厳禁、下心
「ご主人様、コーヒーをお持ちいたしました」
「ああ、ありがとう」
コーヒーを淹れてきてくれたクラリスに礼を言いながらマグカップを受け取り、冷ましてから口へと少しだけ含む。コーヒー本来の苦味はどこへやら、過剰なほどぶち込まれた砂糖とミルクの暴力的な物量でかなり甘く、尚且つマイルドな味わいになったそれは、コーヒーの香りと苦味を楽しむガチ勢の人からすれば決して許しがたいものと言えるだろう。
実家でならばジノヴィおにーたまがガチギレしそうだ。
それはそうとして、やはり除雪作業を終えた後の一杯は糖分マシマシの温かい飲み物に限る。
今朝もやってきたよ除雪作業。火炎放射器を背負って燃料をぶちまけ着火、燃料をぶちまけ着火……火災には細心の注意を払い、レンタルホームを綺麗に除雪してきたから疲れた。
この労力が毎日だ、毎日必要になる。今こそ窓の向こうにあるレンタルホームのタイルが見えているけれど、これがお昼を過ぎた辺りにもなれば雪に埋もれ、明日の朝には今朝と同じ状況に逆戻りだ。
だからといって除雪作業はサボれない。作業を怠ったら列車ごと雪に埋もれてしまい、外出もできなくなる。
それにしても、ノヴォシア地方の降雪量は本当に馬鹿にできない。イライナも大概だったが、ノヴォシアはそれ以上だ。これでまだ11月上旬、来月になったらいったいどうなる事か今からでも不安になる。
「そーいやミカさぁ、”コピ・ルアク”って知ってるか?」
「え? こぴ……?」
「あー、アレだろ。例の高級コーヒー」
首を傾げるクラリスの隣で、頭の片隅にあった知識を引っ張り出しながらそう答える。
コピ・ルアクは主にインドネシアなどで生産されるコーヒーの品種だ。非常に香りがよく大変美味な事から、コーヒーの中でも特に高級な代物とされている。
ちなみにコピ・ルアクは商人とそれなりのコネさえあればイライナ地方でも手に入るそうだが、その価格は何とコップ一杯分で20000ライブル。俺たちが日頃やってる仕事の報酬に匹敵する値段である。
「ご主人様、そのこぴ……なんとかとは何でしょうか?」
「コピ・ルアクね。東南諸国の方の品種で、とにかく香りが良くて美味しいコーヒーらしい」
「それは……一度は味わってみたいものですわね」
「ちなみにお値段、コップ一杯で2万ライブルね」
「……お高いですわね」
「お金ぇ!?↑」
金の絡む話をしたからなのだろう、久しぶりにモニカが両目をお金のマークにしながらこっちにやってきた。
「つまりそのコピ・ナントカを調達できればあたしたち億万長者ってわけ!?」
「ま、まあ、そういう事になるけど……」
「やりましょうパヴェル! 新しいビジネスよ!」
「お、おう」
「ビジネスと聞いたら黙ってられないネ! ワタシも名乗り上げるヨダンチョさん!!」
リーファまで参入してきて、まだ朝の7時半だというのに食堂車の中が一気にカオスになる。まだコピ・ルアクがどんなものかすら知らないというのに、リーファとモニカはどのくらい調達するとか、どういうルートで販売するか、なんて気の早い話を始めている。
これ、真相話しちゃって大丈夫かな……そう思いながらパヴェルの方を見ると、彼は『KUMA』と書かれたマグカップを片手にニヤニヤ笑っていた。
「あのな、盛り上がってるとこ悪いけど」
「なあにミカ?」
「―――コピ・ルアクってアレ、ジャコウネコの糞から採れる未消化のコーヒーの実を使うんだぞ?」
「「「―――へっ???」」」
あんなにカオスだった食堂車の中が、その一言で一気に静まり返った。
盛り上がっていたモニカとリーファはというと、まるで大好きな特撮のヒーローの正体をバラされた子供のように(※実体験です)凍り付くや、ギギギ、と錆びた機械のような音を発しながらこっちをゆっくりと振り向いた。
「……ダンチョさん」
「……今、なんて?」
「……ジャコウネコの糞」
ご存じの方も多いだろうけど、知らない人のためにも一応簡単な説明を。
