悪魔の祈り
履歴書に自分の特技を書き込めって言われたら、多分「人殺し」って書くと思う。
それくらい、多くの人間を消してきた。”組織”に対して牙を剥く愚か者や秘密を知り過ぎた者、不要と判断された者の暗殺は朝飯前。場合によっては敵対組織の要人に至るまで、多くの相手を消してきた。
最初から、人を殺す事に罪悪感なんて覚えた事はなかった。”殺らなければ殺られる”というこの世界の真理を、幼少の頃に理解してしまったのが大きいのかもしれない……そういう意味では、パヴェル・タクヤノヴィッチ・リキノフという人間はその時点で色々と壊れていたのかもしれないが。
まあ、そんな事はどうでもいい。その辺の落書きとか、そのレベルの話だ。
それより今夜のご飯どうしましょ……夕食の心配をしながら、目の前に並んでいる女性の背中をそっと押した。
今まさにツァリーツィン駅の1番線へと地下鉄が滑り込んでくるタイミングだった。混雑したホームの中、先頭に立って次に乗る列車を待っていた女性はまさか後ろから押されるとは思っていなかったのだろう。あっさりと、実に呆気なくバランスを崩すと、両手を大きく振りながら線路の上へと転落していく。
短い悲鳴。見開いた女性の目と俺の目が合う。
人生最期に目にした男が俺だなんて光栄だな、などと思いながら踵を返した直後だった。
列車の発するブレーキの甲高い音に、ゴシャアッ、と猛スピードで突っ込んできた鋼鉄の塊が何かに激突する音。柔らかい肉が、鋼鉄の車輪に轢き潰されていく音……それに遅れ、何が起こったのかを理解した他の利用客たちの悲鳴が、アナウンスの響き渡るホームに轟いた。
「きゃあああああああああっ!」
「お、おい、轢かれたぞ!」
「誰か憲兵を! 憲兵を呼べ!!」
葉巻を取り出して火をつけ、口に咥えながらぼんやりと思う。
たった1人―――たった1人の人間が死んだだけでこんなにも大騒ぎするなんて。世界ってのは一般人に優しく、兵士には辛く当たるものなのだな、と。
脳裏に思い起こされるのは、かつて経験してきた数々の戦場だ。降り注ぐ弾雨に砲弾、飛び散る破片に肉の焼ける臭い。断末魔なんて上げながら死ねる兵士は幸運で、大半は敵の放つ機関銃に捉えられ、次々に無言で死んでいく。
知ってるか? 実際の戦場では、映画の中みたく派手にぶっ倒れる事は無いんだ。
まるで気を失ったり、躓いて転んだように崩れ落ち、大半はそのまま動かなくなる。
そうやって多くの命が使い潰されてきた。
クソのような戦場、クソのような倫理観。
けれども俺たちのような人種は、そんなクソのような世界の中でしか生きられない。銃弾飛び交い死体が山を成す地獄の中に、一種の”居心地の良さ”を感じてしまう。
戦場に住まう死神に魅入られた、そういう存在なのだ。
ホームの喧騒が後方に遠ざかったところで、通報を受けて大急ぎでホームへ降りていく憲兵隊とすれ違った。特に視線を躱す事も無く、無関心を装って隣を通過。入る時とは逆の改札口(入ってきた時は東口からだった)で切符を紛失した旨を駅員に告げ、220ライブルを支払って改札口を通過。そのまま地上に出る。
近くにあった電話ボックスの中に入り、鍵をかけた。
電話ボックスのガラスは防音性の高い素材でできているので、外を歩く通行人に盗み聞きされる恐れはない……阿呆みたいな大声で喋らない限りは。
財布から10ライブル硬貨を取り出し、ダイヤルを回した。
《もしもし》
「……フェミニストは消した」
《素晴らしい。これで教祖様もお喜びになられるでしょう》
受話器の向こうから聞こえるマリクの声はいつもと同じだった。
ホワイトタイガーの獣人、マリク。
教団における序列は4位。誰に対してもあのテンションであの喋り方……コイツと話しているとまるで機械に向かって話しているような、そんな感覚を覚える。
「で、これでいいのか? 追加の依頼があるとか言わないよな?」
《いえいえ、まさか。せっかく定例会議のため足を運んでくださったのです、組織の№2を使い潰すような真似は致しませんよ。それと報酬は貴方の口座に振り込んでおきました、後ほどご確認を》
「それを聞いて安心した」
《定例会議は24時からです。遅れる事の無いよう》
「わかった」
受話器を戻し、電話ボックスを出る。
さてさて、今回の標的を仕留めた報酬はいくらだろうか。標的の命に教団がいったいどの程度の値打ちをつけていたのか、口座をチェックしながら酒を飲むのが昔は日課だったもんだが。
なんかアルコールが欲しくなったので、そのまま歩道を歩きながら酒場を探した。
冬季による流通の停止により、あらゆる食料品や燃料の値段は高騰している。それは外食産業も例外ではなく、普段は100ライブルもあれば買える黒パンが1000ライブルに値上げされていた、なんて事は良くある話だ。
