潜入、セゲトフセメント工場
真っ白な世界が、あらゆる生命に牙を剥く。
ただでさえ雪雲と地面に積もった雪で、地平線がどこなのかも見分けがつかなかった銀世界。それが荒れ狂う強風と降雪で更に攪拌され、ゴーグル無しでは目を開ける事すら許されない。
ノヴォシア地方名物の猛吹雪。-23℃という低すぎる気温だけでも苛酷だというのに、その猛吹雪の中でも警戒、監視を続行せよというのだから、兵士という仕事は兎にも角にも苛酷である。
HK416を抱えた警備兵はそう思いながら、身体を震わせ前を見つめ続けた。
身に纏う防寒用のコートも、そしてウシャンカも既に雪で真っ白だ。手袋はあるが、顔を覆う覆面やバラクラバ帽のような装備品は支給されておらず、口元の髭は真っ白に凍り付きつつある。
寒い、という次元を超越しもはや”痛い”としか形容できない感覚に、自分は貧乏くじを引いたのだと自覚する。
そして自分たちは今、泥船に乗っているのだとも思えるようになった。
今こうして、自分が着ているコートや手袋、ウシャンカといった極寒のノヴォシアでは欠かせない装備品の数々は、組織から支給されたものではない。自腹で事前に購入したものだ。支給されたものと言えば装備しているHK416とUSP拳銃程度のもので、白兵戦用のナイフは自前のものだ(つい先週までボルシチの具材を切るのに使っていた家庭用ナイフである)。
転生者への復讐心を抱き、彼らの根絶を目指す組織に入隊したまでは良い。そこで仲間たちと復讐心を共有し合い、共に転生者を殺すための術を身に着けた……そこまでは良い。
あの時はまだ”勢い”があった。行けるところまで行ってやろう、とすら思えた。戦いの果てにこの身体も、そして心も壊れてしまっても構わないと。転生者の戦いに巻き込まれこの世を去った妻の元へ、胸を張って逝こうと。
しかし今はどうか。
以前、リュハンシクで勃発したという転生者との大規模戦闘―――”血盟旅団”主導による陽動作戦での大敗を機に、組織は再起不能な状態に陥ったという噂が仲間内で蔓延している。
こうして廃棄されたセメント工場を拠点化、警備のためにやってきた兵士たちも、元はと言えば地方で細々と活動を続けていた末端の兵士や、つい最近入隊し訓練期間を繰り上げて実戦配備されたばかりの新兵……つまるところは寄せ集めだ。
戦車も3両配備されているが、しかしそれは以前運用されていたT-72よりも旧式で性能に劣るものであり、予備の兵器だったものを急遽整備し引っ張り出したものだと聞いている。
まるで戦争末期、敗戦直前の軍隊のようにも思えた。
これでは負ける―――多くの兵士が自軍の敗北を薄々感じ取っていたし、昨晩などは脱走兵も相次いだ。聞くところによると3名が脱走、うち1名が射殺されたと聞いたが……。
そして今、自分たちは最大の貧乏くじを引かされている。
極寒の中での警備など、それを思えば些細な事だ。
―――”悪魔がやってくる”。
総統閣下はそう言っていた。
―――『ウェーダンの悪魔』と呼ばれる転生者、最も恐ろしく、最も憎むべき最強の転生者がやって来る、と。
その男もまた、全てを失ったと聞いている。家族を失い、四肢を失い、欠けた身体を機械で補ってもなお戦場に舞い戻り、復讐のためだけに戦い―――最終的には全てを焼き尽くし、自身もまた戦火へと消えていったという、復讐の悪魔。
かつて総統閣下が率いていた異世界の軍隊、ナチス・ヴァルツ帝国軍が大戦で被った損害の2%は、その”ウェーダンの悪魔”単独での戦果とさえ言われている。
『敗北はない』とまで豪語された、異世界での世界大戦―――その一度目の大戦の大きな転換期となった”ウェーダンの戦い”において、劣勢だったテンプル騎士団にありながらも単独で戦闘地域を迂回し司令部に潜入、戦闘の指揮を執っていた転生者を含めた将校や指揮官、司令部守備隊をほぼ皆殺しにし、僅かな生存者もその凄惨な殺戮に精神を病み、終戦後に至るまでPTSDで苦しむ羽目になったという正真正銘の”悪魔”。
それがウェーダンの悪魔―――今は”パヴェル”と名乗っている、ただの男の本性である。
そんな怪物がやって来るのだ。このセメント工場に。
瓦解寸前の組織に旧式の兵器、練度不足の兵士。いくら戦力で上回っているとはいえ、彼らだけで食い止められる相手とは到底思えない。
今日死ぬのかな……そう思った次の瞬間だった。
唐突に、首元に何かが絡みついた。コートの生地のようなもので覆われた、しかし人間の腕とは思えない硬質な感触。魔物かと思い暴れた頃には既に遅く、首にがっちりと組み付いたその剛腕に力が入る。
ギリッ、ブヂッ、と首の中で何かが断裂する音―――頸椎が捩じ切られる音だと理解した頃には、意識は遠退き始めていた。
完全に意識が途切れる寸前、彼の脳裏に最期に思い浮かんだのは、窓際で微笑む最愛の妻の顔だった。
