スターリンの誘い
今にも雪が降って来そうな鈍色の空の中に、かつてはガリヴポリ市の議会が設置されていたであろう議場が見えてきた。
冷たい風の中で揺れるポールには、ガリヴポリ市の紋章とノヴォシア帝国国旗、そしてイライナ公国時代の国旗がはためいていた筈だけど、今はそれは見当たらない。
代わりに金属製のポールの先端で揺れているのは、まるで血で染め上げたかのような赤い旗だ。金槌と鎌が交差していて、その上には星が描かれている。
ノヴォシア共産党のシンボルマーク―――そしてそれは、奇しくもかつての旧ソ連と全く同じデザインだった。
共産党内部にも転生者が居るのかな、とぼんやり考えている間に、ニコライの乗るセダンに誘導されたケッテンクラートは議場の正門(マスケットを持った兵士が警備してやがる)を通過し、裏手にある駐車場まで進んでいた。
セダンの隣にケッテンクラートを停車させたクラリス。我慢してくれよ、と彼女に祈りながら後部座席を降り、俺たちを取り囲むように立つ兵士たちを一通り見渡してから、ニコライの後についていく。
どうやらここで、彼らの言う”同志スターリン”が待っているようだ。前世の世界のような冷酷な独裁者でない事を祈りたいものだが、街の惨状を見ているとそれも望み薄と言ったところか。
痩せ細った街の住人達と比較して、議場の中を警備している兵士たちはなかなかがっちりとした体格をしていた。中にはひょろりとした、蹴ったら枯れ枝の如く折れてしまいそうな奴もいたけれど、大半が食べ物に困っていないかのような身体つきをしている。
さぞ、良い物を食べているのだろう。
何の罪もない市民から強制徴収した食料で作る飯は美味いのだろうか?
「おかしな真似はするなよ、冒険者」
前を歩いていたニコライが、唐突にそう言った。
俺の視線を見ていたのだろう。警備兵の人数と脱出経路を探るような動きから、何を考えていたのかを言い当てたに違いない。
なるほど、ニコライもなかなかのやり手のようだ。パヴェルにビビりまくっていた姿しか見た事がなかったから大した事がない、と見下していたが……こいつも脅威となり得るか。
階段を上って2階へと進み、奥にある部屋の前まで案内される。議場で市の運営について議論する立場の大貴族が執務室として使っていたのであろうその部屋は、プレートが外され、今では共産党のお偉いさんのための部屋と化しているようだ。
そして部屋の前には警備兵が2人。どちらも腰に旧式のペッパーボックス・ピストルとイライナ伝統の刀剣”シャシュカ”を下げ、部屋の前を訪れたニコライを敬礼で出迎えている。
「武器の類はこちらで預かろう」
「クラリス」
従ってくれ、と小声で告げると、クラリスは腰のホルスターに下げていたグロック18を取り出し、それを警備兵に手渡した。
俺も触媒である”慈悲の剣”とハードボーラーを警備兵に預け、これでいいか、とニコライを見上げる。
「……よろしい、同志スターリンがお待ちかねだ」
その言葉を合図に、警備兵2人は扉を開けた。
真っ赤な絨毯が敷かれた部屋には、いかにも貴族が好んでいそうな応接用のソファとテーブルがある。贅沢を好む者を嫌うような発言をしておいて(ブルジョアだのなんだの)、ここで質素な部屋が広がっていたならばまあ、少しは好印象を持ってやっても良かったのだが、結局は平等だの何だの耳障りの良い言葉を並べ立て、従わない者は暴力で脅す低俗な連中なのだ、とミカエル君は結論付ける。
自分の視線が冷めたものになるのがはっきりと分かった。
そんな部屋の奥にあるデスクで待っていたのは、まるで巨人のような大男だった。明らかに身長は2mに達していて、厚着の上からでもがっちりとした、筋骨隆々の肉体がそこに収まっている事が窺い知れる。
パヴェルよりでけえ。
カーキ色の制服と大きな軍帽を身に着けたその巨漢こそが、彼らの言う”同志スターリン”なのだろう。おそらくはクマ系の獣人だとは思うが……。
「……やあ、君がミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフか」
「……」
何も言わず、クラリスを連れて部屋の中に足を踏み入れた。
俺1人を連れてくるよう命令していたのだろう。隣にいるメイドのクラリスに視線を移し、訝しむような顔をするスターリンだったが、文句あるか、という意志を込めた目で睨んでやると「まあいい」と小声で彼は言った。
「座ってくれ。紅茶は好きかね?」
「生憎コーヒー派でね」
「ふむ……同志ヴォロチェンコ、同志リガロフにコーヒーを」
「はっ」
同志……リガロフ?
