進路、アルミヤへ
いったい誰がこんなところに穴を掘ったというのか。
何故か置いてあったニシンの塩漬けの缶詰と共に落下した落とし穴からなんとか這い上がった頃には、周囲を埋め尽くしていた白煙はすっかり薄れ、鬱蒼と生い茂る森が顔を覗かせていた。
もちろん、どこにも例の"喋るオーク"の姿はない。
「クソが!!」
泥にまみれた姿で、冒険者の1人はまだ水分を含みぬかるんだ地面を殴り付けた。ばちゃ、と泥の冷たい感触と水のような質感だけが、彼の抱く憤怒に応える。
あと少しでオークを仕留めることが出来た筈だった。相手は手負い、至近距離で弾丸を撃ち込んでやれば、いくらヒグマの如き堅牢な骨格を持つオークだろうと、その一撃からは立ち上がることは出来まい。
討伐できたならばそれでよし、出来ないならば騎士団に引き渡し、ノヴォシビルスクにある学術都市へと送り届けてもらえれば褒賞金も懐に入っただろう。
いずれにせよ、それなりの額になる案件だった筈だ。
それを、"何者か"が邪魔していった。
あのオークに協力者がいたのか、それは分からない。あるいは他の冒険者が獲物を横取りしていったのか……。
怒り狂ってこそいたが、しかし彼もまたCランクまで実力でのし上がってきた叩き上げの冒険者である。その視線は逃げ去った既に姿なき敵にではなく、ぬかるんだ地面に残る足跡に向けられていた。
そこにはさながら原始人のようにがっちりとした大きな足跡と、子供のような小ぢんまりとした足跡が、多量の水分を含み照り返す、ねっとりとした泥濘にくっきりと刻まれている。
電撃的な奇襲の後にすぐさま離脱したのだ、痕跡を消す暇すらない。
(小さい足跡……子供か?)
魔物の足跡……では、ない。
裸足で歩き回るゴブリンの足跡ならば、猿に近い形態の足が、指に至るまで足跡を克明に刻んでいる筈だ。
しかしその足跡は、靴を履いた足で地面を踏み締めたような、そんな形をしている。
この事から、少なくとも横槍を入れてきたのがヒトであることが分かる。
他者からの依頼を受けた冒険者がオークを連れ去った……一番あり得るとすればそれであろう。
内なる怒りを滾らせながら、彼はその小さな足跡を辿る。やがてオークと小さな足跡の逃避行は、農業用トラクターが穿つ轍に姿を変えたかと思いきや、うっすらと霧が浮かぶ森の中、それを東西に分断する形で敷設された線路の傍らでぷっつりと途切れた。
傍らには煤の臭いは無く、代わりにガソリンエンジンが発する排気の残り香が微かに漂っている。
それらの情報からヒントを得た彼は、やっとの思いで謎の落とし穴から這い出てきた仲間たちに向かって叫んだ。
「てめぇら列車の用意をしろ! 奴を追うぞ!」
警戒車の中は、戦車と比較するとスペースにかなりの余裕がある。
125mm砲に自動装填装置、そして東側の戦車にはお馴染みの、床に砲弾と装薬を敷き詰めるスタイルの弾薬庫。オプロートの砲塔もろとも移植されたそれらを組み込んでもなお、警戒車の中にはかなりのスペースが残っている。
それもそうだろう。全長30m、全高2.8m、全幅4mという巨体である。元々は貨物を露天式に積載するタイプの貨車に、装甲で覆われたキャビンやら戦闘室やらを追加した兵器である。
進軍や輸送時の負荷、その他運用上の制約がある戦車と違って、警戒車はとにもかくにも制約が緩い。だからそれだけの装備や設備があるにも関わらず、兵員室には仮眠スペースやエアコン、簡易冷蔵庫まで用意されていて、軍用兵器で蔑ろにされがちな居住性の良さが大きく改善されているのだ。
