キリウ第七病院
現代兵器が最近全然出ていないので、往復ミサイルの中の人は毎日部屋でエアガンをガチャガチャやるという禁断症状に悩まされています。
AKはいいぞ、すこれ(威圧)
ナターシャは基地の近くにある宿舎に住んでいる。
彼女の出身地は地元ではなく、イライナ地方最西端の街、エルゴロド。キリウからエルゴロドまでは890㎞も離れていて、当たり前だが実家から通えるような距離ではない。
だから彼女は基地の近くにある宿舎の部屋を借りて、そこで寝泊まりしている。実家に戻る機会といえば夏と冬にある長期休暇の時くらいで、基本はこっちで過ごしているのだそうだ。
基地に近い宿舎に住んでいるのも彼女の出勤が早い要因の一つだろうけれど、一番の理由はその真面目な性格だろう。一番早く職場に行って、後からやってくる仲間たちのために準備をする―――そうしろ、と頼んだわけでもないのに、ナターシャはそういうところから率先してやってくれる。
そういうところがあるから、彼女は頼りになるし、俺は彼女に最大の信頼を寄せている。
こんな俺について来てくれた優秀な副官だからこそ、こういう些細な異変であっても心配で仕方がない。
頼むから……お願いだから、単なる思い過ごしであってくれ。合鍵で玄関のドアを開けたら、そこにはパジャマから大慌てで制服に着替えているナターシャが居て、「すみません、寝坊しました」って言いながら言い訳をしてくれ。
そんな願いばかりが頭の中を駆け巡る。
女性の憲兵が多く住む東棟の階段を駆け上がり、ポケットから鍵を取り出した。合鍵だ。憲兵隊の指揮官には、部下の部屋の合鍵が支給される事になっている(とはいえプライバシーに最大限配慮して使うことと上層部から釘を刺されている)。
無事でいてくれ、単なる寝坊であってくれ―――そう思いながらドアを拳でドンドンと、半ば殴りつけるように叩いた。
「ナターシャ、ナターシャ! いるのか!?」
返事はない。
脳天から脊髄、そして背骨へと、冷たい何かが駆け下りていく錯覚を覚えた。
合鍵を鍵穴に差し込んで捻り、部屋の中へ。
彼女の部屋の中は良い香りがした。煙草の臭いもない、微かなカフェインとアロマの香り。いわゆる女性の香りというやつだが、しかしそんなものに酔いしれている時間はない。
そのまま部屋の中に上がり込んだ。ナターシャ、と何度も副官の名を呼ぶけれど、返事はない。しんと静まり返った部屋の中、彼女の名を呼ぶ俺の声と、珍しく慌てながら部屋の中を探すホームズとワトソンの足音だけが聞こえてくる。
部屋に備え付けてある簡易キッチンにも、シャワールームにも彼女の姿はない。ベッドの傍らには脱ぎ捨てられたパジャマと下着があり、制服はない。おそらく制服に着替え、これから出勤するタイミングで”何か”に巻き込まれてしまったのだろう。
ベッドの傍らには、彼女がいつもかけている紅いフレームのメガネだけが残されていた。
「ナターシャ……まさか、まさかそんな」
「リガロフ中佐」
ホームズに呼ばれ、彼の方を振り向いた。
最近気付いた事がある。彼は余裕がある時は俺の事を『中佐殿』と呼ぶが、真面目な時は『リガロフ中佐』と名前で呼ぶのだ。随分と分かりやすい男だ、と思いながら彼の傍らに向かうと、小さなラジオが置かれたリビングの壁に、紅い文字があった。
―――『私は貴様らを許さない』。
イーランド語で書かれた、紅い文字。
まさかとは思ったが、しかしよく見るとその質感は血ではない。口紅だ。おそらく、ナターシャが持っている私物の化粧品を使って書いたのだろう。
これで何があったのか、誰の仕業なのかが分かった。
切り裂きジャック……あのクソガキがやりやがったのだ。
「ジャックの野郎、ふざけやがって!」
「落ち着きたまえ」
「落ち着いていられるか! 俺の副官が攫われたんだぞ!」
「だからこそ落ち着くんだリガロフ中佐。過度な怒りは判断力を鈍らせる」
そう言いながら棒付きのキャンディーを取り出すホームズ。彼からオレンジ味のキャンディを貰い、口の中へと放り込んだ。するとどうだろうか、まるで波が海へと引いていくかのように、スーッと怒りが胸の奥へ引いていくのが分かった。
やっぱり糖分は偉大だなと思いつつ、熱くなってしまった自分の未熟さを恥じた。
