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怪異の影


 なぜ、悪夢はなかなか終わってくれないのだろうか。


 嫌な夢に限って、延々と長く続くものである。


 まさにその嫌な夢を、悪夢を見ているようだった。


 部屋の真ん中に置かれた、ベッドの上は血の海だ。シーツも何もかもが真っ赤に染まり、ベッドのフレームには四肢を縛り付けられた哀れな獣人の女性が、ぽかんとしたような表情で横になっている。


 半開きになった口は、まるで「私の身に何が起きたの?」とでも問いかけているかのよう。赤い唇の端からは真紅の雫が溢れた痕があり、そんな彼女の喉元は、まるで第二の口であるかのようにぱっくりと開いている。


 胸元から腹の下にかけては大きく切り開かれていて、さながらカエルの解剖実験のように、切り開かれた腹からはピンク色の臓物が覗いていた。


 一足先に現場に来ていた第六即応団のメンバーなのだろう。真新しい制服に身を包んだ若手の憲兵が、あまりにも凄惨な遺体を目の当たりにして我慢できなくなったようで、口元を押さえながら部屋を飛び出していった。


「そんな馬鹿な」


 思わず、口から素直な言葉が漏れる。


 切り裂きジャックジャック・ザ・リッパーは逮捕した筈だ。マルーシャ・ダニレンコという女がこの一連の事件の犯人だった筈だ。凶器は彼女の自宅から押収したし、それから検出された成分が被害者の血液のものと一致している。


 そう、切り裂きジャックジャック・ザ・リッパーが現れる筈がないのだ。


 犯人はもう既に逮捕されているのだから。


「ホームズ、模倣犯の可能性は?」


 一緒に現場を見に来ていたワトソンが、隣で考え込むホームズに問いかけた。


「……それはなさそうだぞワトソン君」


 顎に手を当て、パイプを口に咥えながら考え込むホームズ。その蒼い瞳は被害者の遺体ではなく、娼館の一室、その壁にこれ見よがしに描かれた血の文字へと向けられている。


 ―――私は貴様らを許さない。


 一体それが何だというのだ、と思いながら俺も血の文字を見た。


 おそらくは喉を切り裂いた時に溢れ出た血を使ったのだろう。まるでイーランド語を母語とする人間が書き記したかのように、文字の形状にも文法にも、そして単語にも違和感が感じられない。


 名探偵は何を考えているのか、と思っていたマカール君だったが、すぐにホームズが今何を考えているのか、何をもってこれは模倣犯の犯行ではないと断言したのか、その判断材料となった情報が、その壁の血の文字に残されていた。


 というか、そのものがヒントだったと言っていい。


「……筆跡が同じだ」


「さすが、中佐殿は気付いたか」


 同じ考えに至る者が現れて嬉しいのだろう、ホームズは口元に笑みを浮かべた。


「ナターシャ、写真あるか」


「はい、こちらに」


 副官のナターシャから、過去の事件で撮影された白黒写真を何枚か受け取る。


 様々な角度から撮影された遺体の写真をかき分けて、その中から壁に描かれた血の文字を収めた写真を探し出す。白黒ではあるけれど、筆跡はまるでそのままコピーしたかのように同じものだ。


 しかし……そうなると、話が合わなくなる。


 筆跡が同じという事は、同一の人物がこの血の文字を書いたという事になる。それは分かるのだが、しかしその”同一人物”とは一体何なのか。俺たちがホームズの助けを得て逮捕に至った、切り裂きジャックジャック・ザ・リッパーの正体であると思われるあの女、マルーシャ・ダニレンコは何だったのか。


 また振り出しかよ、とイヴァンが悪態をついた。


「ホームズ」


「何だね、中佐殿」


「……アンタの見解が聞きたい」


「ふむ。まあ、私の推理では彼女が犯人だろう」


「どういう事だ」


 彼女、という事はやはり、ホームズの推理でもマルーシャ・ダニレンコが犯人である事は疑いようのない事実という事なのだろう。しかし彼女は今、憲兵隊の基地で取り調べを受けつつ拘留されている。現在進行形で囚われの身となっている彼女が、一体どうやって犯行に及んだというのか?


 幽体離脱でもしたってか? そんな馬鹿な話、あるわけが……。


「言い方が悪かったね。厳密には彼女”も”犯人だ」


「……なに?」


 彼女”も”犯人……?


