キリウ湖
過行く景色の中に、看板が見えてきた。
『この先、イライナ地方』―――大地を埋め尽くす麦と、天高く広がる青空。黄金と蒼のコントラストを背景に、イライナ語でそう書かれた看板が、あっという間に列車の脇を通り過ぎていった。
帰ってきた―――長旅を経験してきたからなのだろう、そんな感情が込み上げてきた。キリウでの生活はろくでもなかったが、しかし母とクラリスが支えてくれたからこそ、絶望するような事はなかったし、希望を見出す事も出来た。そんな経験を繰り返してきた故郷が、この線路の向こうで待ち受けている。
客車の屋根にあるブローニングM2重機関銃を清掃していると、、線路に沿ってイライナへと南下する川が見えた。カラピャチ川の下流だが、しかしそれもノヴォシア方面から流れてくるガリエプル川の本流と合流して、大きな川へと姿を変えた。
この巨大な川は、ノヴォシアでは『バレスク運河』とも呼ばれる事があるが、イライナではそのままガリエプル川と呼称される。ノヴォシア側の呼称はかつてイライナ併合の際の侵略戦争で、この川での戦いを勝利に導いたバレスク将軍の名前を冠しているらしく、イライナ人はみんなそう呼ぶのを嫌う傾向にある。
そりゃあ自分たちとの戦争で領土を占領していった将軍の名前なんか付けられたら、そう呼びたくもなくなるものだ。この辺りからも、イライナとノヴォシアという2つの地方の確執が見て取れる。
しばらくすると、隣の線路を別の列車が走ってきた。ベラシア行きの列車だろうかと思ったが、様子が違う。列車の屋根の上にはガトリング砲があって、銃座には私服姿の冒険者らしき人影が見える。
同業者なのだろう。
機関車に居るであろうルカが警笛を鳴らして挨拶すると、向こうもこっちに警笛を鳴らしながら手を振ってくれた。
こうやって、別の冒険者の列車とすれ違う際はお互いに警笛を鳴らし、互いの旅の安全を祈るのが礼儀となっている。
「今からベラシアに行く方々ですね」
一緒に銃座の清掃をしていたシスター・イルゼが言う。仕事を求めてベラシアに行く冒険者は多いが、あそこは魔物と人類がガチの戦争をしている魔境である。仕事はあるが難易度も高く、命を落とす冒険者は後を絶たないのだそうだ。
どうか彼らも無事に帰ってきてほしいものである。
防盾に付着した煤を何とか落とし、額の汗を拭った。客車の屋根に対空戦闘、あるいは対地戦闘用に防盾とブローニングM2重機関銃を連装で配置しているわけだが、機関車が盛大に黒煙を吹き上げるせいで煤がとにかく付着する。銃身から防盾に至るまで真っ黒だ。だから当番を決めて、定期的に掃除する事にしている。
「ふー……これで最後かな?」
「ええ、そうですね。これが最後です」
「しかしシスター、その服暑くないの?」
煤で真っ黒になった雑巾を片手に問いかけると、シスター・イルゼはきょとんとした顔で答えてくれた。
「え? ああ、この修道服ですか?」
「そうそう」
「これ、いつもとデザインが変わらないように見えるかもしれませんが、ちょっと生地が薄くなってるんですよ」
「え、そうなの?」
「ええ。だから通気性も良くて、意外と涼しいのです」
夏仕様だったのかそれ。見た目が変わらんから分からなかった……。
先に列車の中へと戻るシスター・イルゼ。こういう時、女性を先に行かせるように徹底しているのだよミカエル君は。紳士だからね……オイコラ誰だ今「お前淑女だろ」って言った奴。
車内に戻り、銃座へと繋がるハッチ(デザインは戦車の砲塔にあるハッチとほぼ同じだ)を閉じる。タラップを滑り降りると、中で待っていたクラリスがタオルを差し出してくれた。
「お疲れ様です、ご主人様」
「ああ、ありがとう」
タオルを受け取り、汗と顔に付着した煤を拭き取る。あっという間に黒くなってしまったタオルを見てぎょっとしていると、クスクスとクラリスが笑った。
「まだ黒い?」
「ええ、黒猫さんかと思いましたわ」
「そんにゃ……」
俺ジャコウネコ科なんですが。ハクビシンなんですが。
