あるべき姿、あるべき心
「なんか変わったー?」
『んー、何も』
ちゃぷ、と水面から手を出してまじまじと見つめるヴァシリー。オリーブドラブの、しかし野生の個体と比較すると随分と清潔なその手は、未だにオークの手のままだ。”生まれ変わりの泉”で沐浴すること2時間と少し、今のところヴァシリーの身体に変化はない。
沐浴だけじゃ足りないのか、と呟いた彼は、何を思ったか泉の水を飲み始めた。一応、イルゼに検査してもらい水質に問題がない事、飲み水に適している事は確認済みだ。普通の水よりもちょっとカルシウムの比率が高いそうだが、異常な数値というほどではないらしいし、寄生虫とか有害な細菌の類も確認できなかったそうだ。
それに、オークは雑食だ。食えそうなものならば何でも食う。ヴァシリーの心は獣人なのだろうが、今の彼の肉体はオーク。何でも喰らうオークの強靭な胃袋もまた、今ばかりは彼に味方してくれるだろう。
生息地によって何を食べるかは変わってくるが、動物や人間、他の魔物を襲ってその肉を喰らう個体もいれば、蜂の巣を襲って蜜と幼虫を貪る個体、人里に降りてきて野菜やら果物やら、果ては家畜を喰らう個体までさまざまである。
だからオークの生息地にほど近い居住地では、大口径のマスケットを保有し有事に備えることが推奨されているのだ。オークがどれだけヤバいかというと、『原始人並みの知能を身に着けたグリズリー』といったところか。
丸腰でも脅威なのに、仕留めた動物の骨やその辺の木の枝に石器を埋め込んだりして、棍棒や槍を作って武装しているケースも多々ある。石器で武装したグリズリーとか怖すぎるんですが……。
でもまあ、目の前にいるヴァシリーに限っては恐ろしいとは思えない。
姿こそオークだけど、その中身は心優しい純粋な獣人の少年なのだ。今までその容姿のせいで色々と酷い目に遭ってきただろうし、本来の姿に戻れることを祈るばかりである。
バックパックの食糧ケースから、まだ残っていたパンを引っ張り出した。ナイフで切り分けてからサワークリームをバターのように塗りたくり、農家の老夫婦から貰ったタマネギの残りをその上に乗せる。
そして仕上げは、食料に持ってきたヴォジャノーイの缶詰。腐海で採取できる良質な塩(あんな腐臭のする海だが塩は濃度が濃く良質なのだそうだ)で塩茹でにしたヴォジャノーイの足の肉をオリーブオイルで漬けた、昨年から発売されている人気の缶詰だそうだ。
ヴォジャノーイはイライナ南部の珍味。カエルに似たヴォジャノーイの足の筋肉は鶏肉のようで、それでいて深みもある味をしている。中にはわざわざノヴォシアの最北端から、本場の味を求めて鉄道で取り寄せたり、ここまでやってくる美食家も後を絶たないのだとか。
それをナイフでサッと切り、パンの上に乗せてヴァシリーに差し出した。
「ほら、ごはん」
『ああ、ありがとう……って、これなんの肉?』
「ヴォジャノーイ」
『え、ヴォジャノーイってあのカエルみたいなやつ?』
「そ。イライナじゃ珍味なんだよ」
『へぇ~……母さんから聞いた事はあったけど、食べるの初めてなんだよね……』
いただきまーす、と小声で言ってから、ヴァシリーは受け取ったパンを口へと放り込んだ。大きな口だから、一般的な食パンサイズでも一口で平らげてしまう。物足りないだろうなと思っておかわりの準備はしてるけど、果たして手持ちの食糧で彼の腹は満たされるだろうか。
ちょっと不安になりながら、自分の分のパンを齧った。サワークリームのほのかな酸味と、生のタマネギのシャキシャキとした食感。それだけでも幸せだけど、ちょっとしょっぱい塩梅のヴォジャノーイの肉が、オリーブオイルの風味と一緒に口の中を駆け回って、更なる満足感をもたらしてくれる。
