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アレーサからの旅立ち


【未確認飛行物体? アレーサを舞うオタマジャクシの謎!】


 早速記事になってんの草。


 記念すべき初飛行から一夜明けた。


 1888年10月9日の新聞記事に記載されているのは、かなーり遠くから撮影されたと思われるMH-6 リトルバードとAH-6 キラーエッグの機影を捉えた写真だ。これだけではただ、見出しの通りオタマジャクシが空を飛んでいるようにしか見えないが、しかし新聞記事にはバッチリと『目撃者によると血盟旅団が保有する新兵器であるという』と記載されており、ヨシヨシいいぞいいぞとモーニングコーヒーを飲みながらミカエル君は満足する。


 冒険者の知名度も非常に重要な要素である。


 何度も述べているけれど、知名度が高ければそれだけクライアントが仕事を依頼してくれる可能性がある、という事だ。冒険者管理局を介さない”直接契約”という形の依頼で莫大な資金を得ている冒険者ギルドは多く、むしろ管理局で受注できる依頼は収入というより売名のため、と割り切っている冒険者もまた一定数存在している。


 ちなみに昨日母さんから聞いたんだが、管理局の掲示板にある依頼書の依頼主クライアントは、管理局に依頼を出す際に手数料を取られているらしい。依頼内容に応じて手数料の金額は上下し、危険な依頼であればあるほど多額の手数料を取られる、というわけだ。


 それと隣接する食堂の売り上げが、管理局にとっての収入なのである。


 この手数料を忌避するクライアントも存在し、そのため管理局を介さず直接冒険者ギルドに仕事を任せるケースも多いのだ。こっちとしても高額の依頼を回してもらえる旨みがあるが、しかし管理局による仲介が無いので、万一クライアントとの間に何か問題が生じた場合は自分たちの手で解決しなければならない。


 普通の仕事と見せかけて、特定の勢力から疎まれた冒険者を消すための罠だった……という偽の依頼(騙して悪いが)というケースもあるので、冒険者側にもクライアントの近辺を調査しておくだけの情報収集能力が求められる。


 とはいえ、どんな形であれ名が売れるのはプラスになる……とはいっても、炎上商法だけはNOだ。ありゃあ何の実力もない目立ちたがり屋が、手っ取り早く注目を集めるための手段でしかなく、仮に知名度が上がっても悪評はついて回る。冒険者(この業界)に必要なのは信用なのだ。


「ご主人様、朝食の用意が出来ましたわ」


「ん、ありがとう。今行くよ」


 新聞紙を丸め、机の上に置いてから食堂車へと向かう。


 食堂車の中には美味しそうな匂いが立ち込めていた。焼けた肉の匂いにバターの匂い。そしてこれは……卵だろうか。


「あっ、ミカ姉おはよう!」


「おはようノンナ。今日の朝食は何かな? 卵?」


「正解! 今日はね、ベーコンエッグ!」


「おー、美味そうだ」


「ご主人様、こちらへ」


 クラリスに促され、窓際の席に腰を下ろした。


 大きな窓の向こうにはアレーサ駅のホームが広がっていて、まだ朝の7時だというのに、エルソン方面からやってきた列車がホームを通過していった。始発列車なのだろう、行き先はキリウだろうか。


 冬が近づき、降雪の季節が迫ってくると列車の本数も増えてくる。


 本格的に物流が止まる前に長距離移動の予定がある方はさっさと済ませやがれ、という事なのだろう。雪が降るとマジでどこにも行けず、どこからも物資が入って来ず、都会だろうと田舎だろうと火炎放射器で除雪作業を行う世紀末お婆ちゃんが出没する雪とウォッカとカオスの国、ノヴォシア。みんな来ない?


 外の風景を眺めながら待っていると、朝食が運ばれてきた。


 今日の朝食はベーコンエッグとオリヴィエ・サラダ、黒パン。それからアレーサ名物、魚を使ったスープの”ウハー”。ノヴォシアでは川魚を使ったウハーが多いと言われているが、ここアレーサでは海の魚を使ったウハーが名物なのだそうだ。


「いただきまーす」


 手を合わせ、フォークとナイフに手を伸ばした。


 一応ミカエル君も庶子とはいえリガロフ家の末席、欄外辺りに名を連ねる貴族である。庶子だけど。


 なので幼少の頃から母さんにテーブルマナーとか色々と教わった。ナイフとフォークの扱い方はそれなりで、まあ悪くない部類だとは思う。


 ところでノヴォシアには食前に「いただきます」的な事を言う習慣は存在しないらしい。宗派によっては食事にありつけることを神に感謝する事もあるらしいが、基本的にいきなり食べ始めるのが当たり前なのだそうだ。だから、昔からこうやって手を合わせて「いただきます」って言うミカエル君の姿は母の目には奇妙に映った事だろう。


