伸ばした手は遠く
ミカエルが本当に良い奴でよかった。
ちゃぷ、と泉の水に浸かりながら、ふとそんな事を考える。
こんな、魔物の身体に獣人の心を持つ俺の事を受け入れてくれたし、助けてくれた。そして何より、最初の友達になってくれた。
ミカエルには感謝してもしきれない。
恩返しは何をすればいいのだろうか。俺、こんな姿だし家もない。当然ミカエルにあげられるものなんて何もないのだ。お金も、食べ物も、何もない。
何をすればミカエルは喜んでくれるだろうか。
泉に浸かりながらそう考えているうちに、段々と頭がぼーっとしてきた。
頭の中が蕩けているように、段々とあまり物事を考えられなくなっていく。頭の真ん中あたりがこう、ぐーっと奥の方に引っ張られているような感覚を覚えた途端、俺は異常に気付いた。
―――昔の事が、思い出せなくなっている。
俺は誰なのか。
どこで生まれ、何のためにここに来たのか。
ミカエル、と異常を伝えようと声を発した。
ヒトの言葉を、発したつもりだった。
たすけてミカエル、と。
けれども喉の奥から出てきたのは人語なんかではなく―――腹を空かせた肉食獣が発する唸り声のような、異様な声。
今のが俺の声なのか、と驚きつつ、眠ってしまっているミカ……いや、誰だアイツは。
あんなところで何をしている?
無防備に眠っている、小柄なハクビシンの獣人。矮小な害獣ごときが、俺の縄張りのど真ん中で何をしているのだ?
違ウ、アイツハ俺ノ……。
腹、減ッタ。
トモダチ。
食ワセロ。
肉、肉。
肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉―――!!
『グルルルルルルルル……!』
「ヴァシリー……ッ! 目を覚ませヴァシリー!」
腹の底から声を出し、彼に呼びかける。
けれども返ってくるのは獣のような唸り声。両目は更に血走って、食い縛ったイノシシみたいな牙の間からはよだれが滴り落ちてくる。
メキ、と彼の両手を押し留めている鉄パイプが限界を迎えつつあるところで、時間停止を発動した。1秒限りの、世界の全てを静止させる力。俺を喰らおうとするヴァシリーも、そして今まさに折れようとしている鉄パイプも全てがその場に固定される。
その間に鉄パイプから両手を離してスタームルガーMkⅣを構える。引き金に指をかけたところで時間停止が解除され、支える力を失った鉄パイプが、オークの圧倒的な膂力に押し負け、地面に押し付けられて潰された。
ごしゃあっ、と金属が粉砕される音を聞いてぞくりとしながら、ヴァシリーに麻酔弾を射かける。
.22LR弾という、9×19mmパラベラム弾よりも小さな拳銃弾をベースにした麻酔弾だ。弾丸のサイズが小さくなったことで反動は減少したけれど、肝心な内部容積が減ってしまい、一発一発の麻酔薬の量が減ってしまっている。
パヴェルはそれを、麻酔薬自体の調合を変更することで対応するという器用さで乗り越えてくれた。
戦闘状態にない、リラックスした状態にある標的に命中した時のみ速効性があり、戦闘中で高ストレス状態にある標的に対しては遅効性となる、特殊な麻酔薬。つまりこれの真価を発揮させるには、敵に発見されていない状態を維持しなければならない。
こうして敵と面と向かって戦っている時の使用は一切想定していない、完全な潜入用の武器なのだ。
しかも麻酔弾は人体への使用を想定した調合となっている。人間よりも遥かに大きく、強靭な肉体を持つ魔物―――特にその中でも大柄なオークに対する使用は、一切想定していない。
眠らせるのに何発必要なのか、考えたくもなかったが―――効果が薄い事を承知の上で、何度も引き金を引いた。