こういう食べ方はニシンの塩漬けの専売特許かと思ってたけど、意外とヴォジャノーイの肉も合うのかもしれない。こんな感じで食材を組み合わせながら食べていると、色んな組み合わせを試してみたくなるものだ。今度はジャガイモとかも使ってみようか、と思いながらパンをもぐもぐしていると、咀嚼していたヴァシリーが目を見開いた。
『あっ、美味しい……俺好きな味かも』
「でしょ?」
『ごめん、おかわりある?』
「たっぷりはないけどあるよ。ほら」
てっきり目標をサクッと倒しておしまい、ってのを想像してたから、食料は俺1人分、それもそれほどの量は持ってきていない。3日分くらいあればいいか、という想定だったから仕方がないと言えば仕方がないが……プロの兵士は常に予想外の事態も想定し行動しているのだそうだ。それを考えると俺もまだまだ半人前、ヒヨッ子である。
一応は警戒車にあった予備の食料も足しているのでそれなりの量にはなるが……それはあくまでも、普通の人の食べる量を想定した場合の話。食欲旺盛なオークと行動を共にするなんて考えもしなかったから、案の定食料は想定をはるかに上回るペースで減っていき、ミカエル君の周囲は品切れになったヴォジャノーイやニシンの缶詰の空き缶で瞬く間にいっぱいになった。
口いっぱいにパンを押し込んで頬張るヴァシリー。この調子じゃあ、今まで食料を調達するのにも苦労したのだろう。きっと常に空腹だったに違いない。
まあ、獣人の身体に戻れたらそれでOKなのだ。後はそこから、自分の好きな人生を送ればいい。
今までたくさん辛い思いをしてきたのだから、それ以上に幸せになる権利だって彼にはある筈だ。一生を不幸なまま終える人間なんて、どこにも存在しないのだから。
満足したのか、食料を食べる手を止め、まるで温泉に浸かっているかのようにヴァシリーは身体の力を抜いた。
『……ありがとね、ミカエル』
「いいって」
『俺、人にこんなに親切にされたの初めてなんだ……母さん以外に頼れる人なんて今までいなかったし、助けを求めても誰も助けてくれなかった。こんな姿だし友達だって……』
ポーチから取り出したタンプルソーダの王冠を外し、ヴァシリーに手渡しながら微笑んだ。
「―――なら、俺がお前の最初の友達になるよ」
『え? ……はははっ、ありがとうミカエル』
彼のお気に入りの炭酸飲料を手渡してから、大きな手と握手を交わした。
ヴァシリーが元の姿に戻ったら、楽しい事をたくさん教えてあげよう。
おすすめのマンガとか、映画とか、音楽とか。他にも美味しい食べ物とか、珍しい風景とか。とにかく教えてあげたい事がたくさんある。
無事に元の姿に戻る事が出来たら、何から始めようか。でも一番なのは本人がやりたいと思っている事だ。本人の意思を蔑ろにするわけにはいかない。
とにかく、彼にはこれからたくさん幸せになって欲しいものだ。
唐突に訪れたまどろみは、外から入り込んでくる冷たい風に浚われ消えていった。
そうだ、もう夏も終わり秋が始まる。昼夜の寒暖差はいよいよ激しくなって、白銀の月が昇る夜には吐き出す息も白く濁る。ノヴォシア名物、地獄の冬の訪れを知らせるような、そんな気温だった。
寒っ、と白い息を吐き出しながら目を覚ます。どうやら、昼間の疲れでそのまま眠ってしまっていたらしい。いかんいかん、また昼間の連中が戻ってくる可能性もあるというのに、見張りが居眠りをしてしまうとは何という体たらくか。
あくびをしながら、そういえばヴァシリーはどうなった、と泉の方に視線を向けた。沐浴を始めてからもう既に5時間以上、しかもこの気温ともなれば寒いだろう。せっかく本来の姿に戻れるかもしれないというのに、こんなところで凍えてしまったら大変だ。
幸いその辺に燃やせそうなものはあるし、何か燃やして暖でも……と起き上がろうとした俺の視線に飛び込んできたのは、未だオークの姿のままのヴァシリーの、大きな背中だった。
「……」
言い伝え通りの泉に来たというのに、姿が何も変わらない―――”本来あるべき姿に戻る”という効果は嘘だったのか、と、代わり映えしない自分の姿に絶望しているのだろう。
