虚無はただただ深く
川原の土手を走る兄上の背中を、必死に追いかけた。
昔からそうだ、兄上は某よりもずっと器用で、何でもすぐ身に着けてしまう。文字の読み書きだって、漢文の暗記だって、それに剣術だって。大きくなったら父上のような立派な侍になるんだ、と真っ直ぐな目で将来を語っていた顔は、今でも忘れられない。
駆けっこでも、いつも兄上は某を置き去りにしてしまう。だから某は毎回、兄上の背中を必死に追いかけるばかりだった。
そんな兄上が、唐突に足を止める。
息を切らしながら追い付き、兄上の隣に立った。
『……兄上?』
『もうこんな時間……亡霊は帰る時間じゃ』
兄上は何を言っているのだろうか。
まだ空は蒼く、太陽は昇ったばかり。地平線の向こうから顔を出した太陽が、夜の闇を薙ぎ払っていく様を見渡しながら、兄上はおかしくなったのか、などと無礼な事を思いつつ、兄上の顔を見上げた。
光の角度のせいなのか、それとも単に髪が伸びたせいなのか、兄上の目元は前髪に隠れて伺う事が出来ない。
『兄上、何を言っている……? まだ朝だぞ』
『―――範三、お前も帰るのじゃ。ここはお前が居るべき場所じゃあない』
言っている事が理解できなかった。
ここが某の居るべき場所ではない……いったい、何を言っているのか?
だってここは、某の育った場所だ。某の故郷だ。
どこまでも続く田んぼと、その向こうに見える村。南部藩の山に囲まれた、静かな場所―――某たち兄弟が生まれ、共に剣術の修行に励んできた生まれ故郷ではないか。
ここが某の居場所ではないとしたら、某はどこへ行けというのか。
『すまなかった、範三』
そっと某の肩に手を置き、兄上は言った。
『お前を復讐に駆り立ててしまった。だが、もうよい。もうよいのじゃ、範三』
『兄上……』
太陽の光が照らす中―――光の中に、皆が居た。
父上に母上、他の兄たちに薩摩の兄弟子、そして剣術の師範たち。
マガツノヅチの襲撃で命を落とした……死んだはずの皆が、そこに居た。
『嫌です、某も一緒に……!』
『馬鹿を申すな。お主はまだ生きておる、死者の仲間入りをするにはまだまだ早いぞ』
『もう全ては終わったのです。兄上、お願いです。某を……範三を1人にしないでください。どうか某も皆の元へ……』
目元に熱い何かが込み上げてくるのを必死に堪えながら訴えるが、しかし兄上はそんな必死の訴えに対しても首を横に振った。
いつも真剣だったその顔には、優しい笑みが浮かんでいる。
末っ子だった某をいつも可愛がってくれた、あの時の笑みだった。
『お前は1人ではあるまい。異国の地で、良い仲間が出来たじゃろう?』
『仲間……』
『みんなが待っておる。範三、お前も帰るべき所へ帰るのじゃ』
仲間、と言われて真っ先に頭に浮かんだのが、ミカエル殿やしゃもじ殿の顔だった。
異国の地で、遠く離れたノヴォシアの地で、言葉も分からず放浪していた某に親身になって接してくれたミカエル殿。彼女たちが、某の帰りを待っていてくれている……?
兄上はそっと、光の中へと歩き出した。
待ってくれ、おいていかないでくれ、と叫びながら手を伸ばす。
しかし、どれだけ手を伸ばしても、どれだけ必死に走っても、兄上には追い付けなかった。
『さらばじゃ、範三』
たまには墓参りにも来てくれよ、と言い残し、兄上は光の中へと消えていく。
某の帰るべき場所―――。
立ち止まり、そっと手を下ろすと、頬を熱い雫が伝って落ちていった。
そんな場所が、まだ残っているのだろうか。
分からない。
ああ……でも。
もし本当に、某がまだ生きているのだとしたら。
また、探そう。
某が居るべき場所、とやらを。
「兄う―――い゛っ!」
ごちん、と眉間に鈍い痛みが走った。
兄上の背中を追い求める夢を見て、どうやら飛び起きたばかりらしい。しかしなぜこんなにも天井が低いのか。これでは満足に起き上がる事も出来ぬではないか。
思い切りぶつけた眉間を両手で押さえながら悶絶しているうちに、気付いた。
「……」
両腕が、動く。
あの時―――そうだ、あの時、マガツノヅチとの戦いの最中に攻撃を受けて負傷し、ついには感覚すらなくなったはずの両腕。それがまるで何事もなかったかのように動いているのだ。
いやいやまさか、と思いながら、そっと上着(いつの間にか袴から寝間着みたいな服に着替えさせられている)の上着を捲り、肩口を覗き込んだ。
そこには微かに傷が塞がったような痕跡があり、あの戦いが決して夢ではなかった、という事が分かる。
そう、全ては現実。
では、あの時―――意識が途切れる寸前、力尽きて炎の海へ落ちていくマガツノヅチの姿も、あれも現実だというのか。
勝ったのか、某は。
「……」
