簡単に両手に花とはいかないようです
「私は貴様との婚約など認めん」
メイドが持ってきた紅茶に角砂糖を3つほど落とし、小匙で混ぜてからティーカップを口へと運ぶエミリアが、自己紹介を終えたばかりの俺に対して放った最初の一言がそれだった。
ド初っ端からダメなやつじゃないかコレ。
とりあえず、自己紹介はした。
倭国からやってきた事、速河重工の社長の息子、その長子である事、そして祖国の海軍と将来的な国防の命運がこの婚約にかかっている事。エリスにも伝えた通り、こちらの実情を包み隠す事なく伝えた。
それでいて返ってきた返事が「貴様など認めない(要約)」である。エリスのように相手の真意を見定めよう、せめて話は聞いてあげようという相手ならばまだ何とかなるかもしれないのだが、初っ端からこうも言い切られてしまっては取り付く島もない。
さて、どうしたものか……困ったような表情は見せず、とりあえず愛想笑いを顔面に貼り付けながら、メイドさんが持ってきてくれたティーカップに左手を伸ばした。軽く、俺の手には小さなティーカップ。中には何やら血のように紅い茶が入っている。
これがイーランドの紅茶というものか。倭国では緑茶が多く、稀にジョンファから中華茶や烏龍茶が仕入れられる程度。西洋の茶の存在は知っていたが、口にするのはこれが初めてだった。
祖国で読んだ書物によると、イーランドの紅茶の大半はインディア洋に浮かぶ『バーラト王国』がその産地であるとされている。バーラトは古くからイーランドによる植民地支配を受けており、幾度か反乱も起こってるが全てが叩き潰されている状態であるという。
その昔は宗教やその教えなどをジョンファや倭国に伝えた、東洋における宗教発祥の地でもあるとされており、歴史的に見ても倭国との関係は深い国でもある(それだけに今の惨状は実に哀しいものだ)。
茶の香りは緑茶とも違う。すーっと鼻腔の奥へと抜けていくような、まるで春の風のような爽やかさがある。
口に含むと、しっかりとした心地の良い渋みが広がった。なるほど、みんなは砂糖を入れて飲んでいるようだが、俺はこのままの方が良さそうだ。イーランドで飲む茶は美味い、と西洋の記録書には記載されていたが、これは実にその通りだ。
しかし……その美味い茶を初めて口にしたのが婚約を断られた時とは。これはこれで苦い思い出になりそうである……茶だけに。
「エミリア、お客さんに向かってそんな言い方はないんじゃなくて?」
「姉上、貴女こそもっと警戒心を持つべきです。ただでさえ我がペンドルトン家の財産を狙う輩が多い中、こんな得体の知れない東洋人を婿として迎え入れるなどもってのほかではないですか」
いや、自己紹介したんだけど……経歴も全部話したんだけど、それでも”得体の知れない東洋人”呼ばわりは失礼じゃない?
さて、これマジでどうしよう……とりあえずエリスの方はあっさりと婚約を承諾してくれているし、最悪彼女の方だけでも……という考えが頭を過るが、しかしこちとら速河重工の長男。欲しいものは全て実力で勝ち取ってきた男だ。
半端はどうしても許せない性分、やるなら限界までとことんやるのが俺のやり方である。
速河力也の辞書に”妥協”の2文字はないのだ。
しかし、この警戒心はさすがだ。自分たちの実家が持つ権力がどれほどのものなのか、相手がそれを託すに足る存在かを見極めようという強い意志を感じられる。この強い拒絶の意思は、その強い想いの裏返しでもあるのだろう。
ならばこちらも喧嘩腰になったりするのは愚策。強気に出るのも同じだ……おそらくだが、このエミリアという女はかなーり頑固で、そう簡単には自分の意見を曲げないタイプだろう。俺と同じだ。まったく、自分と似たような女を相手にするとこうもめんどくさい事になるとは……まるで鏡を見ているようだ。
