ストレリツィ、前線へ
東の国には『腹が減っては戦は出来ぬ』という言葉があるらしい。
まさにその通りだ。兎にも角にも、この空腹感とは末永い付き合いになりそうだ。そう思うだけで億劫になってしまうし、共産党とはもしかしてとんでもない泥船で、俺はそれに乗り込んでしまったのではないか、という後悔すら覚える。
もちろん、そんな事を堂々と公言するわけにもいかない。もし間違ってでもそんな事を口にしてしまったら、戦友に密告されて上層部の耳に入り、俺は”平等を否定し富の独占を目論むブルジョア”として認定され粛清リストに載ることだろう。共産党の理念には共感するが、そこには常に暴力の気配が漂っている。
まあいい、空腹には慣れている。実家はノヴォシア西部の小さな農家で、一日一食というのもよくある事だったからだ(食事が無くその辺の雑草で飢えをしのぐこともあった)。
見張りの交代時間まであと2時間。配給のコーヒーはまだ残っていたし、あと2時間耐えればこの馬鹿みたいに冷たい風から解放される、というわけだ。
ノヴォシアの冬はとにかく寒い。まだ秋だというのに気温は急激に低下し続けており、既に吐き出す息は白く濁り、頬はまるで無数の針に突き刺されているかのような感触に苛まれている。これが今月の下旬になり、本格的な降雪が始まればさらに地獄になる。
毎日除雪作業をしてもすぐに雪は降り積もる。やがて除雪作業も追い付かなくなり、線路も道路も全てが雪に閉ざされ、国内すべての物流が停止する地獄の冬がやって来るのだ。そうなれば春から秋までの備蓄でやりくりしなければならず、備えの不足は死を意味する。
『ノヴォシアの冬は人を殺す』、『働き者のみが勝利する』……冬への備えを促す言葉は、この国には古くから存在する。
とはいえ、冬が牙を剥くのは我々ノヴォシア帝国の民だけではない。侵略者に対しても例外ではないのだ。76年前、フランシス共和国のナポロン将軍がノヴォシアに攻め込んできた時も、連中はこの国の冬に耐え兼ね多くの脱落者を出しながら逃げ帰った―――歴史書にはそう記されている。
勝利のためには我慢が必要だ。今はこうして皆が飢えている(まともに飯を食っているのは上層部くらいだ)が、春になって畑に種を蒔けば、きっと状況は良くなる筈だ。そうなるまで、今はなけなしの黒パンとジャガイモで何とかするしかあるまい。
空腹感を何とか押し込めつつ、交代時間はまだかなぁ、とぼんやり考え始めた辺りだったか。
リュハンシク市の外周部、北部に広がる平原のはるか向こうに動くものが見えたのは。
「……?」
トラックだろうか。
オリーブドラブに塗装されたトラックの車列だ。
共産党本部から支援物資でも届いたのかな、とは思った。もしそうならばありがたい話だけど、しかし今日そんな物資の配達があるなんて話は聞いていない。
不審に思い、首に下げていた双眼鏡を覗き込んだ。限界までズームアップすると、泥で微かに汚れたレンズの向こうに見えたのは共産党のシンボルマークである”鎌と金槌”などではなかった。
今、一番見たくないエンブレム。
白、赤、青のトリコロールカラーを背景に、翼を広げた双頭の竜―――ノヴォシア帝国の国旗のように見えるが、よく見ると双頭の竜の手には盾と剣が握られており、足元には『ノヴォシア帝国騎士団』と記載されたリボンがある。
「そんな」
ノヴォシア帝国騎士団―――あれは友軍などではない。
何という事か。今までは我々を民兵組織と侮り、武力をちらつかせて圧力をかけてくるばかりだった連中が、今になって重い腰を上げたとでもいうのか?