 というわけで、真っ先にベーコンエッグに手をつける事にした。


 前世の世界の海外でも当たり前だったそうだが、料理に使われるベーコンは日本で売ってたような薄っぺらい肉ではない。分厚い肉の塊を切り落としたような大変ボリューミーな代物で、ちょっとしたご馳走なのだ。だからミカエル君の目の前にある皿の上には、美味しそうに焼けている目玉焼きと一緒にステーキみたいに分厚く肉汁たっぷりなベーコンも乗っている。


「どうぞミカエルさん」


「ありがとうシスター」


 シスター・イルゼから塩胡椒の瓶を受け取り、目玉焼きにふりかけてから、切り分けたベーコンと一緒に目玉焼きを口へと運ぶ。肉汁を吸った白身の淡白な味わいとプリプリの食感、そして重厚なベーコンの旨みがね、もうね、最高です。


 いやー美味いわ。ノンナも料理の腕上げたな……と思いながら咀嚼していたミカエル君は、朝っぱらからとんでもねえものを見た。


「~♪」


 鼻歌を口ずさみながら、目玉焼きの上にマヨネーズを投下していくモニカの姿。それはカルチャーショックというかなんというか、うまく言語化できない感情となってミカエル君の脳内を駆け巡った。


 脳内の二頭身ミカエル君ズはというと、許容量を超過した現実を受け止めきれず、1人、また1人と卒倒している。


 め、目玉焼きにマヨネーズ……?


 イヤ、イヤイヤイヤ、待て待て待て。


 一応擁護はしておく。ノヴォシアの食文化とマヨネーズの関係は非常に根強い。ノヴォシア料理やベラシア料理、イライナ料理にはマヨネーズが調味料として多用される(デザートにも使われる事があるのだから驚きだ)。日本食に醤油とか味噌を使う頻度で、この国ではマヨネーズを使う。


 故に国民の大半は生まれながらにしてマヨラーなのだ。もう遺伝子にマヨネーズが刻まれているのである。あの遺伝子の二重螺旋の中にしれっとマヨネーズが潜んでいる、それがノヴォシア人だったりベラシア人だったり、イライナ人だったりするのだ。


 誰もマヨの甘美な誘惑には抗えない、それは分かる。


 でもさ、ベーコンエッグが隠れるぐらいコーティングしなくても……うわ食べた、食べたよこの女。


 マジかよ……と引きながら黒パンをもぐもぐする。まあ、人には色んなね、食べ方があるからね。口出しするだけ野暮ってもんよあはは。


「範三、何それ?」


「卵かけご飯でござる」


「たまっ……え、生? 生で食べるの!?」


「うむ、大変美味だぞ。ルカ殿もどうだ」


「え、だってキセーチューが怖いって前読んだ本に書いてあったし……」


「あっはっは、某の胃は強靭ゆえ、寄生虫なんぞに負けはせぬよ」


 1人だけお米を食べてる倭国人、朝っぱらから文化の違いを見せつけていくスタイルである模様です。


 範三の向かいに座っているリーファも信じられないものを見るような目で彼を見ている。ジョンファでもいろんなものを食材にするからあまり人の事を言えないのではないか……とは言わないでおこう。胸の中にそっと仕舞っておくのが一番だ。


 ウハーに入っている魚の切り身を口へと運んでいると、カウンター席でベーコンに勢いよく食らい付いていたパヴェルが言った。


「そういや、ベラシアから積んできたジャガイモは完売したよ」


「おー、儲かった?」


「儲かった。売り上げの大半はギルドの運営資金に回させてもらうが、ほんの少しは全員に支払っておく。今日のお昼に部屋に置いておくので各自確認するように」


 そりゃあいい。


 アレーサは海産物に恵まれているが、ジャガイモはこっちだと少々お高い値段だからな……ベラシアで安く仕入れ、価値が上がるアレーサで売り捌く。初めての商売にしてはなかなか上手くやったと思う。


「それで、出発は?」


「明日には出ようと思う。既に機関車の点検も終了、水と燃料も補給し終えた。明日には発注かけてた魚の缶詰がどっさり届くから、それを収容したらあとはダイヤの隙間を見て出発するぞ」