コピ・ルアクはインドネシアなどで生産される高級コーヒーとして知られる。その製法も独特で、ジャコウネコ科の動物にコーヒーの実を食べさせるところから始まる。そしてジャコウネコの糞から未消化の状態のコーヒーの実を採取し洗浄、その中にある種を使って仕上げたコーヒーがコピ・ルアクとなる。
香りは非常に良く、味も良いまさに最高級のコーヒーとして知られるが、こういう製法なので抵抗を抱く人も少なくないと聞く。
ずずず、とクソ甘コーヒーを啜っていると、パヴェルがドンとカウンター席に大きなボウルを置いた。
中身は赤く熟れた、どこかサクランボを思わせる木の実だった。サクランボというには小ぶりではあるが……。
そう、コーヒーの実である。
「ミカ、これなーんだ?」
「……コーヒーの実?」
「正解」
ニヤニヤしながら、ボウルの中の実を1粒摘まみ上げるパヴェル。こうして見ると小ぶりなサクランボに見えなくもないけど、あれはれっきとしたコーヒーの実である。あの種を焙煎したのが俺たちのよく知るコーヒー豆だ。
さて……なんだろう、もうこの時点で嫌な予感しかしない。特にコピ・ルアクの話の後で現物を出されたらもうね、フラグでしかない。大爆発の後の「やったか……?」とか「ここは俺に任せて先に行け!」に匹敵するレベルの盛大なフラグ、もはや予定調和である。
そんなフラグを、パヴェル氏が回収しない筈もなく……。
「さて問題です。ハクビシンは何科の動物でしょう?」
「……ジャコウネコ科」
「正解。そしてここにコーヒーの実がある……さらにミカエル君はハクビシンの獣人」
「……何が言いたい」
ふふん、と笑ったパヴェルは、指で摘まんでいたコーヒーの実を俺のすぐ目の前に置いた。
「これをミカとかルカに食べてもらえば実質的にお手軽なコピ・ルアクの製造が可能になるんじゃねーかなと思って」
「「「!?!?!?」」」
「―――」
顔に手を当て、ケモミミをへたれさせながら首を横に振る。
うん、そうだろうと思った。そ ん な 事 だ ろ う と 思 っ た 。
背後からも熱烈な視線を感じたのでちらりと振り向いてみると、モニカとリーファはパヴェルの提案した画期的(んなわけねーだろ馬鹿)な計画に目を輝かせ、クラリスは下心丸出しで鼻血を垂れ流している。
う わ ぁ な に こ れ 。
「み、ミカ、お願い! ギルドのために身体張るのよ!」
「え」
「ダンチョさんならいける、いけるネ!」
「ご、ご主人様……あっ、いえ、クラリスはリガロフ家のメイド……ご主人様のそんなっ……でも……でゅふ、でゅふふふ……!」
指をワキワキと動かしながら迫ってくるモニカ、リーファ、クラリスの3人。尋常じゃないほどの下心と身の危険を感じ、カウンター席から後ずさりするミカエル君。しかし哀しい事にここは食堂車の中、後ずさりを続ければやがて壁にぶち当たるのが道理というもので、背中にひんやりとした木製の壁の感触を覚えた頃には、目の前に3人が迫っていた。
いや、いやいやいや。何それ何それ。
モニカとリーファは金銭目的、クラリスに至っては変な性癖に目覚めようとしてるんだけど??? やめて? こんなところでパンドラの箱開けなくていいから。それ間違いなく下心という名のミミックだからァァァァァァァァァ!!!
「大丈夫よミカ、大丈夫」
「ちょっとコーヒーの実を食べるだけネ……」
「でゅふふふふ……」
「ぴえっ、ぴえぇ……!」
絶体絶命のピンチと思われたその時だった。
ぽんぽん、とモニカの肩を、後ろから伸びてきたすらりとした手が軽く叩く。
「何よ―――ひぃッ!?」
邪魔しないでよ、といった感じで振り向いたモニカの下心を一瞬にして砕いたのは、やっぱりこの人だった。
修道服に身を包んだキツネの獣人、シスター・イルゼである。
顔にはまるで元気に遊ぶ子供たちを見守るかのような、母親を思わせる柔和な笑みがある。けれども何だろうか、その裏に得体の知れないどす黒いオーラを秘めているような、とにかく敵にまわしちゃあいけない人だと一瞬で分かってしまうような威圧感を感じてしまうのは。
しかもよく見ると、肩にはでっかいハンマーを担いでいる……見間違いじゃなきゃ側面に『10t』って書いてあるんだけど???