「ああ、よかった。気が付いたんですね」
がらり、と部屋の扉を開けてやってきたのは、真っ黒な修道服に身を包んだキツネの獣人の女性だった。修道女、という存在らしい。倭国でいうところの尼僧のような存在である、と薩摩に居た頃の書物で読んだことがある(こちらでは”しすたー”と呼ぶのだそうだ)。
確か彼女は……イルゼ、という女性だったか。
「イルゼ殿……?」
「傷口の治療はもう全て終わりました……まったく、無茶をし過ぎです。ここに運び込んで治療するのがもっと遅れていたら死んでましたよ、範三さん」
布団から上体を起こし、周囲を見渡して気付いた。
やたらと低いこの天井―――よく見ると四隅を木製の脚に支えられた台の上に、もう1人用の布団が敷いてある。だからか。某が寝ていたのは、上下に二段重ねられた布団の一段目。さっきぶつけたのは天井ではなく、二段目に敷いてある布団、それを乗せた台であったか。
すう、すう、と傍らから寝息が聞こえてくる事に、今になって気付いた。
ハッとしながら視線を左へと向けると、そこには随分と小柄な獣人の少女が毛布に上半身を預けるような姿勢で寝息を立てている。
長く、外側に跳ねた黒髪。前髪の一部だけが真っ白に染まっているのが特徴的な―――ハクビシンの獣人の少女、ミカエル殿。
何だろう、薩摩に住んでいた頃に近所に居た猫を思い出す。こんな感じで身体を丸めて昼寝している姿をよく見たものだ。稽古の帰り道、よく寝ている猫の喉を撫で回してはもふもふ成分を摂取したりして癒されたものである。
ちょっとやってみるか、と思いミカエル殿の喉元を試しに撫ででみた。
猫よりも長いハクビシンの尻尾を左右に揺らし、気持ち良さそうに喉を鳴らすミカエル殿。ハクビシンも猫のようなものなのだろうかと思っていると、ガブリ、と鋭い歯の生えた口で甘噛みされた。
なかなか可愛らしいのだが、思ったよりがっちり噛み込んでいるせいか、指を離してくれる気配はない。
「ミカエルさん、ずっと心配してて……範三さんの看病、手伝ってくれたんです」
「ミカエル殿……」
それはそれは……かたじけない。
もう片方の手でそっと頭を撫でると、ぴょこ、と寝ていたハクビシンの耳が立った。
はははっ、本当に猫みたいだ。
どこかに猫じゃらしは無いものだろうか? ミカエル殿が起きたら試しに猫じゃらしを振ってみたいものだが、と思って周囲を見渡すと、部屋の扉のところからいつの間にかミカエル殿の従者(確かクラリス殿だったか)が奇妙な板のようなものを取り出し、それをカシャカシャと何度も鳴らしながら鼻血を垂らしているところだった。
なんだろうか、なんだか見てはいけないものを見たような気がする。ミカエル殿の傍らに控えている時の彼女は凛としていて、どこにも隙のない守護者のような雰囲気を発しているのだが、しかし今の彼女は随分とだらしないというか、己の欲望を剥き出しにしているというか……。
「……あっ、続けてください範三さん」
「え、え?」
「ご主人様の寝顔、こういう時しか拝めませんので」
「い、いや、クラリス殿?」
「うふふ、クラリスのコレクションがこれで増えましたわ……デュフフ……♪」
……とりあえず、深く追求するのはやめておこう。
というか、踏み込んではいけないような気がする。
何でかは分からぬが、某の第六感が全力でそう告げていた……気がした。
布団から起き上がり、血盟旅団の列車の屋根へと上がった。暖かい風を浴びながら屋根の上へとよじ登ると、屋根に据え付けられた武器が目に入る。大砲にしては小さく、しかし鉄砲にしては大きい奇妙な武器。しかし火薬を使う、という事はよく分かる形状をしている。
眠っている間に昼を過ぎていたようで、ぐう、と腹の音が鳴る。
何とも間抜けな事に、その腹の音で”彼女”にあっさりと見つかってしまった。
「あら、範三」
「しゃもじ殿、無事であったか」
列車の屋根の上に腰を下ろし、どこまでも続く地平線の彼方を見つめながら握り飯を頬張っていたしゃもじ殿。やっぱりさっきの腹の音はしっかりと聞き届けていたようで、某が隣に腰を下ろすや、残っていた最後の握り飯を某に分けてくれた。
礼を言いながらそれを受け取り、一口齧る。
何とも懐かしい味だった。白飯のふっくらとした食感といい、塩加減といい、故郷で口にした握り飯そのものだ。
どうやら中身は鮭らしい。
「ついにやったのね、マガツノヅチを」
「……ああ」
列車が停車している村の向こうには、非常に大きな荷馬車があった。30頭以上もの馬を使って引くその荷馬車の上には、とぐろを巻き、身体中を縄できつく縛られたマガツノヅチの亡骸が乗せられている。
