そして雪は降り始める
「本当にいいのか、セロ?」
食料品の入った木箱をトランクに積み込んでいると、後ろで見送りに来てくれたミカが言った。以前彼らと別れた時も思ったが、血盟旅団は随分と太っ腹だ。自分たちの食べる分だって確保するのが大変だろうに、降雪直前だというのにこんなに食料を分けてくれたのである。
黒パンに缶詰が大半だが、それでも非常にありがたい。冬場は食料の確保に難儀するからだ……とはいっても、私たちが冬を越す予定のアルミヤ半島にはノヴォシア帝国には貴重な、それはそれはもう貴重な不凍港があって、そこを拠点に冬場でも漁船が漁に出るので海産物には困らないそうだが。
それでもいつも魚が大量に獲れるとは限らないので、保存の利く食料はありがたいものだ。
缶詰の種類もバリエーション豊かで、イワシの油漬けにサーロ(豚の脂身の塩漬け、噂には聞いていた)、それから何の悪夢か、ウナギゼリーのノリで作られたのであろうヴォジャノーイゼリーの缶詰がある。
「……これ、美味いのか?」
「…………美味いよ」
「待て今の沈黙は何だ」
「でも美味しそうじゃない?」
「お嬢……」
後部座席に座っていたお嬢が、ひょいっと木箱の中の缶詰を一つ手に取った。ラベルにはだいぶデフォルメされたヴォジャノーイと思われる二足歩行のカエルが描かれていて、手にはフォークとナイフを持っているイラストが描かれている。
ラベルの側面には賞味期限やら成分やら、法令で定められている記入しなきゃダメな事項がずらりと記載されていて、その片隅に中身の写真が掲載されていた。
白黒なので分かり辛いが、半透明のゼリーに覆われた肉片が浮かんでいる料理のような何かが、イライナ特産のイライナハーブを添えられて皿の上に乗っている。どこからどう見ても大英帝国が錬成してしまったあのウナギゼリーにしか見えないのだが、これは何の冗談だろうか。
「一緒にマズコフ・ラ・ドヌーで冬を越してもいいんだぞ?」
先ほどまでのすっとぼけるような声音から打って変わって、まるで実家に帰省してきた親戚との別れを惜しむ子供のような声でミカは言った。
ミカからはこう提案されていたのだ。彼らと一緒にマズコフ・ラ・ドヌーまで渡って、そこで冬を越してから解散すればいいではないか、と。
確かにそれも選択肢の一つではあったのだが、いつまでもミカや血盟旅団の皆に迷惑をかけるわけにもいかないし、主戦力を喪失したとはいえ転生者殺しの連中そのものが居なくなったわけでもない。依然として連中はこの世界の脅威であり続けるだろう。
転生者である私たちがいつまでも一ヵ所に集まっていたら、連中がテロじみた攻撃をしてくる可能性だってある。そうならないように、狙いは分散させておく必要があるのだ―――そう言う理由もあって、私はミカの申し出を断っていた。
「気持ちは嬉しいが、いつまでもミカ達に頼りっきりというのも申し訳ないしな。私とお嬢はアルミヤで冬を越すよ」
「そっか……寂しくなるな」
「ははっ、確かにな……でもまあ、いつかまた会えるさ」
「そうだな……」
すっ、とミカは小さな拳を突き出した。
「―――達者でな、セロ」
「お前もな、ミカ」
とんっ、と小さな彼の拳に、私も拳を突き合わせた。
ミカにウインクしてからランドクルーザー70に乗り込み、エンジンをかけた。血盟旅団の格納庫の中にエンジン音が響き渡り、それを合図に制御室に居るルカ(ビントロングの獣人だそうだ)が室内のレバーを操作する。
黄色い警報灯が点滅を始めるや、警報と共に格納庫側面のハッチが横へとスライドしていった。
10月17日―――まだ10月中旬だというのに、空は鈍色の雪雲に覆われていて、真っ白な綿毛を思わせる雪が降り始めている。
もうそんな季節なのだ。
これから積雪と気温の低下が本格化し、やがて除雪作業が追い付かない程の降雪によって、この国のありとあらゆる道は閉ざされる。都市や村、集落は完全に孤立し、全てが雪に覆われる地獄の冬が始まるのだ。
来年の4月まで、これまでの貯蓄でやりくりしなければならなくなる―――だからノヴォシアに住む人々は雪解けと同時に、早くも次の冬への備えを始めるのだそうだ。
『ノヴォシアの冬は人を殺す』、『働き者のみが勝利する』―――標準ノヴォシア語を勉強し始めたばかりの頃、本当に最初の頃に覚えた言葉だ。