「ロードウのコバルトチャペルで頻発した連続殺人事件……切り裂きジャックジャック・ザ・リッパーを追っているうちに、私は考えたのだよ」


「何を?」


「この事件……おそらく、ヒトの手による殺人事件ではないのではないか、とね」


 いきなりとんでもない事を言い出すホームズに、俺も、ナターシャも、そして長年彼と一緒に難事件に挑んできた助手のワトソンも、目を丸くしていた。


「ヒトの手による事件じゃないって……じゃあ何だって言うんだ?」


「それは分からない。だが……」


 手袋をはめた手で、そっと血の文字に触れるホームズ。犯行からまだそれほど時間が立っていないからなのだろう、生乾きだったそれは手袋に紅く滲んだ。


 それを見て、ホームズは目を細める。


「……何かしらの、怪異の類かもしれない」


「怪異だって?」


 もし仮にそうなのだとしたら、それこそ俺たちの出番ではなくなる。


 あくまでも憲兵隊は犯罪者を逮捕し治安の維持に努める警察組織だ。街の治安を脅かす存在がヒトではなく、幽霊や悪霊、正体不明の怪異だというならば、それは憲兵隊ではなく教会のエクソシストの仕事ではないだろうか。


 以前、エレナ教に優秀なエクソシストが所属していたという話を聞いた事がある。確か名前は『イルゼ・シュタイナー』だったか……そう、ミカの奴が一緒に旅していた、あのキツネの獣人のシスターだ。


 彼女が居ればな、とは思うが、今頃ミカエル率いる血盟旅団はベラシアだろう。遠く離れたベラシア地方(と書いて魔境と読む)にいる彼女たちを呼びつけるのもちょっとアレである。第一、キリウに到着するまでに犠牲者が何人増えるか分かったものではない。


「だとしたらホームズ、今回の件はアンタの手にも余るんじゃあないか?」


「なぜそう思うのだね?」


「アンタは探偵だ。エクソシストじゃあないだろう?」


 探偵はヒトの事件を解決するものだ。怪異の相手はエクソシストの相手―――俺も、そして彼も、もし仮にこの事件の犯人が怪異の類であるならば門外漢である。


 しかしホームズは、浮かべた笑みを絶やさなかった。


 いや、むしろ笑みを深めているようにも思える。


「……ご心配には及ばんよ、中佐殿」


「?」


「こう見えても私はね、怪異の類の相手を何度かやってきた経験があるのだよ」


「……え?」


 マジで?


 きょとんとしながらナターシャと顔を見合わせていると、ワトソンがそっと教えてくれた。


「……多分バスカヴィル家の一件の事を言ってると思うんですが、あれ怪異でも何でも無かったですからね」


「そうなのか」


「ええ、残念ながら」


 わざとらしいホームズの咳払いに、ワトソンは涼しい顔で視線を逸らす。


「まあ、とにかく相手が怪異だろうと何だろうと、私たちのやるべき事は変わらないよ。ただね中佐殿、君と君の部下の力も借りる必要がありそうだ」


 そこまで言ってから、ホームズは遺体の方を振り向いた。


「今回の事件、一筋縄でいきそうにはないからね」














「なぜ、犯人は女性の子宮ばかりを切除していると思う?」


 基地に用意された捜査本部に戻るなり、ホームズは咥えたパイプにマッチで火をつけた。彼が喫煙しているところを見る度に、なかなか古風な趣味をしているものだと常々思う。一昔前ならばまだしも、旧人類の遺構からライターの原型となった機械が発掘されてから、喫煙者はマッチよりライターの方を好むようになったというのに。


 そんなホームズが肺にニコチンを溜め込みながら問いかけてくるが、しかしその問いの内容はあまりにもざっくりとしていた。そんな理由が分かったら、連続殺人犯シリアルキラーの逮捕にここまで苦戦していないと思う。


 紅茶に角砂糖を次々投入し、ハチミツとジャムを続々投入。許容量を超えついに飽和状態となった紅茶を口に含んで、その底なしの甘さに酔いしれてから、腕を組んで考えた。


 子宮のみを切除……コレクション目的か、自分の憎むものの象徴であるからか。


 今までは前者だと思っていたが、ホームズの言う通り犯人が怪異の類であるならば、後者である可能性もある、という事か。


「その部位が、憎んでいるものを象徴しているからか?」


「さすが中佐殿、話が早い」


 ……どうやら、俺たちの思考回路は意外と近しいようだ。とはいえホームズの方が頭の回転が遥かに速いが。


「しかし、子宮の切除と憎しみ……いまいち話が繋がらんな」


「では中佐殿、そこに娼婦という要素も付け加えてみたまえ」


 娼婦、か。


 娼婦といえばアレだ、アレである。男子のあこg……あっいえなんでもないです。


 子宮、憎しみ、娼婦……うーん、やはり話が繋がらない。


 どれだけ糖分を摂取しても、ホームズの頭の中にあるような答えは浮かんでこなかった。さっき思考回路が似てるとか思ってたけどそんな事はない、あくまでもマカール君は凡人だった模様です。イキってすみませんでした。


「そーいや、被害者は全員客に人気の娼婦でしたねぇ」


 第八即応団の奴らが差し入れで持ってきてくれたチーズ入りのピャンセをパクつきながら、イヴァンがさらりと核心に繋がりそうな事を口にする。


 もし本当に被害者にそんな共通点があるのだとしたら、次に狙われる被害者もある程度絞り込めるのではないか?