 明日、か。


 ということは母さんやサリーとはまたしばらくお別れだな……。


 家族との別れを寂しがりながら、視線を地図へと向けた。


 次の目的地はイライナ東部、”ロウバス”方面。降雪が始まり運転禁止期間に入る前に、出来れば目的地であるノヴォシア地方を目指したいところだ。


 まずエルソンを通過、そのままガリヴポリで一旦石炭と水、日用品を補充し、ロウバス方面の都市”リュハンシク”を経由してノヴォシア地方に突入する予定だ。


 スケジュールはギリギリになるが、この運転計画ならば積雪が本格化し路線の運航禁止を言い渡される前にノヴォシア地方に入れるはずである。


 ノヴォシア地方は広大な領土を誇る。ノヴォシア地方だけでも、他のどの国の国土よりも広い面積があるのだ。だからイライナ地方に戻ってくる事が出来るのは遥か先の事になるだろう。


 家族に別れを告げるなら、今日が最後だ。


 











 ベスパを庭の外に停めると、きゃっきゃと楽しそうな声が聞こえてきた。サリーが外で遊んでるのかな、とひょっこり顔を出してみると、やっぱりそこにはやんちゃな笑みを浮かべるサリーがいて、お祖母ちゃんと2人で遊んでいるようだった。


 庭に足を踏み入れるや、サリーの頭にあるハクビシンのケモミミがピクリと動いた。やはり彼女もジャコウネコ科の獣人、聴覚は非常に鋭いらしい。


「にーに!」


「あら、ミカちゃん。また来てくれたのね」


「どうも。明日出発する事になったんで、その前に家族に会っておこうかなって」


「そう……寂しくなるわねぇ」


 お祖母ちゃんがそう言いながら寂しそうにしている間に、サリーはと言えば1歳児とは思えない身体能力でミカエル君の足をよじ登り、ついには胸の辺りまで上ってきた。


 無邪気な笑みを見下ろしながら頭を撫でてあげると、気持ち良さそうにケモミミを動かしながらサリーは目を細める。


 母さんは仕事中なのだろう。冒険者管理局は24時間、年中無休で営業している。そのうち夜勤とかも始まるのではないだろうか。給料は良いが、苛酷な仕事である。母さんもそろそろ40代、身体を壊したりしないよう真面目に気を付けなければならない年齢だ。


 喉を撫でてあげると、サリーはゴロゴロ言い出した。でっかい猫みたいだと思いながらそっと地面に下ろすと、サリーは俺の手を小さな手で握りながら元気にジャンプし始める。


「にーにっ、にーにっ!」


「ん、じゃあお兄ちゃんと遊ぶか」


「うー!」


 しゃがんで彼女と目線を合わせながらそう言い、もう一度サリーの頭を撫でた。


 それほど広くはない庭を走り始めるサリー。お祖母ちゃんが「こらこら、転んじゃうわよ」と言っても聞く耳を持たない。小さい子供はこれくらいやんちゃな方がちょうどいいのだ。


 走り回るサリーを追いかけると、サリーはなんと庭の周囲をぐるりと囲んでいる柵をよじ登り、その上を走り始めた。早くもパルクールの才能を感じさせるバランス感覚に驚きながらも、きゃっきゃと楽しそうに笑う妹の後を追う。


 柵から飛び降りようとするサリーをキャッチすると、つかまっちゃった、と言わんばかりにサリーが楽しそうな声を上げた。


 それがたまらなく可愛くて、思わずサリーのほっぺたをもちもちしてしまう。


「きゃはー♪」


「あははははー、サリーったら足速いねぇ。将来はマラソンのランナーかな?」


「ミカちゃん、今夜は泊っていきなさい」


 兄妹のやり取りを見守っていたお祖母ちゃんが、ちょっと寂しそうな顔で、けれども精一杯の笑顔でそう言った。


 アレーサで過ごす最後の一日。それくらい、母の実家で過ごしても罰は当たるまい。


「それがいいわ、レギーナも喜ぶから」


「じゃあ、お言葉に甘えて」


「にー♪」


 ぺちぺち、と小さな手でほっぺたを叩いてくるサリー。彼女も嬉しそうだった。


 今夜はこっちの家で過ごそう。パヴェルにも連絡しておかないと。













 明日出発する、という話を聞いた母さんも、お祖母ちゃんと同じ反応だった。


 ちょっと寂しそうな、けれども精一杯の笑顔。次の目的地がベラシアではなくノヴォシアだと聞いたから猶更だろう。ノヴォシア地方は広大で、そう簡単に返って来れる距離ではない。それこそ飛竜でもチャーターしない限りは。