場合によっては、列車と分離しての長期間の作戦行動も視野に入れているのだからそれも当然と言えば当然ではある(もっとも、一番大きな要因はやはりスペースに余裕がある事だ)。
簡易冷蔵庫から取り出したタンプルソーダの瓶の王冠を外し、それをヴァシリーに手渡した。彼はしゅわしゅわと泡を立てる炭酸飲料を珍しそうに眺めていたけれど、それが飲み物である事を察するや、恐る恐る口をつけた。
そして彼の全身に、未知の刺激が走る。
『!?!?』
「どう?」
『え、なにこれ……え、え?』
ぐいっ、と瓶を一気に呷った。中に収まっていたタンプルソーダが一気になくなり、未知の刺激―――炭酸飲料にすっかり魅了されたヴァシリーは、ラベルの貼り付けられている瓶をまじまじと見つめる。
彼のリアクションに微笑ましくなるが、しかしいつまでも安心してはいられない。
砲塔のハッチから身を乗り出し、車長用のハッチに据え付けられているブローニングM2重機関銃を後方へと旋回させ、背後を警戒する。
警戒車の後へと置き去りにされていく線路はうっすらとかかる霧の中へと消えていて、聞こえてくる音はというと警戒車の動力源、オプロートのものをほぼそのまま流用したパワーパックの唸り声くらいのものだ。
それ以外には何も聞こえてこない。
「……」
さっきの冒険者たちは、果たしてこのまま引き下がるだろうか。
冒険者だって仕事なのだ。管理局で引き受けてくる仕事で報酬を得て、飯を食っている。それがより高額な報酬が手に入る仕事であれば、そう簡単には諦めてはくれない。
ヴァシリーを連れて逃げた際、足跡を消す余裕なんかなかった。ケッテンクラートの履帯の跡もだ。きっと、今でも現場に残っているだろう。そしてあの冒険者の中にそういう痕跡からこちらの進路を予測できるくらい頭の中が冷静な奴がいたとしたら、間違いなく追ってくる。
今の俺にできるのは、こうして背後からの脅威に備えること―――そしてそんな冷静な奴が相手に居ないよう祈ることだけだ。
兵員室の中で人生初の炭酸飲料にすっかり魅了されたヴァシリーに、2本目のタンプルソーダを渡してから、運転席のある車体前方へと向かった。
砲塔の中へと引っ込み、過剰なほど分厚い隔壁を開けて先へと進む。電動で開くこの隔壁は、戦闘中に万一被弾した場合、爆風が運転席まで及ぶのを防ぐためのものだ。西側の戦車は乗員の乗るスペースと弾薬庫はしっかり分けられていて、爆風を逃がすための『ブローオフパネル』というものも装備されているけれど、東側の戦車はというと床に砲弾と装薬を敷き詰める方式だから、こんなところに被弾したら全滅は確定である。
なのでせめて運転席だけは……という、パヴェルの苦肉の策なのだろう。オプロートにはない装備である。
すっかり人が開け閉めできる重さを逸脱した超重量の隔壁が、電動モーターによってこじ開けられていく。向こうには相変わらず装甲で覆われた視界の悪い運転席があり、操縦手の席に座って運転しているシスター・イルゼは、操縦手用の覗き窓から顔を出して前方の様子を伺っていた。
「この調子だと、あと3時間ってところかな」
「ええ、それくらいでしょう」
車内に引っ込みつつ、覗き窓を閉鎖してペリスコープを覗き込むシスター・イルゼ。潜水艦の潜望鏡と全く同じ原理のそれで前方の視界を確保しつつ、彼女はカーブに備え速度を落とした。
「それにしても、”竜の血”の被害者ですか……悲惨なものです」
悲しそうな声で、シスター・イルゼは言った。
「アルミヤ半島にあるという”生まれ変わりの泉”がどのようなものなのか、私にはわかりません。けれども竜の血による呪いはかなり深いものです。生半可な手段で完全に浄化するのは……」