うわあ、肉球まで真っ黒になってる……。
「うふふ、一度シャワーを浴びて来られた方がよろしいのでは?」
「ああ、そうするよ」
とりあえず、シャワーを浴びて来ようかな。
部屋に戻ってから着替えを取り、2号車の1階へ。2号車は1階の前半分がシャワールーム、後ろ半分が日用品や食料などが保管されている倉庫になっている。2階は食堂車で、モニカが絶叫するのは毎回ここだ。
シャワールームに入ると、既に水の流れる音が聞こえてきた。イルゼかな、と思いながらアクリル板と防水カーテンで仕切られた個室に入り、シャワーで髪を濡らしてからシャンプーで汗と煤を落としていく。
後は身体を洗って、タオルで頭を拭きながら個室を出た。
「「あっ」」
すぐ目の前に、身体にバスタオルを巻いたシスター・イルゼがいた。
「やあシスター」
「あら、ミカエルさんもいらしたんですね。煤、凄かったですもんね」
「そうだね……ははは」
うん、凄いね……さすがIカップ。
目線を逸らしながら頭を拭いていると、イルゼがこっちに近付いてきた。ありゃ、バスタオルに覆われていてもなお主張の激しい胸を見てたことがバレたかと制裁を覚悟するミカエル君だったが、しかしシスター・イルゼが伸ばしたのはミカエル君のケモミミだった。
先っぽまでふわっふわの毛で覆われている、ミカエル君のチャームポイントその1である。そしてよくクラリスとモニカに吸われる場所でもある。そこだけ感度が敏感なのでやめてほしいものだ……うっかりするとロリボイスで喘ぐことになる。
まさか吸うつもりかと思っているうちに、ミカエル君の顔にシスター・イルゼのおっぱいが当たった。
さすがにIカップだと柔らかいだけじゃない、ずっしり重い。胸の大きな人は大変そうだ……なんて言ったらモニカに殴られそうなので頭の中で思うだけにしよう。
脳内の二頭身ミカエル君ズが鼻血ブーしてぶっ倒れていると、シスター・イルゼはニコニコしながら俺の顔を覗き込んだ。
「ほら、ちょっと泡がついてましたよ」
「ど、どうも」
ありゃ、流し残したのがあったか。
ペタペタと頭を触ってみるが、シャンプーでぬるぬるしているところは見当たらない。今のが最後だったんだろうか。
まあいいや、と身体を拭きながらシャワールームで待機。さすがにイルゼと一緒に着替え……なんて事はしない。そんな事が出来るのはラノベ主人公くらいのもんである。ミカエル君はどうせ陰キャ、教室の隅っこで弁当食べたり数少ない友達と今期のアニメについて語り合ったり、大人になったらなったでネットで知り合った人とオフ会したり同人イベント行ったり……そんな感じの終身名誉オタクである。画面の向こうの女の子としか縁のなかった哀れな……あれ、なんか涙が。
「どうぞ~」
「は~い」
イルゼが洗面所からいなくなったのを確認し、手早く着替えを済ませてからドライヤーを手に取った。
髪伸ばしてみてから分かったんだけど、やっぱり髪が長いと洗ったり乾かしたりするのが大変だ。女の子は大変である……いや俺男だけども。
ガー、とドライヤーで髪を乾かし、ケモミミの毛もちゃんと乾いているのを確認。真っ白な前髪もちゃんと乾いてる、ヨシ。
前髪の一部だけ白くなってるところもミカエル君のチャームポイントである。前髪の真ん中と左右の一部がちょっと細く、白髪になっている。ハクビシンだからね、これが無いとただのイタチになってしまう。
外に出ようとすると、勢いよくシャワールームのドアが開いた。
「……モニカ? クラリスも?」
「いやー、暑いわねぇー!」
「あらご主人様、ちょうどシャワーが終わりましたのね?」
「そ、そうだけど―――ちょ、ちょっ、何なのお前ら!?」
きょとんとしていると2人の手が伸びてきてあっという間に壁際に追い詰められてしまう。待って、何コレ何コレ。
「グヘヘ、シャンプーの良い香りですわぁ……♪」
「吸わせろ……吸わせろぉ……!」
指をワキワキ動かしながら迫ってくるクラリスとモニカ。え、何? まさか2人とも俺がシャワー終わるの待ってたの???