 いざとなったらリトルバードを使って帰省しよう、なーんて思いながら、久しぶりに母の手料理を堪能した。市場で買ってきたというジャガイモを使ったドラニキ(パヴェルが売ってたやつらしい)とアレーサ名物のウハー、オリヴィエ・サラダとチキンキリウ。特にチキンキリウは屋敷に居た頃から俺の好物だった。母さんは、俺の好物を覚えていてくれたらしい。


 夕食を終え、食器を洗う母さんの後ろ姿。そういえば初めて見たな、と思う。今までは屋敷の庶子とそれに仕えるメイドという関係だったから、こういう母としての母さんの姿をちゃんと見たのは初めてかもしれない。


「ぶーっ、ぶー!」


「ああ、ごめんごめん」


 母の姿をじっと見ていたせいで、絵本を読んでいた手が止まった。今読んでた英雄イリヤーの絵本の続きが気になるのだろう、早く続きを読んでと抗議の声を上げるサリーに急かされ、絵本を読み進めていく。


「―――こうしてイリヤーは邪悪な竜ズメイ(ズミー)を懲らしめ、アラル山脈の岩の下に封印しました。ドラゴン退治を終えたイリヤーはニキーティチと別れ、家で待つ妻と一緒に幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」


「きゃっきゃっ♪」


 読んであげた絵本、本日これで12冊目。


 遊び疲れてお昼寝が始まったかと思いきや、飛び起きて絵本を読むようにせがんでくるサリー。小さい子ってなんでこんなに体力あるんだろうか。行動力の塊というか、何というか。


「次に会えるのはいつになるのかしらね」


 カチャカチャと食器を洗いながら、そう呟く母さん。ノヴォシア地方はベラシアのように気軽に帰って来れる距離ではない。しばらくは、向こうからこっちに送る手紙と添付する写真が唯一の家族の繋がりになるだろう。


「わからないよ、ノヴォシアは遠いから」


「身体を壊さないようにね。それと、無茶だけはしない事。親よりも先立つなんてこれ以上ないほどの親不孝なんだから、良いわね?」


「うん、分かってる。そういう母さんこそ、身体に気を付けて」


「ふふっ、ありがとう」


 これから夜勤も始まるだろうし、母さんだって魔物の討伐確認で外に出る事もあるのだ。だからマスケットを背負い、一週間に一度の射撃訓練で戦い方を学んでいるのである。


 本当に、どうか無事で過ごしてほしい。


 この旅が終わったら、俺はこのアレーサに定住するつもりでいる。


 そうしたらたくさん親孝行するんだから、それまでは本当に元気でいてほしい。


 親として子の安全を祈る気持ちも分かるが、子もまた親の安全を祈っているのだ。


 この思いは、決して一方通行なんかじゃない。


 絵本を読んでとせがむ声が聴こえないなと思ったら、いつの間にかサリーはミカエル君の腕の中で、すやすやと寝息を立てていた。たくさん遊んで、いっぱい寝て、ご飯をちゃんと食べて……まだ幼いサリーにとっては、それが仕事なのだ。


「あら、サリー寝ちゃった?」


「うん。たくさん遊んでたからね」


「ふふっ、お兄ちゃんが来て嬉しかったんじゃない? サリーったらミカのこと大好きみたいだから」


「あらら、それは嬉しいね」


「うふふふっ。あ、サリー風邪ひいちゃうといけないから、子供部屋に寝かせてきてくれる?」


「はーい」


 まだ小さなサリーを抱き抱え、子供部屋へ。


 積み木とか絵本とか、クマやウサギの人形が置かれた小さな部屋。そこにはこれまた小さなベッドがあって、傍らにはお祖母ちゃんが読み聞かせてくれていたのだろう、英雄ニキーティチの絵本がある。