まあ、ノヴォシア地方は地下鉄が発達しているので積雪による影響を受けにくく、値段の高騰は幾分かマシではあるのだが。
とはいえ仮にもここは宗教都市ツァリーツィン。宗派によっては飲酒を禁止するなどの戒律の厳しい宗教もあるからなのだろう、見た感じ酒場はそれほど多くはないようだった。
冒険者管理局にでも行くかな……と思っていたところにちょうどパトロール中と思われる騎士団の兵士がやってきてので、軽く手を振って呼び留めた。
「何か?」
「ちょっと酒場を探してるんだがね」
夕方から酒場を探してるのかコイツは、といった感じの視線を向けられながらも、もちろんタダとは言わないよ、と言わんばかりにそっと葉巻を2本差し出す。兵士はちょっと迷うような素振りを見せたが、やはりニコチンの誘惑には勝てなかったらしく、そっと葉巻を受け取った。
ライターで火をつけてやり、一緒にニコチンの恵みを享受しながら煙を吐き出す。
「この辺ってやっぱり酒場少ないのかい?」
「あー……いや、街の中心部は宗教区画になってるからね。ウォッカからお手製の酒にありつきたいなら街の外周部を探してみるといい。ああ、でも高級店で静かに飲みたいなら夜まで待たなきゃダメだよ」
「ありがと」
葉巻を携帯灰皿に押し込み、兵士にもう1本葉巻を渡してから別れた。
やはり兵士にとってニコチンが良き隣人であるというのは、どの国でもどの世界でも共通であるらしい。まあ、分からんでもない。次の瞬間には死んでるかもしれない、そんな世界で生きるのが兵士である。その恐怖を和らげるための快楽だけは、安全圏に居る政治家と違って兵士たちを決して裏切る事はない。
さて、行ってみますか……外周部。
結論から言うと、飲み過ぎた。
吐き気に勝てず、路地で胃袋の中身を盛大にぶちまけたのがたぶん20分くらい前。そのまま千鳥足で大通りをふらつきながら歩き、ミスって仕事帰りの冒険者にぶつかってしまい喧嘩が勃発、冒険者パーティー3名を試合後のボクサーみたいにボッコボコに殴り倒したのがたぶん10分くらい前。
会議が始まるまであと30分。まあ、まだ間に合いそうだ……道を間違わなければ。
「やっ、やめてくださいっ!」
「う゛?」
吐きそうになりながらも、声の聞こえた方向に視線を向けた。
見てみると、コート姿の女性が冒険者と思われる酔っ払い3名に絡まれているところだった。
「良いじゃないですかァ奥さん」
「ちょっと遊んでいきません?」
「いいなぁ。こんな綺麗な奥さん貰えるなんて、旦那さんは幸せ者だなァ」
ああ、よくある事だ。
冒険者ってのは荒くれ者ばかりだ。アルコールが入ると喧嘩上等、よく他の冒険者と殴り合いの喧嘩に発展しては憲兵沙汰になる事も珍しくない。腕っぷしの良い酔っ払いを同じ空間に押し込めておくとどうなるか、考えなくても分かるだろう。
かといって外に解き放てばこの通りである。そのまま性欲の赴くままに娼館で発散する奴はまだ良識のある奴(性欲解消ついでに経済も回してるからだ)で、質の悪い奴はああやって見知らぬ女性にナンパしたり、そのままお持ち帰りを試みる阿呆である。
しかも見た感じ子連れだ。人妻に手を出すとは、いよいよもってケダモノだ。
そんな状況を見過ごすわけにもいかず、吐き気をこらえながらも空の酒瓶片手に、千鳥足でそっちに歩いていった。
「ちょ、ちょっとやめてください、私には夫と娘が……!」
「ママ……!」
「大丈夫、今晩だけ。今晩だけだから」
「お嬢ちゃんも怖がらなくていいよぉ? お兄さんがね、お菓子たくさんあげるからねぇ」
ぽん、と怯える小さい子供に声をかけていた冒険者の肩に、静かに手を置いた。
「……あ?」
何すんだよ、とこっちを振り向いた大馬鹿野郎の顔面に、思い切りウォッカの酒瓶を叩きつけた。バキャアンッ、と、ついさっきまで高濃度のアルコールを充填していた空瓶が派手にぶち割れ、顔面を殴打された冒険者がぶっ倒れる。
「ぶ!」
「あ? おいおいおい、なんだテメ……ぶ!!」
めんどくさいので顔面に渾身の右ストレート。一歩踏み出し、腰を捻り、肩を入れ、100㎏の体重を乗せた右の拳(※義手です)がアルコール漬けの冒険者の顔面にめり込むや、鼻の骨をへし折り、前歯を砕いて、そのまま路地の方へと吹っ飛ばしてしまう。
残る1人が殴りかかってくるが、その腕とコートの襟を掴み、後ろへと倒れ込む勢いを乗せてそのまま綺麗に巴投げ。体重100㎏オーバーの巨漢がまるでボールのようにすぽーんと飛んでいき、路地にあった生ごみ用のゴミ箱にホールインワンしてしまった。
「うぷっ」
