異物
ぎり、と歯を食いしばる。
シェリルの中に慢心が全くなかった、と言えばそれは嘘になるだろう。
確かに慢心はあった。負けるはずがない、勝って当たり前だ、という思いはあった。
こちらが単座型の高性能攻撃ヘリコプター、Ka-50(それも”組織”による独自改修型だ)であるのに対し、向こうはただのピックアップトラック。それも満足な装甲もなく、武装も粗末なテクニカルに過ぎない。
負ける要素など一つもなかった。
―――なのに。
【―――油断したな、同志シェリル】
【申し訳ありません、同志指揮官】
思考を見透かしたかのように、頭の中に女性のような声が響いた。
作戦行動中のシェリルの五感は、全て拠点に居る”同志指揮官”と共有されている。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚……作戦行動中に彼女が見聞きし感じたすべては、リアルタイムで”同志指揮官”の元へと転送されるのだ。
思考まで読み取られない事と、”同志指揮官”がプライバシーに配慮してくれている事が救いではあるが、しかしシェリルはそれを苦痛だと感じたことは一度もない。
何故ならば、自分は組織のため、そして何よりも”祖国”のために奉仕する事だけが存在意義だからだ。
その事に疑問を感じた事はないし、最高の名誉であると感じている。だからこそ、組織の敵を―――血盟旅団を潰すのに、何の躊躇もない。
次に出会った時は淡々と引き金を引き、屠ると覚悟を決めた筈だった―――しかし、結果はどうだ?
予想外の反撃を受け、返り討ち。”同志指揮官”から預かった戦闘ヘリも鉄屑と化し、既に残骸はメタルイーターの浸食を受けて変色、徐々に錆びた金属粉へと姿を変えつつある。
シェリルはただ、戦いを楽しんでしまった自分を恥じた。
やはりそのような感情は、戦いには不要。
求められるのは結果だ。損害を最小限に抑え、敵に勝利したという結果だけが求められる。
ならば貪欲に、しかし淡々とそれを追い求めればいい。感情や衝動など、プログラムの中に生じたバグ、音声に紛れたノイズにしか過ぎないのだから。
【同志シェリル、分かっているな】
【はい、同志】
脱出の際、機体のコクピットから持ち出したPPK-20の安全装置を外した彼女は、表情一つ変えず、先ほど血盟旅団の車両が転落していった崖へと、その華奢な身を躍らせた。
キリウの郊外には、広大な麦畑があった。
屋敷からスラムまで、日課のパルクールの練習をしている時に、その風景はよく見えた。
一面に実る麦の大地は、まるで黄金の絨毯だった。風の中で揺らめく麦畑の上には蒼い大空が広がっていて、黄金と蒼のコントラストは今でもなお、心の奥深くに焼き付いている。
かつてイライナが併合される前、”イライナ公国”という独立国家だった頃の国旗もそれをモチーフにしていた、と聞いていた。黄金の大地と蒼空、黄色と蒼のツートンカラー。きっとイライナ人の多くが祖国の情景を思い浮かべる際、その景色を思い浮かべるだろう。
それにしても、どうしてそんな事を思い出しているのだろうか。
俺は一体何をしていたのか―――思い出そうとする度に、身体にずきりと鈍い痛みが走っていく。打撲にも似た痛みだ。一体何があったのかと瞼を押し開くと、真っ先に目についたのはひしゃげて無残な姿になった、ヴェロキラプター6×6の姿だった。
車両に仕込まれたメタルイーターの作用なのだろう、ウッドランド迷彩で塗装されたピックアップトラックの車体は急速に錆びていて、ボロボロと崩れ始めていた。既に荷台と後部座席辺りは原形を留めておらず、オレンジ色に染まった運転席周りもこれから崩れていこうとしている。
「ご主人様」
「クラリス……ここは?」
「谷の底ですわ」
周囲を見渡した。
切り立った岩肌はごつごつとしていて、遥か上には確かにベラシアの青空と日の光が見える。雲一つない空の中を、鳥たちがV字の編隊を組んで飛んでいくのが見え、鳥って気楽でいいよな、とちょっと頭の中で悪態をついてしまう。
そうこうしている間に、強い衝撃を受けたせいで回転が停滞していたミカエル君の頭も回り始める。これも脳内に生息している二頭身ミカエル君ズのおかげだろう、そうに違いない。
確か俺たちは調査中に”組織”の攻撃ヘリによる奇襲を受けて、辛うじて撃墜には成功したけれど、墜落するヘリに巻き込まれて車ごと谷底へ……そうだ、パヴェルは? 彼は無事なのか?
