エミリア救出作戦
ノイズ交じりのピアノの旋律が聴こえる。
この曲は何だったか……母上がよく、レコードで聴いていた曲だ。
穏やかで、儚げで、それでいて今にも夢が冷めてしまいそうな、そんな曲調のピアノの旋律。確かショパンのノクターンOP.9-2だったか。母の部屋を訪れる度に6割くらいの確率でこれが流れていたから耳に残っているし、私も蓄音機とレコードをセットで購入している。
それはいい、それはいいのだ。
意識がはっきりするにつれて、頭の奥底に鈍い痛みが生じてくる。まるで真っ白な布にインクが染み込んでいくようにじわじわと痛み出す鈍痛―――ああ、そういえば後頭部を何かに殴られて気を失っていたのだ、と思い出す。
ここはどこなのだろうか。
周囲を見渡した。
黴の臭いが充満した広い空間。周りには何が入っているのかも判らぬコンテナが置かれ、床と共に埃をかぶっている。天井には塗装も剥がれ落ちた巨大なクレーンがぶら下がっており、壁面には窓の類はない。よく見ると天井では巨大なファンのようなものが軋む音を上げながらも回転しており、窓がない事からもここが地下なのだという事が把握できる。
「お目覚めですか」
冷淡な声が、私の意識を現実に引き戻す。
やはりそこに彼女はいた。紺色のパンツスーツ姿で、蒼い髪の私にそっくりな女―――確かあの時、”シェリル”と名乗っていた女だ。
「何が目的だ。身代金か」
「まさか。そんなものに興味はありませんよ……獣人の手垢のついた金になど」
「……」
やはりそうだ、この女は獣人たちを見下している。
こういう時、手足が拘束されているのが小説や漫画では相場ではあるのだが……どういうわけか、私の手足は自由だった。縄で縛られているわけでもなく、手枷や足枷の類はない。
さすがにダガーは没収されていたが、しかし手足を自由にするとは何を考えているのか―――私1人が暴れたところで即座に鎮圧できるという自信でもあるのか。舐められたものだ。
「ただ、貴女をこうして拘束しておけば必ず速河力也はやって来る」
「……力也に何の用だ」
「彼を殺す」
あっさりと即答するシェリルの顔に、しかし変化はなかった。相変わらず人形のようで気味が悪くなる。
殺す―――力也を?
「あいつが……アイツが何をしたというのだ」
「彼は危険です。我らの知る”同志大佐”とも、”モリガンの傭兵”とも大きくかけ離れている。行動が読めず、しかし手強い。計画の大きな障害となり得る危険因子です」
「どうし……モリガン……? お前は何を言っている?」
「知る必要はありません。とにかく、貴女は彼をおびき寄せる餌なのです。こうしている間にも彼はやって来るでしょう」
狙われているとも知らずに―――そう言い放ったシェリルへ、私は拳を振るっていた。
分かっている、どうせダガーを防がれた時のように身体にドラゴンの外殻を展開して防がれてしまうのだろう。だがこうせずにはいられなかった。私の将来の夫となる男を殺そうとしている連中を、黙って見ているわけにはいかなかった。
しかし、振り払った拳はシェリルの顔面に届くよりも先に、脇から伸びてきた手に掴まれ止められてしまう。
「!?」
がっちりとした、男性の手。
誰か、とそちらを睨むと、そこには見知った顔があった。
「ジョシュア……!?」
「……」
私の拳を握って止めていたのはジョシュアだった。
アンダーソン家の長子であり、力也が来る前までは私との婚約の予定があった男。権力をひけらかし威張り散らす典型的な貴族のバカ息子という印象で、はっきり言って私はあまり乗り気ではなかった(強い男にしか興味がないのだ)のだが、仮に婚約が成立していたらと思うと憂鬱なものである。
婚約を破棄され、挙句に力也に喧嘩を吹っ掛けあっさり敗北した彼が、何故こんなところに?
