『鉄の男』
幼い頃から、彼は母の作るシュクメルリが大好きだった。
家は貧しく、飢えとは常に良き隣人の関係だった。母の話では彼の生まれる前に2人の兄が居たそうだが、どちらも大人になることなく栄養失調でこの世を去った、と聞かされている。
だから彼は、亡くなった兄たちの分まで可愛がられた。
そんな彼の好物だったシュクメルリを、母はよく作ってくれた。皮を取った鶏肉をカリカリに焼き、ガーリックソースで更に煮込んだジョルジアの郷土料理は彼にとってご馳走で、幼少期の思いでの一角となっている。
思い出の料理を口へと運びながら、”彼”はテーブルの向かいに立つ男へと視線を向ける。
ニコライ・ヴォロチェンコ。ノヴォシア共産党本部からの任命でリュハンシクからこのガリヴポリへと赴任、鉄道警備を一手に担う指揮官である。
指揮官、といっても従軍経験があるわけではない。共産党への入党にあたって提出された履歴書が事実に基づいたものであるならば、彼は一度冒険者を志し、しかし飛竜との戦闘で仲間を殺され、それで心を折られて挫折した冒険者崩れであるという。
こんな男を迎え入れるのか、と当時の”彼”はレーニンに意見したものだ。そういう経緯もあって、”彼”はこのニコライをあまり信用していない。
まるで親に秘密にしていた0点のテストが見つかったような子供のように、故郷の味を堪能する”彼”の顔色を伺うニコライ。不定期的に向けられる視線と、その目に浮かぶ怯えの色があまりにも不快で、”彼”は平常心を装いながら、しかし威圧感をしっかりと含んだ声で語り掛ける。
「……同志、いつまで立っているつもりだ? 君も座って食事をしたまえ」
「は……はっ」
半ば慌てるように、ニコライは席についた。
ノヴォシア共産党において、上層部からの命令は絶対だ。命令に背いたり、組織の威信に泥を塗るような真似をすればどうなるか。良くて北方送り、あるいは炭鉱での強制労働。最悪で粛清モノである。
それは軍事作戦だけでなく、こういった普段の些細な命令でも同じ事だ。拒否はすなわち死を意味する。
言われた通り、ニコライは席についてスプーンへと手を伸ばした。
目の前にある深い皿の中にあるのは、まだ温かい湯気を上げるジョルジアの郷土料理、シュクメルリ。鶏肉とガーリックソースを使った料理で、ニコライの向かいの席に座る”彼”の好物だ。
「……同志ヴォロチェンコ」
「はっ」
「私はこの料理が好きでね。母がよく作ってくれた」
「そ、そうでありますか……」
「ああ。私の家は貧乏でね、靴職人をやっていた父のおかげで何とか食べていく事ができた……私がこれをいつも残さずに食べるものだから、母は余裕がある時に奮発して、よく作ってくれたものだ」
「確かに、これは美味しいですね」
「そうだろう、私の思い出の味だ。多くの場合は牛乳を使うんだが、残念ながら鶏肉を買うので精一杯でね。だから母はいつも、このソースの味で勝負していたんだ」
思い出に浸りながら、彼は大きめに切られた鶏肉を口へと運んだ。カリカリになるまで焼いた鶏肉の旨みと歯応え、そしてガーリックの風味が口の中で絡み合う。
時間が元に戻る事はないが、しかしどれだけ時が経っても変わらないものというのもまた、存在するのだ。
「ある日、私は無性にシュクメルリが食べたくなった。でも当時、私の家は食料が尽きかけていて、家にあるものと言えばカビの生えたパンにジャガイモ、それからいくつかの野菜だけだった。鶏肉にバター、ニンニクに塩を使ったこれは、とてもじゃないが用意できるものじゃなかった」
「は、はあ」
突然何を言い出すのか、その意図を図りかねているニコライを無視して、彼は昔話を続けた。
「けれども私は我慢できなかった。だからある日、外に遊びに行くふりをして、ちょっと離れたところにある農家から鶏を1羽盗んだ。それを持って帰ると母はびっくりしてね。母には旅の商人から鶏を譲ってもらった、と嘘をついた」
旅の商人が、貧しい靴職人の息子に無償で鶏を譲るなど、そんな事はありえない。少なくとも多くの人々が飢えで苦しんでいた、1860年代のジョルジアでは絶対に。
きっと”彼”の母も、息子の嘘を見抜いていたのだろう。今だからこそ、彼はそう思う。
「その日の夕食はシュクメルリだった。盗んだ鶏はすぐに、私の好物に姿を変えた。手に入った塩が少なかったせいで薄味だったが、それでもたいへん美味かった」