 サリーをそっとベッドに寝かせ、踵を返す。が、袖を小さな手が握っている感触があったので、立ち去らずにそのまましゃがみ込んで、妹の寝顔を見守った。


 本当に無邪気な子だ。まだ世界の事を何も知らない。


 これからきっと、その目で世の中を見て大きくなっていくのだろう。いつの日か立派になった彼女の姿を見るのが、今からもう楽しみだ。


 けれども、しばらくお別れだ。


「みんなを守ってくれてありがとな、サリー」


 そっと、サリーの額を撫でた。






「みんなを頼んだぞ、小さなヒーロー」














 どれだけ望んでいても、どれだけ望まれていなくても、夜は明け日は昇る。


 はるか太古の昔から繰り返されてきた地球のサイクルに例外はなく、窓から差し込む朝日が家の中を暖かく照らしている。


 玄関を開けると、冷たい風の洗礼を真っ先に受けた。10月上旬も終わりに近づき、そろそろいつ雪が降り始めてもおかしくない。冬の足音はすぐそこまで迫っているのだという事を、嫌でも意識させられる。


「もう行くのね」


「……うん」


 パヴェルは魚の缶詰が届いたら出発と言っていた。大抵、その手の卸業者は朝早くやってくる。だから今頃、アレーサ駅のレンタルホームには大量の魚の缶詰が届いている事だろう。


 時計を見た。今はまだ、朝の5時。どいつもこいつも眠っている時間だ。鶏が鳴くにはまだ早い。


 朝食の準備をするところだったのだろう、エプロンを身に着けた母さんは寂しそうに、けれども旅立つ我が子を見守る優しい笑みを浮かべて見送ってくれた。


「気を付けるのよ。ノヴォシアは遠いし寒いから、風邪をひかないようにね」


「ありがとう。母さんも元気で。それと、お祖母ちゃんとサリーにもよろしく」


「ええ。いってらっしゃい、ミカ」


「―――行ってきます」


 笑顔を浮かべてそう告げ、親指を立てて外に出た。


 外は寒い、とにかく寒い。吐き出す息は瞬く間に白く濁り、雨で昨日まで湿っていた大地は霜が浮かんで、ブーツで踏み締める度にポリポリと硬い感触で応じてくる。


 ベスパに跨ってエンジンをつけ、アクセルを捻った。


 家の外まで見送りに来てくれたエプロン姿の母さんに大きく手を振り、そのまま駅の方へと続く下り坂を一気に駆け下りていく。


 アレーサの町は静かだった。とはいえ漁師たちは例外のようで、黒海の沖の方には既に漁から戻ってくる漁船の姿が疎らにだけど見えてくる。


 こうして世界は回り出すんだな……なーんて考えながら踏切から線路に入り、でこぼこする枕木の振動に尻をあばばばされながらレンタルホームに入った。始発がやって来るのは朝7時、遅延しても2分程度だ。だから今の時間は列車がやってくる事はない。


 レンタルホームに入ると、どうやらちょうど今仕入れた缶詰の搬入が終わったところらしい。大型トレーラーの荷台みたく開いていた倉庫のハッチが閉鎖され、ホームで汗を拭いていたツナギ姿のパヴェルとルカが手を振る姿が見えた。


 第一格納庫のハッチが開き、クレーンアームが降りてくる。ベスパから降りてスクーターの収納を制御室に飛び込んだルカに任せ、客車へと乗り込んだ。


 出発が迫っているからなのだろう、車内は慌ただしかった。パジャマからツナギに着替えたノンナとすれ違い、客車の上にある銃座へと上がっていく。


 しばらくして、機関車の汽笛が鳴り響いた。


《間もなくレンタルホームより、リュハンシク行きの列車が発車致します。血盟旅団の皆様の幸運をお祈りいたします》


 放送が聴こえるや、発車のベルと共にチェルノボーグは動き出した。煙突から濛々と黒煙を吹き上げ、動輪が巨体をゆっくりと前進させ始める。


 どんどん加速していく列車の屋根から、遠くを見た。


 アレーサの町、朝焼けに染まる黒海の海原、そして丘の上の母の実家。しばらく帰って来れないのだから、この風景を頭に、そして心に刻んでいこう。旅が終わったらここが俺の故郷となるのだから。


 濛々と立ち昇る黒煙に気付いたのだろう、母の家の前に人影が見えた。たぶん、母さんとお祖母ちゃん、そしてサリーだろう。顔までははっきりと見えないけれど、手を振っている事は分かる。


 煤の臭いに咳き込みそうになりながら、俺も精一杯手を振った。見えているかどうかは分からないけれど、どうか想いが届くようにと祈りながら。


 アレーサの町が遠ざかり、海沿いの景色ばかりが広がる。


 風の音が響く中、俺はよくラジオで聴いていた曲を口ずさんでいた。


 故郷を旅立つ冒険者の姿を歌った、お気に入りの曲だった。




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