どさり、と雪の上に崩れ落ちる警備兵。目を見開き、しかし苦痛を感じさせる事の無い表情のまま息絶えた彼の目をそっと閉じさせてから、彼らの恐れる”悪魔”は静かに告げる。
「―――こちら”アクーラ1”、工場内に潜入した」
本当に、この吹雪には救われた。
純白のギリースーツに同色のバラクラバ帽、それから両目を保護するためのゴーグル。とにかく雪で真っ白なノヴォシアの環境に溶け込むための装備だ。メインアームとして用意したAS Valも寒冷地用に白く塗装、サイドアームのマカロフPBも同じく真っ白だ。
《レンズ0-2よりアクーラ1、こちらは狙撃位置についたが吹雪が酷くて何も見えない》
「安心しろ、俺の直感じゃあと3分で吹雪は終わる」
まあ、天気予報で言ってた情報なんだが。
ちらりと後ろを振り向いた。工場の敷地はフェンスでしっかりと覆われていて、出入り口は工場正面の検問所のみ……真正面から堂々と乗り込もうとしたが、それはカルロスに全力で止められた。
なのでとりあえずボルトカッターでフェンスを切断、こっそり潜入する事となった。自分で言うのも何だが、ヒグマみたいな体格なので自分が通れる大きさにフェンスを切断するのはなかなかめんどくさかった。
まあ、それはいい。
挨拶代わりに殺した兵士の遺体は、既に吹雪のせいで雪の中に埋まりつつある。いちいち隠す必要がない、というのはありがたい。
《それとアクーラ1、戦車だが……》
「―――いきなり破壊はせず、細工して故障させろって話だろ?」
《そうだ。その方が戦力を削げる》
カルロスの言い分はこうだ。
戦車をいきなり破壊すると、乗る予定だった戦車兵たちも武器を持って銃撃戦に参加しようとする。しかし破壊ではなく故障となると戦車を修理して戦線投入せざるを得なくなり、少なくとも修理中は戦闘に参加できなくなるので戦力は削げる、という理屈だ。
まあ損傷の度合いによっては修復不可能と判断して戦車を放棄する可能性もあるので、ギリギリ修理できる絶妙なラインを狙うとしよう。履帯を切ったり、燃料に砂糖を混ぜたり、排気口にバナナを詰め込んだり……いや、仮にも戦車だ。バナナは効かないか。
とりあえず潜入直前になってカルロスからの提言でそういう方針になったので、潜入前にツァリーツィンまで戻って砂糖を買ってきた。まあ1袋分もあれば十分だろう。やたらと羽根を生やし飛んで行きやすいことに定評のある1万ライブル紙幣を5枚消費した甲斐があったというものだ。
というわけで、そういった装備品(?)はバックパックに入っている。
クソッタレ、これだけの砂糖があればミカとかルカとかノンナの奴が大喜びするようなお菓子を作ってやれるんだがなぁ、なーんて家庭的な事を考えながら先へと進んだ。
俺が潜入した場所は、記憶が正しければ野外に駐車してあるT-55のあった場所のすぐ近く。吹雪の向こうに、うっすらと積み上がった石灰石の山が見えるので間違いないだろう。あれが目印だ。
という事はこの辺に……と視線を巡らせていると、吹き荒ぶ吹雪の中で灯りが見えた。
ランタンの灯りだ。すぐ近くにはツナギの上にコートを羽織った整備兵の姿も見える。
「Блин, у меня руки трясутся(あークソ、手が震える)」
「Пожалуйста, будьте сильными. двигатель деликатный(しっかりしてくれ。エンジンはデリケートなんだ)」
「Так что, пожалуйста, сделайте что-нибудь с этой проклятой метелью……(じゃあこのクソッタレな吹雪を何とかしてくれ……)」
せめて倉庫の中とかだったらまだ整備に集中できただろうに。哀れなもんだ。
AS Valを構えながらそっと忍び寄り、引き金を引いた。
パスパスッ、と小さな銃声が、彼らに死を宣告する。
9×39mm弾―――消音性が高く、尚且つ敵兵のボディアーマーを貫通し確実に死に至らしめる事を要件として出されたソ連の技術部が生み出した、近距離における殺傷力と消音性に特化した弾丸だ。
7.62×39mm弾よりもサイズが大きいが故に重く、しかし装薬量は変わらないので弾速は遅くなりサプレッサーとの相性が良くなる。似たような理屈の弾丸がいくつか生まれ成功しているところを見ると、コイツはその分野での先駆者と言えるだろう。
とにかく、まともな防弾装備も無い整備兵2名を排除するには十分だった。ソ連製ドットサイト、”OKP-7”のシンプル極まりないレティクルの向こうで2名の整備兵が瞬く間に倒れ、動かなくなる。
無人となった戦車の後ろで、俺は周囲に敵が居ない事を確認してからバックパックを下ろした。中から5万ライブルで購入した砂糖の紙袋を取り出し、それを燃料の給油口からこう……サーッと流し込んでいく。
戦車だって甘いものは好きだろう。疲れている時は糖分が欲しくなるものだってミカの奴も言ってたし間違いはない筈だ。ないよね?
