猛特訓 in マズコフ・ラ・ドヌー
胸が張り裂けそうだ。
吸い込んだ息が冷たくて、肺の中をまるで無数の針が内側から突き刺しているかのよう。このまま呼吸を続けていれば肺が凍り付いてしまうのではないか、という懸念は常にあったけれど、それでも身体は激しい運動で消耗した分の酸素をきっちりと求めてくる。
イライナ・マスケットを抱えてのランニング。ちらりと後ろにも視線を向けると、後続のルカはすっかり体力を使い果たしたようで、息を切らしながらもう走っているというよりは歩いているというべきスローペースで、辛うじて俺の後をついてくる。
彼の隣に行き、「大丈夫か、しっかりしろ」と声をかけた。
血盟旅団は小規模な冒険者ギルドだ。そして何より、利益よりも人命を優先する(この辺何を優先するかはギルド団長の匙加減であり、ギルドによっては人命より利益優先というとんでもないところもある)。
だから1人たりとも仲間は見捨てない。落伍しそうな仲間がいるならば肩を貸し、必ず全員で生還する―――それが血盟旅団のルールであり、仲間との結束の証だ。
団結こそが力を生むのだと、俺は信じている。
「はっ、はっ」
「ルカ、無理っ、すんなっ、ほらっ」
銃なら俺が持つよ、と手を伸ばす。
イライナ・マスケットは口径が大きく威力に優れるが、なにぶん重い。その上銃身も長く、着剣状態であれば槍と見間違うほどの威容を誇るが、塹壕戦や室内戦ではこれ以上ないほど不向きな武器と化す。
その重量、実に6.8㎏。弾丸未装填の状態でこれなのだ、しかも長大なのでこれを担いでの行軍は兵士にとって大きな負担となるだろう。
装備の重量だけではない―――足元に降り積もった雪が、とにかく体力を奪っていく。
今にも倒れそうなルカだったが、しかし彼は負けず嫌いだ。助けなんて要らないよ、と言わんばかりに悔しそうな顔をするや、歯を食いしばって走るペースを上げた。
そんな彼とはぐれないようペースを合わせ、雪の上にブーツの足跡を刻んでいく。
やがて見えてきたのは雪に埋もれた線路だ。レールが一直線に伸びる先には、血盟旅団の列車の最後尾にある第四格納庫、その外側に設けられた警告灯の点滅が見える。まるでメスを誘引する蛍の光に呼び寄せられるように、俺とルカは息を切らしながらその光へと向かっていった。
こっちの姿を見るや、格納庫のハッチが解放されていく。
中に収納されたBTMP-84-120の傍らで「ご主人様~!」と声を張り上げるのは、相変わらずいつものメイド服姿のクラリスだ。隣には迷彩服姿のパヴェル(中に着ているのはロシアの縞々シャツこと”テルニャシュカ”だ)が紅いベレー帽をかぶって立っていて、鬼軍曹さながらの佇まいで俺たちの帰りを待っていた。
半ば転がり込むように格納庫に飛び込む俺たちジャコウネコブラザーズ。「ほら寝るな、とっとと立て!」とパヴェルの怒鳴り声に急かされながら、ルカの手を掴んで強引に立たせつつ俺も立ち上がる。
「よし、よくやった。次はパルクールだ」
にんまりと嗜虐的な笑みを浮かべながら告げる鬼教官パヴェル。たった今10㎞も走らされたばかりだというのに次のトレーニングを言い渡されたルカの心が折れそうになるのが、隣に居てはっきりと分かった。
「いつもの装備を身に着けて、パルクールで市街地を一周して来い。走っていいのは屋根の上、電線の上くらいだ。石畳やタイルに足を着けるのは許さん、屋根の上を走って一周して来い」
「Я розумію завдання!(任務了解!)」
踵を合わせて敬礼し、背負っていたイライナ・マスケットを下ろした。代わりに格納庫に用意されていたいつもの装備―――AK-19にグロック17L、模擬弾の入った予備マガジンに訓練用手榴弾、それからナイフを身に着ける。
訓練用とはいえ重量は実戦用装備とそう変わらない。引き金を引いても弾が出ず、安全ピンを引いてレバーを外しても爆発しない事を除けば、質感はいつもの装備と全く同じだった。
ルカが装備を身に着けるのを待ち、彼と一緒に列車を飛び出した。
駅のレンタルホームから改札口に続く連絡通路の上によじ登り、そこを伝って市街地の方へ。雪で滑りやすくなっていて、気を付けながら走らなければ転落してしまいそうだ。