「ま、待って待って、ここは平和的に―――」
「「いただきまーす♪」」
「にゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!!」
こうして風呂上りのジャコウネコ吸いが始まった。
「ぐすっ、ぐすっ……もうお嫁に行けない……」
「アイヤー……災難ネ、ヨシヨシ」
リーファになでなでしてもらいながら、ちらりと2人の方を見た。先ほどまでシャワールームでジャコウネコ吸いを堪能していたモニカとクラリスはというと、頭の上に大きな大きな、それこそ一昔前のギャグマンガみたいなたんこぶを乗っけながら、不服そうな顔をしている。
そして2人の前には、ハリセン(待てどこで手に入れた)片手に仁王立ちするシスター・イルゼの姿が。
「あのですね、ミカエルさんだって女の子なんですから!」
「不服ですわ……」
「ちょっとジャコウネコ吸っただけなのに……」
「いいですか、もっとミカエルさんの意思も尊重して―――」
ああ、お説教タイム始まった。
というか、俺のこと撫でてくれてるリーファもどさくさに紛れて吸い始めたんだけど? それだけでは飽き足らずケモミミの先っぽはむはむし始めたんだけど? シスター? こっちはノーカンなのシスター?
あとシスター、さらりと人の性別を間違えるんじゃない。俺は男……だよね?
食堂車でそんな感じでわちゃわちゃしていると、スピーカーからカリンカをアレンジしたチャイムが流れ、続けてパヴェルの声が聞こえてきた。
《えー、同志諸君に通達。当列車はこれより、キリウ行き特急が後方より通過するため待避所に入る。その際真水の補充も行うので、5時間くらいキリウ湖付近の待避所に停車する。湖で遊ぶなり訓練するなり、ご自由にどうぞ》
ブヅッ、と放送の切れる音に、食堂車にいた血盟旅団一同は顔を見合わせた。
キリウ湖は、イライナ最大の都市キリウの北方に位置する湖だ。ガリエプル川の流れの中にあり、大きく広がった流域がそう呼ばれている。上流にはガリエプル川本流とカラピャチ川の合流地点があって、下流はそのままキリウへ繋がっている。
キリウから距離がそう遠くない事もあって、ここに泳ぎに来たり釣りをしたり、キャンプをしたりと好き勝手に遊べる場所でもある。
一応、貯水池としてここを活用するという計画もあるらしい。
水質も非常に良く、魚も数多く生息するキリウ湖。本格的な海水浴はアレーサに到着するまでお預け(というか夏が終わるまでに絶対間に合わない。向こうに到着する頃にはもう秋だ)になるので、ここで泳いでおいてもいいだろう。
「あれ、そういえば俺海パンあったっけ」
そう呟き、その直後に己の失策を悟った。
しまった、ベラシアにいるうちに買っておけばよかった、と。そういやモニカとかシスター・イルゼがなにか買い物袋を持って帰ってきてたけど、アレもしかして水着だったのか? こうなる事を予測して買っていたのか?
うわあミスった、どうしよう。全裸で泳ぐわけにもいかないし、こりゃあ俺は釣りかな……。
ちょっと残念、と思っている間に列車は待避所に入った。食堂車の窓の向こうには、もう既にキリウ湖の水面が見える。
今日の天気は快晴、キリウの気温は27度。泳ぐには丁度いい気温だけど、これも長くは続かない。来月に入った途端に気温が急激に下がっていって、あっという間にストーブが必要になってしまう。
そしてそのままあの地獄の冬に繋がるのだ。
停車した列車の隣を、ミリアンスクからキリウに向かうと思われる特急が通過していった。車体には黄金の装飾があり、貴族向けの列車である事が分かる。
さっきまでの不服そうな表情はどこへやら、真っ先に立ち上がったのはモニカ師匠だった。
「よーしっ! あたし水着取ってくる!」
「あら、では私も」
続いてシスター・イルゼもハリセンを持ったまま(だからそれどこで手に入れたんだ)自室の方へと向かっていく。
「ダンチョさん、水着ある?」
「……買うの忘れてた」
うん、これはミカ君大失敗である。
仕方がないので俺は釣りでもしよう。釣り竿ならスクラップで自作したやつがあるし……。
次回は水着回だオラァ!!(歓喜)