パスパスパスッ、と小さな銃声が連呼して、後端部にあるボルトが何度も後退した。.22LR弾を改造した特殊麻酔弾はオークの……いや、ヴァシリーの背中に何発も突き刺さり、パヴェルの設計通りに麻酔薬を標的の体内へと強制投与していく。
しかし、オークは獣人たちの生活圏にほど近い地域を徘徊する魔物の中ではもっとも大型で、危険度の高い魔物として知られている。研究用に生け捕りにする際も多大な犠牲を覚悟しなければならない程で、そのパワーはグリズリーのそれを遥かに上回るほどだ。
人間が恐れる大熊も、オークの前ではただの餌でしかないのである。
そんな化け物に、人間用の麻酔薬(しかも戦闘中だから遅効性だ)が通用するわけもない。マガジン1つ分を全部ぶち込んでも、ヴァシリーはまだ立っていた。
麻酔が効いている様子もない。空になったマガジンを取り外し、ダンプポーチに放り込んだところで、再び咆哮を発しながらこっちに突っ込んできやがった。
「ヴァシリー!」
『グォォォォォォォォォォアァァァァァァァァァァァァァァ!!!』
時間停止を発動、突進を回避しつつ予備のマガジンを引っ張り出して装着、ボルトストップレバーを押し下げ初弾を装填。そんなにバカスカ撃つ事を想定しておらず、この特殊麻酔弾の生産もまだ少数に留まっているから、麻酔弾はこのマガジンが最後だ。
時間停止の解除と共に、とにかく撃ち込んだ。脇腹にダーツ状の麻酔弾が次々にぶっ刺さっては、特殊麻酔薬をヴァシリーの体内へと送り込んでいく。
スタームルガーMkⅣの弾を全部使い果たしたところで、それをホルスターに戻し、AK-19を構えた。今装着されているマガジンには5.56mmゴム弾が装填されている……人間に対しては痛みで悶絶させての無力化が期待できるが、オークには通用しないだろう。
ヒグマですら、頭蓋骨で猟銃のライフル弾を砕いてしまう事もあるという。それよりも巨大なクマ、グリズリーよりも強靭な骨格を持つオークなのだ。ゴム弾なんかでは足止めにすらならない。
「ヴァシリー、俺が分かるか!?」
突進を躱され、こっちを振り向いたヴァシリーに叫んだ。もう既に二足歩行ではなく、野生のクマのような四足歩行になってこちらを振り返るヴァシリー。もうそこにヒトとしての理性があるとは思えない。
―――殺すしかないのか。
最悪の結末が頭に浮かび、俺はそれを必死に否定した。
違う、アイツはきっと一時的に理性を失っているだけだ。こうして呼びかけていれば、きっと人の心を―――!
何の前触れもなく、ヴァシリーが突っ込んできた。頭の中に迷いがあった事、そしてヴァシリーの攻撃があまりにも急だった事もあって、剛腕に身体を鷲掴みにされてしまう。
「しまっ―――」
『グォォォォオ!!』
「―――赦せ」
ギリギリと、内臓を締め上げるような握力に必死で抗いながら、雷属性の魔術を放出した。
初歩的な魔術の一つ、『放電』。雷属性の魔力をそのまま放出し肉体から放電するだけの、何の捻りもない単純な魔術だ。しかしこういう状況では効果は絶大で、相手の拘束を打ち破るのにも使える。
麻酔薬は効かなくても、さすがに電撃は無視できないらしい。蒼い電撃がヴァシリーの巨躯に絡みつくや、ヴァシリーは苦しそうな声を上げた。
けれども―――闘争本能なのか、それとも半端にダメージを与えたせいで激昂したのか、握力がさらに強まった。肋骨が軋み、胃や腸といった生命維持に欠かせない臓器が逃げ場を失って、段々と押し潰されていく。
このままでは拙い。加減していたら、こっちが殺されてしまいかねない。
「ヴぁ、ヴァシリー……いい加減に……っ! これ以上は……!」