さすがに豪雪の中を10㎞ランニング、そこからほぼインターバルなしのパルクールで市街地一周というのはパヴェルが悪魔に見えてくるトレーニングメニューだが、しかし文句は言ってられない。冒険者たるもの身体が資本、そして有事の際に身体が動かせない、体力がなくて動けないとなったら話にならない。
喉の奥から血の味がしてくる。いよいよ肺が凍傷になりかけているのか定かではないが、呼吸が痛い。息を吸い込むたびに胸が張り裂けそうになる。
が、これでも優しい方だ―――現役時代、パヴェルは自分の所属していた特殊部隊へ志願した訓練兵たちを篩にかけるため、日付が変わるまでグラウンドや戦艦の甲板の上を延々とランニングさせていたのだという(そして自分もその隣を延々と走っていたのだという)。
気が狂ってるとしか言いようがない。
逆に言えば、それだけの厳しい入隊試験をパスし猛訓練を文字通り血反吐を吐きながらも乗り越えたからこそ、彼の率いる部隊は精強無比であり続け、少なくともパヴェルが戦線を離脱するその瞬間までは1人も死者を出す事なく任務を遂行したのだろう。
だったら俺たちもそれに続いてやろう。
他の人がやれるんだったら、俺たちも出来る筈だ。
「ほら、頑張れルカ!」
路地を飛び越え、労働者向けの格安アパートの天井に登るや、給水タンクの傍らで声を張り上げた。AK-102を背負うルカは、俺と比較すると軽装だ。彼の本職は運転の補助と列車の警備で、俺たちほど重装備である必要がないためだ。
しかし、それでも俺と比較してまだ身体が出来ていないルカには、冒険者と同じトレーニングメニューはキツいのだろう。息を切らしながら何とか路地を飛び越えるルカだが、今にもバランスを崩して転落しそうで危うい。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
「こんなんで音を上げてたら立派な冒険者になれねーぞ」
とは言うが、こんなキツい軍隊みたいなトレーニングをやってるのは俺たちくらいではないだろうか。
屋根の上まで上がってきたルカの肩を叩いて励まし、一緒に電線を渡った。石畳で舗装された大通りを、物資を満載したトラックや騎士団を乗せた軍用車、豪華な装飾の高級車が行き交うマズコフ・ラ・ドヌーの車道。転落すれば命はない危険な場所を、ハクビシンとビントロングの獣人がすいすいと綱渡りの要領で電線の上を渡っていく。
ハクビシンもビントロングも、共に木登りを得意とするジャコウネコ科の動物だ。特にビントロングは地上よりも木の上での生活を好む動物なので、バランス感覚で言えば俺よりルカの方が上なのである。
しかし、苛酷極まりないランニングで体力を消耗していれば話は別。普段ならば曲芸の如くすいすいと渡っていく俺たちだが、今ばかりはバランス感覚も力加減も滅茶苦茶だった。
それでも何とか反対側まで渡り切り、息を切らすルカを励ましながら隣の建物の屋根へと飛び移る。
窓枠をしっかりと掴んですいすいと登っていくと、家の中で絵本を読んでいた女の子と目が合った。
にこやかに笑みを浮かべながら手を振り、そのまま屋根の上へ。
なぜパルクールのトレーニングがあるのか疑問に思う人がいるかもしれないが、障害物を乗り越えたりするのに必要になるし、そして何より市街地での強盗計画を実行に移した際、警察の追跡を躱すのにも使える。
そういう状況も見込んで、血盟旅団ではパルクールがトレーニング項目の中に名を連ねている。
マズコフ・ラ・ドヌーは広い。市街地を一周しろだなんて言われたけれど、はっきり言って列車に戻れるのはお昼くらいになりそうだ。
それまで地上に転落しない事を祈ろう……。
列車に戻り、装備を身に着けたままスクワット100回、腕立て伏せ100回、プランク2分、これを3セットという非人道的極まりない体力トレーニングを終えた頃には、もう全身が悲鳴を上げていた。
もうやめて、と涙ながらに訴えかけてくるかのような疲労感。脳内の二頭身ミカエル君ズはというと、意外な事にぶっ倒れてはおらず、何故か迷彩服にドーラン、89式小銃という自衛官みたいな恰好で脳内を匍匐前進中。何だコイツら。
昼食と1時間の休憩時間を挟み、今度は別の訓練―――今は実戦に近い訓練に移行している。
木製の壁が迷路のように張り巡らされた建物の中、足音を立てないよう気を付けながら、慎重に、しかし素早く移動。PP-19を構える手のひらにはじんわりと汗が浮かび、心臓の鼓動は高鳴りつつあった。