その後方にも同じく巨大な荷馬車が続き、もう1体のマガツノヅチを乗せていた。
例の廃村と、採石場で某が討ったマガツノヅチの夫婦、その亡骸だった。
巨大な荷馬車の周囲には馬に跨り、背中に鉄砲を背負った兵士が展開していて、鼠一匹たりとも近寄せぬ、という彼らの気概がここからでも見て取れる。
騎兵の1人が掲げている旗には、双頭の竜が描かれていた。ノヴォシアの国旗であり、国章でもあるのだそうだ。
ノヴォシア帝国騎士団―――広大な帝国を守護する騎士たちであると、そう聞いている。
獣人たちの創造主たる人間たちの時代、徳川幕府が治める倭国に初めて黒船がやってきてからというもの、続々と異国の船が倭国を訪れるようになったという。それは今でも続いていて、ノヴォシアの船も例外ではない。
だから倭国に居た時も、薩摩沖をぐるりと回って長崎の出島へと向かうノヴォシアの船を見た時がある。船員たちが呑気に手を振ってくれたが、相変わらず何を言っておるのか分からなかった……。
「帝国騎士団の奴ら、死んだマガツノヅチをどうするつもりだ?」
「標本にするのよ」
「ヒョーホンとな?」
「まあ、色々調べるのよ。死体を分解して身体の構造を調べたり、詳しい生態とか、どういう生物から進化してきた存在なのか……そうやって相手を知り尽くし、もし再び同じ相手が襲ってきた時に対抗できるようにする、というのが帝国の狙いなんでしょう」
敵を知らねば戦には勝てぬ、か。
だが、おそらくそれだけではないだろう。マガツノヅチは倭国に生息する龍、ノヴォシアの地では稀少どころか、本来は生息していない筈の相手だ。その死体から採取できる素材ともなれば、気の遠くなるような値が付くに違いない。
ブロロ、と自動車の音が聞こえ、ふと視線をそちらに向けた。パヴェル殿の運転する荷台付きの大型自動車(”とらっく”と呼ぶらしい)が列車の方に戻って来るや、傍らにある空き地のところで停車し、助手席に乗っていたモニカ殿が嬉しそうに飛び跳ねながら荷台の上にある箱を下ろし始める。
握り飯を全部口へと押し込んで列車の屋根から飛び降り、しゃもじ殿と一緒に空き地の方へと向かった。金網を潜って空き地に行くと、それはそれは嬉しそうな笑みを浮かべたモニカ殿が箱の中身を見て目を輝かせている。
箱の中には、何やら偉人の肖像画のようなものが描かれた紙の束が幾重にも折り重なった状態で入っていた。
あれはなんだろうか。陰陽師もああいう札を使って魔を祓うと聞いたが、そういった魔除けの札のようなものなのだろうか。
「見て見てこれ! お金!!」
「金? これが金?」
訝しみながら、ノヴォシアの金を手に取った。
こんな紙切れが金なのか、と思う。倭国では銭だったり、小判を使って物を購入したり、屋台で蕎麦や天ぷらを食うものだが、ノヴォシアではこんな紙切れが金になるのか。
意外なものだ、と思いながらそれをまじまじと見つめていると、運転席から降りてきたパヴェル殿が言った。
「マガツノヅチ討伐の件だが、想定外の2頭狩りになった事と、ノヴォシアでは稀少なエンシェントドラゴンということもあってな。報酬金額UPの打診と素材の売却、両方がこっちの要求通りにそのまま通ったよ。おかげでほら、全員億万長者だ」
「なんと……」
「報酬の分配については後々話そう」
億万長者、か。
正直、あまり金に関心はなかった。マガツノヅチさえ、皆の仇さえ討てればそれでいいとばかり考えていて、それ以外の事を全て疎かにしていた。
そこで気付いた。
これからどうすればいいのか、と。
もう、マガツノヅチは討ち果たした。
某にとって、あの龍こそが……彼奴を超える事だけが生き甲斐だった。
それが無くなってしまった、と考える度に、心の奥底にぽっかりと大きな穴が開く事を嫌でも意識させられる。
復讐は虚しい事だ、と倭国に居た頃に何度か言われたことがある。そんな彼らの制止を振り切って、某はここまで来た。
復讐が虚しいなんて嘘っぱちだ。仇討を成し遂げねば皆が浮かばれぬ、仇討を果たすまで、この焼けつくような怒りは消えない。永遠に心の中に根を張って、思い出したように全てを焼き尽くすのだ。
だから仇討は必要な事だ。皆のためにも、某のためにも。
そう信じて、ここまで来た。
その生き甲斐が無くなった今、何を成せばいいのだろうか。
今になって、心の支えまでもを奪われてやっと、その意味を理解した。
「……」
「あー、そーいや範三」
「なんだ、パヴェル殿」
「ミカの奴が呼んでたぞ。たぶん俺の工房に居る筈だ」
「ミカエル殿が?」
いったい何の用件だろうか。
もう、やるべき事は全て終わったというのに。
何とも言えぬもやもやした気持ちを抱いたまま、踵を返して列車へと向かった。