『グゥゥゥゥゥ……!』
「お、俺がっ、分からないのか……!? ミカエルだ、お前の友達だよ!」
『グアァァァァァァァァァ……!』
「ヴァシリー!!」
『ゴアァァァァァァァァァァァ!!!』
ぎゅうっ、と握力が一段と強くなった。
脇腹の辺りから、それなりに太く、水分を含んだ樹の枝が折れるような音が聞こえてきて、左の脇腹に激痛が走る。
ああ、肋骨が逝ったのか―――そして折れたそれが、どこかの内臓にでもぶっ刺さったのだろう。喉の奥から熱い何かが込み上げてきて、鼻腔の奥が鉄の臭いに支配されるや、食い縛った歯の隙間から真っ赤な、熱い血が溢れ出た。
手加減はしていられない。本能でそう理解したのと、全力で電撃を発したのは同時だった。まるで生物としての生存本能が、一時的に俺の身体の制御権を乗っ取ったような、そんな感じだった。
一段と強さを増した電撃に、先に音を上げたのはヴァシリーの方だった。絶叫しながら手を放すと、電撃で痺れた身体を痙攣させながらもなお立ち上がり、血走った目でこっちを睨みつけてくる。
「ヴァシリー……!」
『グゥゥ……!』
手強いと思ったのか、踵を返し、崩れたコンクリート壁から泉を出ていくヴァシリー。きっと、外に向かうつもりだ。
彼を外に出すわけにはいかない。エリクサーを口の中へと放り込みながら、まだ痛む身体に鞭を打って立ち上がった。左の脇腹の辺りが、中で何かがもぞもぞと動いている感覚を覚える。折れた肋骨が内臓から抜け、本来あるべき場所へ収まろうとしているのだ。
エリクサーを飲めば傷口は回復するが、しかしすぐに痛みが消えるわけではない。腹を大型ナイフでぶっ刺されているような激痛に喘ぎ、何度か倒れそうになりながらも、俺もヴァシリーの後を追った。
ダメだ、ヴァシリー。
お前は魔物じゃないんだ。
ヒトに戻るんだ。元の姿に戻るんだ。
ヴォジャノーイの死体が転がる通路を駆け抜け、ダンジョンの外に出た。
ヴァシリーはどこに行ったのか―――足跡から探ろうかと思ったが、その必要はなかったらしい。
岩肌の連なる山道の下、坂道を降りていったところに、ランタンの灯りが見えた。
荷馬車だ。おそらく復興へと向かいつつあるアルミヤ方面に、エルソン市から物資を運んでいる荷馬車なのだろう。数名の騎士団の兵士が護衛についていて、最新式の単発銃と水冷式機関銃で武装しているのが分かる。
心まで魔物に変わったヴァシリーは、あろうことかその荷馬車へと突っ込んでいった。
「ヴァシリー! ヴァシリーやめろ! 戻ってこいヴァシリー!」
いくらオークでも機関銃はまずい。
慌てて俺も坂道を下った。時間停止を連続で発動、コマ送りのように静止しては動き出すのを繰り返す世界の中を、必死に進んでいく。
『魔物です!』
『オークだ!』
『機関銃を!』
「ダメだ、やめろ! やめてくれ!!」
荷馬車に飛び乗った兵士が、ぐるりと重機関銃を旋回させながらコッキングレバーを引いた。たっぷりと冷却用の水が入った機関銃がヴァシリーへと向けられ、ついに火を噴く。
やめろ、という叫びも、全てが銃声に砕かれた。
磁力魔術の範囲外だから、ヴァシリーを磁界の防壁で守ってやる事も出来ない。
時間停止も間に合わない。
大きく伸ばしたこの手も、届かない。
ただ、見ている事しかできなかった。
殺到する大口径のライフル弾が、友達を蜂の巣にしていくのを。
ボロ雑巾のようになったヴァシリーが―――血まみれになって崩れ落ちていくのを。
「―――うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」