「……同志も苦労なさったのですね」
ガーリックソースを啜ってからニコライは言うが、しかしニコライはまだ、この男の話の本質を理解していない。
ここまでであれば、単なる苦労話……あるいは昔に犯した小さな罪の懺悔にも聞こえるだろう。
しかし、そうではない。
そんな男ではないのだ。ニコライの目の前で食事をしている、この男は。
「―――だが、腹の奥底にだけは苦味だけが残った」
声音が変わり、安堵しつつあったニコライの身体を再び、身の危険を知らせる感情―――すなわち恐怖が、針のように突き刺さった。
ゾッとするほどの低い声。真冬のノヴォシア名物、極寒の猛吹雪が可愛く見えるほどの恐ろしい声に、スプーンを持つ右手が震え始める。
「なぜそうなったか? 私が嘘をついたからだ。盗んだ鶏だったのに、旅の商人から貰ったという嘘をついた……犯した罪と嘘の罪悪感が腹の底にいつまでも沈殿していた。それは今でも残っている」
スプーンをそっと皿の上に置き、彼はニコライをやっと、真っ直ぐに見つめた。
それはニコライにとっては死刑宣告のようなものだった。
「その時私は悟ったのだ。嘘をつく事がどれだけ悪い事か。どれだけ後味の良くないものを、一体いつまで残すのか。だから好物を口にする度に、あの苦味もまた一緒に思い出すのだよ」
単なる思い出話ではない―――ニコライがそれを悟った時は、既に”彼”はその牙を露にしていた。
「同志ヴォロチェンコ、君もそうは思わないかね」
「は……はっ……!」
息が上がる。
まるでマラソンを走り終えたような、しかし肉体に疲労感はない。心拍数だけがただただ上がり、耳に届くのは目の前にいる”彼”と、自分の心臓の鼓動の音だけだ。
「本当の事を教えてくれ。駅の7番レンタルホームに居る冒険者ギルドから、君は徴収を行ったのかね?」
「は……、……っ」
「……」
「……も、申し訳ございません……っ、奴らの中に1人、ただの冒険者と思えない男がいて……!」
「……ふむ」
そっと、椅子から立ち上がった。
木製の床を踏み締める音だけが部屋の中に響く。徐々に近づいてくるそれは、党本部から派遣された男の足音というよりは、罪人の首を刎ねるべく、処刑用の大斧を手に近付いてくる処刑人の足音にも聞こえた。
ぶわり、とニコライの顔に脂汗が浮かぶ。
殺される―――自分の末路を悟った直後、がっちりとした巨大な腕が、ニコライの首を鷲掴みにしていた。身体を後ろに押し倒され、床を背にしたニコライの蒼い瞳に大柄なヒグマの獣人の顔が映る。
同志であるというにもかかわらず、殺すつもりであるかのように喉をぎりぎりと締め上げてくる”彼”。呼吸を断たれた肺が悲鳴を上げる中、遠ざかろうとする意識を必死に繋ぎ止めながら、ニコライはただただ絞り出した声で許しを請う事しかできなかった。
「ど、どうっ……し、お、おゆるし……を……っ!」
「同志ヴォロチェンコ……いいか、我らが指導者、同志レーニンは腐敗を最も嫌う。貴様のような奴が組織を腐らせるのだ。次はないぞ、ニコライ・ヴォロチェンコ」
ぱっ、と剛腕から解放され、ニコライは息をとにかく吸い込んだ。焼けつくような肺の痛みはゆっくりと引いていくが、しかしバクバクと高鳴る心臓の鼓動だけは収まらない。
「も、申し訳ありません……同志スターリン」
スターリン、と呼ばれたヒグマの獣人はその許しを請う言葉には特に何も返さず、席に戻ってシュクメルリを平らげた。
食事を終えた事をどうやって察したのか、部屋をノックしてから入ってきた若い共産党の兵士が、ロボットのような無駄のない動作で皿とスプーンを片付けていく。ヒトの皮を被った機械のようだ、と思いながら立ち上がったニコライに、食事を終えたばかりの”ヨシフ・ヴィッサリオノヴィッチ・ジュガシヴィリ”―――組織内では『鉄の男』と呼ばれている男は、容赦なく問いかける。
「それはそうと、その徴収し損ねたギルドからはいくら貰ったんだね?」
「……は?」
「手ぶらで帰ってくるとは思えん。受け取ったのだろう、賄賂を」
「は、はぁ……50万ライブルであります」
「よろしい。それは速やかに党へ提出するように」
「はぁ……分かりました」
「それと、そのギルドだ」
葉巻を口に咥え、ポケットから取り出した黄金のライターで火をつけるスターリン。しんと静まり返った部屋の中に、煙草の煙の臭いが広がっていったのはそれからすぐの事だった。