少しずつ右へと移動、曲がり角をカッティング・パイでクリアリングし、敵がいない事を確認してから後続のルカにハンドサインを出す。付いて来い、と彼に告げ、同じくPP-19で武装したルカと共に目的地へと向かう。
迷路のような建物の奥に、やがて小部屋が見えてくる。
ここだ、とハンドサインを出し、懐からスタングレネードをスタンバイ。ルカと一緒に位置に着くや、目配せで合図を出してからドアノブを捻った。
部屋の中に投げ込まれるスタングレネード×2。パパンッ、と甲高い炸裂音が響き、凄まじい閃光が埃の舞う部屋の中を照らし出す。
これだけの轟音と閃光だ、相手の聴力と視力は一時的に死んでいるだろう。平衡感覚にも影響が出ている状態で2人の武装した兵士を相手にできるかどうか……と言いたいが、油断はできない。
ルカと2人で部屋の中に踏み込むと、中には誰もいなかった。
ここじゃなかったか、と一瞬思った次の瞬間だった。倒れていた机の陰からヒグマのような人影が飛び出すや、AK-15のセミオート射撃でルカの胸板を正確に射抜いたのである。
「ルカ!」
「―――」
どさりと崩れ落ちるルカ。くそが、と悪態をつきながらPP-19を連続で放って相手を制圧、棚の陰に滑り込む。
突入の寸前、こちらの突入タイミングを見切って机を蹴倒したのだ。それで敵兵は机を盾にしスタングレネードの閃光と轟音から身を守り、万全の状態で反撃してきた……そういう事だ。
何度もこういう状況を経験し、更には瞬時に正確な判断を下す―――場数を踏んだベテランの兵士にしかできない事だ、と相手との技量の差を痛感する。
とにかく、いつまでもこんなところで引きこもってはいられない。そろそろ反撃に打って出なければと思った俺の目の前に、カツン、と丸い何かが投げ込まれた。
オリーブドラブで塗装された丸い卵のような物体―――ソ連製手榴弾、RGD-5。親の顔より見た手榴弾(もっと親の顔を見ろ)が炸裂し、目の前が真っ赤になった。
ああ、俺死んだわ―――ここまでか、と床の上に倒れ伏していると、AK-15を抱えたヒグマのような敵兵がこっちにやってきた。
スリングに預けたAK-15をぶら下げ、ホルスターから引き抜いたRSh-12を手にした敵兵は、左手でくいっとサングラスを持ち上げながらにんまりを笑みを浮かべる。
「いやー、腕を上げたなミカ」
「よく言うよ」
顔にべっとりと付着した紅い液体―――演習用の血を模した塗料を拭い去り、苦笑いを浮かべながら憎まれ口を叩く。
「人の事を今日だけで3回も殺しちゃってさ」
「5回死んだ昨日よりはマシだろ」
そう言いながら手を差し伸べるパヴェル。彼の手をがっちりと掴みながら起き上がり、まだ倒れて死んだふりをしているルカに「もう動いていいよ、訓練終了」と告げる。
むくり、とルカももふもふの髪を揺らしながら起き上がった。
「うわぁぁぁぁぁん、まーたやられたぁ」
「がっはっは、でもルカも腕上げたじゃねーか。強くなってるよお前ら」
ちなみにルカは今日で7回死んでいる。
べっとりと訓練用のペイント弾で赤く染まった服は、とりあえず洗濯に出そう。ノンナが怒りそうだ……。
マガジンを外し、薬室内のペイント弾を排出して安全装置をかける。
今日は仕事ではなく訓練をする日なので、この後は自由時間だ。極めてハードな訓練で疲れた身体を癒し、明日に備える時間である。
建物の外に出た。
今俺たちが室内戦を想定して訓練するのに使っていたのは、当然ながら列車の中ではない。マズコフ・ラ・ドヌーの駅前、今ではもう使われる事の無くなった倉庫をパヴェルが権利者から金を払って貸してもらい、訓練場に作り変えた即席の”キルハウス”だ。
室内戦の訓練は、雪解けまでの間はここで行う。
見事にパヴェルに返り討ちにされ、真っ赤になった俺とルカ。PP-19を担ぎ悔しそうに歩くジャコウネコブラザーズの姿を、まーた死んだのか、と言わんばかりの苦笑いを浮かべたカルロスが容赦なく写真に収めてくる。
ま、待てお前コラ。撮影許可取ってんのかコラ。
追いかけようとするとあっという間に急加速、びっくりするくらいの速度で遠ざかっていくカルロス。何なんだアイツは。
とりあえず、列車に戻ったらゆっくり休もう。
今日はとにかく疲れた。
酷使した身体に、アフターケアは大事なのだ。