「そんなにか」
「はい。ご存じの通り、竜の血は古い時代から生きている竜たちの怨嗟により変質した、高濃度の呪いそのものです。触れるだけで身体は瞬く間に蝕まれ、決して消す事の出来ない呪いを受けるのです」
伝承によると、ウチのご先祖様とその盟友ニキーティチがズメイの首の1つを切り落とした際、溢れ出た竜の血は三日三晩に渡ってアラル山脈を蹂躙し続けた。山脈は火の海と化し、竜の血に触れた植物は枯れ果て、動物たちは魂を抜き取られ屍と化した―――伝承ではそう言い伝えられている。
「そしてその呪いは、どのような形で発現するか分からない」
「ランダムなのか?」
「ええ、そういう事になります。竜の血を浴びた瞬間に呪われてしまう人もいれば、触れた段階だけでは火傷に似た症状で済んでも、遥か未来の子孫の世代に呪いが発現してしまうケースもあるのだと聞いています。彼……ヴァシリーさんの場合は後者ですね」
古の竜の呪い。
それは深く、深く、そしてただただ禍々しい。
しかし、理不尽なものではないか。
祖先が受けた呪いが、遥か未来を生きる自分に降りかかってくる―――何もした覚えがないのに。
ズメイ討伐の際、呪いをその身に受けた人物として有名なのは、やはり戦いで消耗した英雄イリヤーに代わり、竜の血の中に飛び込み呪いを封じたもう1人の英雄―――『ドブルィニャ・ニキーティチ』だろう。
ズメイの遺した竜の血は、ノヴォシアの地に吸い込まれる事無く、三日に渡って地上に残り、破壊の限りを尽くした。このままではアラル山脈は全滅し、被害は拡大する一方―――それを防ぐために身体を張り、詠唱を行い竜の血を大地に吸い込ませた英雄こそが、イリヤーの盟友ニキーティチなのである。
そして彼はその代償に、最も重い呪いを受けたと言われている。
「しかし、その”生まれ変わりの泉”ってどんなもんなんだろうね、本当に」
「あら、ミカエルさんはご存じないのですか?」
「うん……俺イライナ出身だけど、あまり聞いた事がない」
ワリャーグの占領地域内に存在したからという事情もあるが、しかしそんな泉があるなら伝承の欠片くらい耳にしていいような気もする。
パヴェルに聞いてみようかなと思ったけれど、既にアレーサにいる列車との通信可能範囲を超えている。人工衛星も中継基地もないから、通信可能範囲を超えてしまった状態では何もできない。
強いて言うなら伝書鳩や伝令くらいのものだ。事実、無線なんてものが無かった第一次世界大戦では伝令や伝書鳩が活躍したのだそうだ。
警戒車に伝書鳩を用意してもいいかもしれない……そんな事を考えていると、何やら腐ったような、強烈な悪臭が車内へと流れ込んできた。
「うっ……何でしょう、この臭いは」
口元を押さえながら不快そうな顔をするシスター・イルゼ。ミカエル君はというと、これはまさかと思いながら運転席にある脱出用ハッチを開けた。
すっかり霧も晴れ、森を抜けた地平線の彼方―――アルミヤ半島へと伸びる線路の向こうに、完熟した桃を思わせるピンク色の海が広がっていた。
「あれだよシスター。見える? 11時方向のピンク色の海」
「え?」
潜望鏡を旋回させたイルゼが、そのピンク色の海原に息を呑んだ。
アルミヤ半島の付け根の部分―――そこに流れ込んだ海が、ピンク色に染まっているのだ。
昔、屋敷にあった写真集で見た事がある風景だ。アルミヤ半島の付け根部分には、”ピンク色に染まり猛烈な悪臭を放つ海”が存在する、と。
その名は『腐海』。
