ボグダン
「気分はどうだ」
問いかけると、倉庫の椅子の上に座らされたシェリルは顔を上げた。訪れたのが血盟旅団の面々ではなく俺だからなのだろう、彼女の顔には安堵の色が浮かぶ。
どうやらシェリルは、俺だけを敵と認識していない。
持ってきた紅茶のティーカップを手渡すと、彼女はぺこりと頭を下げてからそれを受け取った。蜂蜜とジャムを入れた、パヴェルさんのスペシャルブレンド。あまり甘いのは好まないが、疲れている時は別だ。身体が疲労で悲鳴を上げている時、糖分こそが最も親しい隣人となり得る。
今のシェリルは、全く拘束されていない。両手も両足もダクトテープと番線を取り除かれ、こうしてただ黙って倉庫の奥に設けられた即席の独房で大人しくするばかり。彼女の力があれば脱出は容易だろう。壁をぶち抜くなり、脱出して外へ飛び降りるなり自由にすればいい。
事実、ここから10歩と少しくらい歩けば出口の扉がある。そこを開けて階段を上がれば、客車の扉があって、そこを開ければ外へと出られる構造だ。飛び降りる勇気は別として、その気になれば子供でもできる。
それでも黙って椅子に座っている、シェリルの狙いは何なのか。
改心してこっちの仲間になろうとしている……わけではないだろう。そりゃあそうだ、■■■■■■■ではそんな教育はしない。敵は皆殺し、降伏厳禁。殺すか殺されるか、その二択しか存在しないのだから。
せめてもの娯楽をと倉庫に置いといたラジオからはクラシックが流れている。こっちにやってきた他の転生者が広めたものなのだろう、流れてくるのはショパンのノクターン Op.9-2。窓もなく、弱々しい照明だけが照らし出す倉庫の中で聞こえてくる優し気なピアノの旋律はあまりにもミスマッチだが、しかしシェリルは顔色一つ変えずに音楽に聞き入っている。
「……大佐」
「パヴェルだ」
「もう一度、考え直してください。今のあなたの居場所はここではない筈だ」
「俺の居場所は俺が決める。他者では絶対あり得ない」
ぴしゃりと断言すると、シェリルはやっと少しだけ、残念そうな顔をした。
「”組織”はあなたを必要としています。かつてあの忌まわしき戦争で”勇者”を討ち取った”ウェーダンの悪魔”こそが、今の我々に必要な存在なのです」
「いつまでもそんなまやかしの存在を頼るんじゃあない」
「しかし!」
「ヤツは死んだ……ウェーダンの悪魔はもう、死んだんだ」
あの男はもう、死んだ。
復讐を全うし、妻と、お腹の子供を遺して。
今でもあれが最良の選択だったのか、と悩む事がある。
一緒に撤退していれば、余命僅かと言えども、せめて生まれてくるであろう我が子を抱く事くらいは……父として我が子の顔を見ることくらいは出来たのではないか、と思う。
けれどもあの時、かの”ウェーダンの悪魔”は家族よりも復讐を優先した。
自らの報復のため、そして未来へ禍根を一片たりとも残さぬため。
そしてそれは果たされ―――戦いは終わった。
ちらりと視線を向けると、シェリルの血のように紅い目はじっとこっちを見つめていた。
「……同志大佐、我らの同志指揮官が話したがっています」
「なに?」
話すって、どうやって?
