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圧政を打ち破れ


 その昔から、この国は他者に虐げられてきた。


 古くはモーゴル帝国、最近ではノヴォシア帝国、そして今は共産党。土は肥沃で作物に溢れ、麦の豊富な収穫量から”パンかご”とも言われてきたイライナ公国。しかしその歴史は他国からの侵略と抑圧で埋め尽くされている。


 だから私の父は、祖父は、そしてそれよりもずっと前の代の先人たちは、力の前に屈服させられる屈辱を知っている。圧政の窮屈さを知っている。そして何より、自由の尊さを知っている。


 それは私も、子や孫に語り継いできた。


 祖国は自由であるべきだ、他者の下にいるべきではないのだ―――受け継いできたその言葉を、単なる言葉だけで終わらせないためにも、私たちはこうして立ち上がった。


 抑圧を打ち破るために。


 子供たちに、隷属の苦しみを味わわせないためにも。


 イライナの国旗を掲げながら、老いた身体に鞭を打って前に進んだ。寒さと国旗のポールの重さに震え、今にも倒れてしまいそうな私を、後に続く友人や若者たちが支えてくれている。


 パンを寄越せ。


 薪を寄越せ。


 共産党はいらない。


 抑圧はいらない。


 侵略者は帰れ。


 痩せ細った民衆の叫びが、大通りに響き渡る。


 民衆の前に立ち塞がる、若い共産党の兵士と目が合った。


 私たちに銃を向けていたが、しかしその蒼い瞳には困惑している気配があった。自分たちは平等のためにここまでやっていたのに、なぜ否定されているのか分からない。もし彼に本音を口にできる余裕があったのならば、きっとその小さな唇はそんな言葉を紡いだだろう。


 上官に視線で彼が救いを求めると、指揮官と思われる中年の獣人が声を張り上げた。


「止まれ! さもないと撃つぞ! 構え!!」


 困惑していた兵士たちが、一斉に銃を構えた。


 守るべき民衆に銃を向ける―――その矛盾に困惑しているのは、他の誰でもない兵士たちだった。いや、サーベルを手に指揮を執る指揮官もそうだった。なぜこんな命令を出してしまったのか、他に何か手はあったのではないか。救いを求めるように震わせるその瞳が私の方をじっと見つめてきて、少しだけ哀れになった。


 さあ、撃てるものならば撃ってみなさい。


 どうせ老い先短い命―――いつでも、先立った最愛の妻の元へ逝く覚悟は出来ている。


 死ぬならば胸を張って死のう、と昔から決めていたのだ。


 だがしかし、撃つならば忘れるな。


 私たちを撃ったところで、イライナの民衆が歩みを止める事はない。


 我らの屍を踏み越えて、血の川を踏み締めて、彼らは前へ前へと進むだろう。


 その行軍がどれだけ永く辛くとも、その先に抑圧からの解放が待っていると信じて。


 さあ撃て、撃つなら撃ちなさい。


 腹を括りながら、妻の事を思い出していたその時だった。


 ガギン、と目の前の石畳に、1本の剣が突き刺さった。


 片刃で真っ直ぐな刀身―――いわゆる”直刀”のようにも見えるそれには、豪華な装飾は全くない。黒く、質素で目立たない、実用性だけを追求した武器のように思える。


 これは誰が放り投げたものなのか。分からないけれど、綺麗な剣だ。


 そう思っている間に、兵士たちの銃が白煙を発した。


 打ち下ろされた撃鉄ハンマー、その先端に取り付けられた火打石が火花を発して、火皿の中に火種が落ちていく。噴き上がった白煙は、点火用の火薬に火が燈った証拠だった。


 その瞬間は克明に見えた。


 充填された装薬に点火して、真っ白な煙を噴き上げながら弾丸が迫ってくる瞬間。


 ああ、オリガ。これが私の死の瞬間なのかい?


 運命を受け入れる覚悟はしてきた。君の元へ胸を張って逝く準備もしていた。だというのに、やはり死を目前にするというのは恐ろしいものだ。情けないけれど、私は怖かった。あの弾丸が命中して、風穴を開けられるのが。死の間際の苦痛が。


 けれども―――その瞬間は、訪れなかった。


「―――」


 いったい、どんな力が働いたがゆえなのだろうか。


 こちらに迫っていた弾丸の一団が、唐突に向きを変えたのだ。


 まるで家の屋根を、落ちてきた雨水が滑り落ちていくかのように。


 見えざる壁に受け流され、あらぬ方向へと逸れていった弾丸たちが、石畳に、街灯に、大通りの建物の壁に次々に命中して、荒々しい破壊の音を響かせる。石畳は割れ、街灯は傷つき、窓ガラスは粉々に砕け散ったけれど、そんな嵐のような破壊の只中にいた民衆の中に、被弾して倒れた者は1人としていなかった。


 いったい何が―――神の奇跡だとでもいうのか?