水深の浅い海で、夏になると特に強烈な腐臭を放つのだそうだ。今は夏も終わり、これから秋というシーズンなので悪臭は控えめかもしれないが……全盛期はどんなもんなんだろうか。シュールストレミングとどっちが強烈か、是非とも比べてみたいものである。
ちなみにあのピンク色の海は、海水がピンク色に染まっているわけではなく、海底に生息している藻類がピンク色でああいう海面に見えているだけなんだとか。
それにしても美しく、幻想的な場所である……臭いを除けば。
腐海の傍らを通過し、警戒車はついにアルミヤ半島へ。目的地はアルミヤ半島の付け根に位置する『チャイヌイ集落』、その近郊の洞窟にあるという”生まれ変わりの泉”。
そこに行けば、きっとヴァシリーは元の姿に戻る事が出来るのだろう。いくら竜の血を浴びて呪われた身体とはいえ、『生命をあるべき姿へ戻す』という言い伝えが本当ならば、クソッタレな呪いで捻じ曲げられた因果を正し、彼は本来あるべき姿へと戻る筈だ。
そしてそれまでに、他の冒険者との衝突も想定される。
運転席を離れ、兵員室へと戻った。ロッカーの中から弾薬箱を取り出し、中に収まっている5.56mmゴム弾を用意する。メインアームは魔物用のAK-308からAK-19に変更する事になりそうだ。
サイドアームはMP17でもいいが、非殺傷用にもう1つ用意したいところである。
メニュー画面を開き、武器の一覧を開く。さながらゲーム画面みたいな武器のリストの中からあるハンドガンを選び召喚すると、手のひらの中に華奢で、しかし確かに銃の感触が宿った。
すらりとした、どこか古めかしい銃身。そのせいでとんでもなく古い時代の銃であり、尚且つ高価という印象を与えるがそんな事はない。コイツは冷戦中の銃で、比較的安価、しかもそれで信頼性が高く命中精度も優秀という優れものだ。
『スタームルガーMkⅣ』―――第二のサイドアームとして選択した銃の名である。
.22LR弾という9mmパラベラム弾よりも小さな弾薬を使用する。そのため威力が低いと思われがちだが、弾速が速く十分な殺傷力がある。サプレッサーを装着したモデルも存在し、それらは特殊な任務のために採用された事もあるのだとか。
ミカエル君が選んだのは、そんな傑作拳銃シリーズの1つ、MkⅣ。
ヴァシリーの件をパヴェルに伝え、シスター・イルゼに応援を頼んだ際、無理を言って用意してもらった麻酔弾を弾丸代わりにマガジンに装填していく。弾丸が小さくなった分内部容積にも余裕がなくなり、麻酔薬は減少したが……しかしそこは変態技術と安心のパヴェル、対策はしっかりと用意してある。
弾薬箱に同封されていた説明書(なんかロリ巨乳と化したミカエル君のイラスト付きだけど何だこれ)によると、この新型麻酔薬は戦闘中になりストレスが増した人間に対しては効果が薄く遅効性となるが、非戦闘状態でありストレスが比較的軽い状態の人間に対しては効果が高く速効性となる……らしい。
つまり分かりやすく言うと、『戦闘中の敵には遅効性、非戦闘中の敵には速効性』というわけだ。不意討ち専用の麻酔拳銃、というわけである。
そしてそれを発射するスタームルガーMkⅣの方にも、転生者の能力を使ってカスタマイズを施しておく。銃身にはサプレッサーを装着、銃身下のピカティニー・レールにはレーザーサイトを、機関部上のピカティニー・レールにはドットサイトを装着。これで格段に狙いやすくなる。
麻酔弾と一緒に用意してもらったホルスターにそれを収めながら、祈った。
冒険者との不要な衝突が起こりませんように、と。
そして―――ヴァシリーが本来の姿に戻る事が出来ますように、と。
※腐海はウクライナに実在する海の名前です。