来客用のソファに腰を下ろしながら、今度はミカエル君が訝しむような顔をした。一体俺がいつ、ノヴォシア共産党とかいう圧政者の巣窟みたいな政党に入党したのだろうか。同志、と付けて呼ぶという事はつまり、そういう事だろう。なんか勝手に共産主義者認定を喰らっているのだが、これはどういうことか。
ポケットの中に手を突っ込み、スマホの録音モードをオンにしておく。戻ったらパヴェルへの報告に使わせてもらおう。”議事録”はちゃんと残しておかなければ。
ちらり、と視線を後ろに向けた。クラリスはソファには座らず、俺の背中を守るように後ろに控えている。徒手空拳とはいえ、彼女の戦闘力は折り紙付き。パヴェル、リーファ、範三と並んで血盟旅団トップクラスの戦力である。ぶっちゃけ、彼女が一緒にいてくれればどんな敵にも負ける気はしない。
移動式の要塞がすぐ後ろに控えているような安心感があるが、しかし彼女にばかり頼ってもいられない。
やがて、さっき俺たちをここまで誘導してくれたニコライがアルミ製のトレイを持って現れた。上に乗っているコーヒーカップを2つとティーカップを1つ、それからジャムの乗った小皿を1つテーブルの上に置くと、深々と一礼してから後ろに下がっていく。
ミカエル君は別に地獄耳とかそういうわけではないのだが、コイツが今ミカエル君を見下ろしながら舌打ちしたのは聞き逃さなかったからな。全身の全細胞、全二頭身ミカエル君ズも聞いてたからなコラ。
コーヒーは俺とクラリスの分、紅茶はスターリンの分のようだった。
すぐにコーヒーには手をつけない。ノヴォシア共産党の連中は何をするか分からない。もしかするとコーヒーに何か薬でも入ってるのではないか、という警戒心もあったから、コーヒーカップを手にすらしない。
別に何も入れてないよ、とでも言わんばかりに、スターリンはティーカップを口へと運んだ。茶葉の香りを楽しんでから口に含み、小皿の上のジャムをスプーンで直接口に放り込む。ノヴォシア地方ではああやって紅茶を楽しむのだそうだ。紅茶に入れて飲むのはイライナ地方の飲み方なので、こういう習慣でどこの出身者なのかが分かってしまう。
でも、前世の世界だとスターリンはロシア人ではなく、今のジョージア出身だった気がする……。
「まずはまあ、いきなり呼びつけて申し訳ない。どうしても君に会いたくてね」
「……俺に?」
「ああ。覚えはないかね? 昨年のザリンツィク、赤化病の蔓延で多くが苦しんでいた街で起こった略奪を」
……何でコイツがそれを知っているのだろうか。
監視されていた?