「パヴェル?」
「いるよ」
元気そうな声が返ってきたのでそっちを見てみると、岩の上に腰かけたパヴェルが、左の義足を取り外してコネクタに入り込んだ砂埃を吹き飛ばしているところだった。いかにも何度も繰り返してきた動作と言わんばかりに、スムーズに義足を装着して立ち上がるパヴェル。見たところ彼にも、そして心配そうな顔で俺を覗き込むクラリスにもケガはないようだ。
「俺たちはどうやら気に入られたらしいな、幸運の女神って奴に」
谷の上を見上げながらパヴェルは言った。
確かにそうだろう。俺たちが盛大に落下した谷は、目測だけど多分30mくらいの高さがある。そこから真っ逆さまに落下して3人とも無傷なのだから、とにかく3人ともツイてたとしか言いようがない。
無傷って言っても、身体中に打撲したような痛みはあるのだが。
「そうらしい……でも車が」
「まあ、後で新しいのを採用しよう」
せっかくのアメリカ製ピックアップトラックが……。
名残惜しいなあ、と思いながら崩れていくヴェロキラプター6×6の残骸を眺めていると、PPSh-41のドラムマガジンを交換したパヴェルが言った。
「それより移動しよう。まだ終わりじゃねえぞ」
「……そうだな」
まだ終わりじゃない。
その発言の意味は分かる。
敵の攻撃ヘリは撃墜した。が、そのコクピットに収まっていたパイロットはまだ生きている。脱出するところははっきり見たし、パヴェルやクラリスもそれは確認した筈だ。
向こうは俺たちが生存しているとは知らないだろうが……確認のため、谷底に降りてくるか、またあの無人機共を差し向けてくる可能性がある。油断してはいられない。
AK-19のセレクターレバーをセミオートに切り替え、マガジンを交換。装備品に破損はなく、紛失したものも見当たらない。
嗅覚が鋭いクラリスを先頭に、俺、パヴェルの順番で進んだ。いつもはジョークを好む飄々としたパヴェルだけど、やはり前線に出てくると”前の職場”とやらでの勤務経験を思い出すのだろう。鋭い眼光と隙の無さは、まさにベテランの軍人と言っても良かった。
彼がいるなら大丈夫だ、という安心感すら覚える。
谷底には小さな川があった。踝あたりまで浸かる程度の水位で、流れも緩やかだ。
先頭でL85A3を構えつつ歩くクラリスは、意図的にその水の中を歩いているようだった。
おそらくだけど、足跡を残さないためだろう。普通に地面の上を歩いてしまうと足跡が残って相手にこちらの移動ルートを教える事になってしまうけれど、それが常に水の流れる川の中となれば話は別だ。小さくて流れも緩やかな川とはいえ、足跡を水流が押し流してくれるから、敵にこちらの移動ルートが把握されにくい。
多分それを狙ってるんだろうな、と思いながら、とにかく歩いた。
今は何時なのか、谷底に転落してから何時間が経過したのか、それすらも分からない。そして俺たちが逃げている方角にはちゃんと上に繋がっている道はあるのだろうか―――そんな不安が浮かんでは、とにかく行動あるのみだという自分の心の声に握り潰されていく。
無線は使えない。一応は暗号化しているらしいけれど、それでも組織の事だから何らかの手段で傍受してくる可能性も否定できない。今はとにかく無線封鎖して逃げ回り、奴らを振り切る。列車に戻るのはそれからだ。
でも、あまり時間をかけすぎても仲間たちを心配させてしまう。モニカ辺りは心配して、捜索隊を編成し派遣してきそうな感じはするが……。
「おかしいですわね」
「どうした」
歩く速度を緩めながら、クラリスは首を傾げた。
「……風の流れが変ですわ」
「なんだって?」
「何と言いますか、こう……何かに遮られているような」
言われてみれば、確かにそうかもしれない。
ここはベラシアのウガンスカヤ山脈、その中腹だ。海抜345mくらいの高さで、それなりに風もある。風の流れが制限される谷の中ならば、そこに流れ込んだ風がそれなりの強さで吹きつけてきてもいい筈である。
しかし、さっきから肌に感じる風はそよ風なんてものじゃあない。意識していないと空気の流れを感じ取れないほど、弱々しい風である。
クラリスの指摘で俺も違和感を感じ、ポケットからライターを取り出した。12.7×99mmNATO弾の空薬莢を再利用、廃材を使って(パヴェルに教えてもらいながら)自作した大型のトレンチライターだ。
一応言っておくが、ミカエル君は煙草は吸わないし酒も飲まない。中身はともかく身体は未成年、そんなことするわけがない。では何のためなのかと言うと、火炎瓶に着火するためだったりとか、野宿の際の火起こしに楽だったりとか、嫌いな奴のSNSを燃やすためだとか、とにかくそういう用途のためにライターを持ち歩いている。
火は文明の母というが、こっちの世界で冒険者になってからその偉大さに気付いた。ママは偉大である。
トレンチライターで火をつけ、その火をじっと凝視した。明るい火は微かに揺れており、風が流れてきている事を告げているが……確かにそれは、山中の谷の中とは思えない程弱々しい。
この先に何かあるのか?