「気持ちは分かる。大事な副官なんだろう、日頃のやり取りを見ていれば分かる」
「……随分と鋭い洞察力を持ってるようで」
「私はこう見えて人が好きでね。細かな仕草まで見ていると、その人がどういう性格なのかぼんやりと見えてくるのだよ」
ホームズの前では、きっと嘘はつけないだろう。
なんでもかんでも見破られてしまう。まるで足の生えた噓発見器のようだ。
「それより中佐、助けに行くならば早い方が良い」
「助けに行くって、どこに? まだどこにナターシャが攫われたのか、場所すら突き止めてないんだぞ」
「ああそうだ、だからジャックが霊体のまま犯行に及んでいたら詰んでいたよ」
そう言いながら、ホームズはとんとん、と自分の鼻を指先で軽く叩いた。更にその存在を主張するように、ぴょこ、と帽子の下からボーダーコリーのイヌミミが顔を出す。
「……生憎、私は鼻が利くんだ」
「なるほど、そういう事か」
納得した。
ジャックはおそらく、ナターシャを人質に取ったのだ。彼女に憑依して操っているのか、それとも洗脳して操っているのか、それは分からない。しかし、少なくともジャックの元にナターシャがいるという事だけは確かだろう。
霊体にはもちろん匂いなど存在しない。しかしその霊体が、生身の人間を操っているのであれば話は別だ。その生身の人間の匂いを辿れば、ジャックの元へたどり着ける。
「匂いは覚えた、行くとしよう」
「私も覚えました。しっかり案内しますよ中佐」
そう言いながらワトソンも、頭から生えているブルドッグのイヌミミを動かしながら笑みを浮かべた。
奴の居場所が辿れるならば、やるべき事は一つだ。
ナターシャのメガネを懐に仕舞い、拳を握り締める。
ちょっとばかり悪戯が過ぎるクソガキに、お灸を据えに行くとしようか。
なぜ、私は生まれたのだろう?
なぜ、私は殺されたのだろう?
なぜ、私は望まれなかったのだろう?
なぜ、私は否定されるのだろう?
なぜ、誰も肯定してくれないのだろう?
私はただ、生まれたかった。
ヒトの仔として、愛されたかった。
なのに母は、それすら認めてはくれなかった。
だから私は、奴らを許さない。
た
だ
ひ
た
す
ら
に
、
憎
い
。
殺
し
て
や
り
た
い
本当に、イヌ科の獣人たちの鼻には驚かされるばかりだ。
特に嗅覚が発達した彼らは、匂いを頼りに犯人を追跡する。その鋭い嗅覚と身体能力から逃れられる犯罪者など存在しないと豪語しても良く、ゆえに世界的に見て優秀な警察官、憲兵はイヌ科の獣人が大半を占めているのだそうだ。
そしてその能力は、探偵という職業においても遺憾なく発揮されている。
「ここか」
「……間違いない、ここだ」
何ともまあ、ジャックの奴はとんでもない場所を最終決戦の場所に選んでくれたものだ。
錆び付いたプレートには、イライナ語(間違うな、ノヴォシア語ではなくイライナ語だ)で『Клйв лёкаряа 7тн(キリウ第七病院)』と記載されているのが分かる。
一応言っておくが、今のキリウで患者の受け入れを続けているのはキリウ第6病院まで。第7病院は経営の悪化で閉鎖され、今では廃病院と化している場所だ。場所は高級住宅街から少し離れたところにあり、地元では心霊スポット扱いされている。
ちなみに幽霊が出た、なんて話は聞くけれど、具体的な話が出てこないからデマの類だろう。
しかしこれから、マジの幽霊を相手にするとなると、得体の知れない気味の悪さが身体を苛んでくる。相手がまだ人間であれば物理法則が通用するので、ヤバくなったらぶん殴っておけばとりあえずそれで問題は解決する。子供のイジメから近所トラブル、悪質なクレーマーに至るまで、一番手っ取り早く問題解決を図れるのは拳である。暴力万歳。
クラスで虐められるならリーダー格のクソガキをワンパンし、嫌がらせをしてくるご近所さんはワンパンで黙らせ、いちいち難癖付けてくるしつこいクレーマーは本気の右ストレートでワンパン。これが一番だ。
すまん、話が脱線した。本当のマカール君は平和主義者なのだ。
そう、とりあえずぶん殴っておけば何とかなる人間関係(?)とは違い、相手はガチの幽霊。物理法則は一切仕事してくれないので、それ以外の手段で何とかするしかない。