装備品の類は全部没収した。その中に無線機らしきものは含まれていなかったが……そういえば、彼女はどうやってその”同志指揮官”とやらと連絡を取っていたのだろうか。
得体のしれない不気味さを感じているうちに、微かにシェリルの纏う雰囲気が変わったような気がした。
俺に対して縋るような、どこか仔犬にも似た雰囲気から、落ち着き払った大人の余裕を感じさせる雰囲気へと一気に変貌する。
「―――お久しぶりですね、同志大佐。私を覚えていますか?」
声は変わらない。しかし、喋り方も、落ち着き払った雰囲気も、いずれも先ほどまでのシェリルには存在しなかったものだ。まるで全くの別人がシェリルの肉体を操って喋っているような、そんな印象すら受ける。
”教官”と呼んだという事は、俺の指導を受けて兵士になった世代なのだろうが、何しろ始動した兵士の数は膨大だ。”組織”の兵士だけならばまだしも、他の組織や武装勢力、ゲリラも訓練したことがあるから、それも含めたらとんでもない事になる。
さすがに短い言葉だけで、その正体が誰なのかを推し量るのは困難だった。
「……誰だ」
「まあ、分からないのも無理はありません。あなたの”教え子”はたくさんいますからね……私ですよ、近接格闘訓練であなたに一番お世話になった……」
「お前―――そうか、ボグダン。お前か」
昔の事だ。
訓練施設での訓練中、ゲリラが襲撃してきた事があった。
教え子を守るために鎮圧に向かった際、訓練兵の中で1人だけ実戦に参加してきた奴がいた。そいつは自作したトレンチナイフ1本でゲリラを5人倒し有名になったから、俺もよく覚えている。
思わずこう声をかけたものだ。『お前も死神に魅入られたか』、と。
彼の名は【ボグダン】―――間違いない、彼だ。
しかし、なぜ彼がシェリルの身体を使って話しているのだろうか。何かしらの仕組みがあるのだろうが、それがいったいどのようなものなのか、俺には分からなかった。けれどもこんな芸当ができるというならば、テレパシーのように視覚や聴覚を他者と共有する事も可能なのだろう。
無線機の類を持っていなかったのは、きっとそれが原因に違いない。
「思い出していただけましたか」
「やはりお前か。目的はなんだ?」
「……”祖国”の再興のため。再び強い”揺り籠”を蘇らせるためです」
「祖国再興だと?」
「そうです大佐。あなたの死後、”祖国”は腑抜けになりました……もう見る影もない」
俺の死後に何があったのか、それは知る由もない。
けれどもあの二度目の世界大戦の後に何が待ち受けているのか、そして際限のない軍拡競争の果てにどんな結末が待っているのか、それくらいは予想できた。そしてボグダンが言っている事が本当なのだとしたら、俺の予想は的中したというわけだ。
何たる皮肉だろうか。
未来へ禍根を遺さぬよう、俺たちの世代で戦争を終わらせよう―――そんな覚悟で戦ってきたというのに、子供たちへ遺したのは混沌の未来でしかなかったのだから。
「我らにはあなたが必要です、大佐。戻ってきてくだされば計画は進みます。そして何より、”同志団長”もお喜びになる」
「……」
妻の顔を思い出し、ちょっとだけ心が揺れた。
彼女は元気だろうか。
やっぱり、俺の死を悲しんでいたのだろうか。
できる事ならば彼女の元へ戻りたい。そして一緒に、子供を育てたい。我が子に「お父さん」と呼ばれてみたい。
首に下げたチェーン、その先に繋がった結婚指輪に、無意識のうちに手が伸びていた。
篭絡のきっかけは作ったと判断したのだろう、シェリルの身体を借りたボグダンが畳み掛けてくる。
「あなたのお子さんも立派に育ちました。今では時期団長候補筆頭として、訓練や勉学に励んでおられます」
「そうか……」
「しかし彼にはまだ補佐が必要です。あなたのような、経験豊富な兵士が傍らに居てこそ、次の世代はより強く育つ。そうは思いませんか?」
―――子供に会いたい。
戦火の中、妻が苦労して生んでくれた新しい命。俺たち夫婦の未来。
その子供の顔を、俺は一度も見ていない。
でも、それでも。
「―――だが、それでも俺は行かん」
シェリルの身に宿ったボグダンの意識が、少し苛立ったような気がした。
俺は死人だ、もうこの世には存在しない筈の人間だ。それは妻も、そして子供もよく理解している筈だ。
それに彼女なら……妻なら、きっと子供を立派に育て上げてくれる。もう、俺は必要ないのだ。
歴史の中の記録の一部となって、あるいは天に輝く星となって、子供たちの未来を優しく見守る事しかできない―――死者の在り方とは、きっとそうである筈だ。
まあ、たまに墓参りに来てくれると嬉しいけれど。
「……そうですか、残念です」