恐ろしい冬への備えを促す言葉として、これ以上強烈なものはないだろう。
クラクションを鳴らし、見送りに出てくれたミカとクラリスに別れを告げてからアクセルを踏み込んだ。格納庫から線路に飛び出したランドクルーザー70が大きく揺れ、そのまま線路の上を走っていく。
駅の近くにあった踏切から車道に出ると、もうミカ達の姿はすっかり見えなくなっていた。
「あっという間だったわね」
「……そうだな」
お嬢にはちょいと苛酷な戦いだったのではないだろうか。
ちらりとバックミラー越しに後部座席を見てみるが、ミカ達から譲り受けたハーブティー(イライナハーブを使ったものだそうだ。香りが良い)を楽しんでいるお嬢には特に疲弊した様子は見受けられない。
いつも通り、と言ったところか。
相変わらず、強靭な精神の持ち主だ。
まるで樹齢1000年を超える大樹の如く、ちょっとやそっとじゃ簡単には揺らがないような、そんなどっしりとした強さが彼女の内にはある。
まあ、あんな過去もあれば当然か。
出会ったばかりの頃はと言うと、私に対しても怯えていたものだ……本当に、親猫から引き離された子猫のように、なかなか心を開いてくれなかったものだが……当時を知っているからこそ、強く育ってくれた彼女には頼もしさすら覚える。
「雪、綺麗ね」
「ああ、そうだな……でも急がなきゃ、車ごと氷漬けにされちゃいそうだ」
「あら、それは大変。セロ急いで」
「仰せのままに」
とはいえ、スリップして事故るのも嫌なので、とりあえずはゆっくりと、静かにアクセルを踏み込んだ。
お嬢とならば、どこまでも。
「さあ参りましょう、ご主人様」
「ん、今行く」
クラリスに誘われるがままに、懐にグロック43を忍ばせてから部屋を出た。
セロにはたっぷりと食料に水、それから冬を乗り切るための燃料をプレゼントしておいた。仲間として、そして今回の一件を共に戦ってくれた彼女にはまだまだ足りないくらいの返礼ではあるが、とりあえず彼女と、それからリュハンシクで別れる予定のしゃもじ達に分け与える分の物資も含めて買い出しに行かなければならない。
買い物リストはスマホにダウンロードしてあるし、必要な分の金も持った。イライナでは石炭を始めとする燃料が格安で手に入るという利点はあるが、しかし時期が時期である。眼前にまで迫った冬ともなれば燃料の値段は高騰していくだろう。多少多額の出費となっても、燃料は確保しなければならない。
それと食料だ……一応、マズコフ・ラ・ドヌー沖に広がるアラル海は冬になると凍るが、場所によっては海面の氷が薄く、そこをくり抜く事で釣りができるらしい。冬になると食料確保と娯楽を兼ねて、多くの人々が凍り付いた海の沖にテントを張り、ストーブで暖をとりながら釣りを楽しむのがマズコフ・ラ・ドヌーの風物詩なのだそうだ。
それはちょっと楽しみである。どんな魚が釣れるのだろうか。冬に備えて脂が乗っているだろうからさぞ美味いに違いない……などと食う事ばかり考えていると、客車のドアの方から入ってきたパヴェルに呼び止められた。
「ああすまんミカ、ちょっといいか」
「どうした?」
「ちょっとな……ああクラリス、悪いが買い出しはミカ抜きで行ってきてくれ」
「えぇー!?」
がーん、という文字がクラリスの頭の上に浮かんでいる。なんだあれは。
「そんな、ご主人様と離れ離れになれと言うのですか!?」
「代わりにモニカと……そうだな、親睦を深めるためにもカーチャと、後はイルゼも連れていけ」
イルゼを買い出し分隊にぶち込んだのはあれか、万一カーチャとモニカが口論になったりした時に仲裁するためか。
一応、カーチャが血盟旅団入りする事には仲間たち全員が合意してくれた(ノンナは懐いているようで大喜びしていた)が、しかし元々敵勢力の暗殺者だった事、そして俺を手にかけようとしていた事などから、カーチャを警戒する仲間も多い。
今のところ一番警戒心を持っているのはモニカだ。
もしこれが、例えば40人くらいの学校のクラスだったら別に無理に仲良くなる必要もない。クラスの中に嫌いな奴の1人や2人は居るだろうし、結局は同じクラスで仲良くなった奴らだけでグループを作っていくのだ。
しかし少人数で、背中を預けて戦う冒険者ギルドともなればそうもいかない。本格的な実戦を迎える前に打ち解けるように、というパヴェルからの命令なのだろう。