やがて車列は停車し、幌のかかった荷台からは小銃を手にした厚着姿の兵士たちがぞろぞろと降りてくる。瞬く間に隊列を成したそいつらの先頭には、大剣を背負った金髪の女騎士の姿が見える。
肩にあるのはノヴォシア帝国騎士団特殊部隊『ストレリツィ』のエンブレムと、どこかの貴族の家紋。よくある貴族の子供がそのまま騎士団の指揮官に就任したパターンなのだろうが……何というか、その女は気迫が明らかに違う。親の七光りで昇進した他の貴族とは違って、全てを実力で勝ち取ってきたような……逆境に晒されながらも打ち勝ち今の地位を手に入れたような、そんな貫禄があった。
いずれにせよ、これは同志たちに報告しなければならない。
そう思い振り向こうとした時だった。唐突に後ろから伸びてきた手が俺の口元を押さえつけてきたのは。
「―――」
後ろに誰かいる、と理解して暴れようとしたが、背後に忍び寄った暗殺者はそれすら許してはくれない。
暴れようと腕を振り回すよりも先に、すっ、と冷たい何かが喉元をなぞっていく感触がした。次の瞬間には熱く、鉄臭い何かがその軌跡に倣うように迸り、ああ、喉元を切り裂かれたのだという事を理解する。
急激に身体から力が抜けていき、脳も痛みを正確に知覚できなくなっていく。急激に意識が薄れ始め、故郷に残してきた母の顔を思い浮かべた俺が最後に目にしたのは―――大昔のペストマスクのようなもので顔を覆い、黒い服に身を包んだ現代の死神の姿だった。
『ジュテェェェェェェェェェェム』
「―――ソコロフ大尉がやってくれたようですな」
双眼鏡を覗き込んでいた副官のヴォロディミルがそう報告するが、私には分かりきった事だった。こうして腕を組みながら目を瞑っていても、何が起こったのかは理解できる―――というより、期待した通りの結果となった。
そうでなければ、ストレリツィは務まらない。
「さすがは”モスコヴァの黒い霧”、と言ったところですかな」
「ソコロフならやるさ」
―――”リキール・リキヤノヴィッチ・ソコロフ”大尉。
隠密行動を得意とする、特殊部隊『ストレリツィ』の一員。誰にも知覚されずに防衛線を突破する術に長けており、一度気配を消せば誰にも見つけられない事から”モスコヴァの黒い霧”の異名を持つ潜入のプロである。
一説によれば、彼の家系は倭国から渡ってきたニンジャの一族だそうだが……?
まあいい、いずれにせよ監視所は落ちた。
くるりと後ろを振り向く。私の後ろにずらりと整列した兵士たちは、最新式の単発型小銃を抱え、進撃開始の命令を今か今かと待ち受けているところだった。
まるで猟犬だ、と思う。
獲物の血肉を欲し、早く早くと牙をぎらつかせる猟犬。一度手綱を離せば、獲物を仕留めるまで執拗に追い立て続けるであろう。
彼らはまさにそういう存在だった。
「少将殿、ご命令を」
「前線に行くのが待ち切れません」
まるでピクニックに行くのを楽しみにする子供のような無邪気な笑みを浮かべながら、兵士たちは口々にそう急かす。
彼らは戦いを渇望しているのだ。
赤子にとって母親の腕の中が最も安らぐ場所であるというならば、彼らにとっては砲火が飛び交い血肉が散らばる戦場こそが心安らぐ場所なのであろう。確かに平和は尊いものだし、それを望む人も多い事は分かっているが、地獄のような戦場の中でしか生きられないような人種もまた存在するのである。
私もそうだ。定期的に戦場が欲しくなる。
だから参謀本部への招集を断った。勲章をちらつかせた交渉もあったが同じく断った。
帝国騎士団の勲章は良い。投げると遠くまで飛ぶ。
「ソコロフ大尉が突破口を開いた。これより我々はリュハンシク市へ突入、敵を殲滅する」
「交戦規定は」
「敵は殺せ、市民は殺すな。あと降伏の意思がある者は生け捕りにしろ」
生け捕りにした暁には、共産党についての情報をこってりと搾り取ってやらなければ。皆殺しでも良いが、それでは得られる情報も少ない。上層部も単なる包囲殲滅は望んでいないだろうし、勝利のちょっとしたついで、手土産になればいいだろう。
我らストレリツィは勝利する事こそが当たり前だ。敗北、引き分けなど論外なのである。
常に良い結果を出し、祖国を栄光へと導く事。それこそがストレリツィの存在意義。
「これより突撃を敢行する。総員着剣」
命じるや、整列した兵士たちが一斉に腰の鞘に手を伸ばした。中に収まっている両刃の短剣(短剣と言っても40㎝はある)を引き抜き、小銃の銃口付近にある着剣装置に装着。しっかりと固定したのを確認し、さながら槍のように銃を構えた状態でぴたりと静止する。
機械のような一糸乱れぬ動きは、日ごろの鍛錬の賜物であろう。
ストレリツィの隊列の後方に控える第七大隊の兵士たちも同じように銃剣を装着するが、その動きはストレリツィのものと比較すると遅い。