ザリンツィク、略奪、そして俺を呼びつけた事……間違いなく、スターリンはその強盗の犯人が誰かを知っている。そうじゃなきゃ俺をこんなところに呼び出そうとはしないだろう。
コイツが言っているのは昨年のザリンツィクで敢行した、バザロフ家の強盗作戦の事だ。銀行でバザロフ家の資産のみを強奪し奴らを挑発した第一段階、そして増員された警備兵に紛れて屋敷に潜入、疫病蔓延の証拠と資産を盗んで止めを出した第二段階。前例のない二段構えの強盗作戦で、大貴族の1人が失脚に追い込まれた一連の事件は連日のように報じられ、未だに犯人は捕まっていない……というのが、今のメディアでの常識だ。
なるほど、話が見えてきた。何で俺が呼び出されたのか、その理由が。
「弱者から富を搾取する事しか能がなかったバザロフを誅し、貧困に喘ぐ人民に救いの手を差し伸べた義賊……その頭目、ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフ。強きを挫き弱きを救うその姿は、まさに我ら共産党の理念と一致するとは思わないかね?」
「……は?」
声を発したのはクラリスの方だった。
そりゃあ意味も分からないだろう。いきなり呼びつけられたかと思いきや、何の縁も所縁もない組織から”アンタのやった事はウチの理念と同じだよ。アンタはもう仲間だ!”的な事を言われれば困惑もする。
やめな、とクラリスを軽く肘で小突くと、クラリスは小さく頭を下げた。
ゴホン、と咳払いをするスターリン。こっちも一応空気を呼んで咳払いを返しておく。
「知っているかどうかわからんが、我がノヴォシア共産党はこの国を変えるべく革命を起こそうとしている。貴族や皇帝の腐りきった尻を蹴り飛ばし、農民や労働者が主役となる新たな国家に生まれ変わらせるのだ。贅沢はこの国の病巣、それを取り除かなければ偉大な祖国に未来はない」
「……それで」
何が言いたい、と結論を急かすように問いかけると、紅茶を飲んでいたスターリンはそっとティーっカップを置いた。
「同志、君には是非とも我がノヴォシア共産党に加わっていただきたい。ザリンツィクでの革命的強盗、そして何より貴族の庶子というどん底から這い上がってきた君だからこそ、貧しい人民にその行動は、言葉は、そしてその姿はより深く染み渡るだろう」
「……」
結局のところ、人をプロパガンダに使いたいから入党しろ、という話なのだろう。アンタ凄いよ的な言葉でゴテゴテとまあ飾っているが、余分なところを削いで削いで削ぎ落していけば、残ってしまうのはそんな下心丸見えの要求だけだ。
「君は今まで、さぞ苦労してきただろう。貴族の家に望まれぬ命として生まれ、きっと誰からも愛情を注がれずに育ってきたに違いない」
4割くらいは合ってるが……なんだろうな、無性に腹が立つ。
クラリスだったら今頃右ストレートが火を噴いてる筈だ。その気になればティーガーⅡの正面装甲を至近距離から貫通してそうな拳が。
そんな戯言はさておき、コイツが俺の何を知っているというのか。確かに貴族の家に”望まれぬ命”として生まれたというのはまあ、合っている。クソ親父もそう思っていただろう。母さんにとっても同じかもしれないが。
だが、誰からも愛情を注がれずに育った、というのは大間違いだ。
少なくとも母は、俺を自分の子として扱ってくれた。俺に生まれた意味をくれた。
苦労もしたし、差別も受けた。望まれぬ命として存在しない者のような扱いも受けてきた。しかしそれでも、そんな理不尽に屈することなく生きてくる事が出来たのは、他でもない母のおかげなのだ。母に支えられてきたからこそ、今の俺がある。
それを、何も知らないアカの他人に”誰からも愛情を注がれなかった”だなどと断じられて気分がいいわけがない。
まったくもって不快極まりない。
「しかし、安心してくれたまえ。我々ノヴォシア共産党こそが君の居場所だ。君の名前の由来となった”大天使ミカエル”……まさに君は革命の天使として、我らが共産党に加わるために生まれてきたようなものなのだ」
落ち着けミカエル君、キレるなキレるな。
激昂した二頭身ミカエル君が脳内のブチギレスイッチを押そうとするが、それを他の3人の二頭身ミカエル君ズが必死に押し留めている……あ、1匹寝返った。
「さあ、我々と共にこの帝国に革命を起こそうじゃあないか!」