空になった紙袋の底に微かに残った砂糖を口へと運び、袋は折り畳んでバックパックに押し込んだ。ゴミは持って帰ろう、大人のマナーだ。
整備兵の遺体を雪の中に埋めて隠し、ランタンの灯りも消したところで、吹き荒んでいた吹雪が落ち着きを取り戻し始めた。真っ白だった景色の中にセメント工場の煙突が見えるようになり、視界が段々とクリアになっていく。
さてさて、ここから潜入のハードルが上がりそうだ。
「吹雪が止んだ」
《―――確認している》
「……狙撃手の排除は任せる」
《了解》
ちらりと工場の高台を見た。SR-25を装備した狙撃兵が見た感じで5名ほど、工場の高台から地上を見下ろし見張っている。
先ほども述べた通り、AS Valは近距離における殺傷力と消音性を重視した銃だ。一応はコイツの親戚にVSSがあり、そっちは近距離での射撃を想定した銃となっているが、はっきり言ってコイツでSR-25と撃ち合うなんてゾッとしない。
ひとまず次の目的地はT-55が2両保管されている倉庫だ。履帯を切ったり外したり、可能であれば砲身をへこませて砲撃不能にさせたり、排気口にバナナをミッチミチに詰めて故障させたり(やりたいけどたぶん効かない)、手段は色々ある。
とりあえず砂糖を一袋丸々使って背中が軽くなった。コイツは楽でいい。
吹雪が完全に鳴りを潜め、静かに雪が降るばかりの環境となった。風も先ほどまでの吹雪が嘘のように薙いでいて、殆ど無風状態と言っていい。
そんな絶好のタイミングを、カルロスが見逃すはずがなかった。
何の前触れもなく、高台にある煙突の付け根、メンテナンス用の足場の上を移動しながらライフルを手にしていた狙撃兵が、まるで貧血でも起こしたかのようにぶっ倒れたのだ。
銃で撃たれた人間というのは、アクション映画やアニメみたいに叫び声を上げながら派手に倒れるなんて事はない。どんなことも一瞬で、傍から見れば”転んだ”ようにも見える。現実というのは何とも呆気のないものなのである。
「ナイスキル」
返事はない。
まあ、集中している仲間にいちいち声をかけるのも野暮なので、黙ってそのまま潜入する事にした。
放置されたフォークリフトの陰に隠れ、ちらりと向こう側を確認。HK416で武装した兵士が寒そうに身体を震わせながら、決まった範囲を巡回したり、周囲を見渡したりしている。
さてどうするか……。
バックパックを開け、中から1冊の本を取り出した。表紙にはミカエル君……に凄まじくそっくりなハクビシンの獣人の男の娘が手足をベッドに縛り付けられ、誘うような笑みを浮かべている姿が描かれている。
クラリスに依頼されて描いてた薄い本だ。自分用にも用意していて、保存用、自慢用、実用に3冊ストックしてある。
そのうちの1冊を、個人的に一番えっちだと思うページを開いた状態で雪の上にそっと置き、ごん、とフォークリフトを裏拳で軽く叩いた。
「Что?(なんだ?)」
標準ノヴォシア語が聞こえ、足音が近づいてくる。その隙にフォークリフトを挟み反対側へとぐるりと移動、物音を調べるべく近付いてきた兵士の後ろへと回り込む。
さて、ミカエル君とメイドさんのえっちな本を見つけた兵士の反応はと言うと、嬉しいことに大喜びしているようだった。
「Вау, что это? Это очень непослушно……(うわ、なんだこれ? すごくえっちだ……)」
薄い本を描いてる側としてはものすごくありがたい。
本を拾ってページを捲り始めたところで、そっと彼の首に両手を絡ませて力を込め、一思いに首の骨を折った。パキュ、と骨の折れる手応えを感じたところで薄い本を回収、死体を雪の下に隠しておく。
それにしても、敵兵の性癖まで破壊するとは……恐ろしいなミカエル君。
今頃アイツくしゃみしてるんじゃないかな、と思いながら薄い本をバックパックに収納、AS Valを手に潜入を続けた。




