが大切そうに抱えている大きな鍋だ。この瘴気は微かに開いた鍋の蓋の隙間から漏れ出ている。
ジョシュアたちはどうかは知らないが、力也さんはワコクオオカミ(ニホンオオカミ)の獣人。嗅覚は良い方なのでこういう悪臭には敏感なのだ。
やべ、吐きそう……ごめん菜緒葉ちょっとリンゴストップ、馬鹿お前無理矢理捻じ込むなお前。
「ね、姉さん……何だその鍋は」
「うふふ♪ 力也くんもジョシュアくんも怪我してて大変だから、体力付くように厨房を借りて食事を用意してきたの♪」
しょ、食事?
あの鍋の中身が?
この瘴気の発生源が!?
見ろよアレ、枕元の花瓶に入ってる花が急激に枯れている……何コレ毒ガス? 毒ガスなのコレ?
ぱか、と蓋を完全に取るエリス。瘴気が一層濃度を増し、うっすらとだが紫色の煙のようなものさえ見えてくる。
と ん で も ね え 悪 臭
謎 の ア ン モ ニ ア 臭
ピ ン ク 色 の ゼ リ ー
ま だ 動 い て る よ あ の ウ ナ ギ の 切 り 身
食 材 へ の 冒 涜
イ ー ラ ン ド 料 理 こ こ に 極 ま れ り
鍋 一 杯 の 化 学 兵 器
人 権 を 鼻 で 笑 う ラ ン チ
国 連 制 裁 対 象
阿 鼻 叫 喚
こ の 世 の 地 獄
だ れ か た す け て
中身はなんだか、ピンク色のゼリーのようだった。ピンク色のゼリーの中には紫色の肉片のようなものが浮かんでいて、よっぽど新鮮なのかまだうねうねと蠢いているのがここからでも見える。
「はい、力也くんの好物のウナギゼリー! 前にイーストエンドのお店でおかわりしてたわよね? 菜緒葉ちゃんの分まで食べちゃって♪」
ふ、伏線回収やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!
したけども! 確かにしたけども! あれは何というか、気遣いというか建前というか! せっかく案内してくれたエリスをがっかりさせないように色々と配慮したというか!
「ね、姉さんそれ何を入れた……?」
「え? うふふ、怪我人である2人がすぐ回復できるように、色々と薬草を分量種類問わずぶちこんで煮込んでみたの♪」
そう言いながらお皿に盛りつけるエリスだったが、盛り付けられた皿がゼリーに触れた瞬間にじゅう、と音を立てて溶け始めた……え、何アレ酸性? ㏗でいうとどの程度?
「あら、お皿が溶けちゃったわ」
お皿が溶けちゃったとかいうパワーワードやめてもろて。
ジョシュア、あれいる? そんな感じで隣の犠牲者候補に視線を向けると、ジョシュアはこの世の終わりみたいな表情で必死に首を横に振っていた。
いや、俺も食べたくないんだけど……あんなん食べたら今度こそ三途の川が見えるんだけど。というかもう既にうっすらと見えている。対岸で死んだお祖父ちゃんとお祖母ちゃんがゲートボールやってるの見えるんだけど。楽しそうだなオイ。
「まあいいか。それじゃあ力也くん、あーんして♪」
死 神 か ら 指 名 が 入 り ま し た 。
「え、いや、さすがにあーんは恥ずかしいし……」
「あらあら、何を言ってるのかしら? 私たち近々夫婦になるのよ? 見せて恥ずかしい事なんて何もないんじゃなくて?」
「い、いや、でも……!」
「はぁい、あーん♪」
「あ……ぁ、ぁーん……」
今日、俺は死んだ。