さて、ただでさえ吐き気がヤバいというのに、咄嗟に巴投げを繰り出してしまったものだから胃袋の中がシェイクされてしまい、もう限界だった。
「あ、あの、ありがとうございます。助かりま―――」
「~ッ!!」
お礼を言う女性にちょっと待ってと手でジェスチャーし、路地にある生ごみ用のゴミ箱へ猛ダッシュ。さっきホールインワンした酔っ払いの冒険者が何とか這い出そうとしていたので、ソイツに向かって胃袋の中身を遠慮なくぶちまけた。
「おろろろろろろろろろろろろろろろろろ」
「おわーーーーーーッ!?」
バタン、と蓋を閉め、きっちり施錠。悪臭対策ヨシ。
中から冒険者の悲鳴と嘔吐する声が聞こえてくるが、まあ……聞かなかったことにしよう。
女性のところに戻ると、彼女はちょっと引きながらも笑みを浮かべた。
「あ、ありがとうございます。助かりました……」
「おにーさんありがとー」
「いえいえ、当然の事をしたまでで―――」
月明かりが、薄暗い路地を照らし出す。
雪雲の合間から顔を出した月明かりに照らされて露になった女性の顔。
顔立ちは東洋人のそれで、瞳の色は翡翠色。闇のような黒髪の中からはネコミミが生えていて、黒猫の獣人だという事が分かるが……大事なのはそこではない。
彼女の顔には見覚えがあった。いや、見覚えがあった、なんてものではない。
互いに将来を誓い合った女の顔だった。
「―――サクヤ?」
「え?」
間違いない、サクヤだ。
まだ無事だった涙腺のせいなのだろう、義眼の周りが熱くなる。視界が微かに霞み、今すぐに彼女を抱きしめたい衝動に駆られるがそれは全力で堪えた。
という事は、と彼女が連れている子供に視線を向けると、やはりそうだった。
母親にそっくりな顔立ち。しかし、目元には父親の面影がある。元気で、無垢で、素直な女の子。
記憶の中にある愛娘―――シズルの顔と、彼女の顔が完全に重なった。
「あの……どうして私の名前を?」
「……」
そっとサングラスを外した。
サクヤが目を見開く。
「え……あなた?」
「パパ……?」
「……いえ、ただのそっくりさんでしょう。ははは、私もちょっと、あなたが妻にそっくりだったもんで……」
そんな嘘あるか。
けれども、ありえない話ではない。
俺がいた世界と、こっちの世界。無数に枝分かれした異世界の中に同じ人間がいたとしても別に不思議ではない。
「とにかく、家まで送りますよ。この辺は酔っ払いが多いですからね」
「え、ああ……ありがとうございます」
こっちです、と歩き始めたサクヤの隣を歩くと、彼女が連れている娘―――シズルが俺の手をそっと握ってきたのが分かった。義手には神経なんて通っていないので、物体に触れてもその感触は脳に伝わってくる事はない。
だから人の手を握る温もりなど久しく忘れていたのだが―――その小さな手の温もりは、確かに感じられた。
回路に生じた誤動作か、それとも脳に生じた錯覚か。
気付かれないように涙を拭っているうちに、彼女たちの家についた。
ツァリーツィンの外周部にある、いたってごく普通の家だ。門の前には【Хаякава(ハヤカワ)】と刻まれた表札がある。
「送ってくださってありがとうございました」
「いえいえ」
それではおやすみなさい、と別れようとすると、家の扉が開いた。
「サクヤ? 遅かったじゃないか」
聞き覚えがあるなんてもんじゃない―――まんま俺と同じ声が、家のドアの方から聞こえてきた。
家の中から顔を出したのはヒグマの獣人のようだった。がっちりした体格で、しかしその身体は大きく欠けている。右足は膝から下がなく、左腕は肩から先がない。右の脇に松葉杖を挟みながら出てきた巨漢の顔ははっきりとは見えなかったが、鏡を見ているような気分になった。
玄関の中には、ノヴォシア帝国騎士団の軍帽がある。おそらくだが、彼は傷痍軍人なのだろう。
「ちょっと酔っ払いに絡まれちゃってね。この人が助けてくださったの」
「ああ、それはそれは……妻と娘を助けてくださり、ありがとうございます」
「いえいえ、自分は当然の事をしたまでです」
そう言ってから、踵を合わせ彼に敬礼を送った。
「お勤めご苦労様です」
「……ありがとう」
松葉杖を脇で挟み、敬礼を返すサクヤの主人。
手を下ろし、「おにーさん、ばいばーい」と無邪気に手を振って見送ってくれるシズルに手を振ってから踵を返した。
分かっている。あのサクヤとシズルが、俺の妻と娘ではなく、あくまでもこっちの世界で生きる別人―――容姿と名前が同じだけの別人であることくらいは。
けれども……せめて、せめて、こっちの世界では幸せにと祈らずにはいられなかった。
「……奇妙なもんだな」
震える手で葉巻を咥え、火をつけながら呟いた。
雪雲の切れ目から、オリオン座が覗く。
今夜ばかりは、星が霞んで見えた。