進もう、とクラリスに目配せをする。とにかく、進むしかない。今更引き返す事など出来やしないのだ、とにかく前進し、障害は粉砕するのみである。
最後尾で後方を警戒するパヴェルにも目配せすると、彼も頷いた。
谷底を流れる小さな川が微かに深くなった。ブーツの中にまで入り込んだ水が、ひんやりとミカエル君の小さな足を侵食していく。学生の頃、学校帰りに深い水溜りに足を突っ込んだ時の事を思い出す。靴下までぐっしょり濡れて、あの不快な感触に苛まれながら家まで帰った放課後。異世界でも、その不快感はやっぱり変わらない。
早く帰ってシャワー浴びたい、と思いながら前進を続けること10分。
大きくカーブした谷底の道の先に、その巨大な物体はあった。
「なんだこりゃあ……」
一言で言うと、それは”巨大な飛行船”だった。
全長は300……いや、もっとだ。400mはあるだろうか。
ステルス機の機首を肥大化させたような、あるいは原子力潜水艦を上下逆にしたような形状の巨大な飛行船。それが左右から突き出たいくつかのエンジンと、艦尾にあるX字形の尾翼を大きく突き出す形で谷に挟まり擱座しているのである。
谷底を流れる風を遮っていたのはコイツのせいだろう。こんな大きな飛行船が谷を塞き止めていては、風も川も流れまい。途中から川の水位が上がったのはそのためか。
バシャバシャと音を立てながら、しかし警戒も怠らず、俺はその飛行船に近付いた。
飛行船、と聞くと昔のドイツが散々飛ばしていたツェッペリンを思い浮かべるけれど、目の前で擱座しているその飛行船が、ロンドンを空爆した帝政ドイツのものよりはるかに先進的な技術で造られているのは明白だった。
黒く塗装された船体の表面は、長い間放置されていたのか塗装が剥げた痕がある。けれども塗装が健在な部位はまるで新品のようで、艶のないのっぺりとした黒で塗装されている。
艦尾の尾翼もフラップが外れているし、よほど凄まじい勢いで突っ込んだのだろう、飛行船の船体下部にある筈のゴンドラは見当たらなかった。途中で脱落したか、自重で潰れたかのどちらかに違いない。
船体下部には、よく見ると大きな連装砲がいくつか搭載されている。民間用ではなく、軍用だ。けれどもあんな駆逐艦の主砲みたいな砲塔を搭載した飛行船なんて、ミカエル君は聞いた事がない。
谷の岩肌を見上げたけれど、どうやらこの飛行船は墜落してからかなり時間が経過しているようだった。谷の壁面に穿たれた墜落の痕跡はどれも年季が入っていて、つい最近墜落した船ではない事は明白だ。
表面に付着した土の塊を手で払うと、その下からは中国とソ連の国旗を組み合わせたような……交差する金槌と鎌、そしてその周囲を縁取る星たちのエンブレムが顔を出した。
このエンブレムは、確かパヴェルが作ってくれる炭酸飲料『タンプルソーダ』の瓶のラベルにも描かれていた筈だ。何か関係があるのか、それとも偶然の一致なのか。共産主義大国、赤い国の合体なんて西側諸国からしたら悪夢である。
そのエンブレムの下には、掠れた文字もあった。
【Kйiгhts Tёmplar】
なんだこの文字。
ノヴォシア語とも、イライナ語とも違う。
いや、確かに英語とかキリル文字みたいな感じの文字が入り混じっているのが分かるんだが、読めない。どういう読み方なのか、どういう発音なのか、推測する事も出来ない。
「ご主人様」
未知の文字の前で頭を悩ませていると、クラリスが俺を呼んだ。
何か見つけたのかな、と思いながら彼女の傍らに駆け寄ると、同じように飛行船を調べていたクラリスが、土塗れのハッチを指差した。
「……中に入れそうですわ」
「……」
恐る恐る、ハッチのハンドルに手をかけてみた。
ギギ、と微かに軋む音がして、飛行船のハッチが簡単に開く。中からはカビと錆、それからオイルの臭いが入り混じった異臭が溢れ、谷底を流れる風にさらわれていった。
「調べてみるか?」
「……それもそうだな」
調査も兼ねて、ここを隠れ蓑にさせてもらおう。
それに―――この飛行船もまた、”例の組織”と無関係とは思えない。
未知の言語に加え、遥かに先進的な技術で建造されたと思われる飛行船。こっちの世界ではまだ、空を飛ぶ機械の実用化には至っていない。という事はつまり、俺たちのような転生者か、それとも自前で高い技術力を持つ何者かがこれを建造したという事に他ならない。
行こう、とパヴェルに返事を返し、AKのライトを点灯させた。
この中に一体何があるのか……想像もつかない。
ただ、ろくなものではないだろうな、という思いはあった。