「うふふ。3人とも、無理強いは感心しませんよ?」
「あ、アイヤー……あは、あはは」
「し、シシシシシシシシシスター? そのハンマーis何?」
「ぼぼぼぼ、暴力反対……あはは」
「うふふふふ……」
今度は3人が後ずさりする番だった。
その間にモニカとクラリスの隙間をすり抜け脱出、窓際の席でコーヒーを飲んでいたカーチャのところに逃げ込む。
「ぴえぇ……あのおねーちゃんたちこわいぃ……」
ロリボでそう言いながらカーチャの隣に座ると、物静かにコーヒーを飲んでいたカーチャはちょっと顔を赤くしながら「しょうがないわね……」とでも言いたげな感じで頭を撫でてくれた。
ごちーん、とシスターからの制裁が3人に下ったのはその直後だった。
「うぅ……痛いですわ……」
「ギャグパートとはいえ痛いわねぇ……」
「死ぬかと思ったネ……」
泣き言を言いながら歩く3人の頭の上には、これでもかというほどでっかい、昔のギャグマンガみたいなたんこぶが、まるで金網の上で焼けて膨らむ餅のようにどどんと乗っている。
シスター・イルゼの持ってた制裁用ハンマー、あれホントに10tあったのだろうか。まあ本当に10tのハンマーだったとしてもギャグパートだから振り回せるし、それで殴っても死人が出ないのは安心できるところではある。シリアスパートだと死ぬ。
ぷっくりと膨らんだたんこぶをひょこひょこと揺らし、肩を落としながら歩くクラリス、モニカ、リーファの3人。時折後ろを振り向いて呆れながら、俺は買い物リストをチェックした。
冬に突入し食料や燃料の安定供給が不可能となった今、やっぱり食料品や燃料の値段が高騰している。100ライブルくらいで購入できたニシンの缶詰が今では1000ライブル、実に10倍もの物価となっているのは本当に何かの見間違いかと疑いたくなるほどだ。
そのうちコーヒー1杯飲むのにスーツケースいっぱいのライブル紙幣が必要になるんじゃあないだろうか……いつぞやのマルク紙幣のように。
「やれやれね」
新聞紙から切り取った食料品の広告の値段を見ながら、隣を歩くカーチャは呆れたように言った。
記載されているのはいずれも缶詰やノヴォシア帝国臣民の主食とも言われる黒パン、それから沿岸部の都市では格安で手に入る事で有名なイクラの缶詰の広告だ。やはり値段高騰の影響をもろに受けており、ちょっとした高級食材のような値段になっている。明らかにゼロが1つ多いのだ。
日本では高級食材に分類されるイクラだが、ノヴォシアでは豊富に獲れる事もあって格安で手に入る、安価で栄養価の高い食品としての地位を確立している。売り方もダイナミックなもので、ちょっとしたバケツや洗面器みたいなサイズの缶詰に詰め込まれて売られているのだ。
それで500~2500ライブル、良心的な価格なので低所得者層にも手が出し易い食材だった……冬になる前までは。
それが今、35000ライブルで売られているのである。
あーこれは辛い……辛いわ。
一応、カーチャが討伐したスノーゴーレムの素材を売って作った大金があるのでまあ、買えない事はない。だがこんな買い物をいつまでも続けていたら、ギルドの資産も干上がってしまうだろう。
やはりちょくちょく食料を調達して何とかするしかなさそうだ……今日の午後はドン川で釣りでもするか、あるいは水路に行ってザリガニの捕獲に精を出すか。
そんな事を考えながら、とりあえず食料品店を目指して先に進んでいく。マズコフ・ラ・ドヌー市内は雪に覆われていて、気温も今日で-18℃。そんなアホみたいなドチャクソ積雪の中でも子供とは元気なもので、キャッキャウフフと楽しそうな声を上げながら雪合戦をしている姿がここからでも見えて微笑ましくなった。
雪で覆われた石畳を踏み締めながら歩いているうちに、バイオリンの音色が聞こえてくる。視線を向けてみると、路上で女性の獣人が演奏しているようだった。収入を得るためなのか、それとも知名度を上げて大手の会社との契約を勝ち取るためなのかは分からないけれど、まあ路上ライブみたいなもんだろう。
何の曲なんだろうなコレ、と思いながら聞いていたが、なんだか聞き覚えが……。
ああ、アレだ。ニコライ・ヴルヴィンスキー作曲の『還らぬ貴方へ』という曲だ。戦争に行ったままついに帰ってくる事のなかった恋人を想う、哀し気な曲だ。
母さんがたまーに口ずさんでたなぁ……と思いながら、バイオリンを演奏している女性の目の前を仲間たちと横切った次の瞬間だった。
―――本当、臆病な性格というのは便利なものだ。
イリヤーの時計に命じ時間停止を発動。世界のあらゆる存在が静止し、ただ1人俺だけが動く事を許される。
後ろを素早く振り向き、護身用に持ってきたグロック43を取り出して即座に発砲。銃口から放たれた弾丸は、先ほどまでバイオリンを演奏していて、そして今はどこから取り出したかUSP拳銃を手に、俺に向かって引き金を引こうとしていたバイオリン奏者のお姉さんのすぐ目の前でぴたりと静止する。
素早くグロックをホルスターに押し込んで振り返ったのと、時間停止が解除されたのは同時だった。
微かな銃声の残響と、後ろでバイオリン奏者がどさりと崩れ落ちる音。後ろを歩いていたクラリスが、今しがた眉間を撃ち抜かれて倒れたお姉さんを見て目を細める。
「ご主人様」
「……ああ、連中の残党だろうな」
―――転生者殺し。
主力を叩き潰され、戦闘力をすっかり喪失したものと思っていたが……。
本当、過激な理想の元に結成された組織というのは危険なものだ。
アメリカが対テロ戦争に神経を尖らせていた理由が、本当によく分かるというものだよ。