膝までの深さのところに立って、呆然と立ち尽くすヴァシリー。蒼く透き通った水面には、天井に開いた穴から覗く三日月が映っている。
「ヴァシリー」
『……』
「ほら、冷えてきたしこっちに来なよ。今火を起こすから」
『……』
「……もしかしたら、元の姿に戻れるのには何か条件があるのかもしれない。元の姿に戻れるまで付き合うからさ、そう落ち込まないでよ。ほら、食料もまだあるしごはんにしよう」
その辺に転がっていた木材(いい感じに乾燥している)を拾い集め、缶詰から剥がしたラベルを紙屑代わりに、トレンチライターで火をつけようとする。
やっと休む気になったのか、ヴァシリーがこっちを振り向いた。サーベルタイガーみたいに大きな牙の生えた口から白く濁った息を吐き、のしのしとクマのような足取りでこっちにやってくるヴァシリー。
火のついたラベルが木材に燃え移り、パチパチと音を立て始める。橙色の優しい光が周囲を照らし、微かな熱が周囲の寒さを蹴散らし始めた。
ばしゃ、とヴァシリーの大きな足が泉から上がった。
傍らまでやってきたヴァシリー。彼も寒かっただろう―――そう思いながら顔を見上げた俺は、思わず目を細めた。
眠ってしまう前まで、仲良く話をしていた新しい友人―――そんな彼の顔が、やけに険しいのだ。食い縛った牙の間からはよだれが滴り落ち、大きくぎょろりとした相貌は血走っていて、唸り声まで発している。
寒さの余り震えている……わけでは、ない。
「……まさか」
この感覚を、俺は知っている。
殺気だ。
身の危険を感じ、スタームルガーMkⅣのホルスターへ手を伸ばすのと、ヴァシリーが唸り声を発しながら飛びかかってきたのは同時だった。
油断していたのもあって、こんな手の届く距離まで接近を許してしまった状態では、銃という武器のアドバンテージなんてあったもんじゃない。サプレッサー付きのスタームルガーMkⅣがホルスターから顔を覗かせた頃には、俺の小さな身体はヴァシリーの……いや、オークのがっちりとした手に突き飛ばされ、そのまま床に押し倒される羽目になった。
床の上に背中を思い切り打ち付け、肺の中の空気が全て絞り出される。
慌てて息を吸おうと口をパクパクさせながら、咄嗟にその辺に転がっていた鉄パイプを掴んだ。錆の浮かんだそれを両手で掴んで楯代わりにしたところへ、ちょうどヴァシリーが掴みかかってきて、ごしゃぁっ、と嫌な音を立てて鉄パイプがくの字に折れ曲がる。
至近距離で俺を睨んでくるその相貌に、あの優しくて真っ直ぐなヴァシリーの面影なんてなかった。
あるのはただ、目の前の獲物を喰らおうという、原始的な欲求―――すなわち食欲に支配された、1体の魔物のみ。
「ま、まさか……まさかそんな……こ、こんな事が……ッ」
神様は、時折本当に悪辣な事をする。
人間を愛している、とあらゆる宗教では教えられる。主は人間を愛している。故にヒトの仔は家族を愛し、友を愛し、隣人を愛するべし。しかし世界中のありとあらゆる宗教でそう謳われておきながら、本当にごく稀に投げつけてくるこの理不尽は一体何なのだろう。
確かに、”生まれ変わりの泉”の言い伝えは本当だったらしい。
全ての生命を、あるべき姿に戻す魔法の泉。
それを頼って、オークの身体にヒトの心を宿し、呪われて生まれたヴァシリーは泉を目指した。そしてついにそれを見つけ、沐浴して本来の姿に戻ろうとした。
伝説の泉は、そんな彼に言い伝え通りの結果をもたらした。
あるべき姿に、彼を戻したのだ。
魔物の身体をヒトの身体に戻すのではなく。
ヒトの心を、魔物の心に。
つまり、今目の前にいるオークの中身はもう、俺の友達などではなく―――。
『グォォォォォォォォォォアァァァァァァァァァァァァァァ!!!』
ヴァシリーが―――いや、”オーク”が吼えた。
彼はもう、心優しいヴァシリーではない。
ただの、獰猛な魔物に成り下がってしまったのだ。