こういう相手とうまく付き合う方法はただ一つ、信頼を勝ち取る事に他ならない。
しかし信頼を勝ち取ろうにも、何から手をつければいいのやら。さっきエリスに言ったように本音をぶつけて相手を褒めようとしても、彼女にはお世辞だの何だのと言われて跳ね除けられるだけだろう。
行動で示した方が早いのかな、と頭をフル回転させていると、彼女が腰に下げている剣に目が留まった。
質素な剣だ。
さっき出ていったジョシュアとかいう貴族の息子も腰に剣を提げていたが、自分の一族の権力を示すかのようにゴテゴテと過剰に飾り立てた、なんとも扱いにくそうな剣に見えた。とはいえそういう見栄えのいい得物を腰に下げるのは珍しくもなんともない。侍だって、大名だってやっている事だ。
しかしエミリアの提げている剣はどうか。
装飾の類は一切なく、ただ相手を”斬る”事だけを考慮し無駄の一切合切を省いた実用性一辺倒の質素なロングソード。それもかなり使い込まれているようで、手入れが行き届いているように見えるが、しかし長年使い込んでいるが故に落ちない汚れや細かい傷が刻まれているのが分かる。
それに、だ。
ティーカップを持ち上げる、彼女の手。
一見すると白くて繊細、硝子細工のように儚く、力加減を誤ると崩れてしまいそうな危うさがあるように見えるが、しかしその手のひらには努力の証が垣間見える。
潰れた肉刺の痕や、現在進行形で出来上がった肉刺。
権力に胡坐を掻くわけではなく、財力をひけらかすわけでもない。ただただ愚直に己を鍛え上げ、軍事力の要たるペンドルトン・インダストリーの守り手たらんというエミリアの強い意志、その結晶が現れているかのように思えた。
刀と戦い以外には無頓着な俺だが、一つ言える事がある。
―――『強い女は美しい』、という事だ。
「どうです、エミリアさんの方はダメそうですか」
感情の起伏に乏しい、淡々とした声。
そんな調子で言うものだから、菜緒葉は危機感を抱いていないように思えてならない。
ペンドルトン家の屋敷、その一室。ウィリアム氏の厚意で用意していただいた2人部屋のベッドの上に転がりながら天井を見上げる。
まったく、海を越えただけでこうも倭国と文化の違う国に来ると戸惑ってばかりだ。向こうでは畳の部屋に布団を敷いて眠るのが当たり前だったのだが、こっちではふかふかの絨毯を敷いた部屋にベッドとかいう寝具を用意して眠るという。
倭国には安堵を意味する言葉で”枕を高くして眠る”という表現があるが、しかしいくら何でもこれは高過ぎではないだろうか。こんなものでは寝首を掻きに来る敵の足音が聞こえんではないか―――と不安にこそなったが、イーランドは戦乱の世というわけでもないし、屋敷には警備兵もいる。つまりは守りに対する絶大な信頼の表れなのであろう。
しかし、こうも寝返りを打つだけでぎしぎしと軋むような寝具では不安になるというものだ。眠っている間に折れなければいいのだが。
「坊ちゃま、ギシギシうるさいです」
「じゃかあしい」
お前も危機感を持て危機感を。
「そういえば、風呂場はどこだっけ」
「シャワールームならばあります」
「シャワールーム?」
「イーランドでは浴槽に浸かる習慣がないのだそうです。こう、お湯の通った管を天井に配置して雨のように降らせ、それを使って身体を洗う程度で済ませる方が多いそうで」
「なんだそれは」
そんなんじゃ身体が冷えてしまうではないか。
こう、少し熱めのお湯で一杯の湯船にこう……こう……!