「見て、ママ。天使がいるよ」


 民衆の行進に参加していた幼い子供が、母親の腕の中で空を見上げながら頭上を指差した。


 見上げた先には―――確かに、天使がいた。


 教会のステンドグラスに描かれている天使の姿とは、だいぶかけ離れていたけれど……その人は確かに、天使なのだろう。


 鼻や両目、両耳から血を流し、蒼い電撃を纏う小柄な少女。身に纏ったコートの裾が風の中で踊り、広がり、さながら天使が翼を広げ、大地へと降臨しようとしているかのよう。


 ああ、あの子は……。


 間違いない、あの時のお嬢さんだ。私の店を訪れて、街の惨状を聞いて、カウンターにお菓子を置いて行ってくれたあの時のお嬢さんだ。


 あんなに心優しい理由が、今になって分かった。


 あの子はきっと、本当の天使なのだ。


 どういう力を使ったのか、アパートの屋上から飛び降りた少女は、石畳に叩きつけられる事なくふわりと舞い降りると、私たちの方を見渡しながら笑みを浮かべた。


「―――ああ、よかった」


 血の涙を流しながら、彼女は嬉しそうに言う。





「皆さん、無事ですね」


 












 よかった、みんな無事だ。


 民衆の先頭でイライナの国旗を持つのは、いつぞやのハクビシンの店主だった。老いてもなお丸くてくりくりとした可愛らしい相貌に映るミカエル君の姿はというと、まあ随分と酷い。顔中が血まみれで、耳からも血が溢れ出ている。


 魔力を使い過ぎた―――魔力欠乏症の症状が進行している。


 心臓の鼓動も不定期になっていて、一際大きな鼓動の後に頭の中の血管がはち切れそうになる感覚を覚える。これを無視して魔力を使い続けると、いよいよ命に関わってくる。


 身体中に磁界を発生させ、石畳に突き刺した慈悲の剣との反発を利用してふわりと降り立ったミカエル君は、酷使に酷使を重ね悲鳴をあげる肉体に鞭を打って慈悲の剣の長い柄に手をかけた。


 そのまま力いっぱい剣を引き抜いて、ついに民衆に向かって発砲するという一線を超えた共産主義者たちを睨みつける。


 お前たちは、それでいいのか?


 大切なのは民衆か、それとも欲望にまみれたイデオロギーか。


 一歩前に出ると、サーベルを手にした指揮官らしき獣人がそれに合わせて一歩後ろに後退った。


「そ、装填急げ!」


 その声で我に返ったのだろう、兵士たちがハッとした表情でポーチに手を突っ込み、火薬と弾丸の準備をする。


 さて……そろそろマジで限界が近いんだが、もうひと頑張りしますかね。


 頭が破裂し、心臓が飛び出しそうな激痛に必死に堪えながら魔力を最大放出。身体中の血管が断裂し、筋肉が爆ぜているような錯覚を覚えながらも魔力波形を調整。放出した魔力を前方へと集中させ、とにかく今の俺にあるだけの力を振り絞って巨大な磁界を発生させる。


 血の涙が更に溢れたところで、兵士たちが手にしていた小銃に異変が生じた。


「な、なんだ!?」


「銃が……吸い寄せられて……!?」


 彼らの手からマスケットが吸い上げられたかと思いきや、空へ―――そう、ちょうど俺が磁界を発生させた場所へと吸い上げられ、そこで吸い上げた小銃を複雑に組み合わせたようなオブジェへと姿を変えていったのである。


 共産党の兵士たちから金属製の武器が全部取り上げられ、瞬く間に丸腰になっていく。やがて民衆を脅すための武力を取り上げられた共産党の兵士たちはというと、指揮官が逃げ出したのを合図に、一目散に逃げだしていった。


 今まで民衆を抑え込んでいた武力を取り上げるだけで、何ともまあ脆いものか。


 逃げていく彼らの背中を見送って笑みを浮かべたが、しかしミカエル君も相当無茶をしている。視界は紅く霞み、身体中が激痛を発し、少しでも気を抜いたらぶっ倒れてしまいそうだ。


 剣を杖代わりにして歩きながら、大通りの脇に乗り捨てられた車の傍らまで何とか歩く。半ばぶっ倒れるようにして座り込むや、民衆の中から何人か、俺の方に駆け寄ってきてくれた。


