ハルギン国立遺伝子研究所
キリウの地下に眠るダンジョンは、5年前の状態のまま残されていた。
3mくらいの高さがあるガラスの柱。中にはどろりとした蒼い培養液が充填されていて、さながら蛍のように薄暗い施設の中でぼんやりと光を放っている。
どことなく幻想的な美しさがあるが、しかしそれもガラスの柱に収まっている”中身”を見るまでの感想だ。
培養液の中、身体中にケーブルを接続された状態で浮かんでいるのは、半裸の人間だった。
120年前(正確にはもう130年前か)、突如として姿を消した旧人類。その姿形は転生前の世界の人類と何も変わらないのだが、しかしよく見ると右腕は切り取られていて、その代わりに魔物のものと思われる右腕がそのまま繋がれている。
何年も眠り続けるその人物の顔には、苦悶の表情が張り付いていた。今にもガラスの柱をぶち破り、こんな仕打ちをした人々への復讐を始めそうな、見ているだけで背筋に冷たい感触が走るおぞましい表情。
多くの獣人は皆、旧人類を自らの創造主と崇める。獣人たちを造り上げた偉大な創造主であり、彼らに間違いはない―――獣人たちの思考の根底には、そんな刷り込みにも似たものが埋め込まれている。
身体は獣人でも中身が転生者だからなのだろう、ミカエル君にはそんな事はないのだが……。
こういう思考回路だからなのだろう、獣人たちは技術の発展をダンジョンから発掘された旧人類の技術の解析のみに頼り、自ら新しい技術を生み出そうとしない。社会の構造だってそのままで、特におかしい点が残るのが、ノヴォシアにおける憲兵隊と法務省の関係だ。
この国には、警察組織が二重に存在している事になる。
けれどもそれが今まで改革される事無く前文明の頃から残っているのもまた、獣人たちの思考の根底に【自分たちの創造主たる旧人類こそが絶対、誤りなどない】という刷り込みにも似た考えがあるからだ。
つまり獣人たちは旧人類を神のように崇めているわけだが、しかしここで実験されていたものを見る限りでは、旧人類は倫理観という概念をどこかに放り投げてきたように思えてならない。
他のガラスの柱にも、何とも歪な形状の人のようなものが収められていた。首から上がゴブリンになっている実験体、腰から下がなく、断面から無数の触手を生やした化け物と化した実験体、頭の半分が割れてそこから巨大な眼球が覗いている実験体……。
あまりにも冒涜的すぎる作品の数々に、思わず朝に食べたお粥を吐き出しそうになった。
「ご主人様、大丈夫ですか?」
「……大丈夫だ」
「気分が悪くなったらいつでも申し上げてください。クラリスがモザイクを用意いたしますので」
「自主規制ありがとう」
モザイクを常時携帯するのもまたメイドの嗜みである(?)。
そんな茶番はさておき、ここに俺たち以外の人間が立ち入った形跡がないのは本当に幸運だった。床に堆積した埃の状況から察するに、少なくともここ5年の間にここを訪れた人間は誰もいない。
以前、俺が気を失っている間にクラリスが倒したと思われるゴブリンの白骨死体がここにもあった。身長1.2mの小柄な魔物の骨は、人間のそれと構造は似ているけれど、とにかくサイズが小さい。
AKS-74Uを構えながら、警戒して進んだ。ミカエル君のケモミミは何の物音も察知していないし、嗅覚も黴臭い空気を拾うばかりで、魔物とかその他の存在は感知できない。
それは俺よりも発達した嗅覚と聴覚を持つクラリスも同様のようだが、しかしだからと言って敵がいないと判断するのは愚の骨頂。もしかしたらこちらの索敵手段を欺く能力を持った、未知の魔物が潜んでいるかもしれない。
ここで考え過ぎだ、と思った奴は赤点だ。敵は常にこちらの予想外の手段で攻めてくる。全く備えていなかったような手段で攻撃され、備えが甘かったではもう遅いのだ。
《ミカ、その実験体をアップで映せるか?》