とまあ、そんな事を言っても仕方がない。ここはイーランド、遥か海の彼方の異国の地である。異国には異国で育まれてきた文化があるのだ、郷に入っては郷に従うほかあるまい。
ではそのしゃわーとやら、堪能してくるか―――そう思いベッドから身体を起こした俺の耳に、空気を切り裂くような音が響いてくる。
それは菜緒葉も聴いたようで、ぴょこ、とハクビシンのケモミミが立った。
ここに居ろ、と目配せし、倭国を出発した際に信也からもらったリボルバーだけを護身用に所持、寝室を後にする。
音が聞こえたのは中庭……いや、違う。地下庭園の方からだ。
もう既に消灯の時間を過ぎており、警備兵も巡回していた。こんな夜中に部屋を出て歩き回っている俺を見咎めた警備兵が「既に消灯時間は過ぎています。何か?」と問いかけてくる。
「この音は?」
「え? ああ、エミリアお嬢様ですよ」
「……」
空気を切り裂く音―――まるで金属製の剣を素振りしているかのような、そんな音だ。
多少の違いこそあれど、薩摩の道場で散々聴いた音だ。一日に何百、何千、何万と繰り返した音。その一撃が相手の命を刈り取るであろう事を想定し繰り返した渾身の一撃、この空気を裂くかの如き音にはそんな重みがある。
ちょっと見てくる、と見張りの兵士に告げ、中庭に出た。
広大な中庭を進み、地下庭園へと続く階段を降りていく。やはり見立ては当たっていたようで、階段を降りていく度に音はどんどん大きくなっていった。
やがてガラス張りの壁の向こう、円形の広間の中で、こんな時間遅くまで剣を振るう少女の姿が見えた。昼間の気の強そうな目つきは更に鋭さを増し、さながら鬼神のようだ。一族の栄華は自分が守るのだという気概を感じさせる。
階段を降り、広間の扉を開けたのと、すぐ近くの壁に短剣が突き刺さったのは同時だった。
俺の気配を察し投げ放った―――それもわざと外したのだ。その気になれば、眉間に短剣を叩き込む事も可能だったはずだが敢えてしなかった。それが彼女なりの最後通告だというのだろうか。
まあいい、慣れてる。
むしろ、これくらいの方がいい。
驚く様子もなく、顔色を変えずにそのまま広間へと足を踏み入れた。
「……何用だ、速河力也」
「いや、失礼。剣を振るう音が聞こえたもんでね」
強いな、この女。
壁に突き刺さった短剣を引き抜いた。
ガラス張りとはいえ、何か特殊な加工が施されているのだろう。殴っただけで簡単に割れるその辺のガラスとは違う。表面に何か、樹脂のようなものを塗布しているに違いない。
引き抜いた短剣をエミリアにそっと投げ返すと、彼女はそれを無造作に掴んで受け止め、鞘に戻した。
「立ち去れ、今は鍛錬の最中だ」
「だろうな」
「……二度は言わんぞ」
次は当てるぞ、それ以上踏み込むな―――そんな警告を聞き流し、一歩前に出る。
「強いのはいい、実にいい」
「……」
「剣を振るう時の音、力加減、筋肉の動き……そして両手の肉刺の痕、やはりそうだ。身体は嘘をつかない」
「なんだと?」
「努力して今の強さを手に入れたんだろう?」
才能だとか、そんなものに頼らず努力で今の強さを手に入れた―――文字通り、血の滲む努力を経て力を掴んだ者こそが本当の強者なのだと、俺は信じている。
長年の努力で身体に焼き付いた感覚は、先天的な素質すら上回る。その精密さは精密機械の如し―――だからなのだろう、職人技にも似た美しさが宿るのは。
「水の雫だって、同じ場所に滴り落ちればいずれ石をも穿つ―――エミリア、あんたの剣はそれに似ている」
「……お世辞のつもりか」
「本心だ」
即答だった。
「俺はあんたの剣が好きだ」
「……ふん」
それ以上は何も言わず、彼女は剣を振るい続けた。上段の構えから勢いよく振り下ろし、そこから一歩踏み込んで深い薙ぎ払い。さらにそこから反時計回りに回転、勢いを乗せてさらに同じコースで薙ぎ払い。
刺突は鋭く、斬撃は深く。確実に相手を仕留めにいくような、そんな剣戟だった。生半可な防具や盾であれば、諸共にバッサリとやられてしまいそうな、そんな力強さがある。
何も言わず、椅子に座って彼女の素振りの様子をじっと眺めていた。
―――良い。
力を入れるべき時と抜くべき時を弁えている。教科書通りで、基本に忠実で、面白みはないが基礎がしっかりとしている。基礎を限界まで研ぎ澄ませばどうなるか……1つのコンセプトを極めた結果がこれか。
基礎ができているから派生も容易、いざとなれば変化も絡めて相手を圧倒できそうだ。
そんな彼女の剣を、俺はじっと眺めていた。
これ以上「出ていけ」と言われなくなったという事は、とりあえずは少し、ほんの少しばかり距離を縮める事が出来たからだと見ていいだろう。
見るだけならばいい、しかし邪魔をするならば斬る―――エミリアの背中は、確かにそう言っているような気がした。
はいはい、邪魔はしないよ。
その代わり、少しだけでいい―――その美しい剣術を見せてほしい。
頭上から降り注ぐ人工的な星明りの下、剣を振るう音だけが響いた。
暗く、冷たく、夜の闇が深まるその時まで。




