猟犬と駄犬と狼と
断言しよう。
この世に存在する全ての生物は、痕跡を残さずに移動する事など不可能だ。
呼吸音、足跡に足音、心臓の音、汗……何をどう頑張っても痕跡というものはその場に残り、敵対者にその存在を知らしめる動かぬ証拠となってしまう。
完全に痕跡を残さず、尚且つ気配を感じられずに物事を済ませることができる者が居るのだとすれば、それはきっとこの世のものではないのだろう。幽霊、あるいは神―――少なくともヒトの仔として生まれてきた以上、どう足掻いてもヒトの範疇から逸脱する事は出来ないのだ。絶対に。
有史以来、ヒトはその”ヒト”という定義からの逸脱を何度も試みてきた。悪魔的な手段に訴えた者、神への冒涜的手段によりそれを実現しようとした者、ヒトとしての肉体や魂を売り払った者―――その大き過ぎる代償を払っても実現していない辺り、未来永劫”ヒト”という存在の定義が逸脱され、脅かされる事はきっとないのだろう。
それは狩る側である私にとってもありがたい話だった。
少なくとも相手はヒト、神が生み出した不完全な存在。愚かで、無知で、それでも可能性を秘めた存在。
どれだけ足音を小さくし、気配を殺したつもりでも私の耳には届いている。乱れた息遣いに心拍数の上がった心臓の音、床に滴り落ちる汗の小さな水音。そんな些細な情報が敵の位置を知るための、極上の情報源となってくれている。
さて、やるか。
息をそっと吐き、目を細めた。
ホテル・リュハンシクは大きく分けて富裕層向けの本館と、低所得者向けの西館の2つのブロックで構成されている。私たちが陣取り、そして敵兵が突入を試みたのは西館の方だ。低所得者向けのホテルではあったのだろうが、しかし内装やデザインに手を抜いているような様子はない。
今でこそホテル内は荒れに荒れ、かつての繁栄の名残を断片的に目にする程度ではあるが、しかし低所得者にも富豪の気分を味わってもらおう、という総支配人の心意気が、微かに残った内装の残骸や間取りから見て取れる。
ロビーから天井にかけて大きく穿たれた円形の吹き抜けは解放感を提供し、今では半分ほど割れてしまっているものの、吹き抜けの天井部分には小さなグラスドームがある。グラスドーム内には何かの紋章のようなものが描かれているが、それがかつてのイライナ公国の国章なのか、それとも宗教的シンボルなのかは分からない。
いずれにせよ、そんな優美なホテル内に侵入してきた哀れな獲物を、私はこれから狩らなければならない。
殺すか、殺されるか。
相手との対話が不可能で、しかもその相手が暴力的手段で物事の解決を図ろうとしているのであれば、こちらもまたそれ以上の暴力で応じなければならないのだ。対話ですべて解決するとか、そんなのは平和ボケした人間の戯言である。
吹き抜けの下、ちょうど受付があったであろう場所から、数名の黒服の兵士たちがぞろぞろと入ってくる。HK416を構え、フラッシュライトで暗い室内を照らしながら入ってきた彼らを睨みながら、肩に担いでいた得物―――ゲパードを構える。
フォアグリップを握り、肩にストックをしっかりと押し付けて構える。
ハンガリー製ブルパップ式アンチマテリアルライフル、ゲパードGM6。重く長大で取り回しを度外視しているアンチマテリアルライフルの中ではコンパクトで速射性に優れた逸品だ。
私がこれを愛用している理由は単純明快、”敵を確実に殺す”ためである。
それが魔物だろうと、人間だろうと例外なく、だ。
『くそっ、何人やられた……?』
『このままじゃ全滅だ、本部に増援を……』
背中に大きな無線機を背負った通信兵に狙いを合わせ、引き金を引いた。
ドガン、と咆哮を発し、12.7mm弾を放った銃身が大きく後退する。銃というよりは砲と例えた方が適切なのではないか、と思ってしまうような化け物じみた銃の一撃は、ただただ淡々と標的を粉々に砕いた。
12.7mm―――重く、装薬量も多い重機関銃用の弾薬。第二次世界大戦中には航空機を撃墜できるほどの威力を持っていたそれに、防弾装備を身に纏っているとはいえ生身の人間が耐えられる道理はない。
レティクルの向こうで、まるでシャボン玉が割れるかのように、黒服の兵士の頭が真っ赤に爆ぜた。ドパン、と人間だったものが飛び散る音がして、その敵兵の一部だった肉片やら頭蓋の破片やらが周囲に飛び散る。
罪悪感とか、殺してしまったという後悔はない。
そんなものを乗り越えるための通過儀礼は、随分と前に済ませてある。
照準を変え、視線を上げてこっちにライト付きのHK416を向けてきた敵兵に向け発砲。レティクル越しに私と目が合ったのが分かるが、しかしその口が言葉を紡ぐよりも先に12.7mm弾は彼の命を刈り取った。