「どんな列車だったんだね?」
「どんな、と仰いますと……二階建てで、武装を搭載した車両も連結した重装備の列車でした」
「他には? 何か、ギルドの所属を記すエンブレムのようなものは?」
「確か、翼を広げた飛竜のイラストが描かれていました」
部屋の中に充満していた緊張感が、その報告を聞いた瞬間に浮かべたスターリンの笑みで晴れていくのが、ニコライにも感じられた。先ほどまでの窒息してしまいそうな圧迫感が、まるで風船から抜けていく空気のように消え失せていく。
なぜこのお方は笑っておられるのか、それはニコライには理解できない事だった。しかし少なくとも機嫌を損ねるような報告ではなかったことは確かだと言っていいだろう。
「なんという僥倖か」
「同志スターリン、それはどういう意味なのでしょうか?」
「間違いない、その冒険者ギルドは”血盟旅団”だ」
「血盟旅団……確か、昨年から活動を始めたばかりの新興ギルドでは」
「そうだ。そしてその頭目はミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフ。キリウの貴族、リガロフ家の庶子だ。家を出て冒険者をやっていると聞いたが、よもやこんなところで巡り合おうとは」
「まさか、私に賄賂を渡した大男が……?」
「馬鹿者、ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフは小柄だ。150㎝くらいの、小柄で可愛らしい容姿だと聞いている」
そこまで言われ、ニコライの脳裏に車内で最初に彼らと話しをした二人組の姿がフラッシュバックする。
片方は180㎝以上の身長はあるであろう、蒼い髪のメイド。そしてその隣に立っていたのは、150㎝くらいの小柄な少女だ。ケモミミの形状と前髪の一部、眉毛に睫毛のみが白かったことから、おそらくはハクビシンの獣人なのだろう。貴族の間ではあまり好まれない、それどころか忌避されるタイプの獣人である。
「でかしたぞ。同志、そのミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフを連れてきてはくれないか」
「分かりました。しかし同志スターリン。なぜその、リガロフ家の庶子に固執するのです?」
問いかけると、スターリンは灰皿の上に葉巻の灰を落としながら答えた。
「昨年、ザリンツィクで強盗事件があったのは知っているかね? あのバザロフ家の資産が盗まれ、大貴族の失脚にまで至った一大スキャンダルだ」
「はい、覚えがあります。当時は新聞記事の一面を飾っていましたから……」
「我が共産党の入手した情報では、あの強盗事件の犯人はそのミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフである可能性が極めて高いのだよ」
「あんな子供が……?」
「そうだ。ザリンツィクの人民から富を搾取していた富豪からの略奪……強きを挫き弱きを助けるその姿勢、まさに我がノヴォシア共産党の理念と一致するとは思わないかね?」
「確かに……!」
「リガロフこそ革命の具現、共産主義の体現だ。是非とも我らの理想に手を貸してもらいたい。どんな手段を使っても構わん、リガロフを連れて来たまえ」
「了解しました、同志スターリン」
敬礼してから、ニコライは踵を返し部屋を後にした。
同志スターリンからの直接の命令だ、しくじるわけにはいかない。次にもし失敗すれば、一体どうなるか分かったものではない。
未だに生きた心地がしないが、しかし同時にこれはチャンスでもあった。
今、ノヴォシア共産党内部では権力争いが勃発している。指導者であるレーニンの下で、次期指導者の座を巡って争うスターリン派とトロツキー派、2つの派閥が鎬を削り合っているのだ。
今のところ、優勢なのはスターリン派である。ここでスターリンに気に入られれば、共産党内部でのニコライの地位も盤石のものとなるであろう。
そういう意味でも、失敗するわけにはいかない。
(しかし……あんな子供が本当に異名付きの冒険者だと……?)
そればかりは、気に入らなかった。
一度冒険者を志し―――そして挫折した、ニコライ・ヴォロチェンコという獣人にとっては。