「さあ征くぞ。貴様ら、地獄の果てまでついて来い」
前進、とヴォロディミルが命じるや、銃剣付きの小銃を手にした兵士たちがゆっくりと前進を始めた。
目指すはリュハンシクの制圧だ。今までは穏健派の連中が見逃してきた共産主義者共だが、今回は違う。奴らはこの帝国の中に蔓延る病巣だ。徹底的に摘み取ってやろう。
誰かが軍歌を歌い始めた。
しかも選曲は『イライナ行進曲』。圧政に立ち向かう戦士たちの姿を称えた歌で、イライナ公国時代から謳われていた曲だ。しかし歌詞がノヴォシア帝国への半ば強制的な併合を想起させる事、そしてイライナ独立派の象徴的な歌である事もあって、ノヴォシア帝国では歌ったり演奏する事が明確に禁じられている軍歌である。
だが、士気が限界まで高まった兵士たちにそんなものは関係なかった。勇ましく、しかしどこか悲し気な歌声は瞬く間に隊列に伝播して、ついには大合唱が始まる。
気が付いたら私も口ずさんでいた。
後ろに続く第七大隊の兵士たちはストレリツィの隊列に続きながらも困惑するばかりだ。あまりにもの両者の温度差に、見ているだけでヒートショックを引き起こしてしまいそうなほどである。
まあ、それでも良い。前に出て血飛沫を浴びるのは我らストレリツィの役目。実力で地位を勝ち取り、ここまで上り詰めてきた者たちの特権だ。温室育ちの貴族出身が多い第七大隊の連中は後ろで指を咥えて見ていればいい。
最前線に我ら在り。
弱者を嬲る事しか能のない連中に教育してやろう。
本当の戦争というものを。
敵を殺せぬ鉄砲、というのは奇妙なものだ。
一度火薬に火をつければ、飛び出した鉛弾は確実に敵の命を奪う。倭国においてはそれが当たり前で、戦国時代でもそうだった。武田の騎馬隊が大損害を被った長篠の戦いが良い例だ。
飛び出してきた共産党の兵士の足を狙い、某は引き金を引いた。九九式小銃から放たれた7.7mm弾が敵兵の脛を直撃するが、血は流れない。代わりにまるで鉄の棒で思い切り殴られたような叫び声をあげ、その兵士は床に転がった。
「う゛ぁ……ぁ……ッ」
脛を砕かれ、戦闘不能となった兵士の手元にある拳銃をはるか向こうへと蹴り飛ばし、槓桿を引いて薬莢を排出、次弾を装填。
銃は刀に次ぐ、某の第二の矛だ。故に何度も鍛錬を繰り返してきた。銃を握っている夢を見る程に、だ。それゆえパヴェル殿やミカエル殿、クラリス殿ほどではないが、それなりに上手くなったのではないかとは思っている。
さて、この九九式小銃の弾薬であるが、使っているのは通常弾ではなくゴム弾。命中しても相手の肉体に風穴を穿つ事なく、単純な痛みで悶絶させることで無力化に追いやる事を企図した弾丸だ。他の仲間たちが使っているのもこれか麻酔弾で、パヴェル殿が九九式小銃用のものを用意してくれた。
曰く「命中すれば骨折は確実」との事だ。だから狙うべきは腕や脚といった、骨が折れても致命傷になりにくい部位。頭部への射撃はご法度である。
「こっちだ、急げ!」
「!」
保管庫の通路の向こう側から走ってくる兵士の存在に気付き、すぐさま引き金を引いた。
照準を合わせる瞬間、周囲の音が全て聞こえなくなる錯覚を覚える。そこにあるのは某と標的のみ。それ以外の全てが、その瞬間だけあらゆる五感から締め出される。
だがしかし、それも束の間の出来事だ。
次の瞬間には銃声が響き、それを合図にその錯覚も泡沫の如く消え去る。
弾丸がまたしても敵兵の脛を直撃。被弾した兵士は目を見開き、やがて押し寄せる激痛に歯を食いしばりながら両目をぎゅっと瞑って、まるで地獄の鬼のような唸り声を発するのみとなった。
これで何人仕留めたか。
槓桿を引いて薬莢を排出、挿弾子を取り出して弾丸を装填しながらそう思う。数えてはいないが、かなりの数の兵士の肩や脛を砕いて戦闘不能に追いやってきた。これが戦国時代であれば、仕える主君から褒美を賜っていたであろう。
くるりと後ろを振り向くと、そこには異様な光景があった。
床に倒れ悶絶しているのは、某が戦闘不能に追いやった敵兵だ。肩や脛の骨が折れては戦えまい。
それはいい、それは分かる。
しかし異様なのは、その天井だった。
天井から人間の首から下が”生えている”とはどういう事だろうか。
ぷらーん、と首を天井にめり込ませ、ゆらゆらと揺れている共産党の兵士たち。そんな彼らを見上げ、まるで一仕事終えた農夫のように額の汗を拭い去っているのは、某と共に食糧保管庫の内部を制圧する任を帯びたリーファ殿だ。
「ふー、いい汗かいたネ~」
「……お、おう」
”ぱんだ”とは、中華に生息する熊の仲間なのだそうだ。白と黒の体毛を持つ大型の獣で、なかなか愛らしい姿をしているものの、その本質は猛獣であるという。
まあ、何が言いたいかと言うと……うん、リーファ殿は敵に回さないようにしよう。
だって熊こわいもん……。