首筋に直撃した50口径弾はその過剰極まりない運動エネルギーで彼の身体を引き千切ると、胸から上をもぎ取っていく。
『くそ、くそ、上だ!』
『撃て、撃て!!』
2人目の犠牲者を出して、やっと連中は私の存在に気付いたらしい。
遅いものだ。もっと早く気付いていれば被害を最小限に抑えられたものを。
ここで3人目……という欲が出るが、そこはぐっと我慢した。私の経験上、攻撃を欲張りすぎて得をした試しはない。前世の世界でも、こっちの世界でもだ。
引き際はしっかり見極めなければ、相手に付け入る隙を与えてしまう。生き延びるために何よりも重要なのは攻撃ではなく、潮時がどのタイミングなのかを見極める”目”だ、と私は結論付けている。
ゲパードを抱え、走った。客室の連なる通路を突っ切り、廊下の反対側にまで達したところで、私の背中をHK416に搭載されたフラッシュライトの光が照らし出す。
そうだ、追ってこい。
地獄の底まで。
絶望の深淵まで。
曲がり角へと滑り込んだのと、廊下の壁を5.56mm弾が穿ったのは同時だった。バキュキュ、と壁を銃弾が穿つ音。あれが自分の背中だったらと思うと背筋が冷たくなるが、しかしあんな連中に負けるつもりはない。
確かに練度は十分、装備も良い。もっとしっかり、時間をかけて訓練すれば良い兵士になるだろう。
そんな可能性の塊たちを、こんなところで、それもこんなくだらない理由で摘み取ってしまう事に、今になってほんの少し―――顕微鏡を使ってやっと見えるくらいの罪悪感を覚えた。
足音が近づいてくる。袋のネズミだと言わんばかりに標的を追い立てているような、そんな足音だ。
狩場を支配した気になっている猟犬たちの無粋な足音。
―――お前たち、何を履き違えている?
お前たちは猟犬なんかじゃあない―――罠の存在も見抜けず、身の丈も弁えない”駄犬”だ。
そして第一、私は狼。
狼とは常に、狩る側に在る者だ―――狩られる側に回るなど、絶対にありえない。
身の丈も弁えぬ駄犬には―――教育が必要だ。
足音が十分に近づいてくるのを待ち、予め仕込んでおいた起爆スイッチを押し込んだ。
客室の廊下、壁にいくつも等間隔に飾られた高価そうだった壺が立て続けに爆ぜ割れたのは、その直後だった。壊れかけの、しかし一流の職人が丹精込めて作り上げた創造物、その残骸はただ割れただけではない。
内側で生じた爆発―――それに押し出される形で、無数の小さな鉄球が飛び出したのである。
―――”クレイモア地雷”。
その名の通り、地雷の一種だ。飯盒みたいな見た目の容器の中に炸薬と無数の鉄球を内蔵、ワイヤーを使うか起爆スイッチを使用する事で起爆、敵兵に爆風と無数の鉄球を浴びせかけ殺傷する恐るべき兵器である。
それを廊下の客室の間の壁に飾られていた壺や絵画の裏、意味不明なオブジェの陰などに設置しておいた。いわばこの通路全体が加害範囲、私を追って廊下に足を踏み入れた時点で、奴らの死は確定していたのだ。
見なくても分かる。壁面を穿つ小さな鉄球の甲高い音の連鎖と肉の裂ける音、それらに遮られた小さな断末魔。左右のありとあらゆる角度から爆風と鉄球が迫ってくるのだから、防弾装備も意味を為さない。
これで背後の脅威は排除した、あとは……。
『いたぞ、こっちだ!』
『奴は……セロ・ウォルフラムか!』
ふう、と息を吐く。
撃て、という声が聞こえたのと、ゲパードGM6を構え、引き金を引いたのは同時だった。
ガンマンの早撃ちさながらに構えて放った12.7mm弾の一撃は、狭い通路の中に並んでいた兵士の胸板をぶち抜いた。ボディアーマーの上から胸板を穿ったその一撃は、1人分の人体を貫き粉砕してもなお持て余した運動エネルギーという名のドレスを纏い、その後ろにいた別の兵士の脇腹を食い破る。そしてそれでも十分な運動エネルギーを維持していた12.7mm弾の鋭牙は後続の3人目の兵士の腹を貫き、3人分の肉片を床の上にぶちまけた。
3人抜き―――狙ったわけではなく、ただ3人の兵士が並んでいただけという偶然の中で掴んだ結果であったが、しかし数では敵の方が上。今の射撃に度肝を抜かれながらも、逃げ場を断たれ、戦友を次々に殺された敵兵たちは怒りを滾らせて銃撃してくる。
チッ、と舌打ちをしながらゲパードGM6を少し傾けた。スコープの代わりに、接近戦になった時のために用意しておいたバックアップ用サイト―――オフセットしていたドットサイト、SIG ROMEO3を覗き込み、引き金を引く。
近くにあったテーブルを蹴り倒し遮蔽物にしていた敵兵の脇腹を、テーブルもろとも12.7mm弾が撃ち抜いた。
第二次世界大戦では戦闘機の撃墜に用いられ、米軍の試作型対戦車ライフルの弾薬として検討されていた弾丸だ。そんな薄っぺらいテーブルなんぞで威力を削げる道理もない。