「お断りだ」
「……?」
熱弁を振るっていたスターリンが、凍り付いた。
なるほど、確かに彼には演説の才能でもあるのかもしれない。自分でもそれは自覚していただろうし、自信もあったのだろう。そうじゃなきゃノヴォシア共産党の理念を、冬を前に苦しむ人々に語り、一度だけとはいえ共産党に鞍替えさせる事なんてできなかっただろうから。
でも残念ながら、ミカエル君にそれは逆効果だ。
貴族の庶子、というだけでマイナスのイメージを持たれるのはまあ、認めよう。でも俺の場合は家庭の事情が複雑なのだ。何も知らない第三者が首を突っ込もうものならば、そのまま首を食いちぎられてしまうほどに。
「まず第一に、俺は共産主義には何の興味もない。ザリンツィクの強盗が弱者に救いの手を差し伸べるためだった、というのは認めよう。でもそれがブルジョアを誅するためだったなんて事はない」
目を細めたまま凍り付いたスターリンの顔を見つめながら立ち上がる。
「平等だのなんだの、小綺麗な言葉ばかり並べ立て、人民から徴収して食う飯はさぞ美味いだろう、スターリン? 悪いが俺には、アンタら共産主義者がヒトの皮を被った悪魔に見えるよ。そんな連中のプロパガンダに手を貸すなんて御免被るね」
わなわなと、スターリンの手が震えているのが分かる。
こいつらと戦端を開くつもりはなかったが―――かといって、軍門に降るつもりもない。降りかかる火の粉を払い除けねばならないというのならば、それは仕方のない事だろう。
パヴェルだって……アイツだって、きっとこうした筈だ。
「悪いが、この話は無かった事にしてくれ。それじゃ、俺たちはこれで」
行くぞ、クラリス……そう言って彼女を連れ、部屋の出口へと向かった。ドアを開け、警備兵が預かっていた武器と魔術用の触媒を返してもらい、そのまま堂々と建物の外を目指す。
階段を降り、エントランスに差し掛かった辺りだったか。ガチャァンッ、と食器をぶち割るような音が聞こえてきて、おーおークマさんが荒ぶってるわ、と内心で笑みを浮かべた。
駐車場のケッテンクラートに跨り、エンジンをかけるクラリス。俺も後部座席に乗り込む……前に、一通り車体を調べておく。
共産主義政権の下では監視と密告が日常茶飯事。隙を見せたら死ぬ日常なのだ。鉄のカーテンの向こう側はそんな殺伐とした世界である。
そういう知識があったからこそ、慎重になれた。
「……」
後部座席に積み込んでいるツールボックスの中に見慣れない小さな機械があったので、とりあえずそれを隣のニコライが来る時に乗っていたセダンのバンパーにペタリしておく。どうせ盗聴器とか発信機とか、そういう類の機材だろうな。
武器も点検したが、他にそれらしいものは何も見当たらない。
行っていいぞ、という意味を込めて車体を軽く叩くと、クラリスはいきなりフルスロットルでケッテンクラートを走らせ始めた。
「カッコよかったですわ、ご主人様」
ケッテンクラートを走らせながらクラリスが言う。
「あの大熊のような相手に、臆する事のない凛とした反論。それでこそクラリスのご主人様ですわ」
「……いや、だいぶ怖かったんだけどね」
足、震えてる。
ハクビシンは臆病な性格の動物だ。だからどう間違っても、相手と真っ向からぶつかるような真似はしない。それがヒグマとかグリズリーのような、はるかに格上の相手であればなおさらである。でも威嚇はする。
さて……と後部座席で一息つきながら、ハードボーラーのマガジンを抜いた。スライドを引いて麻酔弾も排出、それらをポーチに戻してから、代わりに紅いラインの引かれたマガジン―――実弾が装填されたマガジンをグリップに挿入、スライドストップを下げてスライドを所定の位置まで全身させ、初弾を装填する。
パヴェルも言っていた事だが、共産主義者―――というか、権威主義的な人物はメンツを潰される事を何よりも嫌う。
スターリンもその例外ではないのだろう。自信満々でミカエル君を引き入れようとしたのだろうが、あっさりと断られて見事にメンツを潰されたのだ。そりゃあ俺たちが立ち去った後で怒り狂いもするさ。
そんなにブチギレたクマさんが、俺たちを無事に返してくれる筈もなく……。
「ご主人様」
「うん、知ってた」
後方から接近してくる、黒塗りのセダン。
こりゃあカオスな帰り道になりそうだ。
革命的強盗とは