「でもパヴェルさん……!」
「今夜の夕飯はカレーうどんです」
「じゅる……じゃなくてパヴェルさん!」
「言う事聞いてくれたらミカ×マカール本あげるよ」
「えっ嘘本当ですかパヴェルさん?」
ずいっ、とパヴェルに詰め寄り食い気味に問い質すクラリス。パヴェルがドン引きするほどの圧には驚きだが、前に身を乗り出したクラリスのOPPAIの下敷きになるミカエル君にも相当な圧がかかってるのですが……ああいや、決して嫌な圧じゃなくてね、むしろもっとこう、もっと……。
ってちょっと待てパヴェル。ミカ×マカール本ってなんだお前。まさかお前、お前お前。
一体いつからミカエル君はフリー素材になったのだろうか。しかもついにマカールおにーたままで薄い本の餌食にされてしまうとは……きっと今頃くしゃみしてるだろうなぁ、と思っている間に、クラリスは目を輝かせながら格納庫の方へと走っていった。
「行ってまいりますわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「おう、気をつけてなー……って聞こえてないか」
「すいませんねぇウチのメイドがいつも」
「いえいえ、性癖に素直な人は面白いから良き」
「……ちなみにパヴェルの性癖ってどんなの?」
「そりゃあお前……」
ニヤッ、と笑みを浮かべながら、彼は自らの性癖を開示しやがった。
「身 長 と 尻 が デ カ イ 女 が タ イ プ で す 」
「お、おう……そうですか」
「ウチの妻がまさにそうだった。ついでに胸もデカかった」
「リア充め」
「しかも姉妹」
リア充にも程がある。
「……ところで、俺を残した理由ってなんだよ?」
それだけじゃない、ご丁寧に俺とパヴェルを除く仲間たち全員を上手いこと人払いした状態で、だ。ルカとノンナは機関車の修理、リーファと範三は休憩時間なので自室で待機している。きっとリーファは風水の勉強を、範三はいびきをかいて寝ているところだろう。
しゃもじとおもちはリュハンシクの街を散策しに行った。食べ歩きをしてから帰ってくるそうだ。
つまりその要件とは、俺とパヴェルの2人だけで内密にしておきたい案件……そういう事なのだろう。
「実はな、来てるんだ」
「来てるって、何が」
来いよ、とでも言わんばかりに手招きし、外へと歩き出すパヴェル。
俺も訝しみながら外に出ると、そこには以前に目にした事のある人物が立っていた。
目立たない色合いの私服の上から防寒用のコートを羽織っていて、頭にはイライナ(というかノヴォシア帝国全土)の伝統的な帽子であるウシャンカをかぶっている。そのウシャンカの下からは特徴的な長く垂れたウサギの耳が伸びていて、俺はぎょっとした。
ホーランド・ロップ……垂れ耳ウサギの獣人。
身長はいたって平均的、パヴェルより一回り小さいくらいだろうか。体格も華奢で、鍛えているようには見えない。顔立ちは整っていて、よく見ると映画の俳優……というわけではないが、それでも優しそうな彼の顔つきはその雰囲気もあって女性にモテそうだ。
傍らには、撮影用の機材やら何やらが収まっていると思われる、やたらと大きなバックパックがある。
そんな彼に、見覚えがあった。
「―――あんた、あの時の」
そう、あの時の写真家だ。
レストラン”ジールカ”での会合の際、俺たちの前に気配も無く現れては転生者殺しについての情報を渡して、そのままどこかへと消え去った謎の写真家。
確かに出で立ちは写真家にしか見えないが、あの気配の消し方は本当にただの写真家か、と疑いたくなるレベルである。
いったいこの男は何者なのか……?
フランクな笑みを浮かべている”写真家”に困惑していると、パヴェルは俺の肩に手を置いた。
「彼は写真家の”カルロス”。少しの間、俺たちの旅への同行を申し出てる」
「え」
旅への……同行……?
「やあ、君がミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフ君だね? 活躍は聞いてるよ。俺はカルロス、見ての通り写真家でね。君たち血盟旅団の旅に同行して、ぜひ写真を撮ってみたいんだ」
そう言いながら、手を差し出してくるカルロス。
は、はあ、と曖昧な返事を返しながら、俺もその手を握り返した。
何者なんだ、この写真家は……。