いや、それよりも。
今の彼の顔に張り付いている表情は、なよなよしていた弱々しいジョシュアとは思えぬものだった。まるで何者かに全てを奪われ、絶望と憤怒に支配されているような―――さながら怨霊のような、何とも言えぬおぞましい表情がそこにあった。
「貴様、なぜここに……!?」
「彼もまた、我らテンプル騎士団の一部」
「なんだと?」
「さあジョシュア、戦の支度を。やがて速河力也がやってきます」
「速河……力也……!」
その名を聞き、ぎり、と歯を食いしばるジョシュア。
アイツに敗北したのがそんなにも屈辱的だったのか―――婚約相手を他所の男に奪われたのだから、確かにそうもなるだろう。
しかし―――それだけではないように思える。
もっと以前から、積もりに積もった恨みのようなものが、彼の発するおぞましい雰囲気から何となく読み取れるのだ。
何ともふざけた展開だ……このエミリア・ペンドルトンともあろう者が、これでは捕らわれの姫のようではないか。
次の瞬間だった。
頭上で回転するファンの軋む音が、より大きくなったような気がした。
空気の流れが明らかに変わる―――それをいち早く察知したシェリルとジョシュアは視線を上に向け、臨戦態勢に入った。
ジョシュアが剣を引き抜くと同時に、緩やかに回転していたファンの軸が火花を発する。鉄の焼ける臭いと熱気を発したかと思いきや、超重量のファンがぐらりと揺れ、固定が切り離されたかのようにジョシュアとシェリル目掛けて落下してきたのである。
それを避けようともせず直立するシェリルと、ファンに向かって剣を振るうジョシュア。
その太刀筋は、今までのジョシュアとは大きく異なっていた。口だけは達者なジョシュアにしては踏み込みが深く、重い一撃。魔力を纏いながら振るわれた刀身は落下する鋼鉄製のファンをあっさりと両断し、彼等の傍らに控えていた護衛の黒騎士2体だけがその下敷きとなってしまう。
あれがジョシュアだというのか―――予想外の実力に驚愕している間に、事態は急展開を見せていた。
ごう、と風が千切れるような音。
この音―――いや、まさか。
鍛錬の際、何度も聴いた音だ。斬撃があまりにも速すぎるあまり、躱す事も防ぐ事も困難を極める力也の刀捌き。それと全く同じ音が、濛々と立ち昇る煙の中から聞こえてくるのである。
直後、ガギュウッ、とジョシュアの剣に大太刀の刀身が叩きつけられた。
「―――よう、無事か」
「お前……!」
ゆっくりと、煙が晴れていく。
そこに居たのは、隻腕で隻眼の巨漢だった。
狼のケモミミは片方が半ばから千切れ、右目には古傷が深々と刻まれている。右腕の袖も中身がなくひらひらと踊っており、身の丈にも達するほどのサイズの大太刀を握るのは、彼にとって別に利き手でもない左手一本のみ。
そんな男は、1人しか知らない。
倭国から遥々海を渡ってきた、私の未来の夫。
「速河……力也ァ!!!」
怒りの咆哮を発したのは、彼と鍔迫り合いを演じていたジョシュアだった。自分から全てを奪った怨敵を前にして、秘めていた感情がついに爆発したらしい。剣を握る手に血管が浮かび上がる程力を込めたジョシュアが、あの力也を膂力で押し返し始める。
予想外の力に力也も驚いたようだが、しかしすぐに踏ん張りながら力を込めたようで、力也の左手にも血管が浮かび上がる。
「何だ、誰かと思ったらあの時の木っ端貴族じゃあねェか」
「黙れぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!!」
喉が張り裂けるほどの声を発し、力也を吹き飛ばすジョシュア。
いつの間にか、彼の身体からはどす黒いオーラのようなものが浮かんでいた。
人質だった私の元に力也が現れた―――テンプル騎士団を名乗る連中にとっては想定内の展開だが、しかしこの早さはさすがに想定外だったのだろう。あの女の手下と思われる別の黒騎士たちが私の手を掴み、別の部屋へと連れていこうとする。
が、抵抗するまでもなかった。
次の瞬間には黒騎士たちの脳天に倭国の投げナイフ―――ニンジャが使う”クナイ”とかいう投げナイフが深々と突き刺さり、瞬く間に2体の黒騎士を沈黙させていたのだから。
音もなく背後に着地したのは、力也の付き人のナオハだった。ハクビシンの獣人にして元女忍者の彼女は、黒騎士たちを瞬殺するや私の手を取り、廃棄されているコンテナの後ろへと向かって走る。
「おやおや、害獣まで一緒でしたか」
そう言いながら、シェリルは懐から拳銃を取り出す。
見た事の無い形状の拳銃だ―――そう思っている間に、彼女の拳銃が凄まじい勢いで火を噴いた。1発、2発、3発。リボルバー拳銃でも、ペッパーボックス・ピストルでもないくせに何だあの連射速度は。
今までに見た事がないタイプの拳銃だ。旧人類の技術でも解析して製造したのか?