「ではイヴァン君、次に狙われそうな娼婦を予測してみたまえ」


「そうッスねぇ……アレじゃないですか、北区にある”黒猫の館”にいるオリガちゃんなんか人気ですよ最近」


「……ちょっと待て、何でお前そんな事知ってる?」


「……実はちょっと、性欲を持て余してまして」


「不潔です」


 ドン引きするナターシャがそそくさとマカール君の後ろに隠れる。よしよしと彼女の頭を撫でると、ナターシャはさりげなく人のケモミミをモフモフし始めた。おい馬鹿やめろ、ケモミミは敏感なんだぞやめろ、リガロフ家の男子はケモミミがマジで敏感なんだよやめてくれ、ここだけ感度がおかしいんだYO!!


「セクハラですよっ」


「いやいやいや! 今のは隊長が追及してくるから!」


「ほほう、上官に罪を着せるとは悪い部下だな。お仕置きか? お仕置きか?」


「あっ隊長だったらいくらでも」


 オイ。


 ダメだこりゃ、もしかして俺って隊長としての威厳がない……?


 そんな茶番も、ホームズの咳払いで遮られる。


「では張り込んでみようか、中佐殿」


「えっ」


 俺をご指名か……。


 まあいい。相手が何だろうと、とっ捕まえてブタ箱にぶち込んでやるさ。













 夜のキリウは厳戒態勢と言ってもいい状態だった。


 憲兵隊の決死の捜査を嘲笑うかのように頻発する娼婦連続殺人事件は、ラジオのニュースや新聞記事でも大々的に報じられている。事件のありのままを正確に伝えている新聞社があれば、ここぞとばかりに憲兵隊は無能であると喧伝する左翼系の新聞社もあって、そういうのを目にする度に頭が痛くなる。


 そんな厳戒態勢のキリウの街中を、助手のワトソンが運転するセダンが滑らかに走っていく。大きなライトが夜道を照らし、その中に憲兵隊の検問所が見えてくる度に停車して、マカール君の身分証を提示すること5回ほど。イヴァンが持て余した性欲をまあ、なんやかんやしている例の”黒猫の館”とかいう娼館が見えてくる。


 前足を舐める黒猫を象った看板が目印だと言われたが、まさにその通りだった。


 当たり前だが、夜道に人影はない。


 それもそうだろう。屋根にガトリング砲を乗せた武装パトカーが巡回し、ライフルマンを背に乗せた飛竜が上空を巡回、おまけに夜間の外出規制までかけられたとなっては、誰も外には居やしない。


 しかしそれでも性欲を持て余す男共はいるようだ。飛竜の巡回を掻い潜るように物陰に隠れながら、娼館へと向かっていく冒険者らしき男の姿が見えて、本当にマジで何考えてんだ元気すぎだろと心の中でツッコむ。


 第一、こんな状況で営業している店も店だ。たぶん当局が夜間の営業やめれって何度も要請してるとは思うんだが、店側の対応といったら普段よりも照明を減らして、「俺たち商売してませんよ?」と見せかける程度。いや、娼館で働いてる娼婦たちも生活が懸かっているのだから仕方がないとは思うのだが……。


 冒険者たちが娼館に入っていくのを見て、ホームズがシートベルトを外した。


「さあ、行こうか中佐殿」


「……What?」


「ワトソン君、後は頼んだよ」


 そう言い残し、呆れるワトソンを尻目にホームズは車を降りた。


 行くってまさか……え、マジで?


 驚きつつもシートベルトを外そうとしていると、ナターシャが俺の手をぎゅっと握ってきた。


「……ナターシャさん?」


「隊長、女の子の誘惑に負けちゃダメですよ」


「お、おう」


「えっちなお姉さんに食べられちゃいますからね?」


「うん……ナターシャ? ナターシャさん?」


「お気をつけて」


 何なんだ彼女。娼館に行くことが決まった時から様子がおかしいぞ?


 まあいい、これも捜査のため……。


 護身用の小型ピストル1丁とナックルダスターをポケットに忍ばせておく。もちろんイリヤーの斧は持って行けないので、ナターシャに預けておいた。一番信頼できる部下でもあるし、長い間副官を務めてくれている彼女は俺の期待にいつも応えてくれる。


 それじゃ、と彼女に言い残し、セダンの後部座席を後にした。


 しかし……本当に切り裂きジャックジャック・ザ・リッパーが現れるのかねぇ?


 

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