が、さすがにこの室内戦で対物ライフルはさすがに分が悪い。一旦曲がり角まで後退して弾雨をやり過ごしつつ、銃を投げ捨てて背中に背負っていたもう一つのメインアームに持ち替えた。
AR-15―――室内戦を想定し、ホロサイトとフォアグリップのみを装着したシンプルなものだ。傍から見ればごく普通のARライフル、何の変哲もない銃に見えるかもしれないが、コイツの真価は使用弾薬にある。
そっと息を吐いた。
むせ返る程の血の臭いに火薬の臭い―――戦場の臭い。
狼の獣人ゆえに鼻が利き、だからこそそれは殊更意識させられる。
ああ、私は戦場の中に居るのだ。
弱肉強食―――弱い奴から狩られていく、原始的なルールのみが支配する戦場に。
ならばその摂理に従おう。
息を吸い込み、3つ数えた。
息を吐き出し―――迫ってくる足音に反応、物陰から飛び出しAR-15を構える。
ホロサイトのレティクルの向こうに、敵兵の驚いた顔が見えた。フェイスガードをしているので表情は分からないが、しかしその相貌は驚いたように見開かれていて、その驚愕は細かな仕草からも伝わってくる。
至近距離―――少し踏み込んで手を伸ばせばその指先が触れてしまうほどの至近距離で、AR-15が火を噴いた。
吐き出されたのは5.56mm弾の鋭利な切っ先……では、ない。
もっと太く、大きな弾丸だった。
5.56mm弾がレイピアの鋭い一撃なら、さながらこの弾丸―――”.50ベオウルフ弾”は本気で振り抜かれたスレッジハンマーとでもいうべきか。
重く、大きく、荒々しい至近距離からの一撃。対人用というよりは狩猟用に製造された巨人の如き一撃がボディアーマーに食い込むや、被弾した敵兵が目を見開き、フェイスガードの隙間から血を撒き散らしながら吹き飛んだ。
貫通は叶わないが―――しかし、いくらボディアーマーが使用者を弾丸から守るとはいえ、衝撃までは殺せない。9×19mm弾を受け止める衝撃だって、本気でぶん殴られるような激痛を伴うのだ。それが狩猟用、人体ではなく大型の獣を狩るための大型弾薬ともなればどうなるか、想像しただけで恐ろしい。
これは内臓逝ったな、と確信しながら素早く次の標的へと照準を切り替える。ホロサイトの赤いレティクル、それは死神の発する死刑宣告にも等しかった。
5.56mm弾では発しえない強烈な反動。レティクルの向こうでそれを胸板に喰らった敵兵が、まるで車に撥ね飛ばされたように吹き飛んだ。やはり弾丸は貫通していないが、それでも胸骨を砕き、肺や心臓を破裂に追い込むには十分だったらしい。
貫通するだけが全てではないのだ。
次々と標的を変え、撃った。
頭をフェイスガードもろとも叩き割り、腹を撃って内臓を破裂、死に至らしめる。
残り1発―――欠点を挙げるとすれば5発のみという極端に少ない弾数だろうか。
まあ、そこは仕留めるべき相手の選定とサイドアーム、あとは腕でカバーする他ないが。
至近距離での射撃を試みた敵兵のHK416をAR-15のストックで殴り飛ばす。銃口を逸らされたライフルが無意味に火を噴き、床、壁、天井に虚しく弾痕を穿った。
至近距離でメインアームを逸らされた敵兵が、咄嗟にホルスターの中のUSPへと手を伸ばす。が、これだけの至近距離ならばもうサイドアームに持ち替えるのではなく、文字通り”手を出した方が”速いというものだ。
右手をAR-15のグリップから離し、握りしめる。そのまま腰を捻り、肩を入れ、全体重を乗せた右ストレートを敵兵の頭へと叩き込んでやった。
ゴシャアッ、と何かが潰れる音。もしかして手の骨が逝ったのでは、と一瞬ばかり肝を冷やしたが、物理法則は私に味方をするつもりらしい。
顔面に叩き込んだ右の拳は、敵兵のフェイスガードの左頬あたりを大きくへこませていた。それだけで済んでいればいいのだが、加減せずに本気のパンチを撃ち放ったからなのだろう。グリズリーの如き一撃に敵兵の首の骨は耐えきれなかったようで、ぐるん、とそのまま180度回転し―――メキュ、と湿った袋の中で何かが折れるような気味の悪い音を断末魔に、敵兵はそのまま糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
呼吸を整え、大きく息を吐く。
戦闘中であるが故にアドレナリンが出ていたのだろう。身体も頭も冷静になっていくにつれて、防弾性のフェイスガードを思い切り殴りつけた右の拳が、壊滅的な激痛を私の脳へと突き上げてきやがった。
「いってぇー!!」
ああ、くそ。迂闊に敵を殴る物じゃあないな……。
すっかり静かになった廊下を見渡し、AR-15を肩に担ぐ。
死屍累々、とはこの事か。
動く事の無くなった敵兵たちを冷徹に見下ろし、言葉を手向けた。
「……駄犬が狼に勝てるわけないだろ」
高い授業料だったな、駄犬共。