コンテナの陰に滑り込み、銃弾をやり過ごすナオハ。反撃にクナイを投擲するナオハだったが、しかし次の瞬間には巨大な氷の槍のような物体が、こちらに銃撃を繰り返すシェリルを直撃しているところだった。
ごしゃあっ、と暴力的な音を響かせ、壁面まで吹っ飛ばされていくシェリル。今度は何だと思うまでもない―――私はあの魔術を、氷の魔術を知っている。
「―――私の妹を攫うなんて、いい度胸してるじゃないの」
足音を高らかに響かせながらやってきたのは、水色のドレス姿の姉さんだった。
いつも温和な笑みを浮かべる彼女とは打って変わり、その目つきはこれ以上ないほど鋭い。獲物を見つけた時のライオンの目……いや、違う。まるで我が子を危険にさらした外敵を睨み、それを排除しようと牙を剥く獅子のそれだった。
ロードウにある魔術学校を首席で卒業した才女、エリス・シンシア・ペンドルトン。
”絶対零度のエリス”の異名付きでもある彼女が、ついに牙を剥く時が来たのである。
「わからせてあげるわ。貴女がいったい何に喧嘩を売ったのかを」
広大な地下の廃倉庫。
人気すらないそこは、早くも乱戦の様相を呈していた。
なんだか、雰囲気が違う。
体勢を立て直し、刀をくるりと回して構えながらそう思った。
いや、一度敗北しているのだからその悔しさをバネに急成長したと考える事も出来るが、本当にそれだけだろうか。ついこの間敗北したばかりだというのにここまで強くなるものか?
他の要因も絡んでいるのではないか。そう思いながら観察する俺に、ジョシュアは躊躇せずに突っ込んできた。
小細工無し、単純な力に―――というより、まるで俺に親を殺されたかのような怨嗟を動力源とした単純な、感情を剥き出しにした突撃。ありゃあ止められないなと思う一方で、面白そうだからという理由でこっちも真っ向からぶつかった。
まるで車同士が激突したかのような轟音が、地下倉庫の中に響き渡る。
エミリアが捕らわれていたのは、イーストエンドの一角、既に廃業となった企業が保有していた倉庫の地下区画。かつては大西洋を横断してきた貨物船からの物資を補完するのに使っていた場所なのだろうが、今となっては企業の解散や土地の所有者の激しい入れ替わりで権利が宙に浮いたまま行方不明となっているが故に当局による取り壊しも出来ない、そんな何とも言えぬ曖昧な物件である。
なるほど、確かに連れ去った女を幽閉しておくにはちょうどいい場所だ。
だがしかし、彼等にとって誤算だったのはエミリアを連れ去るところを野生のハクビシンに目撃され、それを菜緒葉に把握された事と―――俺の嗅覚が鋭すぎた事だろうか。
ワコクオオカミ(ニホンオオカミ)の嗅覚、舐めないでいただきたいものである。
未来の妻の匂いくらい、覚えていて当たり前だ。だからこそ捜索範囲を絞り込み、そこからは匂いを辿ってここへと行き着いたわけなのだが。
さて、話を目の前の出来事に戻そう。
ジョシュアと真正面からぶつかり合うが、案の定力で押し負ける。ここに来てやはり、このジョシュアはただのジョシュアではない―――あの時決闘を演じた、口だけの貴族のバカ息子ではないと確信するに至る。
いったい何をされたのかは定かではないが、あの時のジョシュアとは別物と考えた方が良さそうだ。
「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
「うおっ」
そのまま押し切られ、後方の壁に吹っ飛ばされる。背骨に凄まじい衝撃が走り、一瞬だけ呼吸ができなくなった。
衝撃の余り停滞する至高の中、正面からジョシュアがここぞと言わんばかりに剣を翻し、切っ先をこっちに向けて突っ込んでくる。
こういう時に、日頃の鍛錬の成果が出るというものだ。頭で考えてから動くという手順をショートカットしたかのごとく、次の瞬間には身体が勝手に動いていた。左へと転がるようにして回避した直後、つい直前まで頭があった場所をジョシュアの剣が突き抜いて、そのままコンクリート製の壁面を深々と穿ってしまう。
「お前さえ……お前さえいなければ!」
「……そうかい」
呼吸を整え、腹を括った。
「まあ、お前がどうなろうと俺は知ったこっちゃない。ただ……」
今ばかりは、薩摩式剣術を捨てよう。
あまり”コレ”やると天国にいるであろう師範が怒りそうなものであるが―――なんだかんだ、こっちのほうがやりやすい。
それに、今はこれ以上ないほど楽しい。
この俺が押し切られる程の相手に全力を以て挑む―――剣士として、これ以上の喜びはあるまい。こんな強敵が戦いを挑んでくるのだ、ならばこちらも全身全霊で迎え撃つまでの事。
だから少しばかり、昔の自分に戻ろうと思う。
剣術という形式からはあまりにもかけ離れ、ただただ暴力的に刀を振るっていたあの頃に。
己にかけていた枷を、全て外す時だ。
「―――女が欲しいなら、俺を倒してぶん盗りな」
笑みを浮かべながら挑発すると、ジョシュアはすぐに襲い掛かってきた。
―――見せてやるよ、俺の本気を。
―――我流剣術【獣ノ太刀】。