「お嬢ちゃん、大丈夫か!?」


「凄かったよ! 君は俺たちの命の恩人だ!」


「あれは魔術なのかい!? 俺には神の奇跡にしか見えなかったよ!」


「ちょっと男共、やめなさいよ! ねえ大丈夫? かなり無理をしたんでしょう?」


 何度か咳き込み、ハンカチで血を拭いてくれている女の人に笑みを作りながら言った。


「ありがとう……だ、大丈夫です。少し休んだらよくなる……から……」


 ああ、ダメだ。頭がぼーっとしてくる。


 意識を手放してしまいそうになる中、それでも鮮明に聞こえ、見えたものはある。


 それはイライナ公国時代の国歌を歌いながら、食糧保管庫へと行進していく民衆の姿。


 よかった―――みんな、無事だった。


 守る事が出来たんだ……今度こそ……。


「―――ミカ、よくやった」


 誰だろう、聞き覚えのある声がする。


 小さい頃、散々互いに貶し合ってた相手。時には憎たらしく、しかし今は頼もしい、血を分けた兄弟の声。


 停滞しつつあった脳味噌がそこまで考えを巡らせたところで、それが誰なのかを理解した。


 ああ、兄さんだ。


 マカールおにーたまだ。


 憲兵隊の冬服に身を包み、背中に単発式の小銃を背負ったマカールおにーたまが、乗り捨てられた車に背を預けたまま倒れそうになっている俺の身体を支え、心配そうに、けれども力の限り戦った弟を労うような表情で、俺の顔を覗き込んでいた。


「ここからは俺の役目だ。後は任せろ」


「……ええ……お願いします、兄上」


「ああ―――よーし、イヴァンとイゴール、グリシャの班はこのまま前進! いいかお前ら、民衆を死んでも守れ!」


 部下たちにてきぱきと指示を出していく兄上の声を聞きながら、そっと目を瞑った。


 拙いなあ、今回はちょっと無理をし過ぎた。


 こりゃあクラリスに怒られる……。












「シスター、後退だ! 道を空けろ!」


『了解!』


 ギアを後進に入れたBTMP-84-120がディーゼルエンジンを唸らせながら後退、今まで塞き止める形で布陣していた食糧保管庫の正門前を明け渡す。


 招き入れるのは共産主義者ボリシェヴィキのクソ野郎共などではない。圧政を打ち破らんと立ち上がった、勇敢なイライナの人々のためだ。


 道が空いたのを見るや、走る体力がある若い奴らが一斉に走り出した。開け放たれた正門から食糧保管庫に突入するや、我先にと扉やシャッターを押し退けて、中に保管している食糧のコンテナを強引にこじ開けていく。


 さすがに食料を独り占めしよう、という略奪じみた事は起こらなかった。


 過酷な冬を前に、苦しんでいるのは誰もが一緒だ。特に老人や女、子供に優先して食料を分け与えていく彼らの姿を、俺はBTMP-84-120の砲塔から身を乗り出して見守っていた。


 それにしても皮肉なものだ。


 ロシア革命では、抑圧に耐えかねた民衆が共産党を支持しロシア帝国が終わり、ソビエト連邦の時代が始まった。帝政ロシアを、彼らの革命が終わらせたのだ。


 革命で勝利を勝ち取ってきた共産主義者ボリシェヴィキが、彼らの抑圧に耐えかねた民衆に反旗を翻され、放逐される―――随分とまあ、皮肉の効いた結末だ。


 食料や燃料を奪還する民衆の様子を、俺はしばらく眺めていた。


「……それでパヴェル殿、これからどうするつもりだ」


 九九式歩兵銃を背負い、砲塔に寄り掛かりながら訪ねてくるのは範三だ。彼も多くの民衆を飢えから救い、圧政を敷く共産党を打ち倒した事を誇りに思っているらしく、硝煙の染み付いたその顔は随分と達成感に満ちているように見えた。


「まあ、俺たちが共産党放逐の立役者なんだ。その事は街の民衆も理解してるだろうよ」


「ふむ……まあ、それなら補給も何とかなるか」


「そういう事だ」


 吸うか、と葉巻を範三に差し出すと、彼は首を横に振った。そういやコイツ喫煙者じゃないんだな、と少し寂しくなりながら、いつものお気に入りのトレンチライターで葉巻に火をつける。


 とにかく、今日という日は歴史に刻まれるだろう。


 イライナの民衆が圧政を打ち破った記念すべき日として。


 この結果に導いたのはお前だよ、ミカ。


 だから―――胸を張って帰ってこい。




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― 新着の感想 ―
[良い点] ミカエル君、本当にこの地に住まう民衆の守護天使になりましたね…無理をさせすぎた自らを除けば、誰一人血を流させず、この土地の財産をこの地に住まう人々に手渡したのですから。 マカール兄貴もいい…
[一言] あぁ良かった… ミカエル君生きてたよ… ただ、ここのところちょっと無理をし過ぎでしょう。 流石に物語の主人公がマジモンの天使になっちゃったら洒落になりませんて。
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