西の果てより闇は来たる
1888年 5月18日
聖イーランド帝国 首都ロードウ コバルトチャペル
部屋の中は、血と臓物の異臭で溢れかえっていた。
この臭いだけでも、胃の中に詰め込んだマッシュポテトとウナギゼリーを吐き出すのに十分だというのに、しかし現実は容赦なく、現場に駆け付けた警官たちの精神を打ちのめしてくる。
「警部、こちらです」
「……これは酷い」
ウィリアム・ハミルトン警部はこれまで、数えきれないほどの事件を担当してきたベテランの警部である。無残に殺された被害者の死体を、その事件の数だけ目にしてきた―――だからもう、警官隊になりたての頃のように、死体を見て嘔吐するような事は未来永劫ないだろう、という自負があった。
その自負が、実に40年ぶりに覆ろうとする日が来るとは、考えもしなかった。
思わず口元を手で覆い、顔をしかめながらも、しかしハミルトン警部は己の矜持に従い、ベッドの上で絶命している被害者を直視する。
聖イーランドの首都、ロードウ東部に位置する地区、コバルトチャペル。様々な宗派の教会が軒を連ね、信者や魔術師たちの往来が絶えない神聖な区域であるが、しかし教会の連なる大通りを隔てる隔壁の向こうに一歩足を踏み入れれば、コバルトチャペルという清潔感のある名前とは無縁な、治安の悪い貧民街がその顔を覗かせる。
被害者が出たのは、その貧民街にある娼館、その1階だった。
下級の冒険者や労働者が訪れる事で有名な場所で、夜になれば酒に酔った冒険者や暴漢たちの喧嘩が絶えない物騒な場所。時折暇を持て余した警官隊がそこまで足を伸ばし、傷害事件を起こした男たちを検挙する姿をよく見たものである。
それがこんな、凄惨な殺人事件の舞台になるとは誰が思い至っただろうか。
「……」
ベッドの上に横たわる被害者……事件が起こる前までは生きた人間だった彼女は、これ以上ないほど無残な姿と化していた。
両手両足はベッドのフレームに縛られ、喉元には真横に一閃したと思われる、刃物の傷跡が生々しく残る。
しかし、警官たちが込み上げる吐き気に耐えながらも現場を確認している原因は、喉元の傷ではない。
ボタンを千切られ、強引に露にされたと思われる腹―――真っ白な肌もろとも、縦に切り開かれ、ピンク色の内臓を警官たちの目に晒しているのである。
まるでカエルの解剖のようだ、とハミルトン警部は思った。彼がまだ初等教育を受けていた時、確か理科の時間だったか。生物の身体の構造について学ぶためにと、生きたカエルを解剖する実験を行った時の事を思い出す。
ベッドに縛り付けられ、腹を切り開かれた状態で絶命している娼婦は、まるであの時のカエルのようだった。カエルの解剖を獣人でやったらどうなるか……ひょっとしたら犯人は、そんな動機で犯行に及んだのではあるまいか。
もしそうならば狂人の犯行と言えるが、しかし人をただ殺すだけでなく、こんな無残な姿にしている時点で、相手がまともな人間だと期待することは難しいだろう。
目の前で十字を切り、おそらく苦しんで死んでいったであろう彼女の安息を神に祈った。
「警部、被害者の臓器ですが」
「何かわかったか」
マスクをつけた鑑識の担当者は、一度被害者の方をちらりと見てから、嫌な予感が現実となった時のような声音で、静かに告げた。
「―――やはり、子宮が切り取られています」
「……そうか」
「これで5人目……間違いありません、犯人は……」
「ああ―――間違いない、”ヤツ”だ」
今年に入ってから、ロードウのコバルトチャペルを恐怖に陥れている連続殺人犯。
被害者はいずれも娼婦たち。被害者をあのようにベッドに縛り付けては、腹を切り裂いて子宮だけを取り出し、最後に喉を切り裂いて止めを刺す―――そんな無残極まりない、ヒトとしての、そして女性としての尊厳を踏み躙るような殺人事件をこれで5件も起こした犯人が、この街のどこかにいる筈なのだ。
壁にびっしりと描かれた血の文字を睨みながら、ハミルトン警部は犯人に対する憤りと、そしてこんな狂った殺人を繰り返す犯人への恐怖が入り混じった複雑な感情を胸の中で持て余す。
元々は綺麗だったであろう壁紙には、彼女の血でびっしりと『私は貴様らを許さない』と書き込まれており、鑑識がラッパのようなストロボの付いたカメラで、それを写真に収めている。
いつしか、その連続殺人犯はこう呼ばれるようになった。
―――【切り裂きジャック】、と。
1888年 7月31日
ノヴォシア帝国南部 イライナ地方 キリウ
遠くから、パトカーのサイレンの音が聞こえてくる。
最近はキリウも物騒になったものだ。俺が幼少の頃はもっと静かで、犯罪件数なんかずっと少なかったはずなのに。
手柄を立てて昇進するのは別に構わない。勲章が増えるし、自慢話もまた増える。給料も上がってチヤホヤされてグヘヘヘヘな気分になるが、しかしそれ相応に責任も重くなるし、何より実家の両親がいちいちうるさいのだ。
息子が手柄を立てるのが嬉しいのは分かるが、しかし俺は憲兵。憲兵隊に仕事が回ってこないというのはつまり、その街が平和である事の証明だ。そう思うと何とも悲しくなるが、しかしコレは仕事だ。犯罪者を逃がすわけにはいかない。
そろそろか、と思った次の瞬間だった。
マカール君の頭から伸びる、実にキュートなライオンのケモミミが鋭敏に察知した通り、路地に乱雑に積み上げられた樽やら木箱をぶっ飛ばしながら、1台の薄汚いクーペが飛び出してきた。角張った車体に流れるようなシャーシ、丸いライトに円錐状のサイドミラー。塗装がところどころ剥げ落ちているところを除けば、まあどこにでもある富裕層向けの車と言ってもいいだろう。
「ナターシャ」
「了解」
隣に控えていたナターシャが、メガネを左手でくいっと押し上げながら、背負っていたマスケットを構えた。機関部から銃口付近にまで達する長さの筒が、彼女の銃には取り付けられている。
レンズを装着し、遠距離の敵を正確に狙う事ができる”スコープ”とかいう最新の照準器だそうだ。ザリンツィクで実験されていた装備品の一つを任される程、俺の部隊は上層部から信頼を勝ち取ることに成功したらしい。
スコープ付きのイライナ・マスケットを構えたナターシャが引き金を引いた。
先端部に火打石を取り付けられた撃鉄が勢いよく打ち下ろされ、生じた火花が火皿の中へと落ちていく。
そこから先はもう、一瞬の出来事だった。ボシュ、と火皿の中の点火用火薬が一気に燃え盛ったかと思うと、それは薬室内部の黒色火薬にまで一気に燃え広がり、ドパァン、と破裂するような銃声と共に80口径の鉛弾が解き放たれていた。
ナターシャの放った精密な一撃は、こっちに向かって爆走してくるクーペのタイヤを見事に撃ち抜いた。あっという間に空気が抜け、クーペが横へと大きくぐらつく。運転席に座る男が慌ててハンドルを切るが、しかし速度は落ち、あのままでは歩道に乗り上げるか電柱に激突するか、どちらか好きな方を選ぶ羽目になってしまう。
しかし、連中にはそんな選択の自由すら与えてやらない。
ふらつきながらも暴走してくるクーペに、マカール君は真正面から突っ込んだ。
いくらライオンの獣人とはいえ、極端な話、『ライオンみたいに足が速くて身体能力も高いただの人間』でしかない。50㎞/h前後の速度で突っ込んでくる鋼鉄の塊に激突すれば、辿る末路は人間と同じだ。
もう少しでフロントバンパーに激突する……というところで、マカール君はありったけの力を足に込めて跳躍、フロントバンパーとの接触を回避しつつ、左手をピストルのホルスターへと伸ばす。
そのまま跳躍した勢いを乗せ、運転席でハンドルを握るヤギの獣人の顔面に、必殺のドロップキックを叩き込んだ。
「マカール君キィィィィィィィィィィィック!!!」
「ぽとふっ!?!?」
メリィ、とこれ以上ないほど爽快に、マカール君のおみ足が運転手の顔面にめり込んだ。
暴走するクーペはそのまま誰もいない歩道へと乗り上げると、道路標識を何本か吹き飛ばし、ガードレールに黒い傷跡を刻みつけながら減速し、電信柱にバンパーを軽くぶつけてやっと止まった。
「うぐ……ぁ……ぁあい、このクソが―――」
抵抗しようとする助手席の馬の獣人に、6連発のペッパーボックスを突きつける。
6つ開いた銃口を見た途端に、助手席の男は大人しくなった。取り出そうとしていたピストルを車の外へと放り投げ、納得いかない、とでも言いたげな顔でゆっくりと両手を上げる。
「―――キリウ憲兵隊だ。貴様らを無差別殺人の現行犯で逮捕する」
チッ、と悔しそうな舌打ちをする助手席の男。ナターシャの狙撃とキュートなマカール君のドロップキックで鎮圧された犯人の元へ、ピストルを構えた憲兵たちが駆け寄ってくる。
ピストルをメイスのように窓に叩きつけて車の窓を叩き割り、中にいる犯人たちを引き摺り出す憲兵たち。手錠をかけられ、パトカーへと連行されていく彼らを見守っていると、駆け寄ってきた憲兵隊の隊員たちが敬礼してきた。
「犯人の鎮圧お見事であります、リガロフ中佐!」
「ああ、ありがとう。それより必要以上の被害が出なくて良かった……奴の取り調べは、ウチの部隊で請け負うよ」
「はっ!」
彼らに敬礼し、ナターシャと共に自分たちのパトカーへ。
ハンドルを握っているのは、俺が憲兵隊の指揮官に就任した頃からの部下であるユーリー。彼はイノシシの獣人で、だからなのだろうか、直線の道路になると法定速度を無視しがちである。
「いやー、また勲章増えますねぇ隊長」
「俺1人の手柄じゃない。ナターシャの見事な狙撃もそうだが、お前らが迅速に動いてくれたからさ。これは全員の手柄だよ」
正直、俺には勿体なさすぎる部下たちだと思う。
就任して日が浅く、まともな成果も上げられなかった俺を見捨てずについて来てくれた連中だ。本当に、俺は優秀な部下に恵まれた。
彼らに相応しい上官として、俺もまた成長しなければ。
「でも一発発砲してしまいました」
「仕方ない、あれは必要な事だ」
憲兵隊にとって、発砲は最終手段である。
敵国の兵士や魔物と真っ向からやり合う騎士団の騎士たちとは違って、憲兵の任務は基本的に治安維持。辺境の憲兵は魔物との戦闘に駆り出される事も多いらしいが、キリウみたいな大都市の憲兵隊がそんな任務に割り当てられる事は稀である。
だから、発砲した回数は覚えていなければならないし、どういう状況での発砲だったのか、部隊全員で報告書を書いて報告、それと消費した分の弾丸に火薬の申請も行わなければならない。
こんなバチクソめんどくさい手続きがあるせいで、憲兵隊は騎士団と比較するとだいぶ人気がない不遇な職業となっている。
戻ったら報告書の作成と発砲状況の報告、そして弾丸及び火薬の申請もしなければならない。
それだけじゃない、白昼堂々無差別殺人なんかやりやがったクソ野郎×2の”取り調べ”とその調書の作成……やる事が多すぎてマカール君過労死しそう。
あーあ、ミカの奴今頃何してるんだろうな……と腹違いの妹……あれ、アイツ性別どっちだっけ? まあいい、とりあえず妹と仮定して話進めるよめんどくさいから。
今頃ミカの奴、列車で各地を旅しながら美味いもの食べたりクラリスのおっぱい触ったり一緒にお風呂入ったり、そんな甘酸っぱい毎日を過ごしてるんだろうなぁ。いいなぁ、そんなラノベの一幕みたいな日常、1分で良いからお兄ちゃんに分けてほしい。
そんな感じで窓の外を眺めていると、ぽん、とナターシャがライオンの肉球のある手を俺の頭の上に置いた。
一応俺も背は低い方だ。とはいえ、さすがにミカエルみたいなミニマムサイズではない。身長160cm、とりあえずは男性基準だとスモールサイズではあるが、ミカエルよりは大きい。繰り返す、ミカエルよりは大きい。
そしてナターシャの身長はというと、破格の180cm。何だろう、ミカエルとクラリスの組み合わせに近い何かを感じるのだが気のせいだろうか。
こんな身長のせいで、一部の部下からは「ショタ隊長」略して『ショ隊長』なんて言われたりもする。誰がショタやねんコラ。こちとら19歳やぞワレェ?
「隊長、そう言えば今日の昼食はチキンキリウだそうですよ」
「……じゅる」
俺の好物やんけ。
し、仕方ないなぁ! 昼食がチキンキリウなら今日のお仕事がんばっちゃおうかなぁ! 明日は休みだし、マカール君ラストスパートかけちゃうゾ☆
いや、本当にこれである。激務の間の数少ない楽しみが食事である。憲兵とはそういう仕事なのだ。多分騎士団とか、世界中の軍事組織もそんなものだろう。関係者の皆さん本当にお疲れ様です。
そんな激務の当事者になってしまったマカール君だが、こんな生活も悪くないと思っている自分が居るのもまた事実だった。