ノイズ交じりのパヴェルの声。やはり地下だと電波も届きにくいようだ。
このまま奥に行ったら、彼との通信も断たれる事になるかもしれない―――バックアップの消失は覚悟の上だが、その時がじわじわと近付いている事を自覚するのは、何とも言えない不安を感じるものである。
言われた通りに、近くのガラスの柱に収まっている実験体をカメラに映した。ガラスの柱の中では、女性と思われる人間の上半身が収まっている。腹から下の肉は消失していて、表面の皮膚も胸から下は剥がれた、何とも痛々しい姿だった。腰から下の断面からは背骨や肋骨が覗いている。
その顔を見た途端、俺とクラリスは息を呑んだ。
「……これって」
「クラリスと……同じ……?」
培養液漬けにされていた女性の顔は、クラリスと瓜二つだった。
いや、大人びた容姿のクラリスと比較すると、まだ幼さがある。
蒼い髪と、その中から伸びたブレード状の角。皮膚と肉が消失しているが故に露になっている背骨や尾骨の形状も、人間のそれとは異なっているように見えた。竜人の人間離れした動きを可能にするためなのだろう、骨格の形状は人間のそれと比較するとどっしりしていて、獣のような力強さがある。
が、そんな事に感心している余裕など俺には無かった。
《……クラリスの同胞か》
「クラリス?」
彼女の方を向くと、MG3を腰だめに構えていたクラリスは、ぶるぶると震えながら左手で頭を押さえていた。紅い瞳が震え、彼女の白い肌に脂汗が浮かぶ。
「クラリス、大丈夫か?」
「ええ……なんとか」
「何か思い出したのか?」
「クラリスは……クラリスは彼女を知っています」
「何だって?」
「気さくで、誰にでも優しくて……部隊の……ムードメーカーだった……」
「部隊って……何の?」
「くっ……ぅ……」
それ以上は言えないのか、クラリスは呻き声を発するばかりになってしまった。
崩れ落ちそうになる彼女を抱き抱え、ガラスの柱の方を振り向く。一体何が原因でこんな姿になってしまったのかは分からないけれど、ガラスの柱の中で培養液漬けにされているクラリスに瓜二つの竜人の女性は、眠っているように安らかな表情をしていた。
無残な姿とその表情があまりにもミスマッチで、得体の知れない恐怖が身体の中を駆け巡る。
「どうするクラリス、引き返すか」
「いえ……行きましょう」
呼吸を整えながら、クラリスは立ち上がった。
「知らなければ……クラリスの、自分の正体を」
「……わかった」
《ミカ、分かっていると思うがお前がクラリスの主人だ。彼女が無理だと思ったらストップをかけるのもお前の仕事だからな》
「分かってるよ」
とにかく、無理はしないでほしいものだ。
スマホを取り出し、写真を撮った。カメラの映像以外にも証拠は多い方が良いだろうから。
クラリスは”例の組織”の関係者であると思っていたが、しかしそれも分からなくなった。こんなところにクラリスの同胞が眠っているという事は、やはり竜人はこの遺伝子研究所で生み出された存在なのだろうか。
そもそも”例の組織”はこの世界の存在ではなく、別の世界からやってきた可能性もパヴェルは指摘していたが……それも本当の話かどうかは分からない。いよいよ訳が分からなくなってきたが、しかし組織に所属していた女兵士、”シェリル”もクラリスと同じ竜人であったことから、クラリスの正体を知る事は組織の正体を知ることに繋がる、というのは確実だろう。
心配なのは、クラリスの事だ。
記憶喪失の人間に、無理に記憶を思い出させようとする行為は危険であるという。今こうして彼女のルーツを探っているのだって、多分専門家が見たら卒倒するような無茶な行為に他ならないはずだ。
それでもいいのか、クラリス。
問いかけるように彼女を見ると、汗を拭い去ったクラリスは力強く頷いた。
クラリスはまだやれます……そう、訴えているようにも思えた。
《ミカ……通信……》
ノイズが酷い。彼の声も、部分的にしか聞き取れない。
「パヴェル、パヴェル?」
《ここまで……すまんが後………の判断……》
通信が切断された。
ここから先は自分の判断、か。何とも心細いが、やるしかないだろう。
奥へと進むと、やけに大きな白骨死体が転がっていた。熊の骨のようにも見えるが、骨格を見れば熊とは全く別の生物のものである事が分かる。
エルダーゴブリン―――5年前、AKMで射殺した個体のものだ。
よく見ると骨には銃弾で穿たれた傷跡がいくつか残っているのが分かる。
《ミカ、聞こえるか》
「パヴェル?」
唐突にヘッドセットから聞こえた仲間の声に、安堵が言葉と共に漏れた。
ノイズ一つないクリーンな声だ。
「どうして? 電波は届かなくなったんじゃ?」
《こっちで電波の受信感度をいろいろ調整してみた。今まで通り話せるぞ》
感度調整だけでこんなにもクリーンになるものだろうか。
ちょっと違和感を覚えながらも、エルダーゴブリンの死体を通過し奥へと進んでいった。目的地はクラリスが眠っていたあの広間。あそこに、彼女の正体に関する何かが隠されている筈だ。
エルダーゴブリンの白骨死体がある広間を抜け、通路へと差し掛かった。
ポーチの中から持ってきたライトを取り出して、通路を照らしながら進む。
《ミカ、今すぐゲームの電源を切れ!》
「……なんだって?」
唐突に聞こえた、必死なパヴェルの声。しかしその内容があまりにも今の状況に無関係だったものだから、思わず理解するまでに時間がかかってしまった。
ゲームの電源? コイツは何を言ってるんだ?
「お前急にどうした?」
《……》
返答はない。
おかしい。アイツ、任務中にウォッカをキメるような奴だったか?
言い間違えとも思えないし……。
何とも言えない不気味さを感じつつ、クリアリングしながら先へと進んでいった。
《盛岡、新花巻、北上、水沢江刺、一関、くりこま高原、古川、仙台、白石蔵王、福島、郡山、新白河、宇都宮、大宮、上野、東京》
「パヴェル、どうしたんだ? パヴェル!?」
酔っぱらったわけじゃあない……何かがおかしい。
無線機のスイッチを切るべきか、ちょっと真面目に悩んだ。今思うと、さっき通信が切断されてから彼の様子がおかしくなった。これは外部からのジャミングか何かなのだろうか。
いずれにせよ、パヴェルからのサポートはもう完全に期待できなくなった。
暗い通路をゆっくりと進み、辿り着いたのはまたしても広大な空間だった。ここにもさっきのように巨大なガラスの柱がいくつか置かれているが、そのほとんどは中身がない。培養液もなく、ただただ透明なガラスの柱と化しているばかりである。
その中央に鎮座する1つは、半ばほどから割れていた。
内側で眠っていた”何か”が、それをぶち破り脱走したのだ。
そう、クラリスが眠っていた場所である。
「ここだ」
ここにある筈なのだ―――クラリスのルーツを知るための鍵が。
パンドラの箱が。
AKS-74Uの保持をスリングに任せ、左手にライトを、右手にマカロフを持つ。マカロフは今まで扱ってきた拳銃の中ではコンパクトで、手の小さいミカエル君的にはちょうどいいサイズだった……8発という少ない弾数を除けばいい拳銃だと思う。
5年前、ゴブリンの群れに追われてここに逃げ込んだ時は周囲をチェックしておく余裕なんて無かったからだけど、改めて周囲を見渡してみると、辺りには無数の書類とゴブリンの白骨死体が散乱していた。
何かの研究室なのだろう。
人間の遺伝子と竜の遺伝子を掛け合わせ、竜人を造り出すための場所なのだろうか。
散乱している資料の一つを拾い上げ、ライトを当てながら解読を試みた。幸いな事に使われている文字や文法は現代のノヴォシア語のまま(ただし若干言い回しに古さが見られる)で、解読は容易だった。
【侵略者の生体サンプルQZ-663について】
侵略者の……生体サンプル?
添付されている白黒写真には、どこかで撮影されたと思われる兵士の姿が写っている。黒い軍服の上にチェストリグ、そして昔のドイツで使われていたシュタールヘルムを思わせるヘルメットを身に着けた兵士たちが、旧人類と思われるマスケットを手にした兵士たちに銃を突きつけられ連行されていくところだった。
別の写真には、クラリスの顔が写っている。
今の優しそうな彼女とは打って変わって、長い間戦場にいた兵士のような、本当に同一人物なのかと疑ってしまうほどの鋭い眼光がある。
【我が国を侵略した未知の勢力の捕虜を、これより解析にかける。簡易解析ではヒトと竜の遺伝子を併せ持つ種族、その遺伝子をベースとした複製の模様である。敵性勢力の解析に加え、この世界では未だ成功例のないホムンクルス製造の鍵に繋がるかもしれない。皇帝陛下からの期待に応えるためにも、この竜人兵の解析を行う。なお、捕獲に成功した生体サンプルの内の1体、個体名『アリシア』は既に解剖を行い、培養液漬けにした。詳細は別紙を確認されたい】
個体名アリシア―――さっき、腰から下の肉を剥離された状態で培養液に浮かんでいた竜人の女兵士の事だろう。クラリス曰く『部隊のムードメーカー』だったそうだが……。
おそらくこれは旧人類が遺したものだ。文章中に出てくる”未知の勢力”、”敵性勢力”とは一体何なのか。もしかしてこれこそが、俺たちが度々交戦している”例の組織”なのだろうか。
もしそうだと仮定すると、次のような仮説ができあがる。
クラリスは”例の組織”の兵士の1人で、旧人類との戦闘に参加していた。その戦闘中に部隊の仲間と共に鹵獲され、この施設に連れて来られた……部下の1人は解剖され、クラリスも解析目的の解剖を待つだけだったのかもしれない。彼女以外に鹵獲されたと思われる竜人兵がおらず、クラリス1人が培養液漬けにされて120年間眠り続けていたのもそれで辻褄は合う。
なぜ彼女だけが残されたのかは分からない。貴重なサンプルを全て解剖に回してしまうのは拙いと判断したのか、それとも―――当初の仮説通り、その間に”例の組織”が旧人類を滅ぼしたせいで解析どころではなくなり、ただ彼女だけがキリウの地下深くに遺されたのか。
「……」
「クラリス?」
自分が収まっていたガラスの柱を見つめていたクラリスは、震えていた。
「クラリ―――」
「―――あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
突如として、彼女の大きく開かれた口から、今まで発した事のないような声が迸った。
彼女がこんなにも声を荒げるなんて、と驚愕していたのも束の間、その声はMG3の銃声に掻き消され、静寂が支配していた研究室の中は一気に7.62×51mmNATO弾の銃声に支配される事になった。
弾雨に晒され、ガラスの柱が次々に割れていく。天井からぶら下がっていたケーブルが切断され、割れたガラスの破片が埃まみれの床に散らばった。
「クラリス、やめろ! クラリス!!」
「死ねっ、死ねぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
「どうしたんだクラリス! クラリス!!」
拙い、錯乱している。
凄まじい勢いで火を噴き続けていたMG3が沈黙し、ヒートシールドの中から、うっすらと赤く焼けた銃身が覗く。
弾丸を撃ち尽くした事で落ち着いたのか、クラリスはゆっくりと崩れ落ちた。顔にはびっしりと脂汗が浮かび、長距離を走っても息を切らす事のなかったあのクラリスが、激しく呼吸を乱している。
「クラリス……」
「……思い出しました、ご主人様。クラリスは……」
そこまで言いかけたところで、ギャリッ、とガラスの破片を踏みつけるような硬質な音が、すぐ後ろから聞こえた。
「……え?」
振り向くと、そこには黒い甲冑に身を包んだ騎士が―――手にした剣を振り上げて、立っていた。