そう言うと、シェリルの身体に憑依したボグダンは静かに立ち上がった。すたすたと歩きだしたかと思いきや、そのまま倉庫の扉を開け、階段を上がって客車のドアの方へと向かう。
右側のドアを開けると、露になったのは峻険なウガンスカヤ山脈の谷だった。谷底にはどうどうと、白い泡を発しながら流れていく激流がある。あんなところに人間が落ちたら溺れ死ぬ―――それ以前に、この高さだ。明らかに50m以上はある。
普通の人間であれば、生存の見込みはない。
しかしシェリルの身体は、そしてボグダンの意識には何の躊躇もないようだった。
「もし気が変わったらいつでもいらしてください。”組織”はいつでもあなたをお迎えいたします」
そうじゃなくても今後も邂逅を続けるのだろうな……そう思いながら頷くと、ボグダンの意識を宿したシェリルの肉体は、躊躇すらせずに列車から飛び降りた。
高さ50m、パラシュートも無しに真っ逆さまに落ちていくシェリル。やがてその華奢な身体が、谷底を流れる激流の中へと消えていくのを見守った。
どたどたと走ってくる音が背後から聞こえ、ああ、悟ったか、と思う。振り向くまでもなく、後ろには予想通りの人物がいた。
「パヴェル、シェリルは?」
「……逃げられたよ」
すっかり彼女の姿が見えなくなった谷底を見下ろし、そっとドアを閉じた。
「すまん、拘束がいくら何でも甘かった」
「……くそ、重要な手がかりだったのに」
MP17を手にしたミカは悔しそうに言うけれど、これで良かったのかもしれない、と俺は思った。
俺はミカの旅についていく―――その決心が、シェリルの、そしてボグダンの言葉で揺らいだのだ。あのまま説得されていたら、ミカや仲間たちを裏切るという最悪の結果に至っていた可能性も否定できない。
これでいい……これでいいのだ。
「過ぎたことは仕方ないさ。それに十分な情報も得られた。とにかく今は休んどけ、ミカ」
「あ、ああ」
慌てて駆け付けた彼女(あれ、性別どっちだコイツ?)にそう言い、踵を返した。
【なかなか強情な方だったな、大佐は】
頭の中に響くボグダンの声と共に、シェリルは外殻で覆った腕を岩肌に食い込ませた。激流に押し流されるばかりだった身体が岩肌に固定され、そのまま腕力だけを使って這い上がるシェリル。
やがて崖の中にある足場の上まで這い上がった彼女は、遥か彼方へと遠ざかっていく黒煙を見つめた。血盟旅団の列車、チェルノボーグの機関車が発する黒煙だ。ウガンスカヤ山脈の勾配を駆け下り、いよいよミリアンスク側へと迫りつつある。
【何とかして、あの人をこちら側へ引き込めないものか】
【色々やってみます】
【そうしてくれ、同志。とりあえず今は返ってこい、疲れただろう】
【了解です】
彼の息子を人質にする、という選択肢はない。
そんな事が出来たならば、この時点でボグダンが実行している筈だ。
そっと指を唇に這わせながら列車を見つめていると、ボグダンが言った。
【なんだ、大佐の料理が気に入ったか】
【……ええ、美味しいカレーだったなって】
そう返答したシェリルは再び腕を竜の外殻で覆い、岩肌にそれを突き立てて谷を登り始めた。
再び気温が上がってきた。
客車の銃座に通じるハッチを開けて身を乗り出すと、雪化粧の残るウガンスカヤ山脈の冷気は鳴りを潜め、再び温かい、夏のベラシアの風が吹き抜けてくる。
峻険なウガンスカヤ山脈の勾配も今となってははるか後方。勾配も下り終え、針葉樹の森の中へと列車は差し掛かりつつあった。
隣の線路の向こう側から、重連運転の列車がやってくる。これからヴィラノフチ方面へと抜けていく特急列車なのだろう。危険地帯を抜けていく列車へのエールの意味なのか、ルカが汽笛をらした。
通過の直前、向こうも警笛を返してくれる。機関車の中にいる機関士が帽子を振っているのが見えたので、俺も手を振り返した。
さて、とりあえずコレで無事にウガンスカヤ山脈は越えた。
色々とあり過ぎてちょっと疲れてしまったが……仲間が欠ける事無く、無事にミリアンスク側へと抜けたのだ。犠牲ナシでの山脈突破が成功した事こそ、一番喜ぶべき事だろう。
いきなりやってきた列車にびっくりしたのか、鹿の群れが驚いて針葉樹の森の奥へと逃げ込んでいった。
ミリアンスクに到着したら重連運転は終わり。フョードルとはそこでお別れになる。ミリアンスクにもペリュコフ機関士事務所の車両基地があるので、重連運転終了後はそこへと向かい機関車を分離、フョードルはそこで一週間程度の休暇を貰い、また依頼が入り次第ヴィラノフチ方面へと戻る事になる。
苛酷な仕事だが、何とかうまくやってもらいたいものだ。
そう思いながら、前方を見た。
機関車から濛々と立ち昇る黒煙の向こうに、うっすらと大きな街が見えつつあった。