「リガロフ中佐、一応これを持って行くといい」
「……十字架?」
ホームズがポケットから取り出したのは、黄金の小さな十字架だった。ストラップ的なサイズで、鞄とかにぶら下げておけば信仰心の深さとお洒落さを同時に演出できそうな感じのアイテムだが……何だろうか、単なるストラップとは違う、温もりのようなものが宿っているように思えるのは気のせいか。
「これはいったい?」
「昨日の夜、教会に行って購入してきたものだ。霊からの干渉を防ぐ効果があるらしい」
「どうも」
「いいか中佐、相手は霊だ。物理的な攻撃は効かないぞ」
「分かってるよ……聖水で何とかなるか?」
そう言いながら、ポケットの中から小指ほどの小さな瓶を取り出す。中に入っているのは普通の水ではなく、教会で祈祷を施した聖水だ。
ノヴォシアの一部地方では、魔除けとして聖水入りの小瓶を枕元に置く習慣がある。旧人類の時代よりも遥か昔から続いているとされ、夜中に部屋を訪れるサキュバスを退散させる効果があったのだとか。何と勿体ない事を。
イライナでも聖水は霊や悪霊、悪魔の類に対して有効なアイテムであると認識されており、聖職者はだいたい聖水を常時携帯している。それを使って霊を近づけないようにしたり、結界を張る際の触媒にしたり、あるいは直接ぶっかけて除霊(物理)するのだそうだ。
ちなみにこの小瓶、マカール君が持ってるペッパーボックス・ピストルの銃口にぴったりである。
教会のシスター曰く『そういう使い方も全然OKですよ』だそうだが……なんだろ、物騒だよね。
「まあ、上手く行くさ……あるいは未練を絶ち切ってやるか、二つに一つだ」
「未練ねぇ……まあいい、行こう」
ホームズとワトソンに促し、正門をよじ登って乗り越えた。
昼間だというのに、キリウ第七病院は不気味だった。傍から見れば廃墟のようにしか見えないが、しかし一歩ずつ入り口に近付く度に、ずしり、ずしりと胸を何かが押し潰してくるような圧迫感を覚える。
錯覚などではないだろう……間違いない、ジャックはここにいる。ナターシャを人質に、この病院に立てこもっているのだ。
ピストルを片手に、入り口のドアに手をかけた。当然ながら鍵がかかっていて、玄関のドアはびくともしない。
やっぱりぶっ壊すしかないか、と腰のホルダーに収まっていた黄金の斧に手を伸ばした。
普通の斧にメッキを貼り付けた……わけではない。そんな安っぽいものではないのだ、この斧は。
リガロフ家に伝わる秘宝。かつてリガロフ家の始祖、英雄イリヤーが振るったという黄金の武器の一つ、『イリヤーの斧』だ。賢者の石を使っていないにも関わらず魔力損失率0.3%という、驚異的なまでの魔力損失の低さを誇る逸品である。
俺の最強の武器であり、また魔術の触媒でもあった。
純金を削り出したようなそれを振るい、入り口の扉を破壊。金属が破断する音とガラスの砕け散る音が、患者も医者もいなくなった廃病院の中に響き渡り、ジャックに俺たちの来訪を告げた。
「……下からだ」
3連発のペッパーボックス・ピストルを片手に、ホームズが言った。
近くにある埃まみれの案内板をチェック。確かに、この病院には地下にも設備があるらしい。薬品や医療器具の貯蔵庫、そして手術室もそこにあるようだ。
階段を降りて地下へ。地下へと降りていく度に、先ほどまで感じていた威圧感が一層強くなっていくような感じがして、思わず息を呑んだ。ホームズの嗅覚は正確だ―――間違いなく奴は、切り裂きジャックはここにいる。
ここだな、と扉の上にあるパネルを見て確認し、ホームズと息を合わせて手術室の扉を蹴破った。
昼間とはいえ、地下には窓がない。だから手術室の中は非常に暗いのだが、しかし部屋の中央に手術台があって、その上に人が寝かされているという事は分かった。
「ナターシャ!」
ピストルを構えながら叫んだ。
間違いない、手術台の上に居るのは憲兵隊の制服姿のナターシャだ。喉元も、そして腹も切り裂かれてはいない。彼女はまだ生きている。
良かった、間に合った―――安堵したのも束の間、唐突に地下室に赤子の笑い声が響き渡る。
まるでそれがスイッチだったかのように、手術台のナターシャがむくりと起き上がった。
彼女の手には―――大型のナイフが握られていた